1957年に始まったアジアインフルエンザは、スペインインフルエンザより若干軽症のウイルスによって起こったと考えられています。
また、このころにはスペインインフルエンザの時代以降の医学の進歩もあり、インフルエンザウイルスに関する知見は急速に進歩し、季節性インフルエンザに対するワクチンは開発され、細菌性肺炎を治療する抗生物質も利用可能でした。
またWHOの世界インフルエンザサーベイランスネットワークはすでに10年の稼働実績がありました。
1957年2月下旬に中国の一つの地域で流行が始まり、3月には国中に広がり、4月中旬には香港に達し、そして5月の中旬までには、シンガポールと日本でウイルスが分離されました。
1週間以内にWHOネットワークは解析を終了して新しい亜型であることを確認後、世界にパンデミックの発生を宣言しました。ウイルスサンプルは即座に世界中のワクチン製造者に配布されました。
国際的伝播の速度は非常に速く、香港への到達後6ヶ月未満で世界中で症例が確認されました。しかしながら、それぞれの国内ではかなり異なった様相を呈し、
熱帯の国と日本では、ウイルスが入ると同時に急激に広がり、広範な流行となりました。欧米では対照的で、ウイルスの侵入から流行となるまで少なくとも約6週間かかったとされています。
疫学的には、この間に静かにウイルスが播種(seeding)されていたと信じられています。
すなわち、あらゆる国にウイルス自体は侵入していたものの、感染拡大のタイミングが国によって異なっていた、ということです。この理由は定かではありませんが、気候と学校の休暇の関係だったと考えられています。
一旦流行が始まると罹患のパターンはどこの国もほとんど同様で、スペインフルの第一波の時のように膨大な数の患者と爆発的なアウトブレイクの発生がみられましたが、致死率はスペインフルよりもかなり低かったとされています。
死亡のパターンは、季節性インフルエンザと同様、乳児と高齢者に限定されていました。第一波では患者のほとんどは学童期年齢に集中していました。
第一波の終息後2〜3ヶ月後、より高い致死率の第二波が発生しましたが、これは主に学童中心だった第一波と異なり、第二波では高齢者に感染が集中したためと考えられています。このパンデミックにより世界での超過死亡数は200万人以上と推定されています。
アジアフルのときにも、1918年よりは少数でしたが、同様の細菌感染が見つからないウイルス性の肺炎も存在しました。
剖検所見も1918年にみられたものと類似していましたが、ほとんどのこのような症例は基礎疾患のあるかたに限られており、以前より健康な人ではまれではなかったものの少なかったとされています。
ニューヨークでの報告によると、特にリウマチ性心疾患と妊娠第三期の妊婦においてもっともよく見られたとされています(Louria DD,Blumenfeld HL, Ellis JT, et al. 1959.)。
ワクチンは米国では8月に、英国では10月に、そして日本では11月に使用可能になりましたが、広く使用するのは少なすぎる量でした。
多数の人が集まるような、会議やお祭りなどの場で感染が広がったという事実から、非医学的な対策としては、集会の禁止と学校閉鎖がパンデミックインフルエンザの伝播を防止できる唯一の手段だったとされています。