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公共事業、地方発で見直し。利権からの解放必要 
 

日本経済新聞「経済教室」、03年9月12日

 

「規制を撤廃すれば、規制の傘のもとに保護されてきた事業者は競争の荒波にさらされ・・財政を効率化すれば、それに依存している方々は厳しい状況に置かれます。・・しかし痛みを恐れて改革の歩みを緩めたり、先延ばしをすることは許されません。」この言葉は、実は小泉純一郎総理ではなく、橋本龍太郎元総理の施政方針演説(97年1月)のものである。「財政の効率化」は主として公共事業費を指し、「それに依存する方々」の多くは建設業を指しているとみるべきだ。私たちは、日本の今後にこの痛みを伴う改革が必要なことを、すでに橋本内閣の時にいったん合意したはずであった。

 日本の公共事業費は、対GDP比で6%ほどで推移している。欧米諸国が1−2%台であることにくらべると、突出した高さである。さらに、この莫大な公共事業費が日本の財政赤字の大きな要因であることは、「日本の破産への道は公共事業によって舗装されている」(ニューヨークタイムズ)という言葉を待つまでもなく明確である。

 また、建設業に従事する労働者数比率も1割ほど。これも主要国の中では突出している。本来、高度成長が終わり建設需要が一段落した段階で、建設業は徐々に他産業へと転換されてゆくべきであった。しかし建設業は公共事業費に支えられることで、この転換が阻まれ、結果的に大きな過剰供給力を抱え込むこととなった。特に地方の経済は、建設業に強く維持する歪んだ構造ができあがってしまった。たとえば島根県の建設業に従事する方の比率は13%にもおよぶ。

 それゆえ、公共事業費を削減しようとすれば建設業の過剰供給力は淘汰されることになり、日本経済は痛みに直面することになる。このため、この改革はつねに大きな抵抗に晒される。特に、経済が停滞しているときには抵抗は強くあらわれ、橋本内閣の改革は、97年秋の金融危機で見事に吹き飛んでしまった。また小泉内閣の改革も、デフレ不況の中で厳しい批判を受けている。

 

 日本経済が長い不況にあり、その中で供給力に対して需要が不足しているのも事実である。そのギャップは、14兆円に及ぶといわれている。ケインズ的な発想からすれば、民間の需要が不足している以上、それを公的な需要=公共投資で補うのが当然ということになる。投入した公共投資は一定の波及効果=乗数効果を持ち、民需につながる。小泉政権の政策に批判的な政治家やエコノミストは、公共投資を増やしてアクセルを踏むべき時期に、公共投資を減らしてブレーキをかける小泉経済政策は、最悪の選択に見えるようだ。

 しかし、公共投資を中心とした財政出動が、本当に民需に結びつき経済活性化につながるかは疑問である。乗数効果は、所得が消費に向かう程度(限界消費性向)によって規定されるので、これが落ちているときには乗数も落ち込む。さらに、国民の財政赤字への認知が高まると、将来の増税を予測して消費を手控える傾向がある。消費が減退し、かつ財政赤字が増大する今の日本の状況は、乗数効果を減らす方向にあるとみざるをえない。財政出動を起爆剤にすれば、それが経済成長につながり税収も増えるという発想は、高度成長期のものである。財政出動による景気刺激策を取る先進国が、ほとんどなくなっている現状をよくみるべきである。 

 特に日本の場合は、少子・高齢化が一気に進み、将来世代の負担はすでに限界を超えている。その上、ほんの数年後、人口減少社会に突入する。橋本内閣が「痛み」を怖れずに改革に取り組もうとした理由はここにある。さらに、ここで財政出動すれば、建設業の過剰供給力が温存され、日本の産業構造の転換が阻まれることになる。未来永劫、建設業の頼っていくことで日本の、とりわけ地方の経済・社会の真の活性化はありえるのだろうか。そして、小泉内閣の下、歯を食いしばって公共事業費を絞り込みながら景気回復の動きが見えた今こそ、改めて安易な財政出動は控えるべきである。

 

 公共事業問題は、単に景気=マクロ経済の問題にとどまらない点がやっかいである。税金をはじめ公的資金が、政治を通して建設業に流れる以上、そこには当然癒着が生じる。自民党の政治資金団体である国民政治協会から、建設業者の団体である「全国建設業団体連合会」への献金要請は当たり前のように繰り返されている。赤字の建設業者までもが献金に応じ、株主代表訴訟を引き起こしているほどである。自民党の参議院選挙の比例区当選5位は、この団体の推薦を受けた候補である。その意味で、公共事業は「政治経済学」の課題でもあるのだ。

 公共事業費は、こういった癒着の中で、波及効果が高いか否かではなく政治力のあるところに流れていき、結果的に民需につながることなく消え去っていく。バブル崩壊後の景気対策100兆円のうち、60兆円を公共事業費が占める。それにもかかわらず、景気が回復しなかった事実は重い。

 さらに、税金だけでなくありとあらゆる公的な資金が、公共事業に流れている事実も見過ごせない。郵貯資金は「メルパルク」、簡保資金は「保養センター」、年金資金は「グリーンピア」、雇用保険資金は「勤労者福祉施設」といったように、公的資金が本来の使途を大きく離れてハコものにつぎ込まれている。たとえば、雇用保険資金がつぎ込まれた施設は2000カ所に及び、その大半が売却されつつある。この一つ、455億円がつぎ込まれた「スパウザ小田原」は、8億5000万円で小田原市に売却される。失業給付に回されるべき資金がハコものに流され、結果的に失業給付が削減される現実はなんともいいようがない。

 「脱ダム宣言」で公共事業費を絞り込もうとした田中康夫長野県知事は、議会から不信任を突きつけられている。その後の選挙で返り咲き、ようやく公共事業費削減の方針を貫けている。こういった闘いなしに、公共事業費の見直し自体がありえないことを、財政出動派は銘記すべきである。ちなみに、長野県は公共事業費を11年度の2572億円から、15年度1585億円にまで絞り込めている。

 また、財政出動派は安易に「効率的なところに資金を投入する」というが、利権にがんじがらめになった公共事業費は、経済的にみて波及効果があるところにではなく政治力があるところに流れる宿命にある。それを変えるためには、その政治の仕組み自体を変えることが先決なのである。これが「政治経済学」の結論である。

 

 ただしすべての公共事業を取りやめろ、というわけではない。社会資本整備が欧米並みになったのであれば、やはりGDPの公共事業費率も、欧米に近い水準に近づけるのが自然である。その意味で、公共事業費半減はひとつの政策目標にはなりうる。その上で、公共事業費の実際の配分を、政策効果や波及効果が高い分野に、環境に配慮しながら投入するといった工夫が必要なのはいうまでもない。政策評価のシステムも作り上げられてきた。

 しかし、建設業に強く依存する地域経済を、脱公共事業で再生するのは容易なことではない。そこから先は、公共事業が行われるそれぞれの地域の主体的な判断に従うほかない。そのためにも、国がまず公共事業のスリム化の方向性をしっかり示した上で、国の財源と権限の地方移譲を進め、地方が主体的に地域再生に取り組める制度を作り上げなければならない。

 その結果、自治体で福祉より道路だという判断がなされれば、当然それは認められるべきである。最後は、自治体間競争である。「脱ダム宣言」を貫いた長野の生活と、道路中心に地域経済活性化をはかったX県と、どちらの住民が真の意味で豊かになったか、で判断されるべきなのである。「国破れて、道路あり」とはならない選択が、地方からはじまることを期待したい。

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