「浅草の修業時代は、うどんはかけうどんしか食べないって決めてたんですよ。先輩芸人から『おごるから、きつねうどんにしな』って言われたらもう迷惑で、断って。だって、こっちは『成功して、お金持ちになってから』って楽しみにしてんだから」
浅草寺のおひざ元・浅草の最大の個性といえば「大衆文化」の街であること。栄華を誇り、多くのスターを輩出してきたが、萩本欽一さん(67)もその一人だ。浅草に近い東上野の出身。しかし、初めから浅草芸人を目指していたわけではない。
裕福だった実家が、父親の事業の失敗で、借金取りに追われるまでに。「お金持ちになりたい」。そう切望した欽一少年が選んだ職業がコメディアンで、「それなら行ったら」と皆に薦められたのが、浅草だった。
高校を出て飛び込んだのは「東洋劇場(浅草フランス座)」(現・浅草東洋館)。昭和三十年代。浅草が輝いていたころで、街はにぎやかで、客席も満席だった。
「年中休みなしで一日中、劇場にいる毎日でしたね。一人七役で出ずっぱりの上、合間には先輩の着替えも手伝う。月給は今の価値でいうと、六、七万円。自分はあがり症で向かないと思ったけど、実家の家族は、それぞれで生活していこうと『解散』してて、帰る所もなかった」
おなかがすくと、先輩のかばんを取って「お持ちします」と言うと、食堂に連れて行ってもらえた。「でもね、電車内で先輩が読んでいる雑誌まで『お持ちします』と指でちょんと支えたら、『頼むから持たないでくれ』って」。おなじみの下がり気味の目で笑う。「で、食堂できつねうどんをおごられそうになったら『やめてくださいよ』って断るんだからね」
真剣勝負の修業の場。それでも故東八郎さんをはじめ先輩たちには良くしてもらった思い出ばかりという。ただ「『浅草コメディアンの伝統を守れ』とはよく言われた」。火事に見舞われた父親を助けるため一時、会社員になろうとしたら、劇場中の人から年収に近いカンパを贈られ、踏みとどまった。「屋上で数時間、うれし泣き。出番だと呼びに来た人も『泣いてていいよ』って」
ここで坂上二郎さんと出会い、「コント55号」を結成。昭和四十年代に活動の舞台をテレビ界に移すと、次々に看板番組を持ち、国民的スターに。そのころ「きつねうどんも食べたし、同じく我慢してた(浅草の洋食店の)ヨシカミにもしつこいくらい行った」。そして皮肉にも、テレビと欽ちゃんの隆盛と反比例するかのように、浅草興行街は寂れていった。
故渥美清さん、ビートたけしさん。「仲間意識はある」という同じフランス座出身者たち。「浅草のコメディアンはたけしが最後じゃないかな」
「自分の印象では、浅草は言葉がにぎやか。特に商店街のおかみさんたちの言葉が元気で粋でね。やりとりして帰ってくると、何だかうれしい値段で買えたような気がしたりして。言葉で商売してた街だよね。甘くはないけど人情もある。だから言葉のうれしい街に戻ったら、人々も戻ってくるんじゃないかなあ。だって、そんな街、ほかにはないんだから」 (増田恵美子)
浅草寺の本堂が再建されて五十周年。本堂再建の歴史をたどった十月の連載に続き、浅草の街への「メッセージ編」として、ゆかりの人たちにこの街の紹介とともに提言をしてもらう。
<略歴>1941年、台東区出身。「スター誕生!」「欽ちゃんのドンとやってみよう!」など数々の人気テレビ番組で一世を風靡(ふうび)。社会人野球のクラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」監督。
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