心の救済と裁くことは両立できるか‐。21日に始まった裁判員制度での法廷参加をめぐり、宗教者の間で判断が揺れている。「社会を守るため」と肯定的にとらえる人もいれば「協力したいが、宗教の教えに従えば人を裁けない」との葛藤(かっとう)も。死刑制度に反対する宗派もあるが、法務省や裁判所は宗教上の理由だけでは辞退を認めない方針だ。
■「社会を守るため参加」「死刑だけは避けたい」
「人は誰でも罪を犯すものであると教える宗教者が、人を裁くことに疑問を感じる」。福岡県筑後地方の浄土真宗(真宗大谷派)の寺の男性住職(58)は、裁判員に選ばれれば参加するのは仕方がないと考えているが、戸惑いを隠さない。
真宗大谷派は死刑制度に反対を表明している。本山の東本願寺(京都市)は参加について反対はしないが「選任されたら、死刑判定は出さないという態度を求める」との見解。筑後地方の住職も「選ばれたら死刑だけは阻止しようと思っている」と話す。
長崎市にあるキリスト教のカトリック教会の神父は、参加は「事件によって判断したい」という。「キリスト教は人をゆるすのが原則。死刑判決を出さなければならない事件の裁判員はやはり難しい」との認識だ。
新約聖書には「人を裁くな」と書いてある。それでも福岡市西区のプロテスタント教会の40代の牧師は「聖書の『裁くな』は、人を心の中で非難してはならないという意味。法律上で裁くのは問題ない」と話す。キリスト教も一様ではない。
一方、福岡市のイスラム教徒の男性(52)は「社会の規律を重んじるのが教え。参加は社会を守ることにつながる」と肯定的だ。「規律を維持するためには、死刑の制度もやむを得ないと考える」という。
裁判員法や法務省が定める政令には、思想・信条を理由に裁判員を辞退できる規定はないが「精神上の重大な不利益が生じる」と裁判官が判断する場合に限って辞退が認められる。
裁判員制度に詳しい久留米大学法科大学院の吉弘光男教授(刑事訴訟法)は「精神的な不利益を具体的に説明しなければ、辞退するのは難しいだろう」とみている。
=2009/05/21付 西日本新聞夕刊=