呉市海事歴史科学館大和ミュージアムに関する疑義
第2章
第3章
第2章 呉市から仕掛けてきた戦艦大和の歴史捏造問題 に関する疑義
第1節 歴史を捏造する科学者 戸高一成氏について 佐伯邦昭
・ ア 中国新聞呉支局の評定 ・ イ 呉市長名によるメール文 ・ ウ 大和の向き をめぐる混乱 ・ エ 館の職員も昭和20年2月入渠とは書かない ・ オ 戸高一成氏は歴史を捏造した ・ カ 科学者及び公務員たる館長の資格があるのか ・ ア 中国新聞呉支局の評定
中国新聞呉支局は、右の赤線の箇所のとおり呉市海事歴史科学館の戸高一成館長を戦艦「大和」研究の第一人者として知られると書いています。
「知られる」ということは、艦船史に関係する科学者間でそのような評価が定着しているものと思われます。
WEBによる戸高一成氏著作の筆者紹介をみると、氏は、多摩美術大学卒業後、財団法人史料調査会主任司書、同財団理事、昭和館図書情報部長を経て、現職に就任し、専門は日本海軍史・書誌学であります。大学の時に著名な海軍艦艇研究家故福井静夫氏の薫陶を受けられたそうで、戸高氏はその遺産で名声を得ているに過ぎないという人もいます 。
その真偽の程は別として、戦艦「大和」研究の第一人者という評定に沿い、以下、その前提で話を進めます。
・
イ 呉市長名によるメール文零戦修復問題で真相を語らない海事歴史科学館サイドの態度に業を煮やして呉市長の公式ホームページへ何度も投稿し直訴しているうちに、2005/06/25 に小笠原市長名で回答が来ました。公式なものですから、海事歴史科学館が原稿を書き、広報部門がチェックし、市長が目を通してのものであることは当然です。それが組織で すから。
呉市長からのメール (ホームページ呉市長の部屋より)
2005/06/25
このたびは、「市長への電子メール」をお寄せいただき、誠にありがとうございました。あなた様からのご意見・ご提案について、次のとおりお答えいたします。今後とも、みなさまに信頼される市政をすすめるため、お気づきの点をお寄せくださ るようお願い申し上げます。
呉市長 小笠原 臣也呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)について
お陰をもちまして、4月23日にオープンして以来、連日予想を遥かに上回るお客様を全国からお迎えしておりますが、佐伯様には、5月の連休中に当館にお越しいただいたとのことですが、連休中は大変混み合いまして、ゆっくりご覧いただけなかったのではないかと心苦しく思っております。
さて、10分の1戦艦「大和」や零戦などの展示資料につきましては、当時の乗組員、パイロットを始めとする関係者の絶大なる協力や、写真や映像等の確認により、当時の状況を忠実に再現しておりますが、今後も更なる調査研究を行ってまいります。
また、10分の1戦艦「大和」のエントランスに向っている向きにつきましては、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますので、ご理解の程よろしくお願いします。
これからも、大和ミュージアムが皆様に信頼され、親しまれる科学館になるよう、努めてまいりますので、よろしくお願いいたします。
なお、この度、市長へのメールとして初めていただいたものであり、本文をもって回答とさせていただきます。今後、展示内容等の詳細につきましては、海事歴史科学館へお問い合わせいただきますようお願いいたします。
この回答は、当方が何度も催促した零戦のことについてはさらりとかわし、一方で冗談交じりに皮肉った戦艦大和模型の置き方については詳しく釈明をしてきました。それで、これを公表しましたら、すぐに艦船に詳しい方から大和の入渠の時期がおかしいという指摘が来ました。
聞いてみると、昭和20年2月入渠というのは、これまでの大和行動の定説を覆すものであり、それを戸高一成氏が打ち出したは極めておかしいというもので、これは零戦問題に匹敵する重大疑義に発展しました。
これまでの定説は、戸高一成氏自身の著書年表 を含めて‥
大和の行動を記載したすべての書籍において、大和は昭和16年12月16日竣工以来3 年3ヶ月余の生涯で、入渠はいずれも呉海軍工廠で5回となっており、その最終は、昭和19年11月24日〜20年1月3日です。 そうとすると呉市長回答文の中の昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますというのは上記行動年表にある最終入渠のあとにまた入渠があったということになります。
故吉田満氏は名著「戦艦大和ノ最期」の中で、昭和20年3月の最後の出港を控えた時期に入渠という噂もあったが、実は偽装であった書いております。「戦艦大和ノ最期」はいわゆる大和モノの嚆矢(こうし)をなす本であり、氏の記憶が鮮明な時期に執筆されたものですから信じてもいいのではないでしょうか。その他の文献やヒコーキ雲への艦船関係者からの投稿でも、呉軍港の旗艦専用26番浮標に繋留、もしくは丙錨地(2連のポンツーン)に繋留というものばかりで、入渠というものはひとつもありません。
大和が第4船渠へ入渠するときには渠口の石垣とバルジの間が左右が1 メートルくらいしか余裕が無く、また相当の海水を出すなどの大変な作業を伴いますから、1月3日に出してから、航海もせずにまた入渠させたとすれば、 そこに重大な事態が発生していたと考えなければなりません。しかし、そのような記録は 、すくなくとも既存資料には見当たらないと言っていいようです。
そこでこの新たな疑問への回答を求め、再び何度も催促をし結果3日後に次のメールが来ました。
呼び付け状
佐伯 邦昭 様
メールをいただき、ありがとうございました。いろいろと話し合いたいと思いますので、ご来館くださいますようお願い申しあげます。
平成17年6月28日
呉市海事歴史科学館これは出頭要請です。私は公開で質問した以上は、全国の閲覧者が呉市の対応を待っておりますので、1 人で出かけて館側と話をまとめて来る気なくお断りしました。すると次のメールがきました。
お宅へ伺いますと
佐伯 邦昭 様
現物を前にお話しをしようと思いましたが、ご希望ならこちらから佐伯様のところへ伺います。
平成17年6月29日
呉市海事歴史科学館来てくれと希望など言った覚えはありません。うしろめたい気持がないのなら、堂々と電子メールで答えてもらいたいので、これもお断り申し上げ、通説とは異なる大和入渠時期の根拠を、メール回答を求めました。
2005/07/01 のメール
メールをいろいろいただきありがとうございます。
メールだけではなかなか説明しにくいので、現物を前に説明しようと思っているだけでございました。
ちなみに、10分の1戦艦「大和」の向きでございますが、艦尾側が海になっております。したがって模型の向きは
ドックに入渠する入船状態となっているものです。呉市商工観光部海事歴史科学館
2005/07/09 のメール
メールをいろいろいただきありがとうございます。
エントランスに向かっている10分の1戦艦大和の向きにつきましては、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますので、再度お答えします。
また、零戦や海龍等につきましては、来館者の動線を考慮して、よく見ていただける位置に置いてあります。今後とも、ご意見がございましたら、直接、当海事歴史科学館へお寄せください。
呉市商工観光部海事歴史科学館
時期の新説は複数証言だとする回答
7月8日付及び7月9日付のメールについてお答えします。
昭和20年2月に戦艦「大和」が呉海軍工廠に入渠したことにつきましては、
当時の呉海軍工廠の職員及び乗組員の複数の証言によるものです。なお、改装・修理や整備で入渠するのは、「造船船渠」ではなく、「第四船渠」でありました。
また、零戦の発注に関する業者名簿や呉市科学館資料委員会の名簿につきましては、メールではお答えできません。
呉市商工観光部海事歴史科学館
更に
昭和20年2月に戦艦大和が入渠したことを証言していただいた関係者のお名前等につきましては、個人情報でもあり控えさせていただきました。
呉市商工観光部海事歴史科学館
敢て4本のメール回答を並べてみました。
・ ウ 大和の向きをめぐる混乱
回答中の「艦尾側が海だ」というのも苦し紛れのこじつけのように思えます。市長がわざわざ「エントランスに向かって」と前置きしている真意は、大和ミュージアムの正面玄関に向けて来館者に敬意を表しているということを言いたいのだと推察します。
一般に、海軍(海上保安庁を含む)は正客を桟橋から迎えいれるのが慣わしです。江田島の幹部候補生学校でも正面玄関は陸地の門ではなく桟橋の方です。つまり海軍で言うエントランスは海側なのです。大和ミュージアムで言えば陸地の玄関(JR 呉駅側)ではありません。だからこの理屈もおかしいです。
しかし、いずれにしろ逆光で写真撮影に困っている入館者にはそんなことは殆んど関係がありません。具体的な言い訳を聞かされる訳でもなく、ぶつぶつ言いながらもあきらめて艦尾側から順光で撮っておりますよね。よほど特殊な艦艇は別として特に軍艦は艦首側から観望するのと艦尾から見るのとでは印象に雲泥の差があります。
時代錯誤かもしれませんが、軍艦マーチだって、波頭を蹴立てて向ってくる印象があるからこそ口ずさんで出てくるのではありませんか。その艦首・菊の御紋章を薄暗い奈落の方に向けた展示は決定的なミスです。
私は、大和ミュージアムの建築設計コンセプトで省エネ等の観点から南側全面をガラス採光とした時に、大和の菊の御紋章側が物凄い逆光になるという予測がつかず、展示設計との十分な刷り合わせを怠ったのが最大の原因だと思っています。
・ ウ-1
『昭和20年2月に戦艦「大和」が呉海軍工廠に入渠したことにつきましては 、当時の呉海軍工廠の職員及び乗組員の複数の証言によるものです。』について私は、こういう文書を書く人間が歴史科学を扱う職員だということに唖然とします。こっちは、文献の証拠をあげて、2 月入渠説の根拠を問うているのに、2週間あまりも考えた末の言い訳が『職員及び乗組員の複数の証言』ですと。定説を覆す重大な要件について、たったこれだけの文句で相手を納得させようとするのですか。もっとも艦船学界ではこの程度の論理が通用するのなら仕方がありません。
・
ウ-2 『昭和20年2月に戦艦大和が入渠したことを証言していただいた関係者のお名前等につきましては、個人情報でもあり控えさせていただきました』について証言者の個人名を挙げてくれなどとはひとつも頼んでおりませんよ。すくなくとも20年2 月入渠説を市長名で公表させた以上は、証言を取り、それらの証言を裏付けるべく研究した結果でしょうから、内容を聞かせろと言っているのです。都合よく質問をすり替えないで頂きたい。それは戸高一成氏自身の著書の内容をも覆す
ことなのですから。・ ウ-3 『零戦の発注に関する業者名簿や呉市科学館資料委員会の名簿につきましては、メールではお答えできません。』について
零戦は別稿で詳しくやっていますが、あまりにもばかばかしい回答なのでちょっと触れておきましょう。検査して物品を受領し代金支出済みの事例において、呉市は業者名や支出額を公表できないのですか? じゃあ聞きますが、大和ミュージアムの設計監理業者、工事請負業者(特定建設・空調設備・給排水設備・電気設備・昇降機設備・大和1/10 模型建造工事)の名前もメールでは教えられませんか? 何やら工事現場にも掲げてありましたし、祝開館の地元新聞広告にもでかでかと出ておったように記憶しますが。
・ ウ-4 「また、零戦や海龍等につきましては、来館者の動線を考慮して、よく見ていただける位置に置いてあります。」について
零戦や海龍が来館者の動線を考慮して、よく見てもらえる位置に置いたのなら、なぜ大和を、ごく普通のカメラ好きの日本人が撮影に困惑するような向きにしたのですか。答えが主旨一貫していません。人々に見て貰う科学館として、あの逆光は致命的であることを、そう思っている多くの人たちの声を代弁しておきます。
・ ウ-5 『改装・修理や整備で入渠するのは 、「造船船渠」ではなく、「第四船渠」でありました』について
はい、艦船素人の私は船台ドックと修理ドックの勘違いなどありました。だから大和問題について、本気で呉市海事歴史科学館と問答するつもりはなかったのに、呉市のほうから仕掛けられたから、新たに生じた疑問は疑問として問いかけているのです。これは、航空史と同じことで、間違った歴史記述は正さなければならないという信念です。懇切丁寧に答えたらどうですか。
・ エ 館の職員も昭和20年2月入渠とは書かない
上記やりとりのおよそ1年後、2006年5月26日発売の双葉社「大和ミュージアム徹底ガイド 戦艦大和と連合艦隊 協力 大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) 」というムックが出ました。そのp149 に次のように書いてあります。
「1月3日呉工廠を出渠、瀬戸内海にて待機訓練 2月10日第2艦隊第1航空戦隊に編入 3月19日呉付近でアメリカ艦載機と交戦」
協力が大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) と銘記され、執筆者の中に呉市海事歴史科学館職員の斉藤善朗の名が見えるので、同館の公式見解とみなされます。 ならば、斎藤氏はなぜ昭和20年2月入渠説を書かないのでしょうか。あるいは、戸高一成館長はなぜ注意しなかったのでしょうか?
・ オ 戸高一成氏は歴史を捏造した
昭和20年2月入渠説を、小笠原市長に公言させ、その根拠は複数の証言によるものだと言いながら具体的な事実を立証でsきず、著書には、その説を書かせないという諸々の行動からして、昭和20年2月入渠説が歴史の捏造であることが明瞭になりました。
・ カ 科学者及び公務員たる館長の資格があるのか
まずは、戦艦「大和」研究の第一人者という看板ですが、このような根拠のない歴史を作文する人が第一人者とは、日本の 艦船研究者も地に堕ちたものです。自分で埋めた土器破片を発掘して名をあげた偽学者と同じレベルです。
また、呉市海事歴史科学館館長すなわち呉市職員としての資質ですが、地方公務員法第33条信用失墜行為の禁止規定に触れる可能性があります。戦艦「大和」研究の第一人者として招聘され、かつ大和ミュージアム盛況の渦の中でもてはやされ、 相当のおごりがあるものと見えます が、歴史を捏造する人間に地方公務員の資格はありません。呉市役所は速やかに処分を検討すべきです。
戸高一成氏が大和ミュージアム盛り上げの功労者の1 人であることは認めますが、嘘をつく態度に対し、呉市の中にはその功労におびえて館長に直言できる人材がおられないものとお見受けします。
第2節 米軍撮影の大和写真発表の大嘘 他人の発見を横取り 6
・ ア 記者会見をしてまで大々的に嘘発表 追随したマスコミの誤報 ・ イ これに関してコーキ雲に寄せられた2通のメール ・ ウ 報道発表のウソ 他サイトでも立証 ・ エ (財)日本博物館協会の研究誌へ偽りの上塗り ・ オ 読売新聞が戸高一成館長の嘘を間接的に裏付け ・ ア 記者会見をしてまで大々的に嘘発表 追随したマスコミの誤報
呉市海事歴史科学館は、2006年7 月3日、沖縄特攻の五時間前徳山沖で米軍のB29偵察機が上空から撮影した戦艦大和の写真を記者発表し、同日と翌日のテレビ新聞あるいは雑誌丸などで大きく報道されました。
しかし、これは嘘です。 既に5年前の空襲通信という冊子に、当該写真のことが発表されており、関係者には周知の事実でありました。左の記事のように大和ミュージアムが主体で見つけ出したのでは決してありません。
空襲・戦災を記録する会発行 空襲通信 第3 号 2001/08/11 発行 p39 の記載から
〜4 月6 日の戦闘任務第121 号は瀬戸内海と関門海峡の船舶航路の写真撮影を任務としていた。4 月6 日午前1 時58 分にグアムの北飛行場を離陸したF-13 は、午前10 時頃、徳山沖の北緯33°57′-131°45′で大和を発見した。筆者:徳山工業高等専門学校 工藤洋三教授
実際には、徳山工業高等専門学校の工藤洋三教授が米軍の作戦任務報告書及び損害評価報告書の膨大な資料の中から見付けたもので あり、呉市海事歴史科学館がこの存在を知ったのは呉戦災を記録する会の 一会員が持ち込んだことによるものです。
各社がスクープ扱いでこの誤報を一面などに大きく報じた中で、朝日新聞だけは33面の小さな記事 にとどめていました。それは、工藤教授に面識のある記者が疑問を感じて先生に問い合わせた結果だということです。
(それでも、朝日は大和ミュージアムの依頼で工藤教授が探したという誤りを犯しています。事情を正直に話すと迷惑を受ける人がでてくるというので、先生がぼかして答えたためだそうです。 )・ イ これに関してコーキ雲に寄せられた2通のメール
A さんから
徳山沖の「大和」の米公文書館所蔵の米軍空中偵察写真については、実は 2005年12 月に世田谷区の日大で開催された「地図と写真で見る日本の空襲 きく・まなぶ・つたえる」にて、呉軍港在泊時の時のものや横須賀軍港沖の空母「信濃」と共に、引き伸ばし版の写真パネルで見ることができました。販売もされましたが1枚数万円〜数十万円もするので、私は断念しました。
・ イ B さんから
徳山工業高等専門学校の工藤洋三先生による「写真が語る 山口県の空襲 米軍が記録した偵察・攻撃・損害」のなかに既に同じ写真が公表されています。奥付による発行日は8 月25 日となっていますが、かなり前から周南市の書店で販売されており、工藤先生が米国から持ち帰り編集印刷した期間を考えると相当の日数があるとおもわれます。(190 ページにわたって各ページに詳細な考証と解説つきの写真が掲載されています)
・ ウ 報道発表のウソ 他サイトでも立証
呉市海事歴史科学館戸高一成館長の偽りの発表については他サイトでも検証が行われています。
また鳥飼行博研究室サイトの 「戦艦大和天一海上特攻の真相」においても、大和ミュージアムが発見と書いたのは間違いであったとお詫びしているそうです。
岡崎鎮生さんの「真実・戦艦大和沖縄特攻 出撃前の戦艦大和発見を伝える中央紙が波紋をひろげた」http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/imperialfleet/yamato.htm をご覧ください。・ エ (財)日本博物館協会の研究誌へ偽りの上塗り
その後、戸高氏は日本博物館協会の機関誌へまことしやかなウソを寄稿しました。その内容を分析してみます。(財)日本博物館協会「博物館研究 3」 Vol.43. No.3 2008 から抜粋
コレクション 呉市海事歴史科学館 戸高一成
(問題点@)アメリカ国立公文書館(ワシントンDC)に行き、B29(問題点A)に依って撮影された大和の写真を入手した。(問題点B)この公文書館には、戦時中の偵察写寡などのオリジサルネガフィルムがそのまま保存されていて閲覧出来るのであるが、驚くことにそのネガフィルムは、一コマの大きさが新聞紙を広げたほど(問題点C)あり、これが数十コマ写ってロールになっているのである。この公文書館には、私は公用私用で10 回ほど通ったが、流石に、ネガフィルムー本を台車で運んでくるのを見たときにほ驚いたものである。同時に、このような資料まで完全に整理されていて、請求すればすぐに提供される機能に、言いようのな い羨ましさを感じたものである。〜 大和に関する写真であれば、どんなに小さくとも、部分的でも集める必要がある。このような意味から、昨年春には
問題点@
F-1 の新聞記事サンプルを見ていただきたい。各紙とも6月下旬に職員を派遣したと書いています。戸高館長自身が春に行って見付けたという発表ではありません。問題点A
B29 で間違いではないですよ。しかし、大和を撮影した時のB-29 の正式名称はボーイングF-13A 戦略偵察機です。後にRB-29A と改称されますが、アメリカへ出かけて調査する博物館館長ならこの程度の知識は持ってもらいたいです。問題点B
F-1 で明らかにしているように、写真は工藤教授が最初に発見したものです。仮に戸高館長が自身で入手したものとすれば、工藤教授が知人経由で入手方法を教えたことによるらしいと思われます。工藤教授は、 日本空襲に関する研究の過程で米軍の沖縄作戦に至る綿密な空襲と機雷敷設行動の基になる第3 写真偵察隊の記録をすべて踏破しています。その中から数百枚のフイルムを抜き出し、奇跡的に大和艦影を見つけました。海上のゴミみたいに見える艦隊の写真は、徳山湾の地形を熟知しているものでないと絶対に発見できないそうです。また、現物フイルムは他州の保管庫からワシントンDC へ運んで貰ってチェックすることになります。ワシントンDC の公文書館には現物は常置してありません。
戸高流にいとも簡単に「入手した」という表現は著しく誤解を与えるし、工藤教授に対する礼を失しています。
問題点C
揚げ足とりになるかもしれませんが、表現の問題です。戸高氏の表現 一コマが新聞紙を広げたほど そうなら16インチ×21インチとなる
実際には
F-13 搭載のK-18 カメラとK-22 カメラのネガサイズ 09インチ×18インチ
F-13 搭載のトライメトロゴン用カメラとK-17 カメラのネガサイズ 09インチ×09インチ実際には「新聞紙を広げたほど」よりもはるかに小さいことがおわかりでしょうか。これらのファイルムは高さが9.5インチ程度の円筒形の缶に入れてあるそうです。「新聞紙大のロールフイルムを台車で運んできた」とは、博物館の科学者にもあるまじき白髪三千丈式の誇大表現です。
戸高館長は公用私用で10回ほど通ったと言っていますので、行ったことはあるのでしょうが、自身が言う「2007 年春」又は新聞発表の「2007 年6 月下旬」に行ったのかどうかはきわめて疑問であり、仮にそうだとしても、自身で当該写真を新発見したのでないことは確かです。
まさか、ヒコーキ雲の指摘を受けて偽りを本物にするべく、事情を知らない博物館協会の機関誌を利用したのではあるまいか‥?と疑われても仕方がありません。 なお、この点に関して日本博物館協会へ抗議しましたが、筆者本人へ聞けとの答えがあり取り合ってくれませんでした。
・ オ 読売新聞が戸高一成館長の 嘘を間接的に裏付け
読売新聞の10月7日付西部本社版に「米偵察機がとらえたヤマグチ@」という大塚晴司記者による5段の記事が載り、大和の写真を徳山工専の工藤洋三教授が発見したものであることを詳しく述べています。そのさわりの部分は次のとおりです。
「これらの写真をワシントンの国立公文書館で見つけた徳山工専教授の工藤洋三さん(56)は 〜 1994年から私費で米国へ渡り 〜 国立公文書館とアラバマ州のマクスウエル空軍基地史料館などで、写真やネガフイルム、文書を一点ずつ確認。必要な資料に行き当たるとデジタルカメラで接写し、一日に2000回シャッターを切ることもある。〜」
記事には、戸高一成館長が発見したなどとは一行も書いてありません。
実際、佐伯が工藤教授に直接聞いた話でも、米軍戦略偵察報告書などを丹念にあたる中で、大和出撃の4月6日に四国から瀬戸内海を横断して撮影を行ったボーイングF-13の軌跡を知り、ネガフイルムをマクスウエル空軍基地史料館から取り寄せて貰い、ゴミみたいに写っている艦影を発見したということです。それも、徳山周辺海域の半島や島々の地形を知っているから特定できたものであって、他人ではまず不可能だろうということです。
工藤教授が持ち帰った写真は、空襲・戦災を記録する会から流れ、戸高館長がウソ発表するはるか前に日本大学で展示されたり、工藤教授の著書に掲載されたりしています。
戸高館長がウソ発表をしたり、ウソ原稿を書いたりするのは自分の売名行為以外のなにものでもないと推定せざるをえません。噂では、呉戦災を記録する会の誰かが大和ミュージアムに持ち込んだけれども、その人は非常に立腹しているとも‥
こういうことには、やっかいな人間関係がつきものですから、それ以上の追及はしませんが、工藤教授の名誉を著しく毀損している戸高館長の行為を、皆さんはどのように思いますか?
第3節 漫画チックなちぐはぐ 艦載機を積ん だままドック入り 7
2006年6月、大和1/10 模型を提案しながら志半ばで逝去された艦艇模型作家の河井登喜夫さんの遺作である零式水上観測機1/10 模型が展示されました。写真のとおり長さ95cm、幅110cmの見事な作品です。
大和も喜んでいるでしょうが、しかし、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲としては当然ながら釈然としません。それは、呉市長と戸高一成館長が、大和の展示は昭和20年2月に第四船渠に入渠した状態を示すと公言していることと矛盾するからです。
修理ドックに入れば艦上は資材や何かで大混雑状態になるはずで、艦載機をカタパルトに置いたまま入渠するなんてありえないことです。何も知らない観覧者を見世物で釣っているいやしい根性としか思えません。
ついでに、艦上には何種軍装か知りませんが、士官人形が2体置いてあります。艦の大きさを示すメルクマールのためでしょう。しかし、ドック入りでごった返している時に、このようなのんびりスタイルで甲板を歩いていたら工廠監督官から嫌みの一つも出るのではないですか?
私は、零水観の模型も人形も悪くはないと思っています。要は、艦の置き方を昭和20年2月に第四船渠に入渠した状態だなどと強弁することをやめてもらいたいのです。素直に、歴史捏造の非を認め、超逆光の位置に置いてしまって申し訳ありませんと頭を下げれば済むことです。
第3章 大和以外のもろもろ
第1節 でたらめな呉海軍工廠地形模型 2
元工廠職員の 須賀雄介氏から大型資料展示室にある地形模型について投稿
この地形模型を見て驚きました。何を参考にしたのか分りませんが、ざっと記憶をたどっただけで、次のような問題点が浮かび上がりました。
@ 「工廠第1〜第3門」とされているのは「工廠」ではなく「軍港第1〜3門」です。これが工廠門とすると海兵団・鎮守府などが工廠内にあることになります。軍港門それぞれには呉警備隊の衛兵詰め所があり、終日衛兵が立っています。
第1門は眼鏡橋(JRガード)をくぐった直ぐの所で、ここから入ってまっすぐ南に行くと工廠北門、(第4船渠のすぐ北)です。その他に工廠には東門、中央門、南門と計4箇所の門があり、そこには守衛詰め所があって出入りを厳重に監視しています。私は軍港第1門〜鎮守府前〜工廠中央門という経路で通勤しました。
A 電気部と水雷部の表示位置が逆です。
B 「呉工廠本庁舎」と表示のあるところは「総務部庁舎」のことです。この庁舎位置周辺が「工廠中央」とされ、ここより北を造船方面。南を造兵方面と呼んでいました。しかしこんな呼称は所掌範囲の広い総務部・会計部(特に材料課)以外では一般的ではないかも知れません。
C 鎮守府に隣接して「海軍経理部」や練兵場東側道路沿いには「呉軍法会議」があり、海兵団南に隣接して呉警備隊・呉潜水艦基地隊などがありました。
D 造兵方面の工場名表示が寂しいです。「大和」の砲身・砲塔・弾丸を作った工場位置の表示が無いのは「大和」が売り物のミュージアムの工廠地図としては無視できない手抜かりで、隔靴掻痒の感を禁じ得ません。
E 「製鋼部」とある周辺には第1〜3製鋼・電気製鋼・甲鈑・鋳造等の各工場があり、さらには砲熕部の砲身・砲身焼入れ・鍛錬・第2・3弾丸各工場、左端の魚雷実験部右には「第2水雷組工場」があり、さらに鋼材・窯業資材の置き場(露天)などがありました。
F 工員養成所・技手(ぎて)養成所の近くには「工廠神社」がありました。
参考までに「造兵方面」の思い出せる主要工場名・所在地を番号で示しておきます。
図の建物区切り、道路状況が実際と異なるので多少の思い違いがあると思いますが、大きい間違いはないと思います。
@ 水雷部第2組立工場 A 石炭揚陸岸壁 B 第2弾丸工場(以下「工場」省略) C 砲身焼入れ D 砲身(大和主砲製作) E この一角に第1〜3製鋼・電気製鋼 F 鋳造 G第3弾丸(大口径砲弾専門) H 甲鈑(大和の装甲製作?) I 砲塔(大和のも勿論)
J 砲架 K 筆者の所属部署 L 製鋼部庁舎 M 第3酒保(従業員用日用品・雑貨・菓子類等販売。こんなに大きくない) N 精密兵器 O 砲熕部庁舎 P 第1弾丸 Q 二次電池(主に潜水艦用) R 潜水艦岸壁(新造艦の電池搭載は必ずここで) S 電気部器具工場 (21 の一帯に水雷部組立・機械・銅・メッキ・縦舵機等の工場が密集している)
「水上機母艦日進」の文字が見えますがどう言う意味でしょうか? その下の「繋船堀」で日進の艤装はしましたが・・・。ここでは八幡丸・新田丸・シャルンホルストの3隻の空母への改装工事を行いました。
以上の様な投稿が寄せられて発表しましたが、2007 年7月現在、水雷部と電気部の表示が入れ替えられていほかは手が加えられた形跡はありません。実際に働いていた人が、その地形模型には疑問ありと声を発しているのですから、普通の博物館なら、その人に接触してもっと詳しくと謙虚に教えを請うのではないでしょうか。
須賀雄介氏がいい加減なことを言っていない ことは、当時の各工場ごとの職員バッジのデザインを記憶されていること等でも確かです。航空史探検博物館呉市を参照してください。
多少の改善
下記参照
第2節 投稿 科学者の名が泣く大和ミュージアムの展示 或る海事専門家 3
@ 金剛のヤーロー式罐に書いてある給水方法だと罐は壊れます
戦艦金剛に搭載されたヤーロー式ボイラー実物の説明に『給水ポンプ水ドラム→蒸発管→蒸気ドラム→タービン』とありますが、『給水ポンプ→蒸気ドラム→降水管→水ドラム→蒸発管→蒸気ドラム→タービン』としなければ、罐が壊れてしまいます。
つまり、蒸気ドラム→降水管→水ドラム→蒸発管→蒸気ドラムと循環させ管が重油バーナーの高温で損傷しないようにしてある訳で、これでは海事歴史科学館の科学が泣きます。
多少の改善 下記参照
A 回天10型試作艇
ハワイの中古車センターに飾られていた魚雷がいつの間にか回天10型試作艇となって展示! ハワイで想像でハッチと潜望鏡をつけたものを、マスコミが特殊潜航艇だの回天だの報じたため、京都の湯豆腐屋が購入して展示し、2002 年に回天10型試作艇として呉市に寄贈したシロモノです。外殻を想像で付けたものらしいです。実物の10型は完成せず、かなり謎があるのですが大和ミュージアムにはそんなことは書いてないですなあ。素人細工を本物に見せる欺瞞!
多少の改善 下記参照
B 戦艦大和の模型は海賊船か
模型の大和には軍艦旗が掲げてないから、国際法上は海賊船とみなされても仕方がありません。国際法上の軍艦(定義)公海条約第8条2項(国防用語辞典。防衛学会編)によると
(1) 一国の海軍に属する船舶であること。(2) その国の国籍を有する軍艦であることを示す外部標識を掲げること。(軍艦旗又は国旗)
(3) 政府によって正式に任命されてその指名が海軍名簿に記載されている士官指揮下にあること。
(4) 海軍の規律に服する乗組員が配属されていること。
ということで(2)が実施されていないので海賊船となります。ボランティアガイドは、うるさい連中が騒ぐから旗を掲げていないのだと言っておりましたが、艦首の菊のご紋章や載せてある零観の日の丸には文句をつけられないのかしら。うるさい連中もヘンな連中ですなあ。
多少の改善 下記参照
第3節 歴史の捏造など朝飯前の館だからこそできるお笑い一席 年号の単純ミス 4
潜水艦の説明板
そのクローズアップ
孫とおじいちゃんの会話
孫 おじいちゃん 太平洋戦争で日本が負けた1945 年は、昭和何年だったの?
祖父 昭和20 年だよ。そんななことも近頃の学校では教えないのか。
孫 教えてるよ。でも、あそこを見てよ。昭和20(1942)って書いてあるじゃないの。
祖父 ナニナニ うーん、なるほど、起工から竣工まで、ぜんぶ3年ずつずれておるのー。イ号401 潜水艦が1942 年 えーと昭和17 年に完成しとったら、晴嵐がパナマ運河を爆撃して戦況はぐんとかわっていたろうに。いや伊号は完成しても飛行機がまだ計画段階か? 待てよー 伊号も図面を書き始めた頃じゃないか‥
孫 おじいちゃん なにをごちゃごちゃ言ってるの?
祖父 ごめんごめん、科学館ともあろうものがこんな不見識な説明を出しおって、パンダみたいな大和10 分の1模型に釣られて来てみたが、ここは教育上良くないワイ。
博物館等の開設初期にはよく見られるうっかりミスです。寅さん流に言えば「知らせてくれた人にお礼のひとつも言って直しておけば済む事よ」です。しかし、ここまで大きく馬鹿にされて取り上げられるのは、 呉市の不誠実な対応、殊に大和入渠の歴史を捏造しそれを取り消そうともしない戸高館長のもとで動きがとれない海事歴史科学館にすべての原因があります。
改善 下記参照
第4節 魚雷の材質のうそ 投稿 5
九三式魚雷スクリューのレプリカ
大和ミュージアムの九三式魚雷実物
日本海軍の九三式酸素魚雷は、当時の世界最高傑作と言われています。大和ミュージアムのスクリューの写真を見ると、明らかに間違った加工をしているのが残念です。スクリューを真鍮色に塗装したように見えますが、もしそうだとするとこれは大間違いで、ホンモノは真鍮製ではなく鋼鉄(品種名不詳)の鍛造品をぴかぴかに仕上げ加工した物です。
実物は、ブレードの縁にはカーブは殆ど無く直線的で、羽子板の板の部分のように逆テーパーで角に丸味があります 。材質は明らかに鋼鉄製です。
艦船のスクリューは、長期使用するので耐海水性の強い真鍮(工廠にはこの名称は無く黄銅)製ですが、1回使用使い捨ての魚雷スクリューに貴重な 黄銅を使うなど断じて無く、この点は諸外国も同様と思います。その点でレプリカの真鍮は間違いです。
参考までに、呉海軍工廠で野積み状態だった魚雷
用スクリュー素材 をスケッチしてみました。このような形で色は焼き入れ地肌でチョコレート色。これを何工程かの繰り返し鍛造で原型ができますが、この鍛造時点でピッチ角は既に出来上がっています。図の対角線がブレード軸線になります。多少の改善 下記参照
付 2008年秋以降付 インターネット航空雑誌ヒコーキ雲の指摘を受けて改善したと思われるもの列記
● イ号401潜水艦説明板 下記の通り修正されていました。もちろん当方には一言も連絡はありません。
● 金剛のヤーロー式ボイラーの説明 専門家の指摘をうまく避けたような文章に変更 ● 公海条約第8条による国旗と軍艦旗が大和模型にも掲げられました。 ● 九三式魚雷 魚雷のスクリューには艦船のような真鍮は使わない、鋼鉄の削出しであるという指摘を読んだからでしょう。九五式二型魚雷のスクリューが真っ黒に塗られました。随分高価な真鍮をもったいない話しですが、これを設計製作した業者や担当職員へのペナルティはあったのでしょうかね。
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