市民が行政・議会・一部のネット族を監視するための辛口情報紙・東村山市民新聞
創価が提訴した記事とは
|
「FORUM21」 2004年1月15日号 P8〜15(創価学会が提訴した記事)
特集 検証―新事実が明らかになった「東村山事件」
座談会 やはり「他殺」だった朝木明代東村山市議怪死事件
朝木 直子(東村山市議会議員)
矢野 穂積(東村山市議会議員)
乙骨 正生(ジャーナリスト)
東京都東村山市で、創価学会による人権侵害問題などに精力的に取り組んでいた朝木明代市議が、西武新宿線東村山駅東口にある雑居ビルから転落して死亡したのは平成7年9月2日未明のこと。それから早くも8年余の歳月が経過した。この転落死について朝木さんの遺族や関係者は、事件は朝木さんの活動を快く思わない何者かによる「他殺」であると主張。警察・検察に厳正な捜査を求めるとともに、自らも全力で真相究明に取り組んだ。
しかし捜査を担当した警視庁東村山署の幹部は、事件発生当初から事件は「自殺」との広報を繰り返した挙げ句、平成7年12月に「犯罪性はない」として捜査を終了。同様に東京地検も平成9年4月に「自殺の疑いが濃く、他殺の確証を得られなかった」として捜査を終結した(同事件を所轄する東京地検八王子支部で実際に捜査に当たった信田昌男検事は、創価学園・創価大学出身の創価学会エリート。そして信田検事の上司にあたる地検八王子支部の吉村弘支部長検事もまた、創価学会の副会長の妹を妻にしている創価学会エリートだったことが、事件後、半年を過ぎた平成8年春に判明)。
こうした警察・検察の動きを受けて朝木さんを敵視していた創価学会は、事件発生直後から事件を「自殺」、それも朝木明代市議に対してかけられていた「万引き被疑事件を苦にしての自殺」との大宣伝を繰り返し、検察が捜査終結宣言を出した直後には、機関紙「創価新報」に「警察.検察が自殺と断定」との大見出しをつけた記事を掲載。同紙を東村山市内で全戸配布するなど、一貫して朝木さんの名誉と遺族・関係者の心情を踏みにじる熾烈な攻撃を繰り広げた。
だが、その朝木明代市議の転落死事件について、遺族・関係者による真相究明の努力の結果、事件は警察・検察が発表したような「犯罪性はない=自殺」ではなく、「他殺」だったことが、新事実の判明により明らかになった。
朝木明代さんの長女である朝木直子東村山市議と、朝木明代さんの同僚だった矢野穂積東村山市議は、昨年11月に『東村山の闇 『女性市議転落死事件』8年目の真実』(第三書館)なる一書を上梓。その中で新事実を公表し、朝木明代市議の転落死が「他殺」に間違いはなく「謀殺」事件であると主張している。
事件の真相究明に尽力する朝木直子、矢野穂積の両市議と、朝木明代市議の転落死事件について『怪死』を出版し、事件は「他殺」の可能性が高いことを指摘してきた本誌発行人の乙骨正生が、新事実に基づき事件を検証した。
遺体に残されていた「争った跡」
乙骨 昨年11月、朝木直子さんと矢野さんは、『東村山の闇』を上梓されました。その中で警察や創価学会が主張する「自殺」説を根底から覆す新事実を発表されています。
明らかになった新事実とは、まず第一には朝木明代市議の遺体を司法解剖した「鑑定書」に、第三者と争った跡である皮下出血に伴う「皮膚変色部」が上腕内側に認められると記載されていたこと。
第二には、警察や創価学会が「自殺」の動機だと主張してきた朝木明代市議に対する「万引き」容疑が、実は、確証のない冤罪であったこと。
さらにはそうした事実の積み上げの結果、裁判所が朝木明代市議の転落死は「自殺」ではないと認定したという事実などです。
警視庁東村山署の千葉英司副署長は、事件発生当初からマスコミの取材に対して「自殺」との説明を繰り返していましたが、その根拠の一つに第三者と争った跡がないことを挙げていました。ところが、司法解剖の「鑑定書」に争った跡である「皮膚変色部」の存在が記載されていたことで、この「自殺」の根拠が根底から崩れた。当然、導き出される結論は、朝木明代市議の転落死は「他殺」だったということです。これは「自殺」、「他殺」を判断する上で、決定的ともいえる事実と思われますが、「鑑定書」には具体的にどのように書かれていたのでしょうか。
朝木 母の司法解剖の「鑑定書」が私ども遺族・関係者の手に入ったのは、事件から4年半を経過した平成11年4月28日のことでした。当時、私どもは事件の真相究明のために、国や東京都(警察)などを相手取り、各種の訴訟を提起していましたが、その中の救急隊に関する訴訟で被告の東京都側が「鑑定書」を証拠として提出してきたのです。平成10年7月21日に作成されたと記されている「鑑定書」は13ページからなり、そこには「被疑者氏名不詳に対する殺人被疑事件につき」司法解剖が行われた旨の記載があり、「死因、創傷の部位・程度、凶器の種類・その用法、死後の経過時間、血液型・その他参考事項」についての鑑定がなされていました。その第三章の「創傷の部位・程度」の「説明」の項の中に問題の記載があったのです。それは次のような内容でした。
「左上腕部後面、肘頭部の上左方4センチメートルの部を中心に、2×2.5センチメートルの紫青色皮膚変色部。左上腕部内側下1/3の部に、上下に7センチメートル、幅3センチメートルの淡赤紫色及び淡赤褐色皮膚変色部。加割すると皮下出血を認める。
(以下、右上腕部についての記載略)」
専門用語のため分かりにくいかもしれませんが、要するに左右の上腕の各部に腕を強くつかんだり、争った時にできる皮下出血による皮膚変色の痕が残っていたということです。殺害事件や傷害事件など他人が介在することによて生じる犯罪事件では、もみ合ったり強制的につかまれなどした場合には、上腕の内側部分に皮下出血を伴う「膚変色部」が残るのが普通であり、法医学ではこの「皮変色部」がある場合は直ちに「争った跡」と椎認するのが常識だといいます。
そこで私どもはこの「鑑定書」を法医学を専門とする医師に見てもらい、その見解をうかがったところ、「他者に強制的につかまれた指の跡」の疑いが濃く、「他殺」を推認させる重要な証拠になりうるということでした。ですからこの「鑑定書」が出てきたことで、「他殺」であることが客観的に証明されたと考えています。
乙骨 それにしても「鑑定書」の作成になぜ、3年近くもの時間がかかったのか。極めて疑問です。
矢野 おそらく「鑑定書」を作成する気がなかったのだと思います。また、たとえ「鑑定書」を作成しても私たち遺族・関係者の手に渡すつもりはなかったのではないでしょうか。「東村山の闇』や「怪死」に詳述されていますが、事件発生直後から「自殺」を主張していた警察には、朝木明代さんの転落死の真相究明のための解剖の意思は毛頭なく、あまつさえ警察OBの葬儀屋に指示して、朝木明代さんの遺体を家族に確認させることもせずに棺桶に入れ、さっさと火葬させてしまおうとしていたのです。
しかし遺族が強く抗議し、警察が解剖をしないのであれば、遺族としては肉親の身体を解剖することは、大変辛い決断だけれども、自費で任意解剖をするとの強い意志を示したことから、警察は検察官と打ち合わせた結果、「殺人被疑事件」として司法解剖を行いました。当初はその決定に期待を持ちましたが、担当の信田検事と吉村支部長検事が創価学会幹部であり、創価学会コンビによって捜査の指揮が執られていたことが判ってから後は、司法解剖すらも遺族に遺体を検証させないための仕掛けだったのではないかと思うようになりました。ですから、正直、「鑑定書」
の入手はおろか作成されることは難しいと思っていました。それだけに「鑑定書」が手に入った際には、これで真相糾明のための手がかりを得たという思いを強くしました。
朝木 私たちは捜査機関じゃありませんから、なかなか手がかりをつかむことが難しいんです。しかしなんとか真相を究明したいとの思いから、先ほど申し上げたように、各種の訴訟を提起し、なんとか手がかりをつかもうと努力しました。その一つが東京都を被告とする救急隊事件という訴訟だったのですが、「鑑定書」はこの訴訟の過程で被告の東京都が裁判所に証拠申請、国が提出し、実に重大な展開となりました。
矢野 実は四年半も経ってから「鑑定書」を提出した背景にはこんな伏線があるのです。平成9年の4月に東京地検が「他殺の確証は得られなかった」として、捜査の終結を発表した後、警察と検察が自殺と断定したという見出しをつけた「創価新報」が東村山市内で全戸配布されました。そこで私たちは、創価学会と「創価新報」の根拠となる判断を示した東京都(警察)、国(検察)を相手取って名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を提起し、その審理の過程で、朝木明代さんの転落死を自殺と断定する証拠はなにもないと追及したのです。検察は「自殺の疑いが濃い」として捜査を終結したが、それは東村山署の杜撰な捜査報告を鵜呑みにしたものであり、検察は捜査を尽くしていない。その証拠にいまだに司法解剖の「鑑定書」すらないじゃないかと主張しました。
すると被告の国側は、平成10年暮れの準備書面の中で「鑑定書は作っている」と主張してきたのです。しかしにわかには信じられませんでしたので、「鑑定書」を作成しているとの主張は信じがたいと批判したところ、朝木直子さんが説明したように救急隊の過失を問う訴訟で、アリバイを主張するかのように「鑑定書」を提出したのです。そしてもう一つの伏線として、この「鑑定書」が作成された平成10年7月にはこんなことがありました。「鑑定書」が作成された日付は平成10年7月21日ですが、その1週間ほど前の7月15日、東京地検は、創価学会が、「週刊現代」が掲載した「東村山女性市議『変死』の謎に迫る・夫と娘が激白!『明代は創価学会に殺された筐 と題する記事を掲載した「週刊現代」と、記事にコメントを寄せた朝木明代さんの夫の大統さん、朝木直子さんを名誉毀損罪で刑事告訴した事件で不起訴処分を決めています。これは私たちが発行している「東村山市民新聞」でも詳報したのですが、ちょうど、この日、私は別件の暴力事件についての被害状況を説明するために東京地検八王子支部に出向き、担当検察官と話をしていたところ、創価学会の代理人である井田吉則弁護士から検察官に電話がかかってきました。話の内容は、不起訴の決定に対する不満であり、不起訴にした理由を執拗に問い質すものでしたので注意して聞いていたところ、検察官は、「告訴から3年間、十二分に捜査した結果、創価学会側(信者)が事件に関与した疑いは否定できないということで、不起訴の処分を決めたんですよ」と発言したのです。
井田弁護士はその後、創価学会に対する別件の裁判に提出した陳述書で、この検察の処分の時期を偽るなどしてそうした会話はなかったと否定しています。しかし検察官は不起訴理由の一つに関与についての疑惑がある旨、指摘しました。別件の訴訟で私たちに捜査が杜撰だと批判されているので、検察としても鑑定書さえ作成してないことはまずいと判断したんじゃないでしょうか。
乙骨 平成10年の7月21日という時期に「鑑定書」が作成された理由はそれで分かりますが、東村山署と東京地検が捜査の終結を発表したのは平成7年12月と、平成9年4月。ということは東村山署や東京地検は「鑑定書」すら作成されていない段階で「犯罪性はない」との結論を出していたということになるわけです。
また司法解剖を担当した医師が、目視で上腕の内側に「皮膚変色部」があることを認めへ切開すると皮下出血を認めたと書いている。当然、警察や検察の検死でも、上腕の内側に「争った跡」である「皮膚変色部」を視認できたはずです。にもかかわらず警察は「争った跡がない」として「犯罪性はなど と説明し続けてきた。
この二つの事実は、当初から一貫して「自殺」説を主張していた警察、そして学会員シフトだった事件発生当時の東京地検八王子支部が、朝木明代市議転落死事件に対してどのようなスタンスをとっていたかを象徴している。
朝木 裁判での千葉元副署長の証言からもそうした事実は窺うことができます。私たちは、創価学会の外郭出版社である潮出版社が発行している月刊誌「潮」の平成7年11月号に掲載された、「世間を欺く「東村山市議自殺事件』の空騒ぎ」と題する記事を、名誉毀損で訴えた裁判で、母の転落死事件の捜査指揮を執るとともに、広報の責任者でもあった千葉元副署長に対する証人尋問を行ったのですが、その証言内容は本当にひどいものだったからです。
口頭弁論では私たち原告の代理人が「鑑定書」に基づいた尋問を行ったのですが、その際、千葉元副署長は、まず上腕内側部に皮闘変色部がある場合は「争った跡」であることを認めました。しかし司法解剖を担当した医師が目視で「皮膚変色部」を認めているにもかかわらず、自分たちは肉眼で表面的に見ただけだから「皮下出血」はなかったと強弁し続けました。挙げ句、裁判長から「皮下出血があったとしても、それは争ったものではないと認定したということですか」と質問されると「その通りです」と、「皮膚変色部」があっても「争った跡」とは判断しなかったと証言。再度、裁判長から「鑑定の結果に上腕部の皮膚変色がある、皮下出血を認めると書いてあるが、これが事件性との関係で特に問題がないと考えた理由は」と質問されると、「手すりに打ったんではなかろうかと推測しております」と、根拠のない発言で、上腕部の内側に「皮膚変色部」があったにもかかわらず「事件性」を認めなかった言い訳を繰り返したのです。「争った跡」である「皮膚変色部」があろうがなかろうが、なにがなんでも母の転落死を「自殺」で処理した千葉元副署長ら警察幹部の口ぶりは、まるで犯人グループの言い逃れのように聞こえました。
冤罪だった「万引き」容疑
乙骨 ところで警察や創価学会は、朝木明代市議の転落死が「自殺」であり、その動機は転落死事件を遡ること約3カ月前の6月四日に東村山駅前の洋品店から1900円のTシャツを万引きしたとの「万引き被疑事件」(実害はなし)で書類送検され、起訴されることを苦にしたからだと主張してきました。しかし、この「万引き被疑事件」についても、「潮」に対する裁判の過程などでその虚構性が次々と明らかになってきていますね。
矢野 朝木明代さんはこの「万引き被疑事件」について、冤罪だとして真相究明のために徹底的に闘うとの意思を殺害される直前まで明らかにしていましたが、裁判での審理を通じて冤罪である構図がハツキリしてきたと思います。
この点についても『東村山の闇』で詳述していますが、要するに、朝木明代さんによって万引きの被害を受けたと届け出た洋品店の戸塚節子店主が供述する犯人が着ていたという服装と、万引きがあった当日の6月19日午後に、朝木明代さんが着ていた服が全く違うということが明らかになったのです。
この日、朝木明代さんは、市役所で行われた建設水道委員会に出席、その後総務委員会を傍聴した後の午後2時10分前後に、東村山駅前にあった拓殖銀行東村山支店で入金の振り込みを行っており、その姿が防犯ビデオに撮影され、残されていました。
その映像をスチール写真に落としたものが警察の捜査報告に添付され、検察に送られており、私と朝木直子さんは、その写真を信田検事から見せてもらっていました。ですから朝木明代さんが当日、着ていた服は、残されている洋服の中からすぐに特定できました。それは縦にストライプの入っているベージュのパンッスーッでした。ところが戸塚店主は犯人の服装は「白灰色っぽいグリーングレー」だったと供述していたのです。
ですから私どもは警察に対して再三にわたって捜査報告に添付されている写真を証拠として提出するよう求めました。ところが警察は頑として写真を提出しないのです。
そこで私たちは拓殖銀行東村山支店にお願いをして、現場で再現写真を撮影したのです。朝木直子さんに万引き事件当日に朝木明代さんが着ていた服を着てもらい、同じ防犯ビデオで映像を撮影、それをスチール写真におとしました。その写真は信田検事から見せられた捜査報告に添付されている写真とソックリでした。その写真を、創価学会と東京都(警察)を提訴した事件の法廷に証人として出廷した戸塚店主と千葉元副署長に示して尋問したのです。
すると戸塚店主は、明確に「服装が違う」と証言しました。戸塚店主は洋品店の経営者であるため洋服には詳しいとした上で、ジャケットやブラウスの襟が違い、ジャケットにストライプは入っていなかったと詳細に証言したのです。これに対して千葉元副署長は、写真を見せた途端、絶句しました。おそらく出るはずもない「本物の写真が出てきた」と思って驚いたのでしょう。出てきた第一声は「鮮明ですね」という言葉でした。その上で捜査報告書の写真と「似ている」と証言したのです。
この事実は、警察は戸塚店主の供述している犯人の服装と朝木明代さんが当日着ていた服装が違うということを認識していたということを示しています。だから捜査報告の写真の提出を断固、拒否。千葉元副署長は出るはずもない写真が出てきたことに絶句したんだと思われます。
朝木 しかもこの事件には戸塚店主以外に目撃者が3人いるのですが、そのうちの一人であるSさんのことを警察はひた隠しにしていたのです。というのもSさんの目撃した犯人の服装は「黒っぽいスーツ姿」だったということであり、それは戸塚店主の供述を否定するものであるとともに、当日、母が着ていた服とも異なっていたからです。だから警察はこのSさんのことを隠さざるを得なかったのだと思います。ところが私たちの調査の結果、その目撃者がSさんであるということが特定できました。そこで、先の証人尋問の際、千葉元副署長に目撃者がSさんであること
を指摘したところ、千葉元副署長は「どうしてSさんだとわかったのですか」と動揺を隠せませんでした。
一連の事実は、平成7年6月四日の万引き事件の犯人は、母ではないことを物語っています。警察は、母が犯人ではないことを知っていながら、自分たちのシナリオにとって都合の悪い事実をひた隠しにして、むりやり書類送検。検察もこれを受理したのだと思われます。
しかし、こうした事実審理の結果、東京地方裁判所は、母の死を「万引きを苦にしての自殺だった」と書いた「潮」の記事に対する名誉毀損訴訟の判決において、母の転落死は「自殺」ではなく、「万引き」についても母を犯人とする証拠はないと次のように認定しました。
「(鑑定等の)事実を総合すると、なお亡明代が自殺したとの事実が真実であると認めるには足りず、他にこれを認めるに足りる証拠はなど「亡明代を本件窃盗被疑事件の犯人と断定するに足りない」
また、母と矢野さんが「万引き」についてアリバイエ作をしたかのような警察や創価学会の主張についても、「同事実を認めるに足りず、他にこれを認めるに足りる証拠はない」と否定しており、千葉元副署長の供述は信用できないとしています。
この東京地裁の判決は確定しています。
乙骨 司法判断で朝木明代市議の転落死が「自殺」ではないと確定したこと。また、朝木明代市議が「万引き」の犯人ではないことが確定したことの意味は非常に大きいと思います。では誰が、朝木明代市議を殺したのか、「万引きを苦にしての自殺」とのシナリオを描いたのは誰なのか、今後はその真相究明が焦点になる。
矢野 時効まであと7年。いま、ようやく真実解明の端緒についたとの思いです。今回、出版した「東村山の闇』はその中間報告です。朝木明代さんに謀殺事件の全容を解明した最終報告ができるよう頑張りたいと思っています。
朝木 そして犯人の検挙です。母の言葉ではありませんが「真相究明の為、徹底的に闘います」。
「FORUM21」 2004年1月15日号
P16〜19 (※創価は提訴していない)
特集 検証―新事実が明らかになった「東村山事件」
「怪死」事件との関連性を窺わせる「二つの報道」と「一つの投書」
(本誌編集部)
朝木明代東村山市議が転落死してから3ヵ月ほど後の同年12月以降、国会である「密会ビデオ」の噂が囁かれはじめた。その内容が、現在、発売中の「月刊現代」2月号に掲載されたジャーナリスト魚住昭氏執筆の「野中広務と創価学会」と題するレポートで取り上げられている。
自・公連立体制成立にいたる経緯と、創価学会と野中広務元自民党幹事長との関係を詳細に検証したこの魚住レポートは、創価学会問題に関心を持つ人のみならず、多くの人々に読んでいただきたい力作である。ここではそのほんのさわりと、同レポートで取り上げられた「密会ビデオ」について触れていると思われる「国会タイムズ」平成9年5月5日号掲載の「噂のコラム」と題する報道記事、そして平成11年5月に複数の出版社に送られてきた「2001年5月6日」付の「創価学会員より」と題する投書を紹介する。このうち3番目の「創価学会員より」と題する文書は発信元不明で匿名の〃怪文書"であることを前もってお断りしておく。
@「月刊現代」平成旭年2月号「野中広務と創価学会」
魚住 昭
「住専国会で新進党切り崩しの材料になった『密会ビデオ』。その存在が永田町の一部でで密かに取りざたされるようになったのは、これより三カ月前の九五年十二月ごろのことである。
当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井が『命を狙われている」という噂が流れた。まもなくその噂を裏付けるように亀井付きのSPが増員され、亀井の車はつねに警視庁の警備車両二台にはさまれて移動する騒ぎになった。村上正邦の元側近が語る。
『騒ぎの発端は、藤井さんと後藤組長の密会ビデオでした。亀井さんが入手したそのビデオのなかで、藤井さんは反学会活動をしている亀井さんら四人の名前を挙げ「この人たちはためにならない」という意味のことを言ったというんです。受け取りようでは後藤組長に四人への襲撃を依頼したという意味にもとれる。それで亀井さんと村上、警察関係者、弁護士、私も加わって対策会議が開かれたんです」
会議にはビデオの実物は出されなかったが、登場人物二人のやりとりを筆記した書面があった。その場の話ではビデオの映像はかなり画質が悪いうえに雑音が混じっていて声が聞き取りにくかったが、専門家に鑑定してもらった結果、登場人物は藤井と後藤にほぼ間違いないと分かったという」
ここに登場する「藤井さん」とは、当時、公明代表だった藤井富雄現公明党都議。そして「後藤組長」とは静岡県富士宮市に本部を置く山口組系後藤組の後藤忠正組長のこと。また「村上正邦」とは、当時参議院自民党幹事長だった村上正邦氏である。後に藤井氏は「週刊現代」の取材に対し後藤組長とは懇意である旨、答えている。
A「国会タイムズ」平成9年5月5日号「噂のコラム」
「とんでもない情報が飛び込んで来た。名称は敢えて伏せるが、某団体幹部のF氏と"親密な関係"にあるA組組長との密会であった。
その内容とは、某団体を漂傍(誹謗の誤記か=引用者注)する『五人の暗殺計画」を、この組長に依頼していたとのことである。
暗殺者名はK、S、S氏の国会議員三人と、フリーライターのO氏。残り一人はすでに死亡 首殺?)しているA氏。一人二十億円、計百億円を支払うとのことだった。
金額はともかく、約束のお金を団体幹部のF氏が支払わないため、怒った組長は、密会のとき隠しビデオで撮影していたテープを、公開するといってこの幹部を脅し続けたというのだ。
このため、某団体側は別のB組長に『五十億円支払うから話をつけてくれ』と泣きを入れたとされている。
これに腹を立てたA組長は、国会議員のK氏にこのテープを差し出してしまったという。
テープは隠し撮りのため極めて不鮮明だが、音声だけはハッキリしていた。驚いたK氏は真偽を確認するため、団体幹部F氏と親交があるY氏に確認してもらったとされる。
このテープを警察庁に渡し鑑定を依頼した結果、音声からは、会話する二人がF幹部とA組長の『声紋が一致している』との結果が得られたと伝えられている。 真偽は不明だが、何とも恐ろしい話だ。(1)」
B「2001年5月6日 創価学会員より」と題する複数の出版社
に対する匿名投書
この匿名の投書は、平成V年の5月に複数の週刊誌や月刊誌の編集部に郵送されてきたもので、朝木明代東村山市議の転落死事件と、転落死に先立って朝木明代市議にかけられていた万引き被疑事件に言及している。
内容は、自らを東村山市の近県で活動していた創価学会の青年部員であるとした上で、朝木明代市議に対する万引き被疑事件が起こった平成7年6月19日に、朝木明代市議によく似た女性を東村山の現場付近でピックアップしたというもので、事件は朝木明代市議に似た替え玉によるデッチ上げ事件だと書いている。投書は、東村山に行く経緯から事件後の経過や心情の変化まで、詳細に記述されているが、以下、替え玉を迎えた部分のみ紹介しよう。
「 6月19日の当日の朝11時頃、小池と16号沿いで待ち合わせると車が停車していて運転手は加代後半位の女性だった。小池は『あとは彼女が案内してくれるから、しっかりいうことを聞いて勉強してくるように』と結局自分は乗らないで別れてしまった。
若かったわたしも小池よりも女性と二人で東村山まで行けるのだからラッキーぐらいに思って、助手席に乗ったのである。木村と称する女性はしきりと時間を気にしていて、昼食は東村山に着いてからということになった。東村山市に入ったのは14時位で ラーメン屋で食事をとると『もう一人勉強会に参加する部員がいるので迎えに行く」といい、イトーヨーカドー付近の花屋の前でハザードを出してしばらく待っていた。
20分も待たされただろうか15時を10分以上まわっていたと思うが、突然中年のおばさんがものすごい勢いで後ろの座席に乗り込んできたので びっくりした私は思わず『うわ!」と声をあげると木村は急ハンドルを切って猛スピードで走り出したのである。おばさんは息切れしていたが、唖然とした私はわけのわからないままでしばらく走り続け、二人とも一言も口をきかず実にいやな雰囲気だった。そのときの私はパニック状態で勉強会のことなど頭にはなかった。
新座に入って停車すると木村は『私はここで降りるので彼女を流山まで送って行って欲しい』と言うし、名前も知らないおばさんは『道は私が教えるから、同じ学会員だからいいでしょ』と半ば笑いながら言う。流山は帰り道の途中だし、同じ学会員だからといわれると不思議と抵抗感もなかったので引き受けた。こうしておばさんを後部座席に乗せたまま、南流山駅に着いた。そこでびっくりしたのは、あの小池が待っていたからだ。『勉強会なんかやらなかったけど?』ときくと小池は『向こうの都合が悪くなって急に中止になった。すまんが君はここから電車で帰ってくれ、車は私が預かる。ご苦労さん』と言う。勉強会というから月曜日なのにわざわざ会社を休んで一日つぶされて納得がいかなかったので「どうも意味がわからない。あちこち振り回されて・・・』といいかけると小池は「すまん、これ以上何も聞くな、いいな』と大きい声を出したので、相手は中央の役員だし、何だか少し不安になった私は急いで帰ることにした。例のおばさんと小池は車のそばでなにやら話していたが、その後この三人(小池、木村、おばさん)とは二度と会うことはなかった」
投書では、このおばさんは朝木市議にとてもよく似ていたとしている。もとより、この投書は、冒頭に記したように発信元も名前も不明の「怪文書」であり、本当に創価学会員であるのかどうも含めて、内容の真偽は不明である。ただ、創価学会の外郭出版社である潮出版社に対する朝木直子さんらの名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟の審理の過程で、万引き被害を訴えている洋品店の店主が供述している万引き犯人の服装と、当日、朝木明代さんが着ていた服装が異なることが明らかになっており、遺族・関係者の間には、以前から替え玉による犯行なのではないかとの見方がある。
一方、「月刊現代」の記事は、藤井富雄公明党都議と後藤組長とされる人物の「密会ビデオ」があり、その中で藤井氏は反創価学会の立場にある人物らに対する襲撃依頼ともとれる発言をしていると報じている。そして「月刊現代」と同じ内容を匿名で報じていると思われる「国会タイムズ」では、具体的に襲撃対象者のイーーシャルを「K、S、S氏の国会議員三人と、フリーライターのO氏。残り一人はすでに死亡(自殺?)しているA氏」と伝えている。
「月刊現代」によれば当時、反創価学会の急先鋒だった国会議員の亀井静香氏は、「命を狙われている」として警護を厳重にしたとのこと。当時、同じく反創価学会で名をはせていた国会議員には島村宜伸氏と白川勝彦氏がいた。反創価学会の立場にある「フリーライターのO氏」が誰のことを意味するのかは分からない。あるいは本誌発行人の乙骨正生を指すのかもしれないが、平成7年12月以降で「すでに死亡(自殺?)しているA氏」との表記に、平成7年9月に転落死し、自殺を取りざたされているイニシャルAである朝木明代市議が当てはまることは明らかである。
司法解剖の「鑑定書」によって「他殺」であることが確実になった朝木明代東村山市議転落死事件の真相解明は、まだ端緒についたばかりである。
|
|
|
|
|