昔の旅、その一

歌に詠まれた旅

万葉集には旅を詠んだ歌がかなりありますが、その中で当時の旅の様子を知る歌があります。

家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を、草枕旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る

これは万葉集の巻2、142にありますが、三十六代孝徳天皇の皇子の有間皇子(ありまのみこ、640〜658)が詠んだ和歌で、
家にいるときはいつも器に盛る飯を、旅に出ていれば椎の葉に盛ることよ

という意味です。しかし飯を盛る目的については自分の食事のためとする説と、椎の葉のような小さい葉に飯を盛るのは、皇位争いのワナにはめられ謀反を図った疑いで湯治中の三十七代斉明天皇(女帝、594〜661)により、大和から和歌山県の牟婁(むろ)の湯(現在の白浜温泉)に呼び出された旅の途中で、我が身の無事を神に祈ってする供え物であるとする説もあります。

この歌は今の和歌山県日高郡南部町岩代付近で詠まれたものですが、時は西暦658年のことでした。その当時、大和(奈良県、奈良市付近)から白浜温泉までの旅は四日かかりました。

孝徳天皇の一人息子でありながら伯母の斉明女帝に皇位を奪われた彼は、牟婁の湯(白浜温泉)から大和へ帰る旅の途中、現在の和歌山県海南市藤代で、斉明天皇の息子で従兄に当たり皇位を狙う中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の企てによって十九才の若さで暗殺されましたが、歌人としての才能が惜しまれました。従兄は望み通り天皇の位を継いで三十八代天智天皇(626〜671)となりました。

注:)
笥(け)とは容器のことで、主に飯を盛るのに使用しました。笥(け)は土師器(はじき)と呼ばれる茶色の素焼きの土器で作られたものですが、笥(け)に盛って食べたのは、上流階級の人達だけでした。なおその当時の人々は、一日二食の習慣でした。

当時(七世紀前半)の日本の社会風俗を伝えるものに、中国の隋の時代に書かれた隋書(ずいしょ)があります。その東夷伝、倭国の条の記述によれば、

倭国の食事は皿や食卓がなく、かしわの葉に食物を盛って手で食べる。
とありましたが、日本では昔から柏の葉は食物を包んだり盛るのに使い、今でも柏餅にその名残りを留めています。

防人という旅人

防人(さきもり)とは崎守(みさきもり)の意味です。律令制度のもとで朝鮮半島、大陸からの外敵の侵入を防ぐ目的で、九州北部の沿岸や、壱岐、対馬に派遣された兵士のことです。全国から徴募され任地に赴く防人たちは旅行の際に、官営の駅舎(後述)に宿泊できたものの、旅の途中で病気になり行き倒れてもそのまま放置されて死にました。しかし663年に朝鮮での白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が大敗すると、九州防衛の必要性が増大し、その結果防人に対する待遇が改善されました。

諸国から徴募された兵士が三年交代で勤務しましたが、天平(てんぴょう)二年(730年)からは、勇猛な東国の兵士だけに限るようになりました。

防人に行くは誰が背(せ、)と問ふ人を、見るが羨(とも)しさ物思ひもせず

こんど防人に行く人は誰のご主人?。夫を防人に徴募されない奥さんの気楽な言葉を聞くと、本当に羨ましい。その人は何の心配もせずにいられるのだから。

我(わ)ろ旅は、旅と思ほど家にして、子持ち痩(やす)すらむ我が妻(み)愛(かな)しも

防人に行く私の旅の苦しさは、旅をしているのだから当然だと納得もしよう。だが家に残って(留守の三年間)女手ひとつで子供を育て、苦労いっぱいで痩せてゆくであろう妻が哀れでならない。

家にあらば妹(いも)が手まかむ草枕、旅に臥(こや)せるこの旅人(たびと)あわれ

家にいれば愛する妻の手枕で休んだであろうこの人が、草を枕に旅の途中で死ぬとは気の毒なことよ。

最後の歌は聖徳太子(574〜622)が竹原井(たけはらのい)を訪れた際に、行き倒れになった死者をみて悲しんで詠まれた歌ですが、万葉の昔から旅は日常生活とは異なる不便で困難なものでした。

旅の主役は古代では寺社参拝などの為の皇族や貴族でしたが、中世になると武士階級や僧侶達がそれに加わり、近世になってからようやく民衆も参加できるようになりました。

庶民の旅が容易になる為には条件が整わなければなりませんが、その条件とは、

  1. 貨幣の流通

  2. 旅籠の整備

  3. 陸上、海上交通の安全と発達

の三つです。豊臣秀吉(1536〜1598年)が天下を取ると貨幣の統一を行い、それまで中国から輸入して使用してきた宗銭、明銭の他に金貨、銀貨を作らせました。これにより銅銭よりも価値が高い高額貨幣が携行可能となり、旅の支払いに便利になりました。それと共に貨幣の流通が進み、米などの現物を持参せずに旅ができるようになりました。

旅の移動手段

一般の人は当然の事ながら徒歩で移動し、支配階級の人は輿(あるいは駕篭)、車、馬などを利用しました。

蜻蛉(かげろう)日記の作者で後に摂政・関白夫人となった藤原道綱の母(936〜995)は初瀬詣でに(注1)二度行きましたが、その際には往復八十キロ足らずの道のりを、三泊四日掛けて牛車(ぎっしゃ)で旅をしました。

御所車 同じく平安中期に下級貴族であった菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)が書いた更級日記(1060年頃)によれば、父の任国である上総(かずさ、千葉県の中央部)から三年の任期を終えて京へ帰る際には車に乗って旅をし、川を渡る際は船に車を乗せて渡ったことが記されています。

馬に乗る旅行者 その当時、上総から京へ帰る途中に通った武蔵野の竹柴寺付近(東京都、港区、三田)の風景について

紫草(注2)の生えている所と歌では聞いていた武蔵野も、葦(あし)や荻(おぎ)ばかりが高く生い茂っていて、騎馬の侍が手にしている弓の先も見えないほどの茂りようだった。
と後に回想していました。

注:1)
初瀬(はせ、古くは、はつせ)詣でとは奈良県櫻井市初瀬にある、桜と牡丹の名所として有名な、西国霊場三十三ヶ所八番札所の長谷寺(はせでら)に祀る長谷観音に参詣することです。その当時は京の清水寺、大津の石山寺、初瀬の初瀬寺(長谷寺とも言う)の三寺は本尊として祀る観音菩薩への信仰が盛んで多くの参詣人がありました。

平家物語の「巻十二」には六代斬られがありますが、平家滅亡後の残党狩りで平清盛の曾孫子(ひまご)に当たる六代(ろくだい)が捕らえられました。かつて伊豆に幽閉中の源頼朝に平家追討の挙兵を勧めた文覚(もんがく)上人が、頼朝に対して六代の助命嘆願をしたため助けられ、出家して妙覚と名乗り三位(さんみ)の禅師とも呼ばれました。

しかし頼朝の死後は平家の嫡流である最後の血統を絶やすために、鎌倉幕府により斬られました。平家滅亡の折り十二才だった六代が、三十才過ぎまでも生き長らえることができたのは、生母、乳母が深く信仰した長谷観音の御利益に違いないと、その当時の人々は噂しました。

ところで藤原道綱の母とは、菅原孝標の女(むすめ)の伯母に当たる人です。

注:2)
紫草とはムラサキ科の多年草のことで山野に自生し夏に白い花をつけますが、根は乾くと紫色となり古くから紫色の染料に使用しました。

注:3)
上記の絵は滋賀県大津市、石山寺の石山寺縁起絵巻にある、石山寺に詣でる菅原孝標女(たかすえのむすめ)の絵で前を行く、人が引く車には恐らく孝標の女が乗り、侍女や供の侍は馬で後に従う旅の様子を描いています。

石山詣での人々で寺が特に賑わうのは、陰暦十月、甲子(きのえね)の日でした。

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旅籠(はたご)

旅には欠かすことのできないものに旅籠がありますが、旅籠の本来の意味は馬で旅をする際に馬の飼料を入れて運んだかごのことです(和名抄)。そこから旅行の際に人の食物や身の回りの品を入れて運ぶ入れ物の意味になり、時代と共に変化して旅人が食事をしたり休養する場所、即ち現在の宿屋の意味になりました。

宿屋ができたのは鎌倉時代(1192〜1333)以降のことですが、それ以前は律令制度(大宝律令701年、養老律令718年)により山陽道、東山道(東国への道)などの主要街道には四里(16キロ)毎に駅舎が設けられていて、兵部省の命を受けた係りの者が公用の使者、防人などの公務を帯びた旅行者には食事付きで駅舎に泊め、五位以上の高官(いわゆる殿上人)は、私的な旅であっても駅舎に宿泊することが可能でした。

しかし一般の旅人は営業用の宿屋が無かったため寺院や民家に泊まるか、野宿するのが普通でした。旅の枕詞として古文には上述の如く草枕がよく使われますが、その時代の旅の様子を端的に表現したものです。

旅籠の本来の意味が食物に関連付けられることから、旅籠あるいは宿屋と呼ばれるものは必ず食事付きでした。これに対して低料金で泊まれる木賃宿(きちんやど)とは、宿泊させるだけで食事を出さないのが決まりでした。宿泊設備も悪く旅行者は木賃(自炊用の薪の代金)と称する、少額の宿代を支払って宿泊し自炊をしました。

布施屋(ふせや)

奈良時代に薬師寺出身の僧であった行基(668〜749)は、のちに行基菩薩といわれた宗教家としての活動だけではなく、各地に架橋、築堤などをする社会事業家でもありました。旅人の便利を図るため、近畿一円に宿屋の原形である布施屋を作りました。布施屋とは資金労力の布施、提供によって建てられた宿泊施設のことで、行基の独力による事業ではなく、都周辺の豪族達からの多額の寄進があったに相違ありません。それらは京都の西の入り口である大江、恭仁京(木津川中流)の西の泉寺、摂津の伊丹付近の昆陽、明石の垂水、大坂(阪)の津森、枚方の楠葉、堺の東にある石原、木島、和泉の国の野中と、大和へ入る四方からの街道筋に作られました。

奈良時代には前述の如く営業用の宿屋が存在せず、「宿」とは自分の住居のことで「屋戸」と書きましたが、「家の戸」の意味でした。「宿を貸す」とはその人が住んでいる「家の戸口」を貸すということから、旅人に泊まる場所を提供する意味になりました。

善根宿

善根宿とは諸国行脚の修行者、遍路、経済的に困っている旅行者などを無料で泊める宿のことで、施行宿(せぎょうやど)つまり宿泊を布施する宿とも言いましたが、これには食事を提供する場合もしない場合もありました。善根宿については四国だけにあったのではなく、昔は全国各地にもありました。

旅の巨人とも言われ日本各地を歩き、村に生きる人々の姿を暖かく描いた「忘れられた日本人」などの民俗誌を数多く残した著名な民俗学者の宮本常一(1907〜1981)は、昭和の初期から昭和四十年頃までのフィールド・ワーク(現地調査)で全国の民家約一千軒に泊まりました。

その際に相手から宿賃を要求されたのは、僅か十軒前後だったと記録しています。民家に泊めてもらう場合には食事が提供されるとは限らず、自分で持参した米を炊いて貰うこともありました。善根宿に限らず無料で旅人を泊める風習が、昔から広くおこなわれていた証拠でした。

徳川幕府の政権が安定した江戸時代になると寺社参詣も盛んになりました。その原因は農業技術の進歩によって生産力が増強し、そのため経済的な余裕が農民の間に生まれたことにありました。とりわけ娯楽の乏しかった農村では、旅は開放感を味わうことのできる唯一の機会でした。信仰という理由で容易に旅に出ることが許されたからでもあります。

それと共に江戸から各地に通じる五街道(東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道)の整備や、参勤交代(1635年から)に必要な宿場をはじめ、宿泊設備の整備が行われるようになりました。それ以前は主に支配階級に属する者、商人、回国修行僧、辺地修行者、芸人などにより占められていた旅も、次第に庶民の間に広がるようになりました。

通行手形

通行手形、往来手形、往来切手などと様々な名前がありますが、現代風にいえばパスポートと I D カード(身分証明書)を兼ね備えた書類のことです。庶民が四国遍路などの旅に出る場合には所属している寺、いわゆる檀那寺(だんなでら)や村役人などが発行することになっていました。手形には統一された形式はありませんが、以下にその例を示します。括弧内は意味または、その読み方です。

例、その一

往来切手の申請書

一、女壱人、浄土宗、歳四十三、清七女房
右之女(みぎのおんな)四国遍路拝詣(しこくへんろへはいもう)仕り候(つかまつりそうろう)勿論他国へ逗留(とうりゅう)仕る者とて御座無く候(つかまつるものとてござなくそうろう)、当三月四日発足仕り候往来百日限り(おうらいひゃくにちかぎり)相仕舞い(あいしまい)罷り(まかり)帰り早速御切手(さっそくおんきって)指し上げ(さしあげ)申可候(もうすべくそうろう)旦那寺(だんなでら、檀家となる寺)より証文持参仕る可候(つかまつるべくそうろう)右之(の)女に付き出入り(でいり、もめ事)の儀御座候わば(ござそうらわば)私共如何様(いかよう)とも曲事(くせごと、処罰)仰せ付けられ候後日の為書き物件(ごじつのためかきものくだん)の如し

文化十年(1813年)酉ノ三月

井出勘七様、御役所

上底井野村庄屋、藤四郎

  例、その二
往来手形之事(おうらいてがたのこと)
石州(せきしゅう、石見の国)銀山領安野郡川谷村百姓、芳蔵 男壱人
右之者(みぎのもの)宗門(しゅうもん)代々真言宗相違無(そういなく)御座候処(ござそうろうところ)今般心願(こんぱんしんがん、心からの願い)ニ付(つき)諸国神社仏閣拝詣罷出(はいもう、まかりいで)申候間(もうしそうろう、あいだ)国々御番所(くにぐにごばんしょ)無相違(そういなく)御通可被下候(おとうしくださるべくそうろう)若(もし)途中ニテ行暮候(ゆきくれそうろう)節ハ止宿之儀(ししゅくのぎ、宿に泊める件)宜敷(よろしく)御願申上候(おねがいもうしあげそうろう)、万一病気仕節(まんいち、びょうきつかまつるせつ)ハ其国之(そのくにの)御作法通御斗可被下候(おさほうどおり、おはかりくださるべくそうろう)尤其節(もっともそのせつ)は国本(くにもと)へ御掛合(おかけあい、交渉)ニ不及申候(もうすにおよばずそうろう)、為念之(ねんのため)往来一札依(おうらいいっさつにより)而如件(しかしてくだんのごとし)

同州同郡同村真言宗、浄教寺、印


文久二年(1862年)正月
国々御番所、宿々村々御役人中

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例、その三

此の〇〇と申すもの、生国は××にて慥(たしか)成る者に御座候(ござそうろう)、此度(このたび)四国遍路の為罷出(まかりい)で候、国々御関所相違(おんせきしょそうい)無く御通し下さる可(べ)く候。 此者(このもの)、若(も)し相煩い(あいわずらい、病気になり)、何国(いずこく)にても相果て(あいはて、死亡)候わば、其所(そのところ)に於いて御葬い(おとむらい)下さる可く、国元江(くにもとへ)御届け不及申(もうすにおよばず)候、宗旨は代々**宗にて、御法度(ごはっと)の切支丹(きりしたん)にては御座無候(ござなくそうろう)、右の者に付、如何様(いかよう)の六ヶ敷儀(むずかしきぎ)出来仕候共(できつかまつりそうろうとも)、我等何方(われらいずかた)へも罷出(まかりい)で急度(きっと)埒(らち)明け申すべく候、後日の為、往来切手件(くだん)の如(ごと)し。

関所のこと

日本で関所が設けられたのは飛鳥時代(592〜710)からですが、伊勢(三重県)の鈴鹿の関、美濃(岐阜県)の不破の関と共に、平安京を防備する三関の一つとして有名な、近江(滋賀県)の逢坂(おうさか)の関を詠んだ歌があります。

1:逢坂の関

これやこの行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関

これがまあ京から旅立つ人も、旅先から京へ帰る人も、ここで別れては出逢い、出逢っては別れをして(互いに)知っている人も知らない人も、また(ここで)出逢うという逢坂の関であることよ。

逢坂の関所跡 後撰和歌集にあり、後に百人一首にも選ばれた平安前期の歌人蝉丸(せみまる)法師の歌ですが、彼が近くに住んでいた逢坂山の関所は、現在の京都市山科区と滋賀県大津市逢坂との境にあったもので、交通の要衝を守るために、646年頃に設置され795年に廃止されました。

彼の名は逢坂山の下を通る名神高速道の蝉丸トンネル(長さ376メートル)として、今も残っています。

蝉丸(せみまる)法師については

むかし蝉丸といひける世捨て人、この関のほとりに藁屋(わらや)の床を結びて、常は琵琶をひきて心をすまし(澄まし)、大和歌(和歌)を詠じて思いを述べけり。嵐の風はげしき(激しき)をわび(侘び=風雅な生活として楽しみ)つつぞ過ぐ(ご)しける。ある人の曰く、蝉丸は延喜(醍醐天皇)第四の宮にておわしけるゆえに、この関の辺りを四の宮河原と名付けたりといえり。

(東関紀行)

関所は前述の如く外敵に備えるためのものでしたが、時代が変わるにつれて公家、幕府、大名、寺社などの地域の支配者が、通行する人や物資に対して関銭(通行税)を取り立てるために交通上の要所や国境などに設けるようになり、室町時代以後は経済的な収益と共に政治的、軍事的目的のために設けられるようになりました。

戦国時代になると織田信長(1534〜1582年)は平定した国に対して、商業、輸送の障碍となっていた「座」の独占を廃止し、乱立していた関所を廃止し、経済の活性化をうながす楽市楽座(らくいち、らくざ)の政策をとると共に、公家や寺社などの中世的特権を剥奪しました。

豊臣秀吉の天下統一後には、殆どの関所が姿を消しました。それまで熊野詣でや伊勢参りをする人達は、近江、若狭、山城、紀伊の国などにあった多くの関所で、通行の度に関銭を取られるという甚だしい難儀をしてきましたが、秀吉による関所の廃止で、参詣人が増えたと言われています。

2:箱根の関所

大阪夏の陣(1615年)に勝ち天下統一を果たした徳川幕府は、西国大名の反乱防止と江戸からの人質脱出防止を図るため江戸を中心にして、五街道とその他の街道に五十三ヶ所の関所を設ましたが、箱根の関所での取り締まりの主目的は、よく知られているように入り鉄砲に出おんなでした。

鉄砲については、江戸へ下る(持ち込む)場合には老中の許可証が必要でしたし、「出おんな」に付いては女性の場合には、往来手形の他に定められた所に出向いて「女関所手形」をもらう必要がありました。

関所では「女改者(おんなあらため)、改め婆、番女(ばんおんな)」と称する主に役人の妻女が調べに当たりましたが、地元の適任者が雇われることもありました。女性の髪型や着物で隠れた部分のホクロの位置まで探って、女関所手形にある本人の特徴の記述と相違ないかを確かめるのがきまりでしたが、身分の高い女性ほど丁重な取り扱いをしながら、調べは厳し規則でした。

しかし「女乗り物」が関所を通る際には女改者がまず引戸を開けて内を改めますが、このとき「お髪長でございー」とか「お切り髪でございー」と髪型を叫びます。その瞬間乗り手は女改め者の袂(たもと)にそれなりのチップを滑り込ませるのが習慣でした。

ところで相手が裕福な商家の女性とみるや小声で袖元金(そでもときん=袖の下)を要求し、拒否されたり、もらう額が少ないと髪をわざわざ解かせたり、着物を脱がせて乳房や秘所に触るなど、職権を乱用した嫌がらせをする悪質な「改め婆」もいました。

絵師の歌川豊国が書いた浮世絵に、改め婆が拡大鏡を持って女性の下半身を調べているのがありましたが、女手形に記入するはずの無い、下半身のホクロの有無まで調べる改め婆の嫌がらせに遭い、憤慨した当時の女性も多かったはずです。

注:)
前述の如く改め婆への袖元金に限らず、当時の関所を武家の女性が通るには、それなりの心付けが必要でした。「代官例要」によればある武士が箱根、新居、碓氷、福島の各関所に対して、「内々にお聞きしたいのですが、改め方にはどれほどの心付けを差し上げたらよいのでしょうか?。平人は二百文、その上は一朱の心付けであると噂されておりますが」と尋ねました。噂は根も葉もないことではありませんでした。この武士は実際に「天保3年(1802年)に、私の家内が江戸から和州(和歌山)五条陣屋に引っ越した節は、箱根関所の改め方へ、妻の分として金百疋、娘の分として金二朱、下女二人の分として金一朱を渡した。今切(新居)関所でも、妻の分として金二朱、娘の分として金一朱、下女二人で銭四百文を渡した」と報告していました。

万延二年(1861年)に松平飛騨守の下女四名が碓氷峠の関所を通過した際に関守は、「右の女中通行につき、一同へ御目録下され之あり、割合左の通り」と記して合計金三百疋を十人で分けたことを記録していました。女性達は正当な女関所手形を持参していましたが、とかく難癖や、嫌がらせを受けるのを嫌い通行料のつもりで心付けを渡したのでした。

関所破りは重罪で磔(はりつけ)と定められていましたが、箱根関所の資料に依れば江戸時代の二百五十年間に箱根の関所や番所(五ヶ所あった裏関所)を抜け道し、「関所破り」の罪で死罪になった者は僅か六名にすぎませんでした。

これは関所の規則が厳重に守られたのは政治、軍事情勢の不安定な徳川幕府創立期のみで、その後幕府の支配体制が確立し世の中が太平になると共に、関所の取り締まりが緩やかになったからです。

江戸時代の中頃になると伊勢参りや、その為の「抜け参り」と称して先頭の者が「抜け参りの幟」を立ててお店(たな)の奉公人、職人、女中などが主人に無断で、勿論無手形で、集団で伊勢参りに出かけました。

このように多くの人が旅に出るようになり、無手形で旅をする者も大勢いましたが、そういう人達は関所を通らずに間道を利用して通行しました。

注:)
本居宣長の書いた随筆「玉勝間、たまかつま」によれば、宝永元年(1704年)には三百六十二万人が伊勢参りに訪れたと記され、日本人の五人に一人が詣でていました。

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取り締まる立場の関所役人達も抜け道による通行を黙認していて、運悪く抜け道での関所破りが見つかった場合でも、うっかり道に迷った者と見なして屹度(きっと)叱りおくだけで許されました。

また無手形で駕籠を使い堂々と箱根の関所を通る者まで現れました。駕籠かきにチップをはずみ、関所で手形の無い件を役人から取り調べられている間に、駕籠かきが素早く駕籠の向きを180度変えてしまうのです。

役人から「関所の御法は曲げられぬ、帰れ!」と言われると、「かしこまりました。」と言いながら既に逆方向に向けられていた駕籠と共に戻る振りをして、目的の方向に歩き出しました。

3:新居(あらい)の関所

浜名湖はその名前の如く以前は湖でしたが、過去に数回地震や津波に襲われて地形が大きく変わりましたが、更に明応八年(1499年)の地震により、浜名湖の南岸を通っていた東海道が消失し、湖が太平洋とつながりました。

それ以後東海道を行く旅人は、浜名湖の東側にある舞阪宿と西側の新居宿との間の水上一里(4キロ)を、渡し船で渡るようになりました。

しかしこの一見楽なように見える短い船旅も、実は荒れ易く、舞阪一里、船に乗るも馬鹿、乗らぬも馬鹿、といわれるように、天候により時にはひどく難儀をしました。

新居の関所 新居の宿(静岡県浜名郡新居町)に関所が作られたのは慶長六年(1601年)でしたが、その当時は現在の位置よりも東寄りの「今切(いまぎれ)」という所にあり、今切の関所と呼ばれていました。当時は箱根と並ぶ厳しい関所として有名で、記録に依れば五十七名の役人が常駐して「入り鉄砲に出おんな」の取り締まりをしていました。

現在ある関所の建物は、安政二年(1855年)に改築されたものです。

今切の関所の特徴は、舞阪の渡船場から船で浜名湖を渡って来ると、関所のすぐ前に船を着けるため、関所の中を通り抜けないと街道へは出られない仕組みになっていました。逆に西から東へ向かう場合も、関所の改めを受けてから渡船場に行き船に乗りました。

新居宿では渡船の独占権を与えられていて、渡船百二十隻を持ち、船頭三百六十人が十二組に分かれて東海道の旅人、荷物の運送に当たっていました。

しかし今切れ関所の厳しさに加え、縁が今切れるなど結婚する為に東海道を行く大名、公家の娘や一般の女性達から縁起を担がれて敬遠されました。その為に女性の旅人は今切れ関を通らずに、浜名湖の北岸を回る姫街道と呼ばれた道(現在の国道362号線)を通るようになりました。

姫街道にも気賀(きが)の関所(引佐郡細江町気賀)がありましたが、今切関所に比べて取り締まりがゆるやかだったことも好まれた理由のひとつでした。今切関所は後に新居宿に移転しましたが、その後も姫街道は繁盛しました。前述の船旅が敬遠されたことも理由のうちでした。

注)
明治14年12月25日に浜名湖の南側を通る道路(後の国道一号線)が開通しましたが、浜名湖南岸と太平洋との境い目を通る昔の道ではなく、それより北側の湖にある弁天島を通るルートでした。その為に舞阪町と新居町の間に築堤二ヶ所、架橋(木橋)四ヶ所、弁天島内の道路一ヶ所を建設しました。

関所には通行人に目立つ所に高札(こうさつ=掲示板)が立ててありましたが、以下は今切(いまぎれ)関所のものです。

定(さだめ)

  1. 関所を出入りする輩(やから)、乗り物の戸を開かせ、笠、頭巾を取らせ通すこと

  2. 往来(通行する)の女、つぶさに証文に引き合わせ通すべき事。乗り物にて出る女は、番所の女を差し出して相(あい)改めるべき事

  3. 手負い、死人、並びに不審成る者、証文なくして不可通事(とおることならず)

  4. 相定むる証文なき鉄砲は不可通事

  5. 堂上の人々(四位以上の公卿など)、諸大名の往来、かねてよりその聞こえ(連絡)のあるは不及沙汰(さた=指示、におよばず)、若し不審の事有るに於いては、誰人によらず可改事(あらたむ=検査すべき、こと)

右の之條々厳密(みぎのこのじょうじょう、げんみつ)に可相守者也(あいまもるべきものなり)、仍而執達如件(しかして、しったつ=上官の意を受けて下の者に伝えること、によりくだんのごとし)

正徳元年(1711年)五月

徳川幕府が政治的に安定し太平の世が続くようになると、関所の取り締まりの緩やかな傾向は箱根の関所だけに限らずに、肥後(熊本)の細川藩では隣国との交通の便宜や物資の流通をはかるため国境の関所を廃止し、他の藩でも関所の検査は極めて形式的なものとなりました。

幕府直轄の飛騨領への入国の際には関所役人は往来手形も見ずに、俳句を一句作れば関所を通してやると言われた俳人もいた程でした。

4:厳しい関所

しかし緩やかなのは関東、関西、四国、九州、などのいわば開放的で経済の発達した旅人の多い地域に限られていて、閉鎖的な北陸の加賀藩や、辺境の地にあり経済の発達が遅れた東北地方の藩などでは依然厳しい取り締まりをしていました。

藩領に入国の際には往来手形を関所に提示するだけでなく、「入り切符(手形)」と称する入国許可証(ビザ)を発行してもらい、正規の手続きに従い入国した者である証拠としました。

藩領から出国する際には「出切手(できって)という出国許可証が必要であり、加賀藩ではその取得には宿泊した宿屋の亭主を保証人にして、代金八十文を支払わなければなりませんでした。加賀百万石の国主の御掟、至って理不尽のなされ方と存ぜられ候と、百万国の大国に似合わないそのガメツサに、旅人からも不満の声が出ていました。(日本九峰修行日記)

これよりも更に厳しい取り締まりをする藩がありました、鹿児島の薩摩藩です。他国者の入国に際しては旅の目的を厳しく問いただし、往来手形を入念に調べると共に所持金を申告させ検査したので、それには見せ金(がね)と称する旅行日程に必要以上の金銭の所持が必要でした。

さらに琉球、唐物(からもの)を買い取るまじく候、という誓約書を旅人に書かせ署名、爪印を押させました。

その理由は徳川幕府が長崎奉行を置き、外国との交易を長崎に於いて独占的に行っていたのに対して、薩摩藩では長年にわたり琉球や中国との間で御禁制の密貿易を行い、莫大な利益を上げてきました。その件についての物的証拠を幕府に握られないための予防措置でもありました。

その為「入り切符」、「出切符」の制度に加えて、更に入国から出国まで、宰領という見張り役、まで旅人に同行させるという厳重さでした。

川越えについて


箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川

と歌に歌われた大井川は、安倍川、興津川、酒匂川とならんで東海道という交通の大動脈にありながら徳川幕府開設以来、西国諸大名からの侵攻に備えて、軍事上の観点から川の架橋ならびに渡し船の設置を禁止してきました。

東海道の著名な川では天竜川、富士川、六郷川だけが、渡し船の設置が許されていましたが、大井川を渡るには川越人足に頼る以外に方法がありませんでした。

川越え人足 大井川では水深二尺五寸(約七十五センチ)以下を常水(じょうすい)と呼び、人馬の渡りが許されましたが、それよりも一尺(三十センチ)水が増すと馬の渡りを留め、更に一尺増して脇水(人足の脇の下を超える)、つまり水深が四尺五寸(百三十五センチ)になると川留めになりました。

安倍川の場合は四月から九月までの常水を二尺五寸(七十五センチ)と定め、渇水期である十月から三月迄の常水を一尺五寸(四十五センチ)としていました。水深が五尺(百五十センチ)になると川を留め、四尺五寸(百三十五センチ)に減水すると人を渡し、三尺五寸(九十五センチ)になると馬を渡しました。

増水による川留めは普通は数日で減水して川明けになりましたが、川留めの最長記録としては長雨の続いた慶長4年(1868年)に、二十八日間も続いたことがありました。

川越の蓮台 河川により異なりましたが、川越をするには人足に手を引かれ、背に負われて、肩車で、あるいは人足が二人から六人で担ぐ蓮台に乗り渡りました。しかし川越人足の助けを借りずに単独で渡る勝手渡りは、溺死事故防止の建前(?)から禁止されていました。

大井川の場合、川越人足の渡し賃は、水深が「帯通り(ウエスト)」までを四十八文、「乳下(肋骨)」までを七十文、乳上までを八十文、脇水を九十文、後に100文と決められていました。しかし旅人を運ぶ際に水勢の激しい所に来ると、「酒手を弾まないことには、足がよろけて渡れない」などと言っては故意によろけ、泳ぎのできない旅人を脅しては法外な酒手を要求する悪質な人足もいました。

川越人足が高額の渡し賃を要求するのを避けるため、渡し賃は予め川会所で購入した川札で支払う制度をとっていましたが、酒手を要求する人足が絶えないため、川会所の前に高札が立てられていました。

「川越札吟味(ぎんみ)する所より札を取り川越すべし、旅人と相対(あいたい)にて賃金取るべからず。並びに旅人をいひ(言い)かすめ、札銭の外一切取りまじき事。」とありました。

当時の渡し賃100文では米が一升(1.4キロ)買うことができ、江戸の裏長屋の家賃が月400文程度だったことを考えれば、現在の貨幣価値に換算すると400円程度になるので(後述)、まあまあの金額でした。

1:抜け道

ところが東海道を京へ向かう場合、静岡県焼津(やいづ)の北にある岡部の宿の近くから、道が二手に分かれていて一方は東海道へ、もう一方の在の道を行くと川越場所から二里(8キロ)ほど川下の所で、ひそかに川を渡る道につながっていました。

そこには川越人足に払う費用を節約する多くの旅人が「勝手渡り」をするために、川の中の浅瀬を歩いて渡る道まできちんと付いていました。

前述のように川の水位が一定の限度を超えると川奉行が川渡りを禁止する川留めを命じましたが、当時の川柳に

川留めに、てにおは直す旅日記

というのがありました。川留めに遭い、退屈を紛らわせる為に、これまで書いて来た旅日記の助詞を直したという意味ですが、川留めになると両岸の近くの金谷、島田の宿場は超満員となり、大名行列と重なると折角泊まっていた旅籠から追い出される旅人も出るなど、大きな迷惑を蒙りました。

しかし川留めの際も泳ぎに自信があり急用のある者は、抜け道の場所で着ていた衣服を脱いで油紙、渋紙などでしっかり包み、浮き袋代わりの「たらい」に入れて、密かに川を泳ぎ渡りました。

その当時泳ぎのできる者とは海辺、川べりで育った者や、船頭、あるいは武芸十八番の一つとして水泳術を習った武士に限られていました。なお「たらい」は普段の川渡りの際にも、物を運ぶのに使用されました。

雨の多い季節に東海道の旅をする者は川留めによる旅の遅れを嫌い、京に行く際には、江戸から中山道を通り小諸、諏訪を経由して木曽路を通って京に向かう旅人もかなりいました。

2:川明け

川留めが解除されることを、川明(あ)け又は川明きといいましたが、その際の渡しの混乱を防ぐために、川を渡す順序が以下のように決められていました。

  1. 封御状(官用の最重要書類)

  2. 御状箱(官用の重要書類)

  3. 御状(官用の書類)

  4. 台越し(蓮台に乗せて人足二〜四人で担いで渡し、駕籠に乗ったままの大蓮台は六人で担ぐ)

  5. 馬越し(川越人足が付いて、馬を半ば泳がせて渡す)

  6. 人足越し(人足の肩車で渡す)

身分制度の厳しかった時代でしたので、庶民が川を渡るのは常に最後でした。

しかし武士でさえも、川を渡るためにはそれなりの苦労をしました。福沢諭吉が明治十五年(1882年)に「時事新報」に書いた記事によれば、

江戸時代は、将軍直属の幕吏が幅をきかせた。われわれ小藩(豊前、中津藩)の士族などは、大井川を渡ろうとするためには、朝早くから四時間も待たねばならない。やっと順番がきたと思うと、「下に居ろう。下に居ろう」という声で公儀の荷物がくるので逃げ散って、これを見送ってから結局六時間も待たされて川を渡った。
とありました。

3:大井川、架橋計画の断念、

太平の世が長く続き、もはや西国大名による侵攻の心配もなくなったにもかかわらず、東西交通の大動脈であった東海道の要衝、大井川になぜ架橋しなかったのでしょうか?。

江戸後期の老中に松平信綱(1758〜1829)という人物がいましたが、かれは陸奥白河藩十一万石の藩主として善政を敷き食糧の備蓄につとめました。その結果、天明の大飢饉の際にも、白河藩だけは一人の餓死者も出さなかったといわれています。

彼は後に幕府の老中となりましたが、参勤交代の大名はいうに及ばず下は町人に到るまで、大井川に橋が無いことにより蒙る不便、経済的損失を解消するために架橋計画を考えました。

ところが大井川両岸にある島田、金谷の宿場が宿泊客の減少による宿場の衰退をおそれたのに加え、数百人の川越人足から仕事を失うとの愁訴があり、更に譜代大名の間からも東照大権現(徳川家康の神号)の定めた掟に背くとの反対意見があったので、計画を断念せざるをえませんでした。

実は徳川政権初期に大井川に架橋した前例がありました。三代将軍家光(1605〜1651)が京へ上る際に、当時駿河五十五万石の大名であった弟の大納言忠長が、接待のつもりで領地内の大井川に船の橋(船を並べて繋ぎ、その上に板を渡して橋の役目をさせたもの)を架設しました。

行列はそのお陰で短時間の内に容易に川を渡ることができましたが、後で祖父家康の定めた掟に背いたとして家光から大変怒られました。

ところで徳川政権も末期になると家康の定めた掟も無視さるようになり、十四代将軍家茂(1846〜1866)の上洛の際には、再び大井川に船の橋を架けて行列を通過させましたが、それは時代の変化、趨勢によるものでした。

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