メルヘン地獄 その四と少し
tomoタン作






先週から、煙草を吸うようになった。

別に心境が変化したわけでも、何か辛いことがあったわけでもない。僕は以前はヘビーとまではいかないものの、それなりに煙草は吸うほうだった。だから、コンビニで目についた知らない銘柄の煙草に惹かれてそれを購入し、一本だけと吸ってしまった次第である。

一本吸ったが最後、辞められるはずもなく、僕は中学生の癖に喫煙者となった。

最初、一番騒いだのはアスカだった。僕を不良呼ばわりし、転落してゆく落伍者の人生について説き、一向に聞き入れない僕に苛立って実力行使に出た。残念なことに僕はすっかり煙草に魅了されていて、アスカの言葉に耳を傾ける気さえ無かったのが不味かった。僕の顔面は痣だらけになってしまった。その痣は未だに少し残っている。

ミサトはそれほど怒らなかった。アスカの勢いに圧されていただけかもしれないが、僕の喫煙が発覚したその瞬間だけ、それはいけないことだと僕を注意するに留まった。それから、アスカの居る場所では吸わないようにと言われた。ミサトは僕の行いの大半について、自己責任でやる分にはあまり煩く言わない。僕が稼いだ金で、僕が健康へのリスクを自ら受け入れ、他人に迷惑を掛けない、要するに公共の利益に反しない限りは、何をしてもいいと思っている節があった。だから非喫煙者であり、未成年のアスカの傍では吸わないようにと忠告したのだ。

リツコさんは怒るどころか、僕が灰皿の前に来た途端にライターに火を灯して僕に差し出した。あまりに自然な動作だったので、僕は何の疑問も持たずに煙草を吸い、吸い終わってからリツコさんの前で中学生である僕が煙草を吸ったのだと言う事実に気付いた。リツコさんは喫煙者は差別されているから同志が増えるのは心強いとか意味不明なことを言って愉快に笑っていた。まぁ、僕としても気兼ね無く煙草を吸わせて貰えるのなら文句は無い。やはりリツコさんは素敵だ。

加持の反応もリツコさんと似たようなものだった。「自分も昔は悪で…」と語りだしたので僕は相槌を適当に打ちながら煙草を三本吸い、終わる気配の無い加持の話を聞き流しながら別のことを考えていた。

学校では当然吸わないようにした。アスカの監視がきついし、委員長に見つかったらどんなことになるのか想像もつかない。停学とか格好悪いことにはなりなくなかった。

結局、僕が煙草を吸えるのはネルフの施設内だけだ。四、五日の間は出会う人出会う人みんなに注意されたものだが、週が明けてからは誰も僕に文句を言わなくなった。僕が優遇されている為か、それとも僕の自分の責任で吸っているのだと言う論法に納得したのか、それとも注意するのが面倒になったのかはわからないが、僕はここでは気兼ね無く煙草を吸うことができる。ネルフに来ると訓練だのテストだの面倒で仕方無いが、煙草を吸うようになってからはここに来るのも楽しみの一つになった。

と、言うわけで今日も僕はジオフロントの緑地公園で煙草を吸う。時刻で言うと外はもう暗くなっている頃だが、ここは照明が24時間ともされている。本部の中で吸っているとたまにアスカに出くわしてしまう為、僕は大抵の場合はここまで出てきて煙草を吸うことにしていた。

ここは公園と言うが、人工芝とベンチと自動販売機以外には何も無い場所だ。少し遠くには土があって樹木が植えられているのだが、公園区画内にそれは一切無い。人も来ない。それもそのはずで、ジオフロント内での戦闘が起こった場合に、エヴァがカタパルトで射出されるのがこの場所だからだ。ゼルエルと弐号機が戦った時に、弐号機が発進した場所なのである。だからだろうか、アスカはここを好まない。アスカが滅多に来ない絶好の煙草スポットと言えた。

しかし、今日はこの場所に先客がいた。

ベンチに座っている人影。

それは綾波レイだった。






「碇くん」

僕の姿を見るなり、綾波レイはベンチから立った。まるで僕を待っていたかのようだ。いや、多分、待っていたのだ。何か用事が無ければ、綾波レイは自分から声を掛けてきたりしない。

「よ…元気?」

僕は綾波レイに掛けるべき言葉なんて一つも持ってなかった。だから何だかマヌケな応じ方で、綾波に声を掛けた。綾波は少し首を傾げた。

僕はこの少女は非常に苦手だ。アニメで見ているのと、実際にコミュニケーションを取るのとは全く違う。彼女と居ることは、沈黙との戦いだった。僕は沈黙は嫌いではない。でも、僕の言う沈黙はただ一人で居る時の沈黙であって、誰かと居るときに沈黙することではない。

綾波はまたベンチに座った。僕が隣に座るのが暗黙の了解であるかのように、じっと僕の目を見ている。僕はそれに抵抗する術を持たなかった。誘われるままに、そのベンチへ座る。少し距離を空けたのはせめてもの抵抗だった。

「煙草吸いに来たんだ。吸っても構わない?」

「ええ。構わないわ」

僕は煙草を胸ポケットから取り出して火をつけた。本日一本目の煙草は僕の喉を刺激し、肺を満たす。麻薬に似たニコチンの作用が僕の頭をぼうっとさせた。一日で一番最初の煙草は本当に美味い。不味く感じる時は体調に何らかの異変がある時だ。今日も僕は快調だった。

水を打ったような沈黙が辺りを支配している。雑音のすべてが消え、僕の耳は綾波レイの起こす一瞬の物音も聞き逃さぬように1点に集中していた。どうして僕がこんな居心地の悪い思いをしなければならないのか理解に苦しむ。せっかくの煙草の味も全く感じなくなってきた。

綾波レイは黙ったままだ。僕は遂に堪えきれなかった。

「綾波は僕を待ってたのか?」

「ええ」

返事はすぐに返ってきた。

「あなたは誰?」

あやうく心臓が口から飛び出て地面をピチピチ跳ね回るところだった。僕は落しそうになった煙草を掴みなおし、一服深く吸い込んで、大きく吐き出した。

それは思わぬところから浴びせられた奇襲だった。予想もしなかった一撃は一瞬にして僕の冷静さを消し飛ばし、僕はうろたえながら綾波を見た。アルビノの赤い瞳が僕の目玉を正確に刺し貫いている。僕は暗転しかける視界を必死に保って、深呼吸した。

煙草を揉み消し、もう一度綾波レイの表情を覗う。綾波の表情はかわらないが、「やっぱり」とでもいいたげだなと僕はなぜか感じていた。

「…僕は碇シンジだよ。綾波も知ってるだろ」

「ええ。あなたは碇くん。でも、違うわ」

こいつが何を勘付いていて、何に気付いていないのか、神ならぬ僕には想像することしかできない。僕の様子が変わったことに気付かない奴なんて居ないだろうが、こんなにストレートに疑われたのは初めてのことで、僕はどのような言葉を発するのが適切なのか全くわからなかった。だから迂闊に口を開けない。

また、沈黙があたりを埋め尽くす。それは重く、どっしりとした図体で、容易にその場からどいてくれそうにない。拷問のような一瞬はいつまでも続くかと思われた。こんなのは社長に睨まれて以来の経験だった。

「わからないわ。確かに碇くんは碇くんのように見える。でも、違うの」

綾波がその重い沈黙を蹴りのけた。綾波はただ「人が変わった」と言う記号的な見方ができないのだ。だから、人格がそっくり変わってしまった僕に違和感と異質感を抱き、それを素直に言っているのだろう。しかし、僕にとってこれほど答えにくい問いは無い。「あたなは誰?」こんなに簡単な問いに、僕は答える術を持っていないのだ。中学生の姿をしたオッサンですだなんて、一体何の冗談なのだろう?

「綾波が何を言いたいのかわからないよ。僕が他の誰だっていうの?」

僕は冷静を装って首をすくめてみせた。本当は心臓がバクバクと鼓動し、多分顔色も余り良く無いんだろうが、表情だけは取り繕うことに成功していると信じたい。綾波は再び首を傾げた。

「…でも、私の中の碇くんが居ない」

ギクッと肩を震わせてしまう。なんとも勘の良い女だ。さすがに中身がそっくり別人になっているとは思わないだろうが、彼女が優しくされた碇シンジは既に存在していないという真実を的確に嗅ぎ付けているのだ。何て嗅覚の鋭い奴だろうか。僕は背筋を走る冷たい感覚にぞっとした。

事実は小説よりも奇なり。僕が洗いざらい吐いた所で、それは整合性のある説明とはならないだろう。僕は急速に自分が落ち着いていくのを感じた。どちらでも同じことではないのか? 碇シンジは居ない。彼がどこへ消え去ってしまったのか、僕にはわからないし、興味も無い。僕が重要と感じ、大事に思うのは自分が元の世界へ帰る方法がわからない以上、ここで生きるしかないと言う事実だけだ。そう思った瞬間に、僕は開き直っていた。

「僕が例えば、碇シンジの姿をした、碇シンジではない誰かだったとして」

綾波が僕の言葉に顔を上げ、じっと僕を量るように真っ直ぐな視線を向ける。僕はもう動じなかった。

「それが何か不都合なのか?」

僕の、綾波の違和感を半ば認めるような発言に、綾波は一瞬、顔を顰めた。

「優しくされたいだけなんじゃないの?」

「ええ」

驚くほど素直に、綾波はそれを認めた。僕は少し意地悪く言った。

「…父さんは綾波に優しいんじゃないの?」

「あの人は私を見ていないから」

少し傷ついたように、綾波は目を伏せた。僕は自分の言葉を少し後悔した。大人げなかった。僕は努めて柔らかい表情を浮かべることができるよう、苦心した。

「…ごめん、悪かった。だから、綾波レイと言う名前の少女に優しくした碇シンジが大事なんだな」

「…ええ、そうよ」

「碇シンジと言う記号ではなくて、過去綾波レイに綾波レイとして接した碇シンジ…か。確かに僕はそのシンジじゃないな」

「そう…」

もう、話は僕が碇シンジではないことが前提となっていた。まぁ構わないかと僕は再度開き直った。例えばそれを綾波が誰かに訴えたとしても、それは何の意味も無いことだ。僕はここで碇シンジとして認知され、碇シンジとして生きている。その事実が先にある限り、今更誰が僕の存在に異を唱えても誰もそれを信じはしない。

それに、綾波レイに先ほど意地の悪い質問をしてしまった。だからもう少し彼女に付き合ってやろうと僕は思ったのだ。彼女が納得するまでは。

「碇くんは消えてしまったのね」

「どこ行ったのか僕も知らない。僕は気付いたら僕だった」

「…そう」

綾波の表情はほとんど変化が無かったが、声のトーンはどことなく悲しげだった。誰にも省みられなかった少年をただ一人、この少女だけは覚えていたのだ。僕は急に自分の存在そのものに罪悪感を感じた。僕は碇シンジを殺してその場に成り代わったも同然だ。僕は僕でいる為に案外と犠牲を強いている。以前の碇シンジが心に居る者から、碇シンジを略奪したのだ。

だからと言って僕はこの碇シンジの座を誰にも明渡す気は無いのだが。僕は碇シンジとしてこの数ヶ月生きて、ようやく以前から碇シンジだったような錯覚を抱くまでになっている。もう、元の世界へも帰りたいなんて本当は思ってやしないのだ。このちょっぴり危険はあるものの、居心地の良い世界から追い出されるなんて残酷な話は無しにして欲しい。EOEさえ越えてしまえば、ここにだって未来はあるのだから。もう少し、後少し。

「綾波レイ、取引をしよう。きっと魅力的な話だと思うんだ。どう、聞いてみる?」

綾波は僕の言葉に興味を引かれたのか、すぐに頷いた。僕はセールススマイルを浮かべた。
僕はずるい大人だった。








そろそろ来てもおかしくないと思っていたが、やはり来た。使徒だ。
前回のような恐怖感は無い。使徒と語り合って、今更何を怖がれと言うのだろう。今回の使徒は僕らとの融合を図る光の輪の奴だ。使徒は僕との接触で、人間の精神を知った。次は肉体の情報を得る為に直接の接触を望む。その結果として生み出されるのがゼーレで培養されつつある渚カヲルなのだ。僕は既に歴史を知り、使徒との会話の中であらかたの疑問を解消している。僕の考えはほぼ間違い無い。

多少接触はされるだろう。原作ならそれは綾波の役目だった。今回は初号機の凍結は既に解かれ、アスカも健在なので誰に当たるかはわからない。しかし、きっと使徒はアスカに接触はできないだろうと思う。今のアスカのATフィールドはゼルエルよりも堅固で、ロンギヌスの槍でしか貫けないんじゃないかと思える程強い。だから、使徒を倒すのはアスカの役目で、攻撃を受けるのは僕か綾波のどちらかであると僕は予想していた。まぁ、僕だろう。射撃が僕より断然精度の高い綾波は、僕よりもずっと後方から支援できる。アスカの次にターゲットされるのは距離的にも僕しかいない。

僕らはミサトの指示通りにいびつな三角形の各頂点を成すように展開した。弐号機が前に出て、初号機と零号機が後ろから射撃する。弐号機のATフィールドが最も強く展開されるには、僕らのフィールドは干渉し合ってしまって邪魔なのだ。だから援護に徹するようにとの指示だった。これで僕が浸食を受けるのは確実だ。渚カヲルと会うのは楽しみだったが、自分が侵食を受けるのは勘弁して欲しいものだと僕は苦笑いした。しかし、これを避けられないのも事実だ。

大方の予想は大当たりだった。使徒は最初に前に出ていた弐号機に接触しようとし、アスカのATフィールドに弾かれると、今度は僕のほうへ向かってきた。

使徒の速度は異様に速かった。弐号機の振るうソニックグレイブをかいくぐり、僕のATフィールドを紙のように切り裂いて肉薄してくる。僕はパレットライフルを乱射しながら後ろへ下がった。接触されるのを覚悟はしているものの、あの勢いで迫られるとやはり恐怖感を感じる。僕の後退は半ば本能的な動きだ。

側方から、綾波の零号機が発射した陽電子砲が使徒に命中する。使徒は輪のような形状を一本の紐のように変化させて空中をのたくった。だが、全く効いていないと言わんばかりに前進を再開する。使徒は自分の外皮に沿うようにATフィールドを展開しているらしかった。しかもそれはかなり強力なようだ。僕の持っているパレットライフルの弾丸が直撃したとしても、効きそうに無い。まぁ、当てる自信なんてこれっぱかしも無いのだが。

僕のパレットライフルは一発たりとも当たる気配が無かったが、弾幕にはなっているようで、使徒は進みあぐねるように僕の前方数キロ先でうねうねと空中を漂った。そうそう、簡単に接触させるつもりは無いのだ。お前も苦労しろと僕は渚カヲルを思い浮かべて思った。

もしも侵食を受けても無事で済むだろう。僕はそれを確信していた。僕が侵食を受けた時点で、使徒の動きは止まるのだから、アスカのATフィールドが使徒を真っ二つに切り裂いて、それで終わりだ。弐号機のATフィールドの刃は、衛星軌道上の使徒を切り裂くだけの威力があるのだから、多少強いくらいのATフィールドなんて全く守りにならないだろう。使徒が何でできているのかはよくわからないが、零号機の自爆程度で消え去る奴が弐号機のATフィールドに耐えるとは思えない。

ついに僕のパレットライフルの弾奏から弾が尽きた。交換している時間は無いだろう。

(さぁ、来い、渚カヲル)

僕は覚悟を決めて使徒をにらみつけた。



…はずだった。



僕が見たのは、初号機の胸に突き立つ使徒ではなく、僕を庇うように立ちふさがった零号機の背中だった。妙な既視感。まるでラミエルの砲撃から身を呈して初号機を守った零号機のように…

「クソガキ!」

僕は思わず叫んでいた。そうだ。全く同じような状況なのだ。狙ってやりやがった。綾波はまた同じ絆が欲しいのだ。だから同じ状況を再現してみせた。何て短絡的で馬鹿馬鹿しい行動だろうか。これで使徒を上手い具合に倒し、僕がエントリープラグに駆け寄って泣いてみせるとでも思っているのだろうか。

それほど、碇シンジが恋しいのか。それとも、僕にそうなれと言いたいのか。どちらにせよ、僕にも、碇シンジのようにしろと言いたいらしい。これが綾波レイの望んだ「取引」なのだ。何も使徒襲来と言う非常時にやらなくてもいいんじゃないのと僕は泣き出したくなった。

綾波レイの思い入れと言うものを僕は舐めていた。僕のプランは大体のところ、破綻するように出来ているようだ。

「…面倒なことになったなぁ」

僕は軽い眩暈を抑えてプラグナイフを引き抜いた。






自分の体に何かが深く突き刺さる感覚。背筋を這い回るような不快感が私の全身を貫いている。感覚器が正常に機能していない。私が期待する一切の情報が、私の五感から遮断されていく。

愚かな試みであることは承知している。司令は私を叱るだろう。作戦部長や赤木博士にも合理的な説明をできる自信は無い。私自身、自己の判断が誤りであることは明白だと思っている。私は初号機を守るように命令されたわけではなく、使徒を殲滅することを命じられたのだから。

そう、あの時も、命令だから守ったに過ぎない。今、私の判断を狂わせるこの胸の奥の何かに突き動かされて、そして初号機の前に出たわけではない。前回の状況を克明に再現することなど、理論上、事実上、物理的にも不可能だ。証明する必要すらなく。

しかし私は、初号機の前に出た。自分でも説明のできない何かに推されて、私は初号機を守った。恐らく、その説明し難い何かとは、私の感情と言うものなのだ。私は碇シンジに執着している。その理由が、私をこのような不合理な行為へ駆り立てる。

もう一度。もう一度、あの状況を。

自分の心音が聞える。感覚が朦朧とする。何かが私の中へ押し入ってくるのだけが感じられる。この感覚は以前に経験がある。恐らく、私は使徒に侵食されつつあるのだ。

今回は自分の中枢を一気に犯されてしまっているらしい。もう四肢を自由に動かすこともできない。だが、私は力の限り、抵抗した。手に持ったライフルで使徒を撃つ。私の任務は使徒を殲滅することだ。不合理な行為に出たこととそれに何の関連も無い。だから、私は任務を遂行…自分の思考がバラバラに引き裂かれつつあるのを、私は感じた。

「一つになりましょう」

「それはとても気持ちの良いこと」

いいえ、違う。あなたは使徒で、私は綾波レイと言う名称で呼ばれる個体。あなたと私は違う。
私の姿をした誰かが、私に手を差し伸べる。私の体は自由を奪われ、縛り付けられたかのように動かない。

あなたと私は違うのに。どうして一つになろうとするの。

「碇くんと、一つになりたいんでしょう?」

そう。碇くんと一つに「なりたかった」。私は率直に認めた。あの人は私を見てはくれない。碇ユイだけを見ている。私と同じ姿をした、女性を見ている。碇くんは私を見ていたのだ。綾波レイと言う個体を。だから、欲しかった。碇くんが欲しかった。

それは絆だから。世界との絆だから。ここにいてもいいのだと、私を肯定する視点であったからだ。しかし数ヶ月前、それは奪われた。突然現れた碇くんは、突然消え去った。だから、取り戻したいと。

そして、あなたと一つになったら、碇くんは二度と取り戻せない。だから、一つになることを私は拒否する。

「無に還りたいんじゃなかったの?」

そうね。それは甘美な誘惑として常に私を死へ誘う。私は死んでも代わりはいるもの。綾波レイと言う個体は世界に肯定されるには余りにも弱々しい概念でしかない。私は無へ還ることで安息を得るだろう。

しかし。

しかし、私は知ってしまった。あの一瞬で知ってしまった。自分が綾波レイと言う一個の個体であると同時に、唯一無二であることを意識してしまった。確かに私が死んでも代わりはいる。だが、それはもはや私では無いと言うことを知ってしまったのだ。

だから、私は死ぬのが怖い。
私が消えるのが怖い。
そしてもう一度、あの瞬間で、あの表情を浮かべてみたいのだ。

「私と一つになりましょう」

あなたと一つになった私は私では無い。私以外の何かだ。だから、私は拒否する。

「そう、なら…あなたとは、一つにはならないわ」







私にはさっぱり状況が飲み込めなかった。使徒を防ぎきれずに、後方へ逸らしてしまったのは私のミスだ。シンジを危険に晒してしまう。だから慌てて反転した。すると私の視界にあったのは、初号機を庇って使徒の攻撃を受ける零号機の姿だった。

ファーストがどうして初号機を庇ったのか全くわからない。私の印象では、彼女は合理的でない行動は一切取らないと思っていたからだ。しかし、シンジが危険に晒されずに済んで、実際のところ私はファーストの行動に対して拍手喝采を送りたい気分だった。どうにか零号機は使徒を押さえ込むことができているようだ。私は本当に自分本位だ。シンジに危険が無いとわかった時点で、こんなにも安心している。ファースト、ごめんね。アンタがどうなっていいなんて思ったわけじゃないのよ。

使徒は零号機の体にもぐりこもうとしているようだった。融合しようとしている? まぁ、それはリツコ辺りが後で分析すればいいことだ。零号機が身を呈して使徒の動きを止めてくれた。だから、私はその機会を無駄にせず、確実に使徒を葬り去ることだけを考えればいい。

あの能面みたいな女は好きじゃないが、別に憎いわけでもない。一刻も早く使徒を倒すことが、ファーストの命を救うことになるのだ。一応戦友だし、シンジを危険から守った。今度は私の番だろう。

アタシは弐号機にATフィールドをもっともっと強くすることを命じた。弐号機はいつだってアタシに応えてくれる。力が弐号機の右腕に集中してゆく。これを振るえば、使徒なんかATフィールドごと細切れにしてやれる。

アタシが大きく振りかぶったその時だった。アタシと使徒との射線を遮るように初号機がプログナイフを持って踊り出てきた。アタシは慌ててATフィールドの刃を解き放つのを中止した。

「シンジ! 何考えてんのよ!」

『悪い、アスカ。綾波のワガママにちょっくら付き合ってやってくれよ』

「はぁ? 意味わかんないわよ!」

『いいから、この使徒は俺に譲れよ』

「ちょ、そんな一方的な…大体、ナイフで何とかなるの? ソイツ」

『知らね。何とかなるといいなぁ』

「あ、あんたね! ファーストの命が掛かってるってのにそんな悠長なこと…」

『何とかならなかった時は頼むわー』

通信は切られた。

アタシは途方にくれてやり場の無い力をどうすべきなのか、真剣に悩んだ。






ナイフを振り上げた瞬間、使徒が零号機から一気に剥離した。そして先端を僕のほうへスイと向ける。原作とは何か違う展開で、僕は思わず動きを止めてしまった。硬直する僕にそれを避ける余裕なんかあるはずもなくて。僕は目を瞑って覚悟を決めた。

「うわああああああああああ…あ?」

思わず叫んでみたものの、痛みもかゆみも違和感さえも全く訪れない。僕が目を開けると、使徒を両腕で抱え込んだ零号機の姿が見えた。使徒はしっかりとつかまれて身動きがとれないようで、両先端をじたばたと振り乱していた。零号機は使徒を抱え込んだまま、後ずさりし、初号機からできるだけ距離をとろうとしているかのように見える。

嫌な予感がした。
これは、もしかしたら。

原作と同じく自爆しようとしているのでは?

おいおいおいおい! 僕は自分の顔面の筋肉と言う筋肉が引き攣っていくのを感じた。このまま自爆でもされようものなら、多分夢に見る。とびっきり悪い夢を。僕を庇ってくれるのは嬉しく思うのだが、使徒を倒せる力を持ったアスカがいることをすっかり忘れて自己犠牲に酔ってるのでは無かろうか。

どいつもこいつも一人善がりのクソガキ共が! 僕は錯覚ではなく完璧に頭痛を覚えながら叫んだ。

「アスカぁぁぁぁ!! ヤバイ! 何とかならなかった!」





「あなたとは一つにならないわ」

使徒の言葉。私は反射的に自分から離れゆく使徒を掴んだ。
離さない。離したら碇くんの元へ行ってしまう。まだ、私は碇くんを取り戻していないのだ。それは許すことができなかった。これ以上、碇くんが碇くんで無くなるのは、許せない。
使徒は、私が消すしかない。

武器は? …無い。

ナイフを持とうにも、両腕は塞がっている。

使徒を倒す方法は…



一つだけ、あった。





「どう言うことなのよー!」

アタシは結局、どうにもしようが無かった力を再度使徒に向かって狙いすましながら叫んだ。初号機がナイフで斬りつけようとした瞬間に使徒は零号機から剥離し、今度は初号機を狙った。それで、零号機はそれを掴んで今や後ろを向いて走りだしている。意味がわかんない。

この位置からじゃ、零号機も巻き込んでしまう。どうするべきなの? シンジ。

アンタ、何考えてんの…






ええい、こうなったら!

僕は全力で零号機の背中にタックルした。もう他に方法なんか考えつかない。アスカの力は強すぎて零号機を巻き込んでしまう。弐号機の位置からでは、使徒をしっかりと抱え込んだ零号機の背中しか狙えない。何とかして、使徒をアスカの目の前に、無防備な形で晒さなければならない。

なら、僕にできることは一つだ。






初号機が、零号機の手から使徒を強引に奪い取っていった。駄目、碇くん。使徒は碇くんと一つになる気なのに。しかし、私の想像とは裏腹に、初号機は使徒に食らい付かれながらも一目散に弐号機の元へと走っていった。

どう言うことなの? 私は死んでも代わりはいるのに…。碇くんに、代わりは居ないのに、碇くんは何をするつもりなの?

私には、わからなかった。






「シンジナーイス!」

シンジは零号機から使徒を奪い取ってその身に抱え、アタシの傍まで走ってきて、使徒の体を無防備に晒した。この近距離なら、外す余地が無い。初号機に損害を与えることのないよう、角度を考えてアタシは右腕を振り下ろした。何だかよく状況が飲み込めないけど、これでこの使徒も終わりだ。

アタシの右手は小気味よい音を立てながら裂けていく使徒を、これでもかってくらいに細切れにした。






ゴンッ

痛そうな音だ。シンジが零号機のエントリープラグからファーストを引っ張り出してその頭を思いっきりグーで殴ったのだ。目に涙を浮かべて、怪訝そうな顔をするファーストに、私は少し同情した。シンジは怒る時に結構容赦しないから。

「…? …?」

頭をさすりながらファーストが目を白黒させる。コイツは別の意味で叱られた経験が無いに違い無い。アタシはその様子を見て、ゲンナリとした気分になった。アタシがシンジに叱られている時もこんな風に格好悪いんだろうと思うと、顔から火が出そうだ。あまり叱られるような行動は取らないようにしなければ。

「このバカタレ! さっき自爆する気だったろ!」

「…ええ、そうよ」

「そうよじゃないっつうの! 大体、僕の前に出てきたりとか余計なことしまくって、綾波は一体何考えてんだよ! 思考が短絡的過ぎるんだよ! この馬鹿! お馬鹿!」

「…まぁ、シンジ、無事に済んだんだし、その辺にしといてやったら?」

驚いたことに、ファーストはアタシの存在を忘れてシンジを使徒から守るには自爆するしかないと言う悲壮な決意で逃げていたらしかった。ようやく事情が飲み込めたアタシはもう、呆れるやら情けないやら。ファーストってアタシのこと本当に眼中にも入れて無いんだなーと思うと、少し腹も立った。まぁ、助け舟を出してやることで、今後アタシの存在を意識するようになればいいかなと思って口添えはしてやろう。

それにしても激怒している人間が横にいるとなぜだかこう、冷静になるものだ。腹が立った時は一度深呼吸して落ち着くことにしよう。シンジの振り見て我が振り直せ。最近お気に入りの言葉である。

「うっさいアスカは黙ってろ。この馬鹿ッタレは一回キャンと言わせとかにゃ駄目なんだ!」

「落ち着きなさいって…どうせ後でミサトにコッテリ絞られるんだしさ」

「ぐううう…」

シンジはまだまだ怒りが収まらないと言った様子で、歯をギリギリと言わせていたが、ファーストがさすがにシュンとして「ごめんなさい」と言うと、口をへの字に曲げたまま、ファーストの頭をグリグリと撫でた。アタシを叱った後と同じようにしている。これは、もういいから次から気をつけろと言う言外の恩赦なのだ。

ファーストは地面にちょこんと座って、まだ頭をさすっている。相当痛かったらしい。それに、何だか納得いかないって表情だし、見ていてなかなか面白かった。ファーストって能面被った人形みたいな奴だと思っていたけど、案外、そうでもないのかもしれない。

アタシはシンジの腕を取って笑った。

早く誉めて欲しかったのだ。






使徒の性質とアスカの力から、どっちにしろ、今回はたいした被害も出ないだろうと僕は思っていた。それが危うく零号機と二人目の綾波と言う多大な犠牲を出すところだったのだ。ホッとすると同時に湧き上がった怒りに僕は抗することができなかった。

綾波と交わした約束は、僕は綾波を綾波として扱い、綾波が消えなければならないような事態を未然に防ぐと言うことだ。でも、綾波を綾波として扱うと言うことに、「以前のように」と言う条項を含んだ覚えは無い。僕はどうがんばっても以前の碇シンジではないのだ、それは無理である。だからと言って、綾波レイが最も思い入れ深い状況を再現しようとするなんて全く予想だにしなかった。

綾波の心情はわからないでもない。でも、そのせいで危険を招いたと言う事実に対して反省はしてもらわなければ困る。僕はプリプリと怒りながら腕組みした。当の綾波ご本人は自分の望んだようなエントリープラグの開け方をされなかったせいか、少し不機嫌そうだった。このガキはアスカと別の意味で厄介この上無い奴だ。アニメで見るのと大分印象が違う。つまり、この少女も、子供なのだ。聡明だと思ってたら酷い目にあった。今後はコイツにも油断できない。何するかわからん。

この面子でEOEに立ち向かうのだと思うと頭が痛いことこの上無い。

僕は本当に、EOEのあのシーンを回避できるんだろうか…

とても、不安だ。










後書き:

…うーぬ変な展開だ。


あと二つ!あと二つ!先が見えるとアレだな、やる気出るな。これはちゃんと完結しそうだ。マジで!?スゲー!

次回予告
カヲルくんを殺す過程と葛藤。

書けたら本日中にナ。