2009年5月18日 (月曜日)

明日はお花見・・・

1週間前の日曜は、忙しすぎてヘトヘトでしたけど、昨日(17日)は法事もゼロで、ヒマな日曜日。

ウワォ!!こんな日曜日も久しぶり!!

と言うわけで、

お友達に誘われて、午後から隣町・室蘭市で開催された「オールディーズライブ」に行きました。全部で5組のバンドのステージがあったのですが、自分がバンドをやってた頃が懐かしくなりました。本番に向けての練習を積み上げていく日々からのワクワク感。そして、本番当日を迎えるトキメキ。なんだか、しみじみ思いだしてました。

その後は、一緒にコンサートに行った友人と、イタリアンで食事。ワインを調子にのって飲み過ぎて、ちょいと具合悪くなったけど、良い日曜日でした。

  

今日、お寺の庭を見たら、

「八重桜」が咲きまくってました。

20090518181422

「八重桜」は、こんな感じで、毎年通りイイ感じなんですけど、

実は、「ソメイヨシノ」の方は

5月前半の「桜」の開花予想日が過ぎてもほとんど花が咲かずに、葉っぱばかりが目立ちました。市内のいたるところで、そういう状態で、桜の花が見られないので、

いつのまにか咲いたの?いつ散ったの?あれ?桜を見逃したの??

っって思ってたんですけど。情報では、渡り鳥の「ウソ」という鳥が、桜の蕾をおおかた食べていっちゃったみたいです・・・なんか、サビシイ春でした。ま、先月、京都と新潟で桜は見てきたからいいか…。

  

で、

明日は、ウチのお寺の婦人会主催の「お花見」です。

「お花見」といっても、お寺の「花見」のテーマは

「聞法と懇親」。

つまり、仏法を聞く・・・という集いですので、先ず、おつとめをして「法話」をさせていただくのです・・・。

 

で、その後に、「宴会」があるので、久々にBOSANソングライターKONOのライブをします。何歌おうかな??

いや、その前に

「法話」を考えなきゃ・・・。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年5月16日 (土曜日)

急ぐ理由(わけ)

で、

5時30分過ぎに「育成員大会」が終わり、

すぐに車を停めているパーキングにいだ。

ススキノの繁華街をパーキングまで「坊さんスタイル」で歩いたのは初めてで、ジロジロ見ないで!!!!

パーキングのオヤジさんにも一瞬ギョッとした表情をされながら、サングラスのお坊さんの私は車を札幌駅方面をいで走らせる。

午後6時。駅ビル・ステラプレイスの駐車場の中で、

いで、「私服」に着替えて、

いつものカレー屋さん「コロンボ」行く。6時20分。http://www.colombo1973.com/curry.html 昨日の「日替わりカレー」は、ロールカツカレーで、ラッキー。昼ご飯を食べてなかったので、心から堪能していたけど、僕はいでいた。

食べ終わり、

僕は、いで ある「場所」に向かった。

だって午後7時10分からスタートなんだもんsweat01

せっかく札幌に来てて、チャンスなんだもん・・・・。

何にいでいたかというと、

はい、

それは、例の綾瀬さんの映画を見る為です。

実は、まだ見れてなかったんです。

もうすぐ公開から1ヶ月で、そろそろ終わってしまいそうな雰囲気なので、焦っていたのでした。

でも、やっぱり、映画館の窓口で、

「おっぱいバレー1枚」

と言うのは恥ずかしかった。

で、

受付の女性も、

「はい、おっぱいバレーですね・・・・お待たせいたしました。1800円です。

はい、それでは、おっぱいバレー、シアター10で、午後7時開場でぇ~~す♪」

って、滑舌ハッキリ言うんだもん。繰り返さなくてもいいって(汗)

  

・・・・・・・・映画ですか?

良かったですよ(笑) 

1979年(昭和54年)が時代設定で、映画のなかの「街並み」の雰囲気や、走っている車の「形」が、僕が小学校4年生くらいの頃、車が好きで、イラストとかに描いてたそのままで、感激しました。セドリックやセリカ・・・あの頃、最高にカッチョいいって思ってた車。父が乗ってたブルーバードも走ってたな。

「ALWAYS三丁目の夕日~」の時代設定は、僕には、ちょっと前なので、ピッタリこなかったけど、この映画は、僕が小学校の頃なんで、あの頃の記憶と重なって、ピッタリ。

それと、当時の音楽も挿入されてて、

やっぱ、いい時代に少年だったなぁ・・・って思いました。

笑ったのは、少年たちが「11PM」にドキドキしている場面。夜中にこっそり勇気を出してテレビをつけたら「釣り特集」・・・・分かる分かる(笑)

滑稽だけど、カッチョわるいけど、男ってアホやな~~~って微笑ましくなりました。

綾瀬さんの先生ぶり、い20090516000938いですね。でも、こんな先生いないって!!

綾瀬さん、この映画の頃から痩せすぎかな? 頬がこけたりして、ん?あんまり可愛くないかも・・・っていうアングルがちょっとだけあった。ちょっとだけね。

 

って、最近、綾瀬さんの映画しか見ていないな・・・(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

講義を聞きながらのメモは苦手・・・・

昨日は、札幌別院で

北海道教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受け「育成員大会」】

という、なんともタイトルの長~~い集まりがあったので参加した。

参加対象者は、「育成員」

言葉の説明がめんどくさいが、ま、北海道各地から東本願寺関係のお寺サンや家族や、大谷関係学校の先生など、約500人が集まった。

20090515151838

会場に着くと、何年も会ってない遠方の住職サンや、校長先生、大学時代の友人、知り合いのお坊さんに会うことができた。

それでも、僕は、あまり知り合いの坊さんがいない方で、いかに今まで、お寺関係者と付き合うのを意識的に避けてきたのか、それが分かって面白かった。ま、自分のそういうところがいかんのだが・・・・。

大会は、午後1時30分から夕方5時30分まで行われた。

僕が京都の高校時代に習った先生がメインの講師になって講演をし、

その後、4人の先生がパネルディスカッションをした。

「同朋会運動」など“業界用語”の解説はめんどくさいので書かないけど、

親鸞さまの750回忌法要を迎えようとする現在、

我々、寺に住む者が、いま、何をすべきなのか?

という部分が焦点だった。

僕は、学生時代から、「講義」を聴きながらノートを書くのが苦手で、

後から、自分の書いた文字を解読できなくて、悩むのである(苦笑)

昨日も、講義やディスカッションを聴講しながら、紙の裏に書き留めたメモを、さっき見てみたら・・・、やっぱり訳分からん。文字も汚くて・・・。

でも、昨日の今日で、まだ記憶が新しいので、

自分の思うところ、気になったところなどを思わず「走り書き」したメモを

箇条書きで残しておこう。(専門用語もそのままです)

**********************************************************

・「我」を問う事をおろそかにしていたのではないか?

・その「我」とは何かというと、「絶対的に救われるはずのない自分」である。

・『歎異抄』は、「機の深信」に貫かれた書物。

・「我が身を通す仏道」、真宗の歴史は、常に、そこに帰ろうとする歩み。

・我々自身が「歎異の心」を忘れ、薄れてきたのではないか?

・寺に住む者が、自分の立場を優先して考えるのは行き詰まる。

・まず、自分自身が「門徒」になること。「仏弟子」としての意識があるのかを問う。

・1人の門徒として、なぜ真宗なのか?なぜ念仏なのか?に立ち返って、現場で出会った人とどう課題を共有できるのか?

・よく教化された者が、よく人を教化しうる(自らの学ぶ姿勢)。

・「自信教人信」 まず、自信(自らを信ずる)。自らとは「機」。つまり、つねに「機の深信」のある者であること。

・教化とは、偉そうに門徒さんの上に立つのではない。

・住職自らが「仏教に生きてみせる!という空気。

・この「教え」に1人でも多くの人に出会っていただきたい、その為の「場作り」に関わることが「教化」である。

・法話はテクニックではないが、信念がないと、話が右往左往する。

・伝えたいことがハッキリしている私なのか?

・再出発。一人の信。(原点)

・現代人が何に悩んでいるか?それに共有できる自分なのか?

・私自身が「浄土」を願って生きているのか?

・自分は「絶対に救済されることのない自分だ!」という自分に出逢う。

・寺の住職の「自らが学ぶ姿勢」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月14日 (木曜日)

法話はライブ(ナマモノ)

今朝も書きましたが、

今日は、登別大谷高校での「花まつり」に行って、ご法話をさせていただきました。20090514212046_2

先日5月1日に室蘭大谷高校での「花まつり」でもお話させていただいたばかりなので、今日のお話もほぼ同じ内容になるかなぁ・・・となんとなく「概略」は決めて学校に向かいました。

けど、

体育館で大勢の生徒さんの前に立って、その場の空気とか表情とか、そのとき・その瞬間の自分の気持ちとかが微妙に絡まり合って、「話」の流れというのは、どんどん変化します。

まさに、そう言う意味で、話は「ナマモノ」なので、人前でお話するという行為は、ギターで歌わなくたって「ライブ」であります。人前で話すという「ライブ感」を楽しむ余裕は僕にはまだありませんが、今日も50分を少しオーバーしながら、ノンストップで語りました。

生徒さんがどう受け止めてくれたかは分かりません。でも、50分間、話をすることに集中しながらも、アチコチの生徒さんの顔を見つめながら、どんな言葉を語れば、届くだろうか?? 言葉を選んだり、話すスピードに緩急をつけたり、キーワードを何度もリフレインしたり・・・、色んな事を自分なりに模索してました。

そういう意味で、人前での「法話」も、『ライブ』と同じだなぁ・・・と思ってました。

  

で、

ステージから生徒さんの顔を見て話しているうちに、自分が京都・大谷高校に通ってた20年以上前の頃を思いだしてしまい、

そして、あの頃から現在に至る日々の中で、自分が一番仏教を学びながらインパクトを与えられてきたこと、そして、自分のコンプレックスだらけの日々の経験の中で確かめて来たことが、

  

(1)「あ〜だこ〜だいっても、誰も自分の人生を代わってくれない!」

(2)「うだうだいっても、時間はあっという間に過ぎて、しまいにゃ死ぬ。」

以上の2点だったような気がしたのです。(もちろん、他にもたくさん学んできたのですけど、ふっとこの2点が浮かびました)

そして、

最近の日々のなかで読んでた本が、

五木寛之さんの『人間の覚悟』(新潮新書287)

であり、その中に

人間は一人で生まれ、生きていく中ではどんな悲しみも苦しみも痛みも他のだれかに代わってもらうことはできず、やがては老いて一人で死んでいくものなのだ----、そのことを若いうちからできるだけ早く、明らかに究(きわ)めておくべきだろうと思うのです。(前掲書82ページ)

  

だから、

今日のお話は内容的には堅苦しいお話になって、生徒さんはタイクツで、眠たかったかもしれないけど・・・、だいたいそんな話をしたのでした。

僕にとっての仏教とは、

自分の都合のいいように誤魔化すようなホンワカしたものではなく、

自分自身の持つ「枠組み」の問題点・矛盾点をあきらかにして、

誰にも代わってもらえない、必ず死ななきゃならない自分自身を発見し、自分自身を覚悟しなさい・・・と

呼びかけてくるものだったからです。

  

生徒さんに配布した資料(レジュメ)の中に以下の文章を引用しました。

「仏教はこころの教えではない。またどう生きるかを教えるものでもない。それを聞くことによって人間の質が向上するようなものでもない。人間のありのままの姿を知らせ、それを問うものである。仏教に出会うことによって見えてくるものに対し、どう生きてゆくかは、一人一人が決めることなのである。こうでなければならないということが一切ないのが仏教である。ただ一つ、あなたは仏になりたいのか、と問いかけてくるのである。仏教が私たちに要求するのは、ただそれだけなのである。 仏教は、人間がどうやって生きるのかを問題にするのではなく、人間が人間であることを問題にするのである。私が何者であるかを知らせる教えである。私に甘い夢を見せるものではない。」

竹橋太著『本願〜「わたし」の根源である仏の願い〜』 (『親鸞』真宗教団連合編 2009年 朝日新聞出版刊 253ページ参照)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ぼちぼち・・・

さ、少しサボりましたが、

ぼちぼちブログを再開しようかなと思います・・・(苦笑)。

何人かの方から「ご心配メール」も頂戴しまして、ありがとうございます。

5月に入ってからまるで「お盆」の頃のような激しいスケジュールな日が続き、ヘトヘトに疲れ過ぎてしまうと、他のことは何もしたくない、なるべくシンプルになりたい!という心境になってしまい、ブログも休んでしまいました。

でも、日々の中には色んな発見や出逢いがありました。ブログはサボっても、日々の中では益々元気でした。

  

さて、

今日は、これから、高校へ招かれての「法話」第2弾!

登別大谷高校の「花まつり」に行ってきます。

今日も「歌なし」で、「お話」で50分間。

頑張ってきます。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

«無題