メルヘン地獄 その二
作:tomoタン




僕が碇シンジとして暮らすようになって三週間が過ぎた。人間の環境適応能力は実に素晴らしい。最初の一週間は怪訝な目で見られることにビビり、ボロを出してしまわないかビクビクしたり、部長にネチネチ嫌味を言われるのと同じくらいにストレスを貯めたものだが、三週目に入ってからはのんびりとしたものだった。

まず、朝起きてすぐにアスカを叩き起こし、朝食を作らせるところから一日は始まる。
僕は女性が食事を作るべきだという信念を持っている。豪快漢(オトコ)料理など大味なだけで、端的に言って不味いのだ。僕が自分で朝食を作ったところで、トーストにバターを塗るのが関の山であろう。侘しいにも程がある。

幾ら一人暮らしが長いからといって料理ができるとは限らない。事実、僕は一切できない。

最初の数日は女の子らしからぬ罵声を上げ、威嚇し、歯を剥いていた少女アスカも、強硬な僕の態度に負けて最近では素直に朝食を作るようになった。

アスカ嬢は顔に似合わず料理が上手い。アニメとインターネット上のSSでは家事不能者のような印象を受けることもしばしばだが、どうしてどうして上手いものだ。

未だに男女差別だとか古い思想だとかブツブツ文句を垂れてはいるが、美味い美味いと誉められるのに悪い気はしないようで、以前のシンジと彼女の間にあった軋轢を感じずに済んでいる。
朝から人間らしい食事を取ることができるのは幸せなことだ。

次に、支度に手間取るアスカ嬢の部屋のドアをガンガン蹴り付けて程ほどに済ませることを促し、彼女を伴なって家を出る。このドアを蹴る音で葛城ミサト作戦部長がのそのそと起き出してくるが無視だ。僕はこれほどの生活無能者を見たことが無い。常人の三倍散らかし、片付けを命じるとさらに部屋を汚しはじめる。食べる時にボロボロ溢すわコップひっくり返すわ人前で脱ぎはじめるわ…枚挙に暇が無い。

ミサトを見ていると精神衛生上良くないので、わき目も振らずに家を出るようにしている。それから向かう場所は言わずもがな、学校だ。

学校までの道のりの間に、ヒカリとケンスケが合流する。

ヒカリはアニメの印象通りの少女で、いかにも学級委員長をやっていそうなセリフばかり吐く。僕が僕であった時に努めていた会社の経理のお姉ちゃんによく似ている。神経質なんじゃないかと思う程、彼女は細かい。
中学生らしからぬ落ち着きは家庭環境ゆえだろうか。だが、一端怒り始めた時の収集のつかなさは中学生らしい。恐らく将来ヒステリー呼ばわりされること間違い無い。

ケンスケはアニメで見る印象よりもずっと大人っぽかった。多分、クールと言われたいんだろう。所詮ガキなのは隠しようが無いらしく、興奮すると並みの中学生を大きく下回って小学校低学年へと精神年齢をワープさせるのだ。なかなか変な奴だが、興奮しない限りは最も話ができる相手だった。案外将来を真面目に考えているようだ。

トウジはいない。今入院しているそうだ。何のことはない、バルディエル戦での傷がまだ癒えていないと言うことなのだ。先週、見舞いに行った。「変わったな」といわれたが、中身ごと変わってしまっているのは周知の通り。以前の僕は後ろめたさを隠し切れない程、オドオドとした態度を常に取っていたんだそうだ。まぁ、シンジはそう言う奴だろう。僕とは毛色の違う人間だ。僕はもう少し太く、腹黒い。そうでなければ営業課内のライバルを蹴落として課長職につくことなどできないのだ。

それは変わったと言われて当然だと思う。

4人揃って、教室へ入る。要するによくあるクラス内派閥と言うか、グループのようなものだった。校内ではほとんどこのメンバーが揃って行動する。シンジの変化を、みな好ましいと感じているようで、変に勘繰るような人間はあまりいなかった。強いて言うならアスカだけが釈然としない感情を抱いているらしく、事あるごとに突っかかってくる。あまりに変貌してしまった僕への態度を決めかねているのかもしれない。

ちなみに、ネルフの連中は僕の変化をエヴァに取り込まれた後遺症であるとか、そう言う風に解釈しているようで、まるで腫れ物扱いだ。まぁ、痛くも無い腹を探られたく無いし、本当のことを言ったところで中学生の妄想と片付けられておしまいだろう。都合がいいので僕は黙っていた。

学校で僕がやることは、机に突っ伏して寝ることと、昼食を取ることだけだ。今更中学校教育をされても何の感慨も抱けない。ただ、寝るだけだ。たまに先生に指されて応える時と昼休み以外は僕は夢の中にいる。ヒカリはいい顔をしないが、眠いものは仕方無いのだ。たまにアスカが寝ている僕の背中に「僕はバカシンジです」などと書いた紙を貼り付けたり、罪の無いイタズラをする。ああ、中学校だなぁとやけに感慨深い。

気だるい学校が終わると、僕とアスカは綾波レイと合流し、ネルフへ赴く。そこで行うのはシンクロテストだったり、白兵戦の訓練だったり、タクティカルディスカッションと呼ばれる頭の体操のような戦術パズルだったりする。アスカもレイも異様に強くて勝てない。だから適当に流していたら真面目にやれとアスカが怒るので、僕は好きじゃない。

これらは日によってマチマチで予定は無い。一時間で終わることもあれば深夜までテストされることもある。

作戦部長は臨機応変と言うが、ぶっちゃけた話、行き当たりばったりだとしか思えない。ネルフにはまともなマネージャーがいないらしい。マネジメントができない組織は三流である。それなのに成り立っているのは個人の力量に縁る所が大きいんだろう。確かにゲンドウ、冬月、リツコ、ミサトと言った幹部の面々は有能らしかった。

週二回、この訓練やテストのない休暇がある。そう言う時は大抵、アスカに付き合わされて荷物を持つ派目になるか、それともケンスケとゲームセンターなり古本屋巡りなり、中学生らしい放課後を過ごすことになる。僕はゲームがからっきし駄目だ。40過ぎたおっさんにゲームやらすなと言いたいが、これも付き合いである。できもしないゴルフをやらされるのと大して変わらない。体力を使わずに済む分、ゲームのほうが楽ではある。

自分の預金通帳を見て驚いたのだが、シンジは8000万もの貯金を持っていた。毎月、末日に120万の入金があり、支出はほとんどない。使徒戦の後は多額の報酬金が入っているらしく、その全てを合計するとそんな金額になる。アスカは1億以上溜まっているそうだ。さすがは三歳からネルフ所属だけはある。レイはお金を使いそうもないし、一体いくら溜め込んでいるのだろうか。レイと結婚する相手はかなりの逆タマだろう。

カードの使用制限はあったが、現金として引き出す分に制限はないようなので、その中から2000万引き出して別口座にし、ミサト名義で新しくカードを作った。お陰で非常に裕福な毎日が送れている。

次の使徒の襲来がいつになるかはわからず、その点はまだ不安だったが、日々の生活に関してはもうほとんど支障が無い。そんなこんなで三週間。ここは実に楽しいネヴァーランドだった。



だが、そうそう上手くもいかないのが人生と言う不条理装置である。
不幸は突如、降り掛かる。偶然は何の感慨も無く、ただ無慈悲に僕ら人間を翻弄する。

それは本当に突然の出来事だった。



「いやー、ミユキちゃんってオッパイ大きいよね。この触り心地はなかなかないよーうん」

「やだー、シンジくんエッチぃ〜」

「げひょひょレロレロ」

僕の膝の上に座った茶髪で乳首の黒いセクキャバ嬢の乳房を揉みまくりながら僕は上機嫌でビールを呷った。30分6000円ポッキリコースを既に15分ほど延長している。久々に揉んだ乳の感触は実に素晴らしい。これで乳首さえピンク色なら言うこと無かったのだが、ミユキちゃんはまずまず可愛い顔をしているのでそれは小さな問題だ。

乳を触っていると急に風俗嬢ミレイちゃんの顔が浮かんで一瞬寂しい感情に囚われかけたが、パンツ履いてないミユキちゃんの股間に手を伸ばしてみた瞬間にミレイちゃんの顔は消し飛んだ。

「おー、濡れてるんじゃないの? これ。あらら、ミユキちゃん感じちゃったのかーひひひ」

「あーん、指入れるのは駄目なんだよー?」

「いいじゃんいいじゃん気持ちいいでしょ? んん? 僕上手い?」

普通、40のオッサンがこんなルール違反を犯せば女の子に真剣に嫌がられた挙句、強制的に店から追い出されるところだが、生憎今の僕は露骨にベビーフェイスと若さを売りにした碇シンジである。逆にお姉さん達には至極受けが宜しい。指入れようが舐めまわそうが自由自在である。さすがに挿入させては貰えないものの、セクキャバでこの待遇はVIPバリだろう。僕は十分満足している。

このセクキャバに来るのは二度目だ。最初は1人で来て、怪獣のようなオバハンに圧し掛かられて戦々恐々たる思いを味わったものだが、今回は加持を引き連れてのリベンジである。加持がこの子を指名すれば間違い無いと言うリストをくれたので、今回は実に楽しい。

当の加持はと言うと、さっきから膝に乗せた女の子の胸の谷間に顔をうずめて微動だにしない。うずめられている女の子は加持のお気に入りらしく慣れた様子で加持の頭を優しく撫でていた。裸にエプロンだけした女の子の胸に顔をうずめて動かない三十路の男。その様子は微妙に不気味だ。

加持の性癖はともかく、家にいてもガキ臭い少女一匹に勃起したちんちんも萎えすぼむ生活無能者一匹の性的には侘しい環境である。アスカは尻を撫でただけで包丁振り回す。歳の割に発達した乳を揉もうものなら多分、刺される。ミサトには近寄りたくない。酒臭すぎる。加持はよくあんな女を抱けるものだ。

この後、加持紹介の泡風呂に浸かる予定で、僕はもう有頂天なほど上機嫌だった。三週間ご無沙汰なのだ。そろそろ二つの金の玉が膨張して破裂しそうである。

手淫は嫌いではない。むしろ好きだ。しかしながらコンフォートマンションと言う我が家はネルフの社宅であり、盗聴器ビッシリな環境なのである。「はぁはぁはぁはぁはぁはぁうっ」などと言う盗聴テープを確認する保安部員はたまったものでは無かろう。そんな不幸な保安部員に配慮した結果、なかなかオナニーなどできないのだった。

だが、さすがは中学生。溜まり方が尋常ではない。僕はもうここ数日、そのことしか考えていなかった。

ヌケる! 三週間ぶりにヌケる! その思いだけが今の僕に正気を保たせていた。中学生と言うのもなかなか大変である。

「加持さん、そろそろ次の店を…」

「…」

「加持さん聞いてる?」

「…」

「僕を無視すると携帯電話のメモリーの三番目あたりに緊急コールが入ることになるんだが」

「…」

「……」

「…」

「ミサトさーん」

「うを!? お?」

辺りをキョロキョロ見回す加持。辺りにミサトがいないことを確認し、安心したようにまた乳房に顔をうずめようとする。僕は無言でその加持の髪の毛を引っつかんで引っ張った。

「ぅおぃててて! 何するんだ、シンジくん」

「話聞いてくださいよ。そろそろヌキたいんですけど」

「お…ああ、そうか。しかし、何だ。やはりソープは早くないか?」

中学生でセクキャバも十分早いと思うのだが。まぁ、都合が悪いことは言わない。黙ることと嘘を言うことは全く別の意味を持つ。営業の基本である。

「家でヌケない事情は加持さんもよく知ってるでしょう? ここは一つ、硬いこと言わないで下さいよ」

「そうか。まぁ、いい経験になるかな…」

名残惜しそうに乳に頬擦りしながら加持は立ち上がった。僕はミユキちゃんに一万円札をチップだといって握らせ、支払いを済ます為にカウンターへ向かった。

この店は入り口から中が見えないように黒い板で仕切られ、その裏側で支払いを済ませるようになっている。レジの前まで来て、領収書お願いしますと言った所で、僕と加持は仕切り板の向こう側で何か揉め事が起こっているらしいことに気付いた。

板の向こう側から「困りますよ!」とか「お客以外に中に入らせるわけにはいきません! プライバシーが」とか「警察呼べ!」だの不穏当なやり取りが聞えてくる。

それに喧嘩腰で応える言葉には聞き覚えがあった。

『警察ぅ? 構わないから呼びなさいよ! こちとらネルフ職員だっつったら警察なんて××××で×××で××××な連中、尻尾巻いてキャンキャン言いながら逃げてくに決まってるのよ! ほらさぁさぁさぁここを通しなさい!!』

非常に不適切な単語がバンバン飛び出し、仕切り板は今にも倒されそうな勢いでガタガタ揺れている。ついでに僕の隣にいた加持もガタガタとその身を震わせていた。と、言うことは間違い無い。加持レーダーはまず外さない。

ミサトだ! ミサトが来た!

間違い無い。薄い仕切り板の向こうには生活無能者にして加持キラー、ミサトがいる!

何て鼻の効く奴。今日は加持と漢同士で飲むと言って出て来ただけで、場所は言っていないのに、どうしてこの場所がわかったのだろう。加持が突然自分の上着をガサガサと漁りだす。加持の行動の意味が一瞬わからなかったが、僕はすぐにそれに気付いた。こう言うことには本当に抜け目無いミサトのことだ。その予感は恐らく当たっている。

やはり、それは仕掛けられていた。

…盗聴器だ。それに何かよくわからない小型の機械もついている。恐らく、これらで位置を探知されたのだ。

これは不味い。盗聴器があったと言うことは僕や加持がセクキャバで楽しみ、あまつさえそれをネルフ経費にしようと領収書を請求したことまで筒抜けだ。嫉妬怪人と化したミサトは飲み食いを経費で落とそうとした罪を最大解釈して私刑を執行しようとするだろう。この時、恐らくはこの大義名分のために僕まで私刑執行される。

ニヤニヤ笑うアスカの顔が浮かんだ。あのアマ、絶対に復讐の機会をうかがっていやがる。蛇のようにしつこいガキだ。僕と奴の間に何があったのかはまた次の機会に語るとして、とにかくアスカは僕に報復したがっていることだけは間違い無い。激怒するミサト、不在の僕と加持。この状況で奴が大人しく家にいるとは思えない。声は聞えないが、間違いなくミサトと共にいる。

逃げなければ。盗聴器を踏みつけた加持と顔を見合わせ、アイコンタクト。声を出して自分たちの存在を気取られるわけにはいかない。支払いを済ませ、すぐにもう一度店の奥へ引き返す。

「延長ですか?」

「いや、何だか表で揉めてるみたいなんで…巻き込まれたくないし、裏口使わせてもらえます?」

「ああ、ご迷惑をお掛けしまして…」

「いえいえ、急いでるんで、早く案内してもらえます?」

「ああ、どうぞこちらです」

加持が僕の機転に表情だけで「ナイス!」と応じた。現行犯以外なら後は何とでも言い訳が立つ。それこそ加持の諜報員としての腕を生かして盗聴テープを盗みだせば証拠隠滅もできないことではない。僕らはそそくさと裏口へ向かい、店員に見送られながら裏口のドアを開けた。ミサトも声を上げて揉めるとは僕らに逃げてくださいと言っているようなものだ。馬鹿め。僕は勝ち誇った笑みを抑えられなかった。

…甘かった。

そこには奴がうんこ座りで待っていた。言うまでもなくアスカだ。動きやすいスウェットスーツの上下を来込んで臨戦体制。こんなことだと思ったわとでも言わんばかりに勝ち誇った顔で、氷のように硬直した僕と加持を見上げている。

「二人共、不潔」

「ヒカリみたいなセリフ口にしやがって…望みは何だよ!」

アスカが大声を上げればミサトが三秒以内にやってくる。なぜかそれが確信できた。アスカが嫌な笑みを浮かべてニンマリ笑う。加持の顔が青ざめていく。多分僕の顔も今、相当青い。

アスカはスゥーっと息を吸った。

「ミサトォォォォ! 目標、発見!」

「うわぁぁ辞めろ黙れぇ!」

慌てて口を塞ぐも、間に合わない。暴れるアスカを加持が捕まえ、僕は咄嗟に持っていたハンカチをアスカの口に突っ込んだ。アスカがモガモガと何かいいたげに口を開いたが僕らは無視した。加持はそのままアスカを肩に担ぎ、走りだした僕の後を追う。僕は一も二も無く走っていた。

「加持さん! クソ加持! こっち逃げてくんなよ!」

「そうはいかないよ、シンジくん! こうなりゃ一蓮托生、付き合って貰う!」

「巻き添えは嫌だぁぁぁ」

「はっはっは、諦めろ!」

僕はアスカを担いだ加持を伴なって夜の繁華街を疾走した。人ゴミのせいで全力で走ることができない。しかしミサトが裏口に到達するその前に走り出せたのだから、時間の利がこちらにはあった。地の利もだ。僕らが全力で逃げられないのと同じようにミサトもこの人ゴミでは僕らを追うことは至難のはずである。

…甘かった。

背後から悲鳴と罵声が聞えてくる。ついでに銃声。振り返ると人ゴミがさぁとモウセの十戒よろしく、割れていくのが見えた。その中心に赤いジャケットを羽織った女性の姿。拳銃をこちらに構え、発砲しながら凄まじい勢いで走ってくるその悪鬼の名は葛城ミサトと言う。

「うおおお! ぉぉぉ…」

加持が足に銃弾を受けてもんどりうって倒れた。

しめた! 悪鬼ミサトは加持に気をとられて僕のことを忘れるだろう。逃げるチャンスは今しかない!

僕はもう振り返らずに全力で走った。繁華街にあれだけ溢れていた人々は蜘蛛の子を散らすかのように方々へ逃げようとして押し合い、倒れ、滅茶苦茶に混乱している。僕は真ん中にできた小さな隙間を息の続く限り走りつづけた。

逃げ切るのだ。逃げ切らなければ明日は見えない。

どれだけ走っただろうか。もう僕の呼吸器は限界を訴えていた。脇腹がキリキリと痛み、足はふらつく。

ついに僕は倒れこんで大の字になった。もう走れない。しばらくは、あと15分は無理だ。体が碇シンジの体で助かった。さすがに若い。少し休めばまだまだ動ける。

僕は繁華街を出て、何時の間にかコンフォートマンション近くの公園まで走っていたようだった。視界の端に見覚えのあるジャングルジムが見える。二週間前にアスカの髪の毛を掴んで引き摺り、張り倒した場所だ。だからよく覚えている。泣きながらごめんなさいを連発する彼女は小さく、とても小さく…

「もう、お疲れ? やっぱアンタ鍛え方足りないんじゃないの?」

「ヒッ…」

僕の視界一杯にアスカの顔。息を切らせてハッハッと荒く呼吸しているが、相変わらず嫌な表情を浮かべたままだ。自分の体を確かめる。駄目だ、まだ動けそうにない。

「ハァッハァッハァッハァッ…な、何だよ」

「ふふん、逃げる元気も無いようね」

「フウッフウッフウッ…いや、まぁ、ハァッ そうでも、ハァッハッ、ないよ」

「持久力足りないわね。さて、これ何だかわかる?」

アスカが取り出したのは黒光りする携帯電話だった。やけに大きなぬいぐるみをストラップにつけた少女趣味な奴だ。僕が持っている携帯電話と同型で、ミサトへのホットラインと言うべき特別な電話番号がメモリされている。

「ちょ、待て。待てって。話し合おう。な? 話し合おうよ」

「それはアンタの態度次第ねぇ〜?」

「足元見やがってきたねーぞ! …あ、いや、その、嘘です。嘘嘘」

「加持さんかわいそうに足撃たれてたわよね?」

「あ、あはは。後で始末書だよね、ミサトさん」

「アンタもどんな目に会うか…加持さんとあんな不潔な場所で…ねぇ?」

さらにニタリと笑うアスカ。何て嫌な奴! 僕は思わず口を抑えた。そんなことを今口走るのは不味い。

「…と、取引しようじゃないか。アスカの望みは何だよ」

アスカは満足そうに頷いた。普段、僕の譲歩を引き出そうと必死な態度とはうって変わって鷹揚に、尊大に頷く。くそー、こんな小娘に足元見られるなんて! 僕は情けなさで頭が痛くなった。

そしてアスカは僕の鼻先に人差し指を突きつけた。

「…もうあんな場所行かないって約束しなさい」

「は? 何でそんなのアスカに関係が・・・」

「えーっと、ミサトの番号は」

「嘘、嘘です! でも、理由聞かせてくれよ。僕の楽しみ奪うってんだからそれなりの…」

「気に食わないのよ」

「はい?」

「アタシが思い悩んで色々考え直したりしてる時に何よ! あんな不潔な…あんなトコで何してんのよアンタ!」

「だからアスカに関係な…えーと…ははは…続きどうぞ」

「ムカつくのよ! そーやって能天気にして! アタシにあんな偉そうに説教しといて、……せといて!! ごめんごめんって謝るアンタも気持ち悪くて大嫌いだったけど、今のアンタもムカつくわ! ムカツクのよ!!」

「僕は僕だしなぁ。僕がアスカの気に入る奴とは限らないしそうなる気も無いし。そんな努力は大抵の場合空振りに終わるんだよな。だから気が合わないならある程度割り切るしか…」

「ッ!…××××××、××××××ッッッ!! ×××××××××!!」

アスカはドイツ語だか何だかよくわからない言葉で喚きたて始めた。相当怒っていらっしゃる。感情を爆発させるとアスカは日本語を忘れてしまうようで、何が言いたいのかさっぱりわからない。ただ、非常に興奮していることだけはわかる。これほどお怒りになる彼女は見たことが無い。

あまり刺激したくないのだが、言わなきゃ自分でわかっていないだろうし、僕はそっと呟いた。

「ドイツ語わかんねって」

「××××××…×××!? ×××!! ×××ッ…ぐす」

ついに泣き始めたアスカ嬢。さすがに40年生きてると女の子の涙くらいでは動じなくなるものだが、一体なぜ泣くのかわからないことには、僕としても困惑するほか無い。本当に最近まったく訳がわからない。思春期の女の子と言うものは複雑である。おっさんには理解できない。

「ぐす、ぐす、うええ…」

「そんな本格的に泣くなって。泣くようなことしてないだろ、僕もアスカも。ほら、よしよし…」

「えええ…うええええ…」

「はいはい、わかったからわかったから…」

とりあえず頭をポンポンと撫でるとアスカは僕の胸に縋って涙と鼻水をこすりつけながら泣きじゃくった。僕は公園の芝生の上で大の字で、その上でアスカが涙鼻水全開で泣いている。変な絵だと我ながら思ったが、今はこのやかましい同居人のしたいようにさせるしかないと諦めた。

10分ほどして、ようやくアスカが泣き止んだ時には僕のシャツは色んな液体で湿りきっていた。このTシャツ結構高かったんだが。

「ひっく…ひっく…」

まだしゃくり上げているアスカは、やけに恨みがましい目で僕を見ていた。なにやら僕は彼女の逆鱗に触れ、彼女は泣く程怒ったと言うことらしい。

「まだ怒ってる?」

「ったりまえよう…ぐす」

「機嫌直せよ、ラーメン奢るし」

「…約束」

「…? 何の?」

「もう行かないって。あんなトコ」

「あー。ああ、ああ、わかった。約束する、行かないよ」

アスカは笑顔こそ見せなかったものの、機嫌を直した様子で頷いた。そしてすぐに、ラーメンを奢れと言いながら僕の腕を引っ張る。僕は心の中で次から見つからないように行くことにするよ、と約束を言い直して、立ち上がった。

「いつもの屋台ね」

「ええー、あっこ滅茶苦茶高いじゃん」

「男に二言は無いでしょ? ミサトに電話する? 明日になったら覚えて無いだろうけど、今ならさすがに飛んで来ると思うわよ」

「う…あああああ! わかった! わかったよ! 好きにしやがれ!」

この日の事件はこうして幕を閉じた。アスカはこの後金箔入りフカヒレラーメンなる屋台のラーメンとは思えない金額のものを注文し、僕は選択の余地無く普通の醤油ラーメンを食べたと言う以外に特筆すべきことは無い。

もう加持を誘うのは辞めよう、えらい目にあった。拳銃振り回しながら追って来るミサトに意味不明のことを喚きながら泣きまくるアスカに、それにヌケなかったし。




今夜はもう一度公園に来ることになりそうだ。公衆トイレにビニ本持込むしか、術は無い。










後書き

キャバクラはバイトの上司の奢りで行ったことあるけど、セクキャバは行ったことない。
でも、加持の性癖を持ってる奴いるっつうのは実話。

凄い怖い絵だとおもわね? 三十路過ぎた野郎が女の子の胸の谷間に顔うずめて微動だにしねーの。おもろいからパクった。


次回予告:
精神汚染されつつあるアスカを目の前に、シンジはゲンドウの制止を振り切って初搭乗の初号機を駆る。
弐号機の身代わりとなった初号機、そしてその中のシンジが見たものは…

次回メルヘン地獄 「逆汚染」

…お楽しみにしないでいいです。