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霞ヶ関の権威と権力
民主党の鳩山新代表の公約をみて驚いた。最初にかかげられている最重点項目は「霞が関から市民への大政奉還」である。もののたとえだとしても、21世紀の政策にこういう儒教思想が出てくるのは、彼の官僚機構についての認識の甘さをうかがわせる。
大政奉還という言葉は、倒幕派の「王政復古」の思想に対応する。儒教では「王道」に対して、武力で政権をとる「覇道」を邪道と考え、特に日本では万世一系の天皇が征夷大将軍を任命したと考える。いわば天皇がプリンシパルで幕府はエージェントだから、後者が前者の意に沿わない場合は解任するのは当然、という発想だ。ここで「奉還」されるのは天皇から委任された権力であって、鳩山氏が想定している国民主権ではない。
これは単なるワーディングの問題ではない。このようにして奉還された天皇の大権が、明治以降の官僚機構のよりどころだったからだ。鳩山氏がこのような日本の官僚機構の儒教的な性格に無自覚であるかぎり、霞ヶ関を本質的に変えることはできない。坂本多加雄も指摘したように、日本の官僚は西洋的なテクノクラートではなく、科挙以来の伝統を受け継ぐ儒教的な知識人であり、そこに彼らの権威の源泉があるからだ。
科挙についての解説書を読むと印象的なのは、テクノクラートとしての技術を問う科目がまったくないことだ。科挙の問題は時代によって変化したが、四書五経を暗記して解釈することと、詩を書くことという基本は変わらなかった。これは官僚としての実務能力を問う役には立たないが、彼がすぐれた記憶力・表現力をもつ文人で、国家の命令に忠実に従うことはわかる。
つまり科挙は、特定の専門的な成果(performance)を問う試験ではなく、任意の問題を処理する能力(competence)を問うシグナリングなのだ。この場合、問題の内容には意味がなく、それを解くコストが小さいことをシグナルできればよい。この伝統は日本の大学入試や就職試験にも受け継がれ、企業は学生がどんな専門知識をもっているかは意に介さない。偏差値の高い学生は、つまらない仕事でもこなせる順応性が高いことをシグナルしているのである。
いいかえれば儒教的な官僚は、ウェーバー的な専門人ではなく、「君子は器ならず」といわれたように、特定の器にはまらないで法律から文学まで幅広い教養をそなえたジェネラリストであり、最高の知識人なのだ。彼らの力の源泉は、許認可権などの法的な権力だけではなく、それが知的な権威と統合されていることにある。したがって優秀な学生は官僚になり、それによって官僚の権威が高まる・・・という循環によって、彼らの実質的な権威は政治家よりはるかに大きい。
このように霞ヶ関は、三権分立といった西洋的な国家機構とはまったく異なる独特な構造をもっている。それは法律の建て前では、立法府に従属する行政府でしかないが、実態は政策立案や立法の機能を兼ね備えた非公式の最高権力である。公務員制度改革で問題になった職階法にみられるように、法律が成立してもそれを50年以上にわたって無視し、明治以来の「高等官/判任官」のシステムを守ってきた。
しかし、かつては権威と権力が一致して安定していた霞ヶ関の力は、日本経済が成熟して彼らの「開発主義」的な指導を必要としなくなると衰えてきた。かつては天下りを求めた民間企業も拒否するようになり、「君子」としての生活が保障されなくなると、優秀な学生が公務員をきらう・・・という悪循環が始まり、権威と権力のmisalignmentが起こり始めている。霞ヶ関で最近よく聞くのは、「このごろの新人は文章が書けない」という嘆きだ。これは過渡的には危険だが、最終的には権力は権威(の低下)に従うだろう。
ただ100年以上にわたって蓄積されてきた霞ヶ関の「暗黙知」の集積は莫大なもので、政治家がそれに対抗することは容易ではない。GHQでさえ手をつけられなかった組織を、「大政奉還」なんてとぼけたことをいっている民主党が壊せるとは思えない。「官治国家」を倒す闘いは、大政奉還のような甘いものではなく、儒教的な意味での「革命」に近いからだ。
大政奉還という言葉は、倒幕派の「王政復古」の思想に対応する。儒教では「王道」に対して、武力で政権をとる「覇道」を邪道と考え、特に日本では万世一系の天皇が征夷大将軍を任命したと考える。いわば天皇がプリンシパルで幕府はエージェントだから、後者が前者の意に沿わない場合は解任するのは当然、という発想だ。ここで「奉還」されるのは天皇から委任された権力であって、鳩山氏が想定している国民主権ではない。
これは単なるワーディングの問題ではない。このようにして奉還された天皇の大権が、明治以降の官僚機構のよりどころだったからだ。鳩山氏がこのような日本の官僚機構の儒教的な性格に無自覚であるかぎり、霞ヶ関を本質的に変えることはできない。坂本多加雄も指摘したように、日本の官僚は西洋的なテクノクラートではなく、科挙以来の伝統を受け継ぐ儒教的な知識人であり、そこに彼らの権威の源泉があるからだ。
科挙についての解説書を読むと印象的なのは、テクノクラートとしての技術を問う科目がまったくないことだ。科挙の問題は時代によって変化したが、四書五経を暗記して解釈することと、詩を書くことという基本は変わらなかった。これは官僚としての実務能力を問う役には立たないが、彼がすぐれた記憶力・表現力をもつ文人で、国家の命令に忠実に従うことはわかる。
つまり科挙は、特定の専門的な成果(performance)を問う試験ではなく、任意の問題を処理する能力(competence)を問うシグナリングなのだ。この場合、問題の内容には意味がなく、それを解くコストが小さいことをシグナルできればよい。この伝統は日本の大学入試や就職試験にも受け継がれ、企業は学生がどんな専門知識をもっているかは意に介さない。偏差値の高い学生は、つまらない仕事でもこなせる順応性が高いことをシグナルしているのである。
いいかえれば儒教的な官僚は、ウェーバー的な専門人ではなく、「君子は器ならず」といわれたように、特定の器にはまらないで法律から文学まで幅広い教養をそなえたジェネラリストであり、最高の知識人なのだ。彼らの力の源泉は、許認可権などの法的な権力だけではなく、それが知的な権威と統合されていることにある。したがって優秀な学生は官僚になり、それによって官僚の権威が高まる・・・という循環によって、彼らの実質的な権威は政治家よりはるかに大きい。
このように霞ヶ関は、三権分立といった西洋的な国家機構とはまったく異なる独特な構造をもっている。それは法律の建て前では、立法府に従属する行政府でしかないが、実態は政策立案や立法の機能を兼ね備えた非公式の最高権力である。公務員制度改革で問題になった職階法にみられるように、法律が成立してもそれを50年以上にわたって無視し、明治以来の「高等官/判任官」のシステムを守ってきた。
しかし、かつては権威と権力が一致して安定していた霞ヶ関の力は、日本経済が成熟して彼らの「開発主義」的な指導を必要としなくなると衰えてきた。かつては天下りを求めた民間企業も拒否するようになり、「君子」としての生活が保障されなくなると、優秀な学生が公務員をきらう・・・という悪循環が始まり、権威と権力のmisalignmentが起こり始めている。霞ヶ関で最近よく聞くのは、「このごろの新人は文章が書けない」という嘆きだ。これは過渡的には危険だが、最終的には権力は権威(の低下)に従うだろう。
ただ100年以上にわたって蓄積されてきた霞ヶ関の「暗黙知」の集積は莫大なもので、政治家がそれに対抗することは容易ではない。GHQでさえ手をつけられなかった組織を、「大政奉還」なんてとぼけたことをいっている民主党が壊せるとは思えない。「官治国家」を倒す闘いは、大政奉還のような甘いものではなく、儒教的な意味での「革命」に近いからだ。
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民主党は若手にとても優秀な人がいるのに、上は大局観のない人ばかりになっているのでしょうか。与党は優秀な人でもしがらみで身動きならないというのはわかりますが、野党でこれでは話にならないと思います。
先日、どうしても話をあわせるため、「読んではいけない」の「資本主義はなぜ自壊したか」を読みました。シニョリッジの件も含め、めちゃくちゃな本だな(日本神話のところも何だか変でした)、どうしてだれ一人としてチェックする人がいないのか、不思議に思えました。
政策パンダに採用するときに箔つけに出版させるときは、しっかり見るようなのですが、もう見切った人については誰も手をかさない、本人等身大ということでしょうか。ちなみにパンダ新人の本で不用意な誤りが目立つのは、使い捨てにしてやれという、役所の本音を示しているよな気がします。
明治維新でも、実際には円滑に権力が「奉還」されたわけではありません。幕府の側は権力を奉還しようとしたが、倒幕勢力は武力によって制圧し、廃藩置県などによって幕府の権力機構を根こそぎ壊してしまいました。儒教的な基準でいうと、これは革命ですが、これだと革命後の王権には正統性がないので、維新という言葉を使ったわけです。
このように革命運動を「復古」と称するレトリックは、古来ありふれたもので、最近ではイスラム原理主義でおなじみです。この意味では明治維新を行なった倒幕派の戦略は大したもので、民主党も学ぶべき点があるような気がします。
の方が時代に相応しい。
それにしても、民主党は、選挙のたびごとに自治労・日教組のお世話になりながら制度改革ができるんでしょうか。
とりあえず、高額な公務員の年収を、自民党とタッグを組んで改めることことから、まずやってみたらどうでしょうか。
もし、民主党が政権を取ったとしても、わたりや天下り禁止のような公務員たたきばかりで、権力の奪取を行えないようだと、最悪だと思います。
それは単に、(現状でも高いとは言えない)官僚の金銭的な魅力を下げることになり、有能な人材は民間に流れる結果、さらに能力が劣化した官僚機構が依然として強力な権力を握り続けることになってしまうからです。
そうやって、権威が低下することで、「最終的には」権力もなくなるというご主張のようですが、それまでには相当の代償を払わなければならないような気がします。
鳩山代表はそのひどさを身を以て知っているはずなので、かなりの胆力が必要だと明言されていますが、実際に事に当たる議員たちはどこまでその謀略能力を知っているでしょうか?
この本の批評では、この辺りがなかなか。
http://critic6.blog63.fc2.com/blog-entry-18.html
(引用)
中谷巌は、われわれも学部で身に付けたその基礎が全く身に付いていない。自分で言っているとおり、彼は日本では勉強をしておらず、本来なら日本の学者が身に付けているはずの基礎的な知識や教養を修得していない。
>これは単なるワーディングの問題ではない。
今回のこの辺りも、同じような問題なのですかね。
確かに、大学卒業後、数十年経っても、学部レベルの基礎を盤石にし続けるというのは大変かもしれませんが。しかし、単なる一般人ならともかく、国の政策に携わるような人には、もうちょっと頑張って欲しいと思うことはあります。
なお、祖父の鳩山一郎氏は、フラタニティを尊重するフリーメーソンに所属していたとされます(ウィキペディア参照)。
もう多分来ないんじゃないか
彼はチャンスに恵まれたが、敵が分からなかった。
だから、のこのこ中国に行った。
オリンピックのギリギリまで訪中しなければ、戦後日本の膿が噴出しただろうと思うよ
誰の目から見ても分かるように。
安部は、ホントに無自覚だった。
日本中の評論家(元全学連)が金切り声を上げてヒステリーを起こしていた。
あんな光景は、生まれてはじめて見た。
日本のサナダ虫がはじめてのた打ち回った一瞬だった
「美しい国」も「友愛」も、利害対立の調整、という政治のリアリティを欠いている。政治が社会の規範まで操れるかのように発想するこの万能感は、一種の自己愛の産物ではないかと思います。
霞ヶ関を悪の帝国みたいに語れば、自分の中のヒロイズムは満たされるでしょうが、今回のエントリのような現実に即した分析は疎かになりかねません。
霞ヶ関の中にもいるはずの「ノン・ワーキング・リッチ」を一掃することに専念すれば、あえて抵抗しない若手官僚もいるような気がするのですが。
今は、党派を超えてあらゆる旧勢力(連合や右翼)と刺し違える覚悟こそ求められられているのに、なんだかなあという感じです。
何とか明治維新になぞらえると、小沢一郎氏は西郷隆盛氏にあたるかもしれません。鹿児島の出身で京セラの創業者である稲盛和夫氏が民主党の支持者であることも、何らかの因縁があるのかもしれません。
しかし、フランスの"Liberté, égalité, fraternité"にしても、似たものとしてはフェビアン協会のfellowshipにしても、エゴイズムや対立とバランスをとるための、融和や調和、団結の必要性をアピールする言葉として使っているように感じます。バランサーとして。なので、フェビアン的中道路線と社民的なパターナリズムにはマッチしているかもしれませんが。
ただ霞ヶ関とは組織と組織の闘いだから小沢氏個人の力ではだめで、党組織が重要です。この点では「万年野党」の末裔がたくさん残っている民主党の組織は弱体です。政策立案だけではなく、彼らの武器である法律の使える人材(官僚OBなど)をリクルートしないと、とても闘いにならないでしょう。なにしろ敵は、公務員制度改革のときのように、政令で法律を換骨奪胎することまでやるんだから。
今の民主党は「政権取りたい、取らせてください」とお願いするばかりで、そのためならばら撒きでも何でも「やらせていただきます」モードです。「国民が苛め抜かれている」などと社民・共産ばりの物言いは、自民より酷いポピュリズムを感じます。まあ、党首に鳩山氏が選ばれて自民関係者は安堵の表情を浮かべているので、次の選挙では民主が手痛い敗北を帰してやっと目が覚めるかな?
「国家に懐疑的」と言う意味での保守党が日本には必要ですね。それは万年与党に「接木」してできるはずも無く、本当は自民と民主双方から新自由主義的な議員が独立して政党を作るのが筋だと思いますが、それをやると政治的(選挙的)には完全に不正解になってしまうんですかね?
霞ヶ関の権威と権力の全体像を、根っこから、あぶりだし、公衆の目にさらすことが、必要でしょうね。
高橋洋一さんも、無事ではないですが(笑)、放免されたようですし、池田さんともども、また活躍して頂けると面白いんですけどね。
A Futurist's blog
http://ft2007.blog112.fc2.com/
あ、あと、それを支える活字メディア(新聞と出版)という方たちもいましたなあ。
やっぱ、希望はネットか!?
官僚の作り上げた仕組みは強固なので権力が権威の低下に追いつくにはかなり時間がかかります。
そこで、政党にもっとお金が回る仕組みを作って、政党に知識が集めることで権威を高めることが必要なのではないでしょうか。
相対的に官僚の権力低減に拍車をかけられることができると思います。
そう考えると政党に交付金として国経由ではなく直接国民からお金が渡る形すなわち寄付・献金の拡充が大事になってきます。
日本には寄付文化がないといわれますが、源泉徴収をやめて皆が確定申告するようにして、一定額まで寄付を損金参入できるようにすれば、お金の流れが大きく変わると思うのです。
寄付が一般化すると、政党だけではなく、NPOなど市中にお金がもっと回るようになることで知の権威のあり方に大きな変革が生まれると思うのですが、世間ではなかなかそのような議論が出てきません。
もちろん納税者番号の議論がネックではありますが、そのメリットに比べてデメリットは些細なことだと思います。
いかがでしょうか。
いまではそういう後ろ盾もなく、なんの力もありません。ただマスコミが剛腕、選挙に強いなどとはやしたててるだけと思います。社会党系、労組系の議員のいる民主党では、内通者さえ出かねないでしょう。
制度改革を期待しても無理じゃないでしょうか。とはいうものの、小沢氏がやると言い、できるんならそれに越したことはないと思っています。
NHKを見ても分かるように、今の官僚組織はいずれ共産化する。ノンキャリが必ず浸透されると思う。今だって、共産党に国家機密がだだ漏れ状態だから、相当なもんだと思う。
近代的国家は、どこも宗教侵略への防護装置を持っている。イギリスは国教、フランスは政教分離、ドイツは密かに神聖ローマの正統、ロシアはロシア正教。
明治日本も江戸時代からの檀家制度と天皇制で荒波を凌いだが、マルクス主義でついに沈没した。
官僚制からうまくマルクス主義を除いて、次に、外国からの「普遍性の衣を着た思想工作」に耐える制度を作らないと。
思想工作への標準的な対抗策は、批判的思考(クリティカルシンキング)・テキスト分析読解だと思います。
私も同じように感じました。
Liberté と égalité は必ずしも相性が良い場合ばかりではなく、「小さな政府か大きな政府か」などの対立に至る大元であったりするので、緩衝材としてのfraternité を入れてバランスを取っているのかな、と思っておりました。
してみると、鳩山氏の感覚も、そのへんのバランスを重視した「第三の道」的な色合いが強いのかな、とも思えます。(たとえばBlairの労働党政権のような)
そうすると、池田さんのような方が世に出る機会もつぶされかねない!
京大に至っては、官界でも決して主流ではありませんから。(むしろ官僚的世界を嫌う人が多いところかと)
政策の立案、法案の作成(省令なども含む)を政治である程度できるようにする仕組みを作れば良いように思えますが、それが難しいのですか?
簡単なら既にやっているか。
急には無理でしょうから、徐々にそうなるような政策を取ればよいと思うのですが。
日本の場合、シンクタンクがダメなのかな?
民主党も呑気に賛同している法案じゃないと思ういます。
参考:著作権法の一部を改正する法律案 http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/171/1251917.htm
ただ、RobespierreもBlairも、そのような「調和」なんて結局不可能だったことの実例でもなんですけどね、多分オバマも民主党もそうなる?
東大・京大を潰すという発想よりも
一流国公立・医学部に入るのに「英語と数学」を極めなければいけないとゆー
入試科目を変えたほうがいいんじゃないですか。
「英語と小論文」とか「数学と小論文」とか「英語と数学と小論文」とか
そういう組み合わせでも受験可・入学可にすればいいんです。(大学院は可だが)
東大の文学部に数学なんていらないじゃないですか。
昔、村上春樹が仮面浪人して京大(文)を受けて失敗した(あきらめて早大に行った)けど
「学部入試の時点で、天才を検出できないような入試制度」なんて完全なナンセンスですよ。
(村上春樹は理系科目がパーのため)
なんのための東大文学部ですか。
入試必須に「英語と数学」を課している限り、そのような事例が頻発するわけで
その入試を過去60年続けている日本はしょうもないです。
どうも「英語と数学」のどちらかが欠けていたら、
エリートになれない(医師になれない)という後進国限定の入試制度が
この国のエリートの才能の幅を大いに狭めている気がする。
こうした能力はその後就職してからも生かされ、官僚のみならず大企業の「正規」従業員として活躍することになります。組織の根底を揺るがすような根本的な提言はせず、空気を読み(本音と建前を理解し)組織にとって心地よいほどほどの成果をだす(または努力ごっこをする)。
日本企業はすり合わせ型の改善が得意なのも、採用が新卒純潔主義なのも、能力的には派遣社員の方が上でも無能な正社員が君臨するのも、パフォーマンスではなく人脈で仕事が取れるのも、(組織再編をともなう)IT化が進まないのも、全ては官僚的な権威主義で説明がつくような気がします。
しかし、こうした優雅な権威主義を維持するには今の世界はあまりにもボーダレス化し、テクノロジーはあまりにも発達しすぎたと言う事でしょう。古い制度と新しい制度が混在し、炎症を起こしているのが現状ですから、そろそろ腹をくくって古い制度と決別しないと、全員が消耗しきって再起不能になると思います。
シンクタンクの収入源の多くが霞ヶ関の管理する税金や競輪などの収益金というところに問題があるのでしょう。
法案作成は単なる作文ではありません。データなしにはできません。国家議員はたとえ与党議員であってもデータに自由にアクセスできるわけではありません。
データの官僚独占を打破するところから始める必要があります。
ワーディングの問題かもしれませんが、それにしても奇妙な例えですね。私もこのコメントをテレビで見ていてなんとなく違和感を覚えました。
現在の日本は国民主権であるのだから、新憲法が発令された時点で「大政奉還」がなされたとみなして良いのではないかと思います。それはまさしく「革命」的出来事ではありました。
当然新党首にもこれぐらいの認識はあろうと思いますが、官主導の政治からの脱却をいうのなら、「これ以上の官の専横を許さない」とストレートに言って欲しかった。
法律作成のリテラシーをもった人材のリクルートについては、まったく同感です。せっかく苦労して作った法律が骨抜きにされるのではたまりません。そんなことを許さないためにも人材確保はしておくべきでしょう。
>RobespierreもBlairも、そのような「調和」なんて結局不可能だったことの実例でもなんですけどね、多分オバマも民主党もそうなる?
どうなんでしょうか・・・
ロベスピエールの恐怖政治は、それまで溜まりに溜まった階級社会の矛盾への怒りの爆発であり、ブレアの失敗はブッシュの言葉に乗ってイラク戦争に参戦したための支持率低下が原因かと。
オバマ政権がどうなるかはわかりませんが、鳩山民主党はかなり社民的かつ妥協的というか総花的な政策を取りそうな感じは致します。彼の「友愛」という言葉は暗示的です。
やはり、積極的なバラマキ政策を続けて沈没するのか・・・
>なんのための東大文学部ですか。
まあ、天才は東大なんかに行かなくてもいいんですよ。
村上春樹だって早稲田が入れてくれたんでしょ?
要するに東大偏重だからいけないだけであって、早慶を初めとした他大学がもっと幅を利かせるようになれば問題ないことです。(官界以外は既にそうなりかかっているかも)
なお、文学部は文学だけをやっているわけではないので、高校数学程度は多少はできる人材を選んで入れることにも、それなりの意味はあります。ま、そういう個性の大学も少数あっても宜しいのではないかと。
>この政権が2年も続けば、現行の官僚独占は崩れ、必ず新しい価値観が生まれてくるはずです。
1994年当時の小沢一郎氏と大蔵事務次官・斉藤次郎氏の「国民福祉税」構想を思い出します。
もしその時、このラインでハナシがまとまっていたとしたら…
…多分今の、日本は明らかに違う国だったでしょう…
「霞が関から市民への大政奉還」と言うことで、官僚組織に、某首相が「官僚は使いこなせばよい」と言って彼らにウマク丸め込まれたように"御しやすい御仁"と言うメッセージを送ってしまった…
民主党の「敵」は自民党ではない。
自民党の後ろに隠れ、この国を管理しているアドミニストレーターの官僚組織である。
それらとの正面対決を厭うとすれば私たちは民主党に投票する価値はない。
市民に選ばれた議員による政府への大政奉還というべきじゃね。
できるかどうかはともかく。
ただ、今のままでは画竜点睛を欠くので指摘します。
×「それは法律の建て前では、立法府に従属する行政府でしかないが、実態は政策立案や立法の機能を兼ね備えた非公式の最高権力である」
○「それは法律の建て前では、内閣に従属する執行装置でしかないが、実態は政策立案や立法の機能を兼ね備えた非公式の最高権力である」
三権分立の建前では、行政府は立法府に従属しません(分立している)。
しかし、役人が、本当に「君子」で、利己心を捨て、公共に尽くすなら、テクノクラートより遙かに望ましいとは思いますが……
(現在の官僚の問題は、利己心を隠さないどん欲さにこそあるでしょう)
>「学部入試の時点で、天才を検出できないような入試制度」なんて完全なナンセンスですよ。
いや、それって村上春樹には京大も東大も、結局いらなかった、ってことでしょう。
ぶっちゃけ、早稲田すらいらなかったんじゃないかな。ほとんど通学してなかったそうだし。高卒で独学でも、彼の才能は開花したでしょう。
日本の文化面で世界で評価された人と言うと、文学だと東大卒が多いですが、映画なら黒澤明は中卒、北野武は明治中退。アニメなら宮崎駿は学習院。漫画なら手塚治虫は医専(阪大に吸収)だけど、藤子不二夫や鳥山明は高卒。ゲームなら、宮本茂は金沢美術工芸大学ですね。
もし、「天才を検出できる入試制度」があったとして、藤子不二夫や鳥山明がそのチャンピオン目指して入試に励み、東大に入っていたら、彼らのヒット作は生まれたでしょうか?んなわけないですね。励めば励むほど才能は枯れ、学歴が高ければ高いほど、大学や大学院で無為に費やす時間が増えただけでしょう。
天才を育てる・見出すには、事前に天才の何たるかを理解できる超人が必要ですが、現実にはそんな人はいないので、天才を作る教育も、天才を検出できる入試制度も、世界中どこにも存在しないし、それを目指せば目指すほど、逆に天才を潰す教育・天才を排除する入試制度になっていきます。
論語にも「上知と下愚とは移らず」といいますが、我々凡人にできることは、上知(天才)を育てることでもなく検出することでもなく、彼らの邪魔をせず、才能のあるものが公平公正に評価され活躍できる場を用意することだけでしょう。年功序列・終身雇用・既得権で埋め尽くされ、借金を次世代に回す社会ではなく、自由で活力のある社会を。そうでない限り、例え世界中から天才を検出して集めようが、皆、「理系でドクターを出ても500万円の補助金をつけなければ就職できない社会」の前に砕け散るだけです。
旧帝大以上の全ての国立大が文系学部に二次数学を課すのは愚行です。数学センスが皆無の村上春樹や吉本ばななは東大に「絶対に」入れないでしょ。その時代の天才が入学できない東大文学部なんてあってはならない。2流以下の才能が優先的に入るのはおかしい。入試科目はアラカルト選択方式にするべき。
理数を必須にすることで、本来「自己表現」「芸術」のジャンルの研究をする純文学専攻志願者まで「数学がバカだから」という理由で断念させるのは文化の損失です。音大・美大の入試に基礎解析があったら変でしょ。東京芸大の先端芸術表現科なんて、絵が描けなくても小論文で入学できるのにね。文部官僚よりは芸術家のほうがはるかに考え方が本来的で柔軟ですね。
文学部は、文学(やそれ以外)を研究するところであって、作家になる人が行かなきゃいけないわけではないと思うのですが・・・。
東大東大というけれど、北京大学の入試競争の方が百倍も大変ですよ。
「天才だから大学教育は才能の開花・成功と関係がない」というのは結果論です。私が言っているのは(1)国立大に文学部が存在し、(2)そういう専攻の研究者にどういう資質の人間がふさわしいか?という問題です。
>もし、「天才を検出できる入試制度」があったとして、藤子不二夫やそのチャンピオン目指して入試に励み、東大に入っていたら、彼らのヒット作は生まれたでしょうか?んなわけないですね。励めば励むほど才能は枯れ、学歴が高ければ高いほど、大学や大学院で無為に費やす時間が増えただけでしょう。
村上春樹は京大目指して仮面浪人しながら早稲田に7年通ったそうですが(笑)。ほとんどの国立大には文学部が存在し紀要論文も生産されています。文学部の先生になるのにも、東大卒は何かと就職に有利です。プロの作家は天才でなくてはなれませんが、その一人の作家をめぐって数百本の紀要が書かれるのが大学文学部です。そういう専攻の研究者にふさわしいのはやはり作家に一番近い資質の人間では。大学を離れたところで研究はできないし論文も書けない(参照:筒井康孝『文学部唯野教授』)
>天才を育てる・見出すには、事前に天才の何たるかを理解できる超人が必要ですが、現実にはそんな人はいないので、天才を作る教育も、天才を検出できる入試制度も、世界中どこにも存在しないし、それを目指せば目指すほど、逆に天才を潰す教育・天才を排除する入試制度になっていきます。
文学部の専攻は詩や戯曲を研究するところですが、なぜ入試に二次数学が必須なのか。欧米の一流大では考えらえない入試制度です。欧米って医学部に入るのも理科系科目は必要ないのですよ。学士号が「哲学」でメディカルスクールを出て正規の医師になれますからね。日本の場合は医学部で文系科目だけで入学できる学校はありませんが。
>我々凡人にできることは、上知(天才)を育てることでもなく検出することでもなく、彼らの邪魔をせず、才能のあるものが公平公正に評価され活躍できる場を用意することだけでしょう。
権威と評論の威力を甘く見てはいけません。作家が天才でも、論評する側(権威)に才能がかけらもない場合、必ず作家のほうが潰されます。一流の才能を見分けるのにも二流の才能が必要でして、だからこそ大学(権威の象徴のような場)に本当にの資質のある人間が一定数存在している必要があるのです。
それが東大の(没個性的という)個性ないし特徴なのでは?
むしろ、東大や京大がそういうことにこだわっている隙をついて早稲田や慶應などの他大学が活躍する余地があるわけで、そういう点に注目する方が建設的なのでは?
なお、他学の学部卒業者が東大や京大の院に進学することも当然可能ですし、現にそういうルートを選ぶ人達も結構いますよ。(この場合数学はいりませんね)
それから、「旧帝大以上の全ての国立大が文系学部に二次数学を課す」ってのは本当ですか? 東大と京大がそうだったのは覚えてますが、他の旧帝大は違ったような・・・
いずれにせよ、文学部の二次試験の数学なんて数IIまでだし、難問は出ないし、たいして問題にはならないようにも思うんですけどね。他教科での挽回という手もあるし。
(そんなこと言ってたら、「天才は日本の高校を卒業できないから、日本の高校の制度はおかしい」てな話にもなりかねない・・・)
「霞ヶ関」とシンボリックにまとめてしまうと、その中の実態が分かりにくくなりますよね。現実の社会と同じで、30代以下の官僚にとっては、今の構造を維持していくメリットはもはや実感できないのかもしれない。
巨大に見える敵を弱らせるのは、まず分断工作、ということもあります。組織としての生産性を挙げるために、未来のある若手を引き上げて、重荷になっている中高年を追い出すのが、官僚たち自体も救われる道なのかもしれませんね。
なお、文系でも、天才的な才能のある人たちにとっては、東大をやめたことがむしろ勲章になったりするようです。(夏目漱石をはじめ、いろいろと)
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