2001年度一橋大学社会学部学士論文(加藤哲郎ゼミナール)

 

 

スポーツの歓び──「結果志向」を超えて

 

 

 

藤原 周作

 

 

 

 

 

 


はじめに

 

 大学生になってまでスポーツなんぞを真剣にやっていると、必ず「何が楽しいの?」と聞かれてしまう。これが簡単なようで意外と答えるのが難しい。陸上競技などという、一般的には「つらい」としか思われていないスポーツをやっているなら尚更である。私はいつも、しどろもどろになりながら結局明確な回答はしたことがなかったように思う。

 考えてみれば、スポーツに関わり始めてから15年は経とうとしているのに、私は今までスポーツの何が楽しいのかなどということを真剣に考えたことはなかった。それは、自分がスポーツをすることの意味を漠然と意識するくらいはあった。でもそうした問いは、結局のところ、勝ちたいとか自己ベストを出したいというような願望にかき消されて、明瞭な形をとることはなかったのである。

 この小論は、そうした疑問に対する一つの解答である。そしてそれは多分に、私のこれまでのスポーツ体験ひいては現代スポーツに対するアンチテーゼを含んでいる。すなわち、私が意図したことは、スポーツの価値を勝利や記録などの結果のみに求めることを否定し、スポーツをするという行為自体に独自の価値を見出そうという試みである。

 そのために、まず第1章では、スポーツとは何かということについて予備的な考察を行う。それは、私の関心がスポーツ一般にあるのではなく、アスリート(athlete)にとってのスポーツにあることを明確にするためである。続いて第2章では、本論文の主題であるスポーツの本質的価値についての考察が行われる。そして第3章では、スポーツにおける「結果志向」がどのように生成され、いかにスポーツ本来の価値を貶めているかを考察する。以上が本論文の構成である。


目  次

 

 

はじめに 2
 
第1章 スポーツの定義 〜何がスポーツか〜 ………………………………4
アレン・グットマンによるスポーツの定義/遊びとは何か/
遊びの定義とスポーツの関係/遊びの種類とスポーツの関係/
肉体的な競技としてのスポーツ/‘sport’と‘athletics’
 
第2章 スポーツの本質的価値 〜スポーツの歓びとは何か〜 …………15
遊びの楽しさ/スポーツに固有の経験と快楽/
アスリートがスポーツに取り組む動機/スポーツの現象学/
スポーツ気分の構造/空間的性格/共同存在的性格/
肉体的技術的性格/イチローの場合/真のスポーツ気分/
フロー経験/フロー活動の条件と性質/フローの感覚/結論
 
第3章 現代スポーツ批判 〜スポーツにおける「結果志向」について〜…40
スポーツにおける競争の意味/「結果志向」のメカニズム/
「結果志向」の弊害/「結果」は「結果」でしかない
 
あとがき 52
 
参考文献一覧 54
 


 

第1章 スポーツの定義──何がスポーツか

 

 スポーツの定義については、これまでに様々な立場から多種多様な定義付けがなされてきた。それは逆に言えば、“スポーツ”という言葉が、一見明白に見えて実はいかに曖昧なものであるかということを示しているといえよう。そのことについて、レイモン・トマは、ミシェル・ベルナールの次のような言葉を引用している。

 スポーツはパラドクシカルな外見を備えている。なるほどそれは、だれでも理解できる言葉であり、事象でもあるが、どれほど専門的な学者でも正確に定義付けることはできない。…それは多元的に決定された概念であり、したがって、部分的かつ偏向的な形でしか提出されえないような定義の多様さに驚く必要はないのだろう。

 よって、スポーツの定義とは、スポーツを一義的に決定付けるものではなく、その多様なあり方の一つの側面をあらわすものであるといえるだろう。ここではそのいちいちを取り上げる余裕はないし、その必要もない。必要なのは、「スポーツとは何か」を明らかにすることではなく、「何がスポーツか」ということについて予備的な理解を得ることだからである。

 

アレン・グットマンによるスポーツの定義 

 そこでここでは、アレン・グットマンによる定義を参照しながら、私なりのスポーツの定義を考えてみたい 。グットマンを取り上げるのは、彼の定義が、スポーツの定義として代表的であり、かつ「何がスポーツか」を考える上で適切だと思われるからだ。

 彼によると、スポーツは「“遊び”の要素の濃い肉体的なコンテスト競技」である。下の図は、その定義を説明する際に彼が用いたものである。

          

 

           遊び 

 

自然発生的な遊び       組織化された遊び(ゲーム)

 

        競争しないゲーム        競争するゲーム(コンテスト競技)

 

             頭を使う競技    肉体を使う競技(スポーツ)

 

 彼の議論に沿ってこの図を補足しよう。まずここでいう“遊び”とは、非実用的でそれ自身のために追求される肉体的・精神的活動のことである。“遊び”の快楽はその行為のうちにあるのであって、結果にはない。次に“遊び”は、組織化されているか否かで区別される。組織化されているとはすなわちルールを持つということであり、一般にそれは“ゲーム”と呼ばれる。更に“ゲーム”は“コンテスト競技”的要素をを含むかどうかで区別される。“コンテスト競技”であるかどうかは、そのゲームが勝敗を必要とするかどうかで決定される。例えば馬跳びとバスケットボールは、ルールを持つという意味で共にゲームであるが、前者は競争の必要性がなくそれ自体でゲームとして完結しているのに対し、後者は最終的に勝者を決定することをその本質としている。よってバスケットボールはコンテスト競技である 。そして最後にコンテスト競技は、肉体の行使を主眼とする“スポーツ”と、それ以外のものに分けられる。だから、チェスは競技ではあるがスポーツではないし、モータースポーツも、スポーツの名に値するほど十分に肉体的なものであるかどうかについては議論の余地がある。

 以上がグットマンによるスポーツの定義の概要である。遊びから議論を始め、ルール、競争、身体性の各要素による区別によってスポーツを定義する彼の方法は、ともすれば教育的・啓蒙的・左翼主義的なイデオロギーに影響されがちな他の定義、あるいはスポーツの制度的な側面を強調した定義 に較べて、より中立的・形態的なものであると言えるだろう。言い換えれば、他の定義が「スポーツとは何か」ということに力点をおいているのに対して、グットマンの定義は「何がスポーツか」ということを明確にしていると言える。

 

遊びとは何か

 この定義をもとにして、私なりのスポーツの定義を考えてみよう。まず、グットマンはスポーツの根本に“遊び”の概念を置いているが、スポーツは遊びだろうか?そもそも遊びとはなんだろうか?遊びの定義は多く存在するが、その中でももっとも有名なものは、R.カイヨワによるものだろう。少し長くなるが、『遊びと人間』 における彼の議論を見てみよう。まず彼は、以下のような活動として遊びを定義する。すなわち、

(1) 自由な活動

 遊びは何よりも、自由な活動である。遊ぶ人は自発的にそれを行い、好きなときにやめることができる。もし遊ぶように強制されたならば、それはただちに遊びではなく、そこから解放されたい拘束、苦役になってしまう。

(2) 分離した活動

 遊びは、時間および空間の厳密な空間の内部で完了する活動である。それは本質上、生活の他の部分から慎重に切り離され、慎重に区別されている。

(3) 不確定の活動

 遊びは、あらかじめ結末のわからない活動である。もし、活動の結果が最初からわかっていたら、それは気晴らしにはならない。

(4) 非生産的な活動

 遊びは、いかなる種類の新しい要素も作り出さない。そして、遊びが終了した際には、遊ぶ人々の集団の内部での所有権の移動を別にすれば、遊び始めたときと同じ状況に帰着している。

(5) ルールのある活動

 遊びにおいては、通常の法律を停止し、代わりに、それだけが通用するルールを一時的に設ける約束に従う。

(6) 虚構的活動   

 今行っている活動が、現実生活と対立する第二の現実、あるいは、全くの非現実であるという特有の意識を伴う。この意識は、ルールのない遊びにおいて、実質的にルールと同じ役割を果たしている。

 カイヨワは以上のように遊びを定義した上で、遊びを4種類に分類する。アゴーン(競争)、アレア(運)、ミミクリー(模擬)、イリンクス(眩暈)の4つであり、それぞれ具体例としては、スポーツ、ギャンブル、演劇、ブランコなどが挙げられる。

 さらにカイヨワは、4つの分類に共通して見られる、遊びに対する態度の両極として、パイディアとルドゥスという概念を提唱する。彼によれば、パイディアとは即興と陽気という原初的能力であり、ルドゥスは無償の困難の愛好と位置付けられる。衝動的で無秩序な遊戯本能であるところのパイディアは、ルールや技術、道具といったものが現れてくると、先にあげた4種類の遊び――アゴーン、アレア、ミミクリー、イリンクスに分化してくる。その過程で、故意に作り出し勝手に定めた困難を解決するという喜びも現れてくる。これがルドゥスである。

 

遊びの定義とスポーツの関係

 以上が、カイヨワによる遊びの理論の概略である。では、これらの遊びの諸性質とスポーツとはどのような関係にあるのだろうか?

 まず、遊びの定義とスポーツの持つ性格は合致しているだろうか?一つずつ検討してみよう。とりあえず、(2)、(3)、(5)はスポーツの持つ性格として概ね妥当だろう。そうすると、(6)は(5)と排他的なものとして定義されているので、当然スポーツには当てはまらないことになる。

 (1)はどうだろう?スポーツは自由で自発的な活動であろうか?「自由」という概念の意味は多義的であり、一概に肯定も否定もし難いように思われる。例えば、Th.W.アドルノは、スポーツには、暴力を加えようとする衝動に加えて、自分から服従し忍耐しようとするマゾヒズム的な動機があると述べた上で、次のようにスポーツを批判する。

 近代スポーツは肉体に、それから機械が奪った機能の一部を返そうとする、といってもよいであろう。だがそうしようとするのは、機械を操作すべく人びとをそれだけ一そう容赦なく訓練せんがためである。近代スポーツ自体が傾向的に肉体を機械に似せるのである。それゆえ近代スポーツは、どんなに組織されようとも、不自由の王国に所属する。

 このような、スポーツは人間を社会体制に適応させるための道具であるという批判は、多く見られる。このような批判に対してグットマンは、「現代スポーツは自由か?」と題された章において、「現代スポーツは、完全に自由ではないとしても、比較的自由な世界は提供してくれるのだ」と述べている 。彼の言い分はこうだ。現代スポーツが自由であるかどうかを解くカギは、“〜からの自由”と“〜への自由”という二つの自由の概念にある。現代スポーツは、非常に高度な協調を前提としており、アスリートは、遊びの持つ完全な“〜からの自由”の一部を放棄せざるを得ない。しかし、逆説的だが、それによってアスリートは、スポーツに集中し、高度な達成を得る“(〜への)自由”を手に入れることができるのだ。ただし、“〜への自由”を得ることよりも、“〜からの自由を失うことのほうが大きいという確かな状況があるということは認めざるを得ない。協調は拘束的な服従へと退化しうるのであり、現代スポーツは自由ではないという主張は、自由のこういった面を過大視しすぎているのだ。

 以上のようなグットマンの考察は、非常に説得的であるように思われる。スポーツは、完全に自由ではないし、時に不自由な活動となってしまうこともありうるが、だが依然としてスポーツはその根本に自由というものを持っているのである。

 最後に(4)であるが、カイヨワ自身は、スポーツによって金銭を得ているプロを、遊ぶ人ではなく職業人であると述べている。よってプロスポーツは遊びではないということになるが、だからといってプロスポーツが遊びの要素を持たないかと言えばそんなことはない。このことについては、グットマンは次のように言っている。

 ただ、実際の世界では、遊びの動機は複雑である。…同じように、テニスのアーサー・アッシュ(米国の有名なテニスプレーヤー、筆者注)のような専門家も実用的な目的を持っていて、行為それ自体のなかに喜びを見出すような、純粋に遊びの気持ちでプレイしているとは言えないはずだ。にもかかわらず、彼は完璧なショットについて、こんなことを言い出すのである。「突然、一所懸命に努力してきた全てのエッセンスが、一つのショットに昇華される」と。このように私たちはみな、複合的な動機でプレイしている。

 例え職業としてスポーツをやっていても、その行為の中に全く遊びの要素が見当たらないということはほとんどありえない。よって、プロのスポーツ選手にとって、スポーツは完全に遊びではないけれども、依然として遊びの要素を持つのである。

 

遊びの種類とスポーツの関係

 以上の考察から、スポーツが遊びと少なくとも形式的には共通の性格を持つことは明らかであるが、では次に、カイヨワの遊びの四分類――アゴーン、アレア、ミミクリー、イリンクスとスポーツはどのように関わるのであろうか? カイヨワによれば、スポーツは何よりもまずアゴーンと関わる。彼は次のように述べる。

 アゴーンが、やがてその完全な形態を獲得するのは、厳密な意味での競争的な遊びとスポーツとしてであり、また、競争者が直接には対抗しないが、拡散した不断の競技に参加しつづける手腕の遊びとスポーツとしてである。

 だが、他の分類がスポーツと排他的なわけではない。アゴーンは、アレア、ミミクリー、イリンクスとそれぞれ結びつく契機を持っているからだ。カイヨワはこのうち、アゴーンとアレアとの結びつきを根本的、ミミクリーを偶然的、イリンクスを不可能と形容している。それぞれについて見てみよう。

 まず、アゴーンとアレアは一見したところ、正反対の態度を示している。アゴーンの実践は、持続的注意、適当な練習、熱心な努力、勝利への意思を前提とし、規律と忍耐を要求する。選手は、その実践において、自分の力しか当てにすることができない。逆にアレアにおいては、遊ぶ人の意思や忍耐や訓練といったものは否定される。当てにできるものは、運だけである。このように、アゴーンとアレアは、遊ぶ人に対照的な態度を要求するが、この二つの遊びが成り立つ領域というのは共通している。それはすなわち、ルールの領域である。アゴーンとアレアはどちらも、絶対的公平、平等なチャンスを前提とするのだ。カイヨワは言う。

 アゴーンにおいては、競争者のチャンスは、原則として、できる限りバランスがとられているため、アゴーンの結果は必然的に不確かであって、逆説的であるが、純然たる賭けの結果に似てくる。

 アゴーンをスポーツに置き換えてみれば、スポーツとアレアの結びつきもまた明らかであろう。競技者は基本的な態度としては、偶然を否定している。少なくとも偶然の及ぼす影響を最小限にするように努力する。その具体的な表れがトレーニング、訓練である。だが、実際のゲームにおいては、特に偶然の影響力を完全に排除することは絶対に不可能である。

 カイヨワの議論に戻ろう。アゴーンとミミクリーとの結びつきはどうだろう?彼によれば、あらゆる競争は、それ自体一つのスペクタクルである。そしてこの場合のミミクリーは、まず観衆が選手に同調したり、自己同一化したりするという点に表れる。さらには、そうした観衆のミミクリーが、観客を失望させないようにする必要を選手に感じさせることによって、アゴーンの原理を強化する。選手は自分が観客に対して演技していることを意識するから、最善を尽くすことが義務となる。つまり、一方では完全な確実さを持って演技し、他方では勝利を獲得するために最高の努力をする。

 以上のようにカイヨワは、アレアとミミクリーについては、アゴーンとの結びつきを認める。ところが、イリンクスについては、「眩暈が作り出す麻痺状態にしろ、それが場合によって生み出す盲目的興奮状態にしろ、コントロールのある努力の全面的な否定である。」 というように、アゴーンと相容れないものだと指摘している。確かに、原理としてはそのとおりであろう。だがスポーツが何よりもまずアゴーンであるとしても、スポーツからイリンクスの要素を排除することは適切ではない。なぜなら、「偶然の遊びにおいては、(中略)ある特殊な眩暈に襲われることは、よく知られている。」 というように、カイヨワ自身アレアとイリンクスの結びつきは認めているからである。先ほど見たように、アゴーンはアレアの影響から完全に逃れることはできない。であるから、偶然のもたらす興奮や恍惚をイリンクスと呼ぶならば、イリンクスはスポーツの中にも見られると考えなければならないだろう。

 残るのは、遊びの態度――パイディアとルドゥスである。スポーツはルールのある遊びであるという定義からすれば、ここで問題とすべきなのがルドゥスであることは明らかだろう。実際、ルドゥスの「無償の困難の愛好」という定義は、スポーツの性質を表現するものとして非常に適切である。ルドゥスはまさにここでいうスポーツそのものといっても過言ではなかろう。

 スポーツと遊びの関係について、カイヨワの議論を参照しながら考察してきたが、以上から、グットマンがスポーツを何よりもまず遊びと関わるものであるとするのは、妥当なことだと言える。

 だが、スポーツが労働に関わるとする意見があることは留意しておくべきだろう。例えば次のようである。

 (スポーツは)身体的努力を基調とする娯楽活動であり、遊びと同時に労働とも関わり、競合的に営まれ、特定の規約や組織を伴い、さらに職業的な活動へと転位しうるものである。

 この点については、現代スポーツを考える際、それを完全に“遊び”の領域で説明できるものであるとするのは早計であると指摘するにとどめておく。

 

肉体的なコンテスト競技としてのスポーツ

 次に、スポーツがコンテスト競技であることについては、ほぼ議論の余地はない。先ほど見たカイヨワの議論からすれば、コンテスト競技=アゴーンである。さらにここでコンテスト競技というとき、それはかならずしも人間を相手にするとは限らない。自然や過去の自分といったものを競争の相手とすることもできるからである。だが、それはアゴーンというよりもルドゥスといったほうが適切かもしれない。「無償の困難の愛好」の中には、自分の限界や苛酷な自然環境に打ち勝つ喜びということも含まれているように思われるからだ。よって、コンテスト競技はアゴーンとルドゥスの両方を含むものとして捉えたほうがよいだろう。

 残るは、肉体の行使を主な要素とするかどうかだが、この分類についてはかなり微妙なものを含んでいると言える。グットマンは、チェスはスポーツではなく、競馬やモータースポーツは玉虫色だとしているが、例え馬やマシンの性能が大きくものをいうとしても、競馬やモータースポーツはやはりスポーツである。それは、チェスの駒はプレイヤー以外の誰かに動かしてもらうことができるが、騎手やドライバーを完全に模倣することは不可能だということからも明らかである。つまり、当該のコンテスト競技がスポーツであるかどうかは、そのコンテスト競技における肉体の使用が、プレイヤー本人以外にも代替可能であるかどうかにかかっているのだ。その意味では、極端に言えば頭の中だけでできてしまうチェスや将棋はスポーツではないことになる。

 

‘sport’と‘athletics’

 ところで、「スポーツ(sport)」という言葉の語源は、ラテン語の‘deportare’であり、その意味するところは、「(何物かを)運び去る」だという。ここから派生して、‘sport’は「不安を運び去ること」すなわち「気晴らし」を意味するようになった。つまり、‘sport’と言う語にはもともと、冗談や歌、芝居や踊り、チェス、トランプ、賭け事まで含む全ての楽しみが含まれていた。それが18世紀には、主として狩猟や乗馬などの野外スポーツを指すようになり、19世紀になると「競技スポーツ(athletics)」の意味が加わってくるのである。

 こう考えてくると、先ほど考察したグットマンのスポーツの定義――遊びの要素の濃い肉体的な競技――は、スポーツの定義としてはいささか狭すぎるように思われる。それはむしろ‘athletics’の定義だと言えるのかもしれない。だが、本稿においてはそちらのほうが都合がよい。なぜなら、私が本稿で考察の対象としているのは、あくまで「アスリート(athlete)」にとってのスポーツであり、気晴らしのスポーツではないからだ。だから本稿における「スポーツ」は「競技スポーツ」のことだと考えてもらって差し支えない。

 第2章では、スポーツがアスリートにどのような経験をもたらしてくれるのか、言い換えれば、アスリートはスポーツをすることでどのような「歓び」を見出すのかということについて考察してみたい。

 

第2章 スポーツの本質的価値──スポーツの歓びとは何か

 

 アレン・グットマンは、遊びとスポーツの違いを表現する際に、ロジャー・バニスターの例を引いている。バニスターは、1マイル競走で史上初めて4分の壁を破った、イギリスの陸上競技選手である。彼は、自伝『1マイル、4分』の中で、子供の頃に海辺をはだしで走ったとき感じたことについて次のように書いている。

 この崇高な瞬間に、私は純粋な歓びに踊っていた。わずか数歩ほど足を進めることで生み出される巨大な興奮に驚き、そして怖れた。私は、誰か見ていないかと、おずおずとあたりを見まわし、そして今度はもっと意識して、この最初の興奮をしっかり掴まえながら、さらに何歩か歩いてみた。大地は私と一緒に動いているようだった。いつしか私は走り出し、私の肉体には、新鮮なリズムが入りこんできたのだった。そうすることで私は、自分がこのとき何をしているかを意識しないで、自然と一つに溶け合ったわけである。つまり、このときに私は、それまで考えてもみなかった力と美の新しい源泉を見出したのだった。

 1954年5月6日、バニスターは、1マイル4分の壁を破るべく競技会に出場した。それまで、1マイルを4分以内で走ることは不可能だとされていたのだ。だが、彼はこの日、3分59秒4で1マイルを走り抜けた。そのゴール前の心理状態を、彼は次のように語っている。

 我に帰ったとき、私は喜びと苦悩の入り混じった瞬間を味わっていた。心が身体よりも前のほうへと走り出し、無理やりに身体を引きずっていた。私は生涯にまたとない瞬間のやってきたのを感じた。苦痛はなく、ただ行為と目的との偉大な融合があった。世界は停止しているか、あるいは存在しないかのように思われた。…私はその瞬間に、一つのことを見事になしとげる機会だと感じた。私は怖れと誇りの入り混じった感情に駆られながら疾走していた。

 前者が遊び、後者がスポーツであることは言うまでもない。バニスターの記述は、いささか高尚過ぎる気はするけれども、それぞれの行為の持つ快感を的確に表現していると言えよう。前者は、より衝動的で、体の内奥からあふれる力と自然とが同調する快感なのに対して、後者は、ある目的を持って長い間鍛錬を積み重ねてきたものだけが感じ得る、全能感とでも呼ぶべき感情である。

 スポーツのもたらす経験は、ただ単に楽しいとか気持ちいいとかそういったものではない。そのような快楽なら、気晴らしとしての遊びでも十分得ることができる。もちろん、スポーツを気晴らしとして遊ぶこともできるわけだが、ここで問題としているのはそういった種類のスポーツではない。アスリートにとってのスポーツである。

 私は、アスリートがスポーツから得る経験を、スポーツの「歓び」と名付けたい。わざわざ「歓び」という言葉を使うのは、単なる快楽と真に意味のある経験を区別したいからである。「歓び」とは「有意義な快楽」のことだと言ってもよいだろう。スポーツの歓びとは何か、それを明らかにするのがこの章の課題である。

 

遊びの楽しさ

 バニスターの例は、遊びとスポーツの快感の違いを表現したものだが、スポーツを「遊びの要素の濃い肉体的な競技」とする本稿の立場からすれば、まず遊びの快楽という点からスポーツの快楽を考えて見ることが必要だろう。

 カイヨワの議論に依拠すれば 、スポーツはまずアゴーン(競争)であり、加えてルドゥス(無償の困難の愛好)である。さらにアゴーンと結びつく形でアレア(偶然)、アレアに結びつく形でイリンクス(眩暈)がスポーツと関係する。このそれぞれがもたらす経験について、カイヨワはどのように述べているだろうか?

 まず、アゴーンの原動力となるのは、その分野において自分が優れているということを認めさせようという願望である。他者に対する優越、すなわち、勝利こそがアゴーンの快楽である。次に、ルドゥスはどうか? カイヨワは次のように述べている。

 一般的に言うと、ルドゥスというのは、跳ね回りたい、気晴らしをしたいという原始的欲望に対して、何度でも更新できる人為的な障害を提供するものである。それは、休養の欲望を満足させると同時に、人間には捨て去ることができないように思われる欲求――自らの持つ知識、努力、技量、知性などを無駄に使いたいという欲求、また自己統御や、苦痛、疲労、パニック、陶酔などに抵抗する能力などを惜しみなく使いたいという欲求――を満足させる多くの機会および多くの構造を発明するものである。

 ルドゥスのもたらす快楽は、達成感、全力を出し切ったという満足感といったところであろうか。そして、アレアのもたらす快楽は、基本的にはアスリートにとって否定すべきものである。アレアの快楽は、努力や忍耐を否定して運に全てを任せるスリル、苦労せずに一瞬にして何かを手に入れる魅力にあるからだ。だから、アスリートにおけるアレアの快楽とは、アレアのもたらすイリンクスの快楽を意味する。カイヨワはアゴーンとイリンクスの結合を否定しているが、それは、スポーツ競技に付随する眩暈(例えばスキーの滑降など)やパニック状態がアゴーンとは両立し得ないという意味であると考える。私自身の経験から言っても、スポーツにおける偶然がもたらす一種の陶酔的な恍惚状態(=イリンクス)は、スポーツの持つ快楽を語るうえで欠かすことができないものである。

 

スポーツに固有の経験と快楽

 以上のように、遊びのもたらす快楽から、スポーツの快楽というものをある程度想像することができる。次に、遊びという視点からだけでは把握できない、スポーツに固有の経験と快楽について考えてみたい。この点については、O.グルーペが包括的な考察をしている。  

 彼によれば、スポーツの一般的な意味は、「1対0」という表現に集約される。この表現は、定められたルールに従って、自発的、自己目的的に行われるプレイ(遊び)的な達成を表現したものであり、そこにはスポーツをする人間にとって重要な事柄が数多く象徴的に表現されている。それは具体的には、喪失と獲得、競争と共同、共存と敵対、苦悩と幸福、能力と不能、勝利と敗北、屈辱と向上、傲慢と失脚というように表現される。スポーツは、こういった人間の生や人間の文化を象徴しうる要素を、自らの身体を通して直接的に経験できる貴重な実践なのである。

 多木浩二は、これと似たことを「勝敗の記号論」として述べている 。彼によれば、全てのスポーツは平等→不平等(0→+/−)の過程として捉えられる。そしてこの「0→+/−」が、競技者と観客の両方に、実際にゲームとして体験されるエキサイトメントを呼び起こすのである。ここでは主に勝敗のもたらす不平等として「0→+/−」が捉えられているが、スポーツに参加するものを二項対立的に分かつ過程に、スポーツの醍醐味が経験されるという視座は、グルーペの言う「1対0」と共通しているといえるだろう。

 グルーペの議論に戻ろう。以上のような一般的な意味を核として、さらにスポーツ固有の意味が派生してくる。すなわち、(1)身体の経験と自己の人格の経験、(2)健康と安寧、(3)興奮と緊張、(4)他人との結びつき、(5)「物質」の経験と自然との関わり、(6)美意識とドラマ性、(7)プレイ動機、である。それぞれ簡単に見てみよう。

 (1)今日我々が生活している文化では、身体を動かしたりスポーツ活動を行わなければ、自らの活動と結びついた一次的な経験をする機会がほとんどない。生活の隅々にまでメディアが浸透しているからである。ここでいう一次経験の喪失とは、身体による経験と自分自身の経験という二つの意味がこめられている。スポーツ活動は、自分の身体とは何か、何ができて何ができないか、疲労や、身体的にきつい状態とはどんなものか、身体に負荷を加えた後の開放感や継続的な負荷による身体の変化といったことを経験させてくれる。また、スポーツは直接的、集中的に自分がどのような人間であるかを知ることを可能にする。スポーツは自分自身の能力や限界を知る機会、また、自発的に限界に挑戦し、強制されない課題の克服へと挑む機会を提供する。スポーツがなければ、こういったことを体験する機会はめったにないと思われる。

 (2)現代のような運動の機会が少ない社会では、スポーツは数少ない運動の手段として機能する。スポーツを行うことで、我々は肉体的・精神的な健全さを保持できるし、実際、健康と安寧は人々をスポーツ活動へと促す中心的なモチーフになっている。

 (3)もしスポーツがなければ、日常生活や余暇において、緊張感や娯楽、楽しみ、興奮、さらには生きているという実感は減少してしまうだろう。

 (4)スポーツは、自発的に強制されない形で、他人との関係を築く機会を提供する。スポーツは互いに理解可能な共通「言語」の習得を容易に促すことで、社会的なつながりを生み出す素地を築いていく。

 (5)「物質」の経験とは、運動を通してのみ可能な我々の環境世界を取り巻く事物や対象の性質やその活用の可能性、さらにはその活用方法を知ったりするような経験を指す。自然との関わりも、その中には含まれる。

 (6)スポーツが存在しなければ、美を感じる機会は極めて少なくなるだろう。個々のスポーツ運動の形態やその美的な側面は、瞬時に消え去っていくものだが、それにも関わらずそれは、確かに人々に感銘を与えるような美的なものでありうる。また、スポーツにおいては、勝利と敗北、成功と失敗、失望と幸福といった劇的な緊張を、日常生活ではまず経験できないできないような形で経験できる。

 (7)スポーツが存在しなければ、プレイ=遊びを経験する機会は極めて限られてくる。したがって、スポーツがなければ、プレイを特徴付けている無目的性や不確実性、自由といったものを実際に経験する機会はほとんどないだろう。

 以上が、グルーペが挙げる「スポーツの意味」の概略である。このうち、(2)は、アスリートにとってのスポーツという意味では、当てはまらないと思われるが、あとの要素は、現実はどうあれ、アスリートがスポーツに見出す快楽であるということができるだろう。

 それでは、これらの「スポーツの意味」は、カイヨワの遊びの理論とどのように関わってくるだろうか?

 まず、(1)は、カイヨワの言うルドゥスに通底するものであろう。両者は、「達成」のために、自己の持てる力を肉体的にも精神的にも出し切るという点で共通している。(3)や(6)は、平常と異なる精神状態を作り出すという意味で、イリンクスのもたらす快楽と関係していると言える。(4)の他者との連帯や、(5)の「物質」の経験は、カイヨワの遊び論には見られない視点である。(7)については、言うまでもないだろう。

 ここで忘れてならないのは、グルーペが「スポーツの意味」として、必ずしも競争の側面を重視していないことである。このことは、カイヨワがスポーツを何よりもまずアゴーンであるとしたこととは対照的である。もちろん、グルーペがスポーツの中核的な意味であるとした「一対0」には、勝利と敗北というモチーフが含まれているが、それはあくまでも、他のモチーフと並列的なものである。彼は以下のように述べる。

 スポーツ場面において達成向上を目指すことは、人間としての「向上」を目指すことなのである。他人に打ち勝つことや記録を打ち立てることは、これに比べれば二次的なものと見なされるべきである。

 ここでグルーペが、スポーツの主要な側面として、アゴーンではなくルドゥスを重視していることは明らかだ。つまり私の言葉でいえば、アゴーンは単なる快楽であり、ルドゥスは歓びであるということになるだろう。

 

アスリートがスポーツに取り組む動機

 さて、これまでの議論は、スポーツという行為の中に固有の経験、快楽を見出そうとするものであったが、ここで少し視点を変えて、アスリートがスポーツに取り組む動機という観点からそのことを考えてみたい。

 D・S・バットは、スポーツにおける心理的動機づけを、攻撃性、神経症的葛藤、能力の3つに分類している 。この3つの分類はそれぞれ、コンラッド・ローレンツの攻撃理論、ジグムント・フロイトの神経症的葛藤理論、ロバート・ホワイトの能力理論にその根拠を持っており、個々のアスリートのスポーツ行動は、これらの理論によるエネルギーモデルをそれぞれ具体化したものだということができるという。それぞれ具体的に見てみよう。

 まず、攻撃性の動機づけが優勢なアスリートは、スポーツによって、自己の暴力的な衝動を発散する。ローレンツによれば、人間の攻撃性は本能的なものであり、その度合いはスポーツの種類にによって、あるいは個々人によって異なるが、共通なのは自然あるいは他者に勝つという意思である。

 神経症的葛藤の動機づけとは、スポーツによって自己の心理的な葛藤を解消しようとするような動機づけのことである。フロイトの理論によれば、本能的な性的、攻撃的衝動の源泉である無我意識(イド)に対して、両親の基準や社会的価値観を吸収した人格の一部である超自我(スーパーエゴ)が圧力を加えて、これらの衝動を抑圧ないし変形させ、社会的に受容される表現にする。自我(エゴ)は、この過程で生じる葛藤を解消(昇華)しようとする。そしてスポーツは、この昇華の直接的形態と考えられる。すなわち、アスリートはスポーツを通して自己の葛藤を表現し、そこで成功を収めることで精神の安定を得ようとするのである。

 残るは能力の動機づけだが、これは一流のアスリートに多く見られる、本質的に建設的な動機づけを指す。このタイプのアスリートは精神的に成熟しており、能力向上を目指しながら自己達成感を経験する。ホワイトの能力理論によれば、個人は自分が環境に及ぼす影響を確認するために絶えず環境を操作しており、それを通じて、自分が有能であることを確認しようとする。こういった動機づけを持つ人々にとって、スポーツを含む大人の活動の目的は、特定の目的を達成することではなく、環境と関わりあう過程を経験し、効果的に環境に対応することである。

 バットによれば、これらの動機づけは多かれ少なかれ全てのアスリートに存在するし、最初は攻撃的衝動や神経症的葛藤に動機づけられていたアスリートが、精神的に成熟するにしたがって能力の動機づけに移行することは可能であり、往々にして見受けられることであるという。

 これらの動機づけは、先ほどのカイヨワやグルーペの考察とどう関わってくるだろうか?

 攻撃や神経症的葛藤による動機付けは、基本的にスポーツを自己の暴力的な衝動や苦しみ、不安を解消するための道具として扱っているだけなので、スポーツを行為すること自体に意味を見出そうとするグルーペの考え方からすれば、適切なスポーツ実践のあり方とは言い難い。それらの動機づけは、成功を収めることなしには欲求不満に陥る性質のものであり、必然的に勝利を収めることが第一になる。したがって、このタイプのアスリートが求める快楽は、相手を打ち負かして、周りからの賞賛を得ること、すなわちアゴーンによる優越の快楽である。

 これに対して、能力の動機づけは、まさにバニスターが1マイルで4分の壁を破らんとしたときの、あの快楽を求めるものである。それは、カイヨワの理論で言えばルドゥスであり、グルーペのいう、身体や自己の経験、あるいは、「物質」や自然の経験を可能にする。したがって、スポーツの歓びを経験するには、アスリートはバットの言う「能力の動機づけ」によって動機づけられていなければなるまい。

 

スポーツの現象学

 さて、スポーツ経験のもたらす意味や快楽についてこれまで考察してきたわけだが、以上の考察は、スポーツの持つどういった構造がそうした意味や快楽というものを生み出すのか、言い換えれば、スポーツをするという行為そのものが持つ“楽しさ”を説明しきれていないように思われる。カイヨワやグルーペの理論は、遊びやスポーツの快楽を、結局のところ人間の本能や、現代文明における一次的経験の欠如の充足ということに求めているし、バットの心理的動機づけの理論も、アスリートがスポーツを通じてどのような自己の本能的・心理的欲求を満たすかの諸類型を提示しているに過ぎない。こうした点について、西村清和は、従来の“遊び”の研究を次のように批判している。

 従来の遊戯論、つまり、教育学、生物学、生理・心理学、文化史、社会学など、実証研究にもとづく遊戯論は、結局は、遊びの現象そのものを、本来そのような実証的認識にとって唯一の客観的対象たる、現実の自然や社会、文化のコンテクストに還元してしまわずにはおかない。

 こう述べたあとで、西村は、アメリカの発達心理学者サットン=スミスの言葉を引用しながら続ける。

 遊びを社会や文化といった全体的な体系のたんにひとつの反映と見ることによっては、われわれは、「ゲームというものがこれを実際におこなうものにとってもつ意義がなんであるかを、けっして現実に知ることはない。なるほど、われわれは、遊びやゲームについての記録を持つにしても、これらが遊び手にとってもつ意義については、まったく洞察するところがないのである。」

 こうした従来の遊戯論に代わるものとして、彼は「遊びの現象学」を提唱する。遊びの現象学が問題とするのは、所与対象として観察される個々さまざまな遊びの形式の記述、分類ではなく、「当の遊び手にとって、遊びとは何か」であり、それは、遊び手が主観的に体験する特殊な心理状態の記述ではなく、むしろ、遊び手がある行動形式のうちにとるひとつの独特の存在様態、あるいは、そのような存在様態を支えている、ある共通の構造関係が見いだされはしないかを探索することである。

 この西村の主張は、遊戯をスポーツと置き換えることができよう。つまり、ここで私が意図していることも、「アスリートにとって、スポーツとは何か」ということであり、それを何らかの本能的欲求の充足や心理的葛藤の解消の道具として捉えるのではなく、スポーツのいかなる存在様態や構造が、スポーツに特有のいかなる快楽を生み出しているのかということを明らかにすることなのである。

 

スポーツ気分の構造

 こうした問題意識に沿う形でスポーツについて考察しているのが、中井正一の『スポーツ気分の構造』である。スポーツ気分とは、中井によれば「スポーツにおいて与えられる、また見出されるところの一つの気分stimmungであり、私のいう「スポーツの歓び」とほぼ同義であると思われる。Stimmungとは、ドイツ語で気分や雰囲気といった意味である。この中で中井は、スポーツ気分の存在性格を3つに分類している。すなわち、空間的性格、共同存在的性格、肉体的技術的性格の3つである。それぞれについて見る前に、中井は遊戯およびスポーツを一体どのようなものとして捉えているのだろうか?彼は次のように述べている。

 人間が自らを動物より区別するにあたって、道具を持ったこと、また道具の附託するものを指ししめす言葉をもったこと、そしてその道具の使用にあたって計画性と労働をもったことが指摘される。それは高い意味における技術の会得である。…一般に遊戯と言われる人間の行為は、この技術に関して、「何々にまで」あるいは「何々のために」ということの会得に対して殆ど無関心に、ただその有意義性そのものを性格的に浮立たせ明るみにもたらすところのものなのである。その意味で単なる実存とは次元を異にしたしたところの、存在の会得並びに解釈に対する一つの通路となる。スポーツとはこの遊戯に属し、主として身体的技術を基調とするところの特殊な実存である。

 こう定義した上で中井は、「スポーツの持つ気分がいかなる角度をもって道具並びにその運用に対して見透しをもち、いかなる契機のもとにその存在性格を遊離しているか」を問題とするのである。以下、中井によるスポーツ気分の3つの存在性格を概説しつつ、それぞれについて考察してみたい。

 

空間的性格

 スポーツ気分の持つ空間的性格の一つは、単なる間隔を身体的力によって距離的性格に転換するところに生ずる緊張した気分にある。グラウンドに描かれた幾条もの白線、直線、曲線、楕円が表現する物理的間隔Abstandは、単なる間隔ではなくて、それを走破し、追抜き、到達しつくすべき存在的距離Entfernungである。そこでは、「何々まで」あるいは「何々のために」という道具としての有意義性における距離とは遊離して、ただ「にまで」「のために」という距離そのもの、追い抜き突破し、到達しなければならないことそのもの、有意義性そのものが明るみに浮き上がってくる。人間の肉体活動は、自ら「にまで」の存在となることで実存的構造を明るみにもたらすという意味で、血と筋肉による存在の解釈Auslegungという性質をもつ。

 スポーツにおける空間的性格のもう一つは、「方向の感覚」である。射的や弓術はもちろん、例えば野球におけるバッテリー間を結ぶ線、あるいはビリヤードのキューの狙いなどが持つのは、単なる方向Richtungを定向Ausrichtungに転換したところに生じる、特有の集中的緊張的気分である。あらゆる肉体的・精神的動揺を抑え、一つの形而上的点すなわち目的に向かって弓は引き絞られる。その時弓は、猟=生産的労働における道具としての有意義性から遊離して、道具そのものの持つ定向の存在的性格を露わにする。ここに、スポーツに特有の実存的性格がある。さらに、一点に向う精神が方向転換=カーヴの次元をもつことで、スポーツはさらに特有な感じを持ってくる。ランニングやスキー、スケートのコースが醸し出すスポーツ気分は、この二次元的空間的性格にある。スポーツにおけるこの突嗟でしかも決定的な方向の投企は、一定の目的計画に向う全生産構造が刻々転ずる弁証法的情勢と段階に向って、躍進的否定をもって直ちに新たなる方針を決定する、重い転換と呼ばれるべきものである。

 以上のような中井によるスポーツ気分の空間的性格は、グルーペの言う「興奮と緊張」の経験を現出させる具体的な構造であろう。スポーツは、単なる距離や方向をその実用性から切り離して、それそのものの有意義性を露わにすることで、アスリートの肉体感覚に訴えかけるのである。私自身の経験からも、このことは直感的に理解される。重要な試合などの際に特に感じることだが、アスリートはグラウンドに入った瞬間、身の毛のよだつほどの緊張と興奮を覚える。それは、これからそこで行われるゲームの行方を想像するからであり、また、これまでそこで行われてきた先人たちのパフォーマンスに思いを馳せるからである。この感覚は、マイケル・ノバックが「競技場は聖なる空間である」という時の神聖さに通ずるものだろう。

 また、陸上競技において跳躍や投擲種目の選手は、自らの身体あるいは投擲物が描く放射線とその到達点をイメージし、集中する。そして、まさにパフォーマンスに入らんとする一瞬、緊張は絶頂に達し、彼の一切の集中力がイメージされた到達点に向けられる。そこにおいて、彼の心身はもはや無である。そこにあるのは、走り・跳び・投げるという「行為そのもの」であって、走り・跳び・投げる「身体」ではない。

 これが中長距離走になると、トラックを周回するという「カーヴの次元」をもつことで感じが変わってくる。中長距離走者のパフォーマンスは、終局的にはゴールというただ一点を目指しながらも、その競技時間が長いため、爆発的な緊張を必要とすることはない。代わってそこでは、レース中の駆引きにおける判断という不断の緊張が要求されるのである。このことは、よりレーススピードの速い中距離走に特に当てはまる。中距離走においては、レース中、位置取りやペース配分、スパートの時期等無数の判断を迫られる。そして、これらの判断を誤ったり、あるいはほんのコンマ何秒遅れれば、それは致命的なのである。レースに勝つためにはただの一つも失敗があってはならない。そこに中距離走の醍醐味があるのだ。

 

共同存在的性格

 中井の考察に戻ろう。次に中井は、他者の共同存在において、その共同的であることそのことを遊離して開示するような特殊な共同世界とそれが持つ気分をスポーツの中に見出す。その気分とは、ポジションに着く、ポジションを守ると言うときそのポジションが持つ感じ、そしてそのポジションと他のポジションの間に存在する間合、あるいは間をとると言う間の気分である。そこでは、自分というものは他のポジションとの共同相互存在としてのみその存在意義をもつ。例えばラグビーにおいて、15人のラガーが球を中心に見えざる力の波紋となって、次から次に二方向的に作用する感じは、一つのチーム全体が一つの集団的実存的性格であることを思わせるし、よく鍛えられたボートのチームおいては、メンバー全員の間とリズムの把握が完全である場合、一つの時間が全員のシートの上に流れていることを心臓を持って知ることができるのである。このような共同存在の気分的開示こそ、スポーツのもつ特異な存在性格なのだ。

 中井の言うスポーツ気分の共同存在的性格は、グルーペの言う「他人との結びつき」に近い。だが、グルーペの場合のそれは、スポーツが人と人とを結びつける媒介になりうるというのにとどまるのに対し、中井の場合は、スポーツという行為が人間の現存在的性格――資本主義社会においては共同存在的性格――そのものを露わにするとしている点で、グルーペよりもさらに踏み込んでいるといえる。

 

肉体的技術的性格

 そして、中井の考察において最も重要なのが、スポーツ気分の肉体的技術的性格である。これは一言で言えば、「肉体的な悟り」の快感である。中井の言うところを詳しく見てみよう。

 あらゆるスポーツは、そのスポーツに独自のフォームを持つ。だがそれを会得するのは容易ではない。どんなに教えられても、一向に謎なのだ。だが、企て、試み、練習することを繰り返す過程で、ある日まったく突然に「フト判る」のである。いわゆる「コツ」を掴む、腑に落ちるというのがそれである。しかし、さらに練習が深まっていくにしたがって、アスリートはまた深い謎に入り込んでいく。こうしたスランプの時期を乗り越えて、フォームは熟達していく。「この時の上に熟して行くところの、成長そのものを筋肉の中に味わう気分こそ、スポーツマンの持つ最も得意な微笑である」。それは、時間そのものが自ら熟していく、その時の甘さそのものに酔う心持である。ハハアこれだなというときのこれは、言葉にできるような「・・・としての構造」Als-Strukturは持たない。むしろVor-Strukturとしてすでに気分的に判っていながらうまくいかないのであり、練習の後に初めて「・・・として」はっきりと判るのだ。この二つの中間構造として、この深まり行く実存的気分的性格は特異性をもつのであり、それは「しまっていこう」といったような言葉で言い表される。すでに身に付いているフォームへのマンネリズム、いいかげんなミーティング、フォームだけ整えた力抜き、そういったものから脱出して一刻一刻新しいフォームに向っていくときの疑問と不安、不安を通しての悦楽に、この気分は関連していく。

 このスポーツ気分の肉体的技術的性格は、アスリートにとって、最も根源的なものであろう。これはまさに、「ルドゥス」の精神の発露であり、「自己の身体と人格を経験する」契機であり、「能力動機」を満たす実践である。この歓びは、初心者からトップアスリートに至るまで、全てのアスリートが経験するものなのであり、アスリートの生活とは、この繰り返しなのである。そして、肉体が発達し技術が向上すればするほど、これを掴むことは困難になり、掴んだときの喜びは大きくなるのだ。このことをハイレベルで体現しているのが、プロ野球選手イチローの次のようなエピソードだろう。

 

イチローの場合

 イチローと言えば、1994年にプロ3年目の21歳にしてパシフィック・リーグの首位打者に輝き、それから米メジャーリーグに移籍するまでの7年間、首位打者の座に座り続けた稀代の天才バッターである。だがそんな彼でさえも、ユ94年からユ98年のシーズンにかけては打撃の技術に悩み、何度も絶望の淵に立たされたという。イチローは言う。

 ・・・ユ94年の途中まではヒットなんて簡単に打てると思ってましたが、それがだんだん難しくなってきた。自分の中にはヒットを打てる感覚があったにもかかわらず、体が思うように動いてくれないんです。イメージはある、でもそれができない。どうやればそうなるのかがわからない。自分の感覚では半分の力しか出せていない、そんな感じでしたからね。それは苦しかったですよ。

 イチローが幼い頃から父親に連れられて毎日バッティングセンターに通っていたのは、有名な話である。そうした練習を通じて試行錯誤を重ねたからこそ彼は、二十歳そこそこの時点で「ヒットはいつでも打てる」といえるほどの感覚を身に付けていたのだ。だが、さらなる完璧さを求めるうちに、彼は深い謎にはまり込んでいく。それは、彼の野球人生の中で最大のスランプだったであろう。結局それは足掛け5年にも及ぶのである。だがイチローのすごいところは、そうした謎の中にいながらも毎年首位打者をキープしつづけたことだ。おそらく彼のはまりこんだ謎は、彼ほどの高みに到達しなければ体験できない種類のものたったのだろう。

 そんなモヤモヤが一挙に解消される瞬間は、ある日突然やってきた。しかもそのきっかけが、何の変哲もないボテボテのセカンドゴロだったというのが面白い。イチローによれば、それは「目と脳ミソでは完璧に捉えたはずの球」だった。「間違いなくいい打球が飛ぶはずの、そういう球の見え方だった」のだ。だが、結果はセカンドゴロ。イチローはそこで一体何を「悟った」のか。彼は言う。

 打った瞬間にハッと思って、一塁まで走っている間に、そのときのフォームを自分のイメージの中で逆に再生してみたわけですよ。・・・そうしたら、実際のフォームと自分のイメージの中のフォームが重なって見えて、どこがずれてるのか、そのポイントがわかったんです。本当はこうしたかったのに、こうズレた、だからいい打球が飛ばなかった・・・・・でも、脳ミソで捉えるまでの球の見え方、体の使い方は完璧だったんです。そのイメージを僕は長い間、ずっと探していた。たまっていた老廃物が体から気持ちよく抜けた、まさにそんな感じだったんです。

 まさに中井が考察したとおりのことが、ここに展開されている。イチローは、イメージ= Vor-Strukturとしてすでにわかっていたことを、このセカンドゴロをきっかけにAls-Strukturすなわち明確に意識できるかたちで捉えることに成功したのである。イチローはこのとき、跳び上がりたいほどにうれしかったという。何度首位打者になっても、少しも満足していなかったというのにだ。実際にどういったコツを掴んだのかはここでは割愛するが、ともかく彼はこの経験を通じて、ストライクなら7割の確率でいい打球を打てる自信があるとまで言い切るようになった。これはほとんど神がかり的な数字である。

 だが、2001年、イチローはこの言葉が決して大袈裟でないことを証明して見せた。メジャーリーグ1年目にして打率3割5分をマークし、アメリカン・リーグの首位打者に輝くという偉業を成し遂げたのである。この成績に関して、内野安打が多いという理由で評価しない向きがあるようだが、内野安打を一概に打ち損じとするのは誤りだろう。異常に多い内野安打には、足の速さはもちろんのこと、高度な技術的裏づけがあると考えるほうが自然だ。それに、日本とアメリカでは、ストライクゾーンやプレースタイルも異なる。その中で3割以上の打率を残すことは、並大抵ではできないことである。

 

真のスポーツ気分

 話が横道にそれてしまった。中井の考察には続きがあるのだ。彼によれば、アスリートが疲労の限界を打ち破って動き始めるとき、真のスポーツ気分が出現する。彼は、『スポーツの美的要素』という論文の中で、ドイツの哲学者、テオドール・リップスによる「忍苦の快感」の考察を次のように解説している。

 「忍苦」は「行為」に対立して、後者の能動的なるに反して、前者は受動的である。この苦痛を感ずる意味での受動的なこの忍苦は、その苦しみを耐え、持続し、抵抗し、さらに打破して耐切るときは、それは能動的なる行為自身の内面の、その中のさらに深い能動者、すなわち「行為の中の行為」としての忍苦Erleidenにまで到りつくす。そしてこの忍苦は、弛緩、無気力、柔弱なるものの享受できないところの健全と弾力と興奮性のもつ特権であるという。

 中井はこのことを、ボート競技を例にとりながらさらに考察する。

 疲切った腕がなおも一本一本のオールを引切っていくその重い気分は、人生の深い諦視と決意の底に澄透れる微笑にも似る。この微笑気分はよき練習と行きとどいた技術の訓練においては特殊の「冴え」をもたらすものである。オールあるいは水に身を委ねた心持、最も苦しいにもかからず、しかも楽に漕げる境、緊張し切った境に見出す弛緩ともそれはいわるべきものである。(中略)耐えることは最早放棄しかありえない極みにおいて、何物かに身を委ねる。それはフォームと言わんにはあまりにも流動的である。成長するモルフェの瞬間的把握であり、時そのものの特殊な実存的深化である。

 そして中井は、「未だ自らのフォームを意識しているうちはそのフォームは真のものではない」と言う。それでは真のフォームとは何か?それは、次のようなものだ。

 すでにいわゆる天地晦冥ただ水とオールとに成りきるとき、身は自ら水にアダプトして融合して一如となる。その気分の中にこそ、成長するフォーム、生身の型がある。

 これこそ、アスリートの至高体験とでも呼ぶべきものであろう。ここに見られるのは、自己を越えたところに新たなる自己を見出す超越的経験、意識と行為との融合、自己と環境との一体感である。そして、「掴得したフォームの気分を常に反復的に繰り返して味わうことによってそれを熟せしめながら、しかもそれを脱落してより先に躍進せんとするところの、いよいよ不断の瞬間の持続」こそが、よきアスリートの在り方なのだ。

 

フロー経験

 中井は、スポーツ気分の肉体的技術的性格が現れる場面を「フォームの掴得」、つまりトレーニングの過程に限定しているようにも思えるが、実際こうした気分は、ゲームの場面においても存在する。この章の冒頭に挙げたバニスターの例などがそれである。そこにはもちろん、「本番」であるからこその緊張感が「フォームの掴得」を促すという面はあろう。だが、そこで得られる感覚は、それだけに限定されるわけではない。

 私の経験を例として挙げよう。私は高校でハンドボール、大学で陸上競技(中距離)をやっていたわけだが、そのどちらにおいても、「あれがベストパフォーマンスだった」と言えるゲームがあった。そのゲーム中の感覚は、ハンドボールと陸上競技では競技の性質がまったく違うにもかかわらず、共通していた。まず、そのときの私はレースやプレイそのものに集中できていて、限りなく無心に近い状態だった。体は自然と動き、何をやってもうまくいった。そして、ゲームに集中しきっているにもかかわらず、自分の動きをもう一人の自分が冷静に見つめているような感じがしたのである。

 私が経験したこのような感覚を、M.チクセントミハイは「フロー(flow)」と名付ける 。フローとは「全人的に行為に没入しているときに人が感ずる包括的感覚」である。チクセントミハイは、フローの特徴とその関係について、以下のように述べる(カッコ内筆者)。

 フロー活動は刺激の領域を限定することによって(1)、人々の行為を一点に集中させ、気持ちの分散を無視させるが(2)、その結果、人々は環境支配の可能性を感ずることになる(3)。フロー活動は明瞭で矛盾のないルールを持っているところから(4)、その中で行動する人々は、しばしの間、我を忘れ、自分にまつわる問題を忘れることができる(5)。以上の全ての状態が、人々に内発的に報いのある過程を発見させるのである(6)。

それぞれの特徴について簡単にまとめておこう。

(1) 限定された刺激領域への注意集中

 フロー状態にある人は、自分の行為にのみ集中し、それ以外のことはすべて意識の外に置かれている。ゲームにおいては、ルールが刺激を適切に限定し、それ以外のすべてを不適切なものとして除外する。注意の集中は、競争や賭けといった要素が加わることによってより確実になるが、逆にそういった要素に気をとられてフローが阻害されることもある。

(2) 行為と意識の融合

 フロー状態にある人は、二重の視点を持つことはない。すなわち、彼は彼の行為を意識してはいるが、そういう意識そのものをさらに意識することはない。「うまくやっているだろうか」「ここで自分は何をしているのだろう」「これをやりつづけるべきか」というような疑問がひらめいた瞬間、フローは壊されてしまう。

(3) 自己の行為や環境に対する支配意識

 フローの感覚は、その行為が必要とするものすべてに対処し得る場合に生じる。ゲームにおいては、日常生活と違って、少なくとも理論的には全てが制御可能である。フロー状態にある人は、自分の周囲の環境や自分の行動、あるいは競争相手を自分の支配の下に置いている感覚、有能感を持つ。さらには環境そのものに融合しているような感覚さえ持つのである。

(4) 首尾一貫した矛盾のない行為と行為に対する明確なフィードバック

 フロー経験という人為的に単純化された現実においては、何が「正しい」か「間違っている」かが明確にわかり、目的と手段が論理的に整理されており、矛盾した要求を突きつけられることはない。また、行為に対する反応は自動的であり、どうすればよいかを一つ一つ考えるようなことはない。

(5) 自我の喪失

 フローの状態にある時、人は自分の行為以外のことは考えなくなり、自分が自分でなくなったように感じ、行為が自動的に行われているような感覚におそわれる。だが、フローにおいて失われるのは個人の身体や機能に対する意識ではなく(これはむしろ増加する)、通常人が刺激と反応との間に介在させる、学習によって得た自我(エゴ)の構造である。

(6) 自己目的的性質

 フロー経験は、行為それ自体に動機付けられた活動であり、目的や報酬を必要としない。行為の経験それ自体に楽しさがあるのであり(内発的報酬)、勝敗や金銭(外発的報酬)は二次的なものに過ぎない。

 以上のように、フローの特徴は互いに重なり合い結びつきあっているが、それは大きくフロー活動の性質あるいは条件と、フローの感覚に分けられるように思われる。(1)、(4)、(6)が前者で、(2)、(3)、(5)が後者である。それぞれについて検討してみよう。

 

フロー活動の条件と性質

 チクセントミハイの考察からすると、フローが生まれるのは、意識が行為自体に向けられるように限定され、当該の行為が行為者にとって完全に制御可能である場合であり、行為者は自己目的的に行為を行う。特に、日常的な行為から切り離された自己目的的な活動という点に着目すると、ここにはカイヨワによる遊びの定義との密接な関連が見て取れるだろう。事実、チクセントミハイは「いくつかの活動状況(ゲーム、芸術、祭祀など)は専らフロー体験を生み出すために構成されているようである」と述べている 。だが彼はまた、どのような活動でもフローになりうるとも述べている。個々の活動の相違は、遊びと仕事に区別されるのではなく、フローを生じやすいか否かということなのである。だが、ここではそのことはさして重要ではない。スポーツがフローを生み出しやすい構造を持っていることを確認しておけば十分である。

 また、(4)においてチクセントミハイは、フロー経験においては矛盾した行為は要求されないとしているが、それは、矛盾がもともと存在しない行為だからフローが可能になるという意味ではなく、フロー状態にあるために矛盾が感じられないのだととるべきだろう。松岡正剛によるサッカー選手中田英寿のプレイの以下のような考察は、そのことを端的に示している。

 右肩は右に向けつつ、左から来るボールに対処する。一つの体が、いくつもの運動方向を共有する・・・・加速的にかっとうや矛盾が増えては、中田に選択されることで減っていく、その繰り返し。・・・・プレー中の体のよじれ、_率が少ない。サッカー選手は体のバランスを保とうとして体内にかっとうが生じ、それがよじれとして外部化されるが、中田の場合、かっとうが内包されコントロールされる。だからクールに見える。

 中田自身の精神状態が、プレー中つねにフロー状態にあるかといえばそうではあるまいが、実際にこのようなプレイができている場合、彼はボール、自分自身、相手のプレーヤーを完全に支配し、身体が自動的に動いている感覚を持っているだろうし、実際観衆の側から見てもこういったプレーはまさに「フロー(流れ)」である。そして、矛盾を次々に処理することによって、フローは成り立っているのだ。

 チクセントミハイは、「人々が行為の機会を自分の能力にちょうど適合したものとして知覚した時、フローは経験される」と述べている。さらに、「フローチャンネルに完全に入り込むためには、ある水準の経験、技能、及び目前の挑戦に適した条件作りを達成しなければならない」という。ここから導き出せることは、フローはどんな行為においても経験されうるが、完全なフローが得られるのは、ある水準にまで高められた技能が、困難な課題に対して最大限に発揮される時であるということだ。それはつまり、行為に含まれる矛盾を解消することができる技能を持たなければ、完全なフローは得られないということである。そして、技能の向上の無限性、課題設定の自由さという点で、スポーツほどフローを得るのに適した活動はないだろう。チクセントミハイは、フローの両極に、日常生活でも得ることのできる単純で軽微なフロー(micro flow)と、ごく限られた機会にしか経験できない超越性を持ったフロー(deep flow)を置いているが、スポーツにおいてはどちらのフローも得ることができるのだ。バニスターは、砂浜をランニングしたときも1マイルで4分を破ったときも、程度の差はあれ同じように、フローに達していたのである。

 

フローの感覚

 では、フローの感覚とはどのようなものか。チクセントミハイの考察によればそれは、行為と意識の融合、自己や環境に対する支配、自我の喪失というように言い表された。これは先ほどの中井による「スポーツ気分の肉体的技術的性格」の考察の中でわれわれが見出した感覚とほぼ同じものであろう。ただし、中井の場合そうした感覚は、アスリートが疲労を乗り越えて自己の内面深くにある「能動」を呼び起こしたときに初めて経験されるものであった。だが、フローの感覚は必ずしもそういった場面に限られるわけではないのは、先に述べたとおりである。

 ところで、環境に対する支配の感覚という点については、J.P.サルトルによるスキーの分析がある。サルトルはスポーツ、特に野外スポーツを、対自、すなわち「わたし」という主体による、即自、すなわち「非−わたし」という客体の「我有化(appropriate)」と見なす 。彼は言う。 

 スキーの意味は、ただ単に、急速な移動ができるということや、技術的な巧妙さを獲得することにあるのではない。それはまた、ただ単に、私のスピードやコースの困難さを意のままに増し加えて遊ぶことにあるのでもない。スキーの意味は、この雪原を所有することを私に許してくれるという点にもある。・・・・・・・スキーヤーとしての私の行動そのものによって、私はこの雪原の素材と意味を一変させる。

 「雪原を所有する」とは、すなわち以下のようなことである。雪は、遠目でこそ一つの大きな固まりとして出現するが、一度近づけばそれは断片的な雪の集合となってしまい、我々はどうすることもできない。だが、スキーはそのスピードによって、雪原を滑降されるべき連続したスロープとして出現させる。この雪原は、到着点に向かって通過されるが、それは単なる移行活動ではなく、綜合的な組織活動、連結活動である。その意味でスキーは、雪原に形を与える「用具的な我有化」である。この「用具的な我有化」は、グルーペの言う「自然と物質の経験」の最も明瞭な表れであろう。

 だが、スキーの意味はそこにとどまらない。「滑走」は我有化であると共に、一つの絶えざる創作活動である。なぜなら、スピードによって実現される雪の綜合は、滑走する当人にとってしか、また彼が滑走するまさにその時においてしか、有効でないからである。滑走において雪が示す堅固さは、「雪が私だけに打ち明ける秘密」であり、この秘密は「私の背後では、もはやすでに真ではない」のである。そしてスキーヤーは、「雪の層が、私を支えるためにその最も深いところにいたるまで、それ自身で自己を組織するのを、実感する」のだ。つまり、私=スキーヤーは、雪原(非=私)を私のものにする(我有化)ことによって、「私」と「非=私」の綜合を実現するのである。

 以上のようなサルトルの分析は、「私」と「非=私」の綜合ということからもわかるように、環境に対する支配というよりも同調という側面が強いように思われる。だが、チクセントミハイが言うように、フロー状態にある人は、「積極的な支配意識を持っているわけではなく、ただ支配を失う可能性に悩まされることがないだけ」なのだ 。スキーヤーは、自分自身の技量に対して雪が適切に対応してくれていることを感じ、雪との一体感を経験する。彼は、自分の技量と雪の反応に対して絶対の信頼を寄せている。そこには、「転んだらどうしよう」とか、「雪質が悪いな」とかそういった考えが入り込む余地は一切ないのである。彼は滑ることだけに集中しており、そこにフローが生まれる。

 ところが、技術のないスキーヤーは、自分の技術に対してもあるいは環境に対しても常に疑念を抱きつつ滑らなければならない。もし彼がたまたまうまく滑れたとしても、それは雪との同調がなされたのではなく、なんとか自分が転ばないように雪を「支配した」というだけのことであろう。そこでは、フローが生まれることはないのである。

 

結論

 以上、スポーツ経験の意味や快楽、そして歓びといったことについて考察してきた。ここまで述べてきたことをまとめると、以下のようになるだろう。すなわち、スポーツという行為は、勝敗に限らず、日常ではなかなか得られない数多くの経験をアスリートに与えてくれる。それは、興奮や緊張感であったり、他者との連帯感覚であったり、あるいは美の感覚であったりするが、その中でもアスリートにとって最も本質的なことは、自分の能力を高めていくことで達成感を味わい、また、自分の周囲の環境を意のままにし、さらには環境に同調することで非日常的な超越的感覚を経験することである。これこそ、アスリートにとっての、スポーツの「歓び」なのだ。このことに比べれば、他者に勝つことで得る快感などは取るに足らない二次的なものである。

 だが、現実にスポーツの世界を支配しているのは、スポーツにおける「結果」を重視する風潮であるように思われる。次章では、そうした転倒がなぜ起こるのか、その弊害は何かということについて考察したい。

 

第3章 現代スポーツ批判──スポーツにおける「結果志向」について

 

 第2章では、スポーツの意義、楽しさ、歓びとはなんなのかということについて考察した。その内容を一言で言い表すのは困難であるが、一つだけ確実に言えることがある。それは、スポーツにおいて「結果」――勝利、記録、報酬、名声等――は本質的な価値を持たないということである。それどころか、それらは真に有意義なスポーツ経験を不可能にしてしまうことすらありうる。

 だがそれにも関わらず、現代のアスリートを捉えているのは勝利への執着、記録への欲望、それに付随する報酬や名声であるように思われる。こういった傾向――結果志向――がなぜ生まれてくるのか、どのようにスポーツの価値を損なうのかを考察することが本章の課題である。特にここでは、スポーツそのものの「結果」である、「勝敗」と「記録」について考えてみたい。

 

スポーツにおける「競争」の意味

 第1章で検討したように、スポーツは広い意味でのコンテスト競技に含まれる活動であるから、競争はスポーツを構成する最も重要な要素の一つである。実際、単なる「身体を使った遊び」がスポーツにまで高められるのは、競争という要素がそのなかで突出してくるからである。

 だが少し考えればわかるように、スポーツにはもともと競争的な構造を含んでいるものと、そうでないものが存在する。前者はサッカーや野球、テニスなど、相手がいなければそもそも成り立たないスポーツであり、後者は陸上競技や水泳、登山など、一人でも行うことのできるスポーツである。だからと言って、前者にとって競争が本質的であり、後者にとってはなくてもよいものだとするのは早計である。例えばカイヨワは次のように述べている。

 ルドゥスは、それ自体としては、不完全であり、退屈を紛らすための一種の埋め草に過ぎないように思われる。多くの人たちは、やがて遊び相手がやってきて、この反響のない快楽の代りに、対抗的な遊びができるようになるまでの間、仕方なくこれを行うに過ぎない。しかも、・・・・・・他人の介入を要さず、あるいは、他人の介入が好ましくないような遊びにおいてさえ、ルドゥスは、前回は失敗したが次回こそ成功するだろうとか、前回に達した点数より高い点数が取れるだろうとかいう希望を遊び人に抱かせる。このようにして、アゴーンの影響が再び現れてくる。事実、アゴーンの影響は、人為による困難を解決することで喜びを味わうという一般的雰囲気に彩りを与えるものである。

 第2章で考察したように、ルドゥスはスポーツの持つ諸側面の中で最も重視されるべき要素であった。だが、カイヨワ曰くそれは、「退屈を紛らすための一種の埋め草に過ぎない」のである。けれどもこれは少々言い過ぎというものだろう。それに第1章でも述べたように、過去の自分との競争は、アゴーンの影響というよりもルドゥスの属性であると考えるべきである。

 ただ、ルドゥスにアゴーンの要素が加わることによってルドゥスがより増幅されるということは、納得できる。例えば100m走について考えてみよう。もし、世界に100m走という競技をやっている人間が自分一人だったとして、彼はそれでもより速く走りたいと願うだろうか?最初のうちは願うかもしれないが、きっとすぐに飽きてしまうことだろう。なぜなら、一定のレベルに達した後では、彼は速く走ることにに何の意味も見出せなくなるからである。より速く走ることは、その速さを比較できる相手が存在するときのみ意味を持つ。言い換えれば、競争相手の存在なしには、長期間の訓練をしてでもより速く走りたいなどという欲望は存在しえないのである。

 このことの持つ意味は重要である。競争という要素が存在しなければ、一つの行為をとことん極めようという発想は生まれてこない。ということはすなわち、中井正一の言う「スポーツ気分(特にその肉体的技術的性格)」を経験することは難しくなるということになる。なぜならそれは、一つの行為を極めていく過程で経験される性質のものだからだ。よって競争はまず、ルドゥスを強化することによって独特の経験を生み出すことを可能とするところにその意味があると言えよう。

 また、第2章でも述べたように、チクセントミハイは、競争という要素がゲームに加わることによって行為への集中がより確実になり、フローを得やすくなると述べている。ただし、フローを得るために競争しなければならないということはかならずしもない。実際、チクセントミハイがフロー活動の例としてあげているのは、ロッククライミングやダンス、手術など非競争的なものが多い。それどころか、競争は逆にフローを阻害する可能性があることを認識しておく必要がある。  

 ここまでの考察は、主に本来はその活動の中に競争的な構造を含んでいないスポーツについてであった。だが先にも述べたように、多くのスポーツはもともと競争的であるというよりも、競争そのものである。そして、競争の先にあるものは、勝利か敗北かのいずれかである。だが、間違ってはならないことは、それらのスポーツが勝者と敗者を分けるために存在しているのではないということである。勝利や敗北は、競争をその構造とするが故の必然的な帰結であって、それ自体が目的なのではない。このように言うと語弊があるかもしれない。確かに、それらのスポーツを行うアスリートは勝利を目的としているのである。だがそれは、勝利を目的としなければそのスポーツ自体が成り立たないからであり、勝利を目指すことにそれ以外の意味はない。過程を成り立たせるために結果が必要だというだけのことである。そしてその過程こそが、スポーツの歓びの源泉なのだ。

 

「結果志向」のメカニズム

 だが、現実にはこのことはほとんど理解されていない。勝利が最も重要だという観念はプロスポーツから部活動に至るまであらゆるレベルのアスリートに浸透しているし、スポーツは勝たなければ意味がないというような風潮(勝利至上主義)さえ見受けられる。なぜアスリートは結果志向に陥りがちなのであろうか?その答えは様々であろう。金銭のため、名誉のため、国のため、有名になりたいから、勝つとスカッとするから・・・・・いずれにせよこれらに共通しているのは、スポーツをスポーツ以外の何かを達成するための手段にしようという意図である。だが、その「何か」についてここでそれぞれ検討している余裕はない。そこで、中井正一による現代スポーツ批判を見ることで、「結果志向」の問題について若干の考察をしてみたい。

 中井の『スポーツ気分の構造』と『スポーツの美的要素』という二つの論文については、第2章でも取り上げた。この二つの論文は、「気分の構造」と「美的要素」というように名前こそ違うけれども、その意味するところは実質的には同じである。『スポーツの美的要素』においては、スポーツの持つ快感の構造が依拠する要素として、「競争性」と「筋肉操作」の二つが挙げられている。このうち、「筋肉操作」の快感は、スポーツ気分の「肉体的技術的性格」とほぼ同義であり、分析されている事例も同一のものである。もう一つの「競争性」の方は、スポーツ気分の「共同存在的性格」と共通する要素が挙げられているが、競争性という概念自体は『スポーツ気分の構造』においてはまったく見受けられないのである。この二つの論文は、書かれた年次としては『スポーツの美的要素』の方が先であるから、おそらくスポーツについての考察を重ねるうちに、中井は、スポーツの快感において「競争」が本質的な意味を持たないという考えをもつようになったのだろう。

 前置きが長くなってしまったが、中井は『スポーツ気分の構造』の中で、スポーツにおける勝敗の意味についての見事な分析を行っている。彼はまず、アスリートと観客のスポーツ気分の相違についてこう言う。

 ・・・・・いわゆるファン及び観覧者のスポーツ気分は、またすっかり異なっている。彼等は勝敗が問題なのである。スポーツマンにとってはその技術が各々格段の差をもっていてもその気分においてたいした差はないけれども、ファンにとってはそれは無意味なのである。彼等にとってはスポーツ気分はどちらが勝つかという蓋然性が均勢が取れた場合に初めてあらわれるのである。・・・・・そこでは単なる期待の戦慄に我を忘れることが出来、目の前の勝負の結果のみが問題なのである。

 アスリートのスポーツ気分はさきに考察したとおりだが、観客のスポーツ気分はそれとは全然違って、勝敗のみを問題にしているという。大衆スポーツがそれほど広まっていなかった戦前の日本においては、おそらくそのとおりであっただろうし、今日でもその状況にそんなに変わりはないように思われる。中井は続けて、アスリートの勝敗に対する態度についてこう言う。

 よきスポーツマンにとって勝敗そのいずれにせよ、往々暫し呆然としているものである。勝った場合は「あれでよかったのか」といったような驚きに似た気分であり、敗れた場合はむしろ敵に対して「よくやったなあ」といった様なやはり不思議な様な驚きの気分である。彼等を踊上がらせたり泣かせたりさす気分的混迷は先輩応援者等の圧力への意識的な関聯においてである。多くの場合それは質のよくないあがり気味のスポーツマンの芝居ですらある。彼等は踊ったり泣いたりするにはもっと深く長く凡ての練習を通して微笑みかつ泣きつづけて来ている。勝って泣くのも敗けて泣くのも、その長い苦闘に対して自分をいたわる涙なのである。

 的確な指摘である。スポーツの意味を真に理解しているアスリートであるならば、そう大喜びもしなければ派手に泣いたりもしないものだ。余談だが、私は試合に負けて一度だけ大泣きしたことがある。だがそれはまさに「質のよくないあがり気味のスポーツマンの芝居」というのがぴったりの涙だった。泣きたくて泣いたというよりも、「泣いた方がいいよな」というような気持ちだった。だから、中井のこの文章を読んだとき、なんだか自分のことを言われているような気がして恥ずかしかったものだ。

 話を戻そう。中井の考察から導き出せるのは以下のようなことである。すなわち、アスリートが結果志向に陥るのは、「観客のスポーツ気分」に影響されるからなのだ。これは最も単純には、チームメートや応援してくれる関係者やファンの期待に応えるために勝ちたいというようなことであるが、ことはそこにとどまらない。私が最も問題だと考えるのは、アスリート自身が「観客的気分」を持ってしまっていることだ。

 中井は、観客のスポーツ気分として、勝敗の結果とそのスリルしか挙げていないが、私はもう一つ挙げることができると思う。それは、「ドラマ」である。そして、現代のようにスポーツが社会の隅々まで浸透し、大量のスポーツ観戦好きを生み出している社会においては、勝敗よりも「ドラマ」が重要なのである。特に、テレビでスポーツを見る人々は、まさに映画を見たり小説を読んだりするのと同じ感覚でスポーツを見ているし、製作者側もそういった番組作りをしている。そこにはストーリーがあり、栄光があり、挫折があり、感動がなければならないのである。

 例えば箱根駅伝を考えてみよう。あれとてスポーツとしては、10人で東京〜箱根間を2日間かけて往復する、ただそれだけのレースである。しかし、そのレースには実に膨大な意味が付与されているのだ。まず、関東学生連盟所属の大学のうち、15校(記念大会は20校)しか箱根駅伝には出場できない。そこでまず、予選会で激しい出場権争いがなされる。そして争いが激しければ激しいほど、観客にとってそれは面白い「ドラマ」なのだ。また予選会を勝ち抜いて本大会に出場することは選手にとって「憧れ」であり、一種のステータスになる。その本大会はすでに長い歴史を重ねている「伝統」の大会であり、当然、これまでに様々な「ドラマ」が起こっているので、その映像が繰り返し放映される。さらには、注目選手の練習ぶりやこの大会にかける思いなどが放映されたり、誰かがブレーキを起こすと「○○大学の××、大ブレーキです!」とアナウンサーが絶叫したり、各大学の差が開いてしまう終盤になると、繰上げスタートによって母校の襷を途切れずにつなげるかどうかに注目したり・・・・と、まさにあの手この手で観客が手に汗握る「ドラマ」を盛り上げていくのである。こうして、箱根駅伝は「神聖な」大会になり、選手は「別世界の」人間になる。

 こうしたレースの「ドラマ性」を高めるような要素は、駅伝というスポーツにとって全く本質的ではない。だが、駅伝にとって本質的なことばかり伝えようとする番組を作ったならば、視聴率はグンと下がってしまうだろう。そもそも駅伝など、本来はそんなに多くの人が見て楽しめるようなスポーツではないのである。少なくとも、駅伝や「走る」ことについての理解がそれほどない人にとってそんなに面白いはずがない。

 だが、ここはスポーツメディアやスポーツ観戦者を批判する場ではない。私が批判したいのは、アスリート自身が無知なマスメディアや観客と同じように、スポーツに「ドラマ」を求めてしまうことである。つまり、スポーツを「見る」人が、箱根駅伝で走ることや世界新記録を出すことや世界チャンピオンになることを「すごい」「偉大だ」「別世界の人なんだろうなあ」と思うのと同じ気持ちで、アスリートがそれらを目指すこと、言い換えれば、スポーツの結果に過ぎないものに幻想を抱いてしまうこと、それが問題なのである。

 例えば、山際淳司の「ポール・ヴォルター」というノンフィクションは、このことの例として適切であるように思う。この作品の主人公は、高橋卓巳という棒高跳びの選手である。高橋氏は、日本記録保持者でモスクワ・オリンピックの代表にも選ばれた、言わばトップアスリートである。ある日のこと、彼は、勤務先である高校のグラウンドで、一人雨の中練習していた。以下は、その時高橋氏に起こったことを山際が描写したものである。

 彼はふと、妙な感覚におそわれた。
 《僕は涙を流すんじゃないか》
 と、彼は思った。
 《しかし、なぜ泣くのだろう》
 彼は立ちどまり、グラウンドの隅にたたずんでしまった。
          (中略)
 再び走り始める。・・・・彼はホントに泣くんじゃないかとと思い、雨と一緒に流してしまえばいいと思ったとき、涙がポロポロとこぼれ、そのとき初めて彼は自分がなぜ涙を流すのかを悟った。
 何を、だろう。
 《むなしさ》という言葉を見つけてしまったのだと彼は言った。
 《むなしかったんですよ、何もかもが。僕はなぜこんなところで走っていなければならないのか。なぜ、高く跳ばなければいけないのか。僕にはわからなくなってしまったんですね。新しい記録を作った。それはいい。しかし、それだからどうしたというのか。そこまでいけば、僕はもっと自信を持てるようになるんじゃないかと思っていた。もっと自信にあふれて生きているはずだった。
 でも、何も変わらないんです。
 僕は目標を失って、自分の身の置き所を失ったように不安でした。哀しくて、むなしくて、どうにもならなかった・・・・・》
 そして彼は、一人きりで雨のグラウンドに涙を流したわけだった。  

 「記録」を作れば、「自信をもって」生きていける。なぜそう思うのか?そのことについては何も書かれていないので推測するしかないが、おそらく彼には、記録保持者やその他の「トップアスリート」が自信をもって生きているように思えたのだろう。あるいは、何かの分野で一番になることで、他の分野でも揺るぎない自信が得られると考えたのかもしれない。実際、こういう思いを抱いてスポーツに取り組んでいるアスリートは多い。だが、それこそまさに、スポーツを「見る」人たちが抱く幻想に他ならない。実際には、箱根駅伝に出ても、オリンピックに出場しても、世界新記録を作っても、何も変わらない。それは、その人を取り巻く環境は変わるかもしれない。彼は名声を獲得し、有名になり、金持ちになるかもしれない。だからといって、「自信をもてるようになる」とか「違う世界が見える」とかいうように、その人自身が何か変わるなどということはないのである。

 むなしさに目覚めた高橋氏は、それでも幸運なほうである。彼は最終的に目標としていた場所までたどり着けたからだ。多くのアスリートは、そういった幻想の愚かしさに気付くこともなく、その手前で挫折する。しかも、彼らが目指すものはたいていの場合、彼以外にとってはほとんど価値がないもであるのに、だ。どちらにしろ、幻想を追い求めているアスリートには救いがない。彼にとっては、目標に到達しなければスポーツをすることは何の意味もない上に、もし念願がかなっても、幻想が幻想であったと思い知らされるだけだからだ。

 このように言うのは、私自身幻想を抱きつづけてきたからである。高校時代はハンドボール部で全国大会出場を目指した。おそらく私は、全国大会に出れば「何者か」になれるというような幻想を抱いていたのだ。「自分に自信が持てるようになる」とも思っていたかもしれない。とにかく「何かが変わる」と思っていた。だから、私にとってハンドボールは、全国大会に出場するための手段に過ぎなかったし、そのためには何が何でも県大会で優勝しなければならなかった。勝つことがすべてであり、ハンドボールが面白いかどうかなど二の次だった。実際、2年生の後半頃から、ハンドボールを楽しいと思ったことは一度もなかったと言えるくらいである。私は全国大会に行けば全てが報われるという思いで、つらい練習に必死で耐えた。結局それが幻想だとわかる前に私たちは敗れ、後に残ったのはむなしさだけだった。最後まで、私はハンドボールというスポーツの価値をそのものの中に見出すことが出来なかったのである。

 また、「結果志向」は、「過程」を犠牲にしている、つまり、スポーツそのものの価値を理解していないアスリートにおいて特に顕著であろう。スポーツそのものの価値を理解していないということは、スポーツすること自体を楽しいと思っていないということである。ただ「勝つ」ためだけに楽しくないことをやっているならば、勝たなければすべてが無意味になると考えてしまうのも当然であろう。私の高校時代は、その典型である。こういったアスリートは、「結果志向」というよりも、それが行き過ぎたところの「勝利至上主義」といったほうがよいかもしれない。ここまでの考察でわかるように、「勝利至上主義」は、「勝ちたい」という欲求とは質的に異なるものである。それは勝つことを目指しているのではなく、勝利の果てにある幻想を追い求めているのであり、あるいは、今まで払ってきた犠牲を取り戻したいというマイナス思考の産物なのである。

 

「結果志向」の弊害

 それでは、「結果志向」の弊害とはなんだろうか。まず、上で見たように、「結果志向」が高じたところのものである「勝利至上主義」は、スポーツを他の「何か」を得るための手段としてしまうことでスポーツの多様な価値を経験することを不可能にしてしまう。それどころか、「勝利至上主義」的態度のアスリートは、勝つことすら快感ではないのである。勝つことがすべてだとという態度は、「勝ちたい」のではなく「勝たなければならない」「負けられない」ということを意味するのであり、それは願望というよりも必要なものなのだ。それは、A.コーンの例を援用すれば、グルメの人にとっての最高級料理ではなく、空腹な人にとっての夕食なのである 。実際に食べたとき、「うれしい」というよりは、「ほっとする」というのがその意味するところである。

 このことは、私の経験からも明らかに言えることである。高校時代は勝たなければならない試合にことごとく負けてしまった私だが、大学で陸上競技を始めてからは、勝たなければならないと思ったレースにはほとんど勝った。勝たなければならないレースとは、実力的に優勝が狙えて、周囲からも勝つことが期待されているレースである。自分のプライドを保ち、周囲の期待に応えるために勝たなければと思うのである。こういうレースというのは、スタート前は逃げ出したくなるほど緊張するし、レースの最中も、負けることに怯えながら走っている。最後の直線で先頭に立ってゴールに向かうときの気持ちは、わくわくするというよりは、早くゴールがきてくれと必死に逃げるような気持ちであり、ゴールしてやっとほっとするという、そんな感覚なのだ。私は、自分は小心だからレースに勝てるのだと自覚していたほどである。つまり、負けるのがものすごく怖いから、勝てるように最大限の努力をしたのである。これではレースが楽しいはずがない。このような「勝利至上主義」は、コーンによると、自尊心の欠如に由来する 。つまり、自分に自信がないから、他人に勝つことでそれを埋め合わせようとするのである。確かに、自分という人間に絶対的な自信をもっていれば、競争に敗れることを極度に恐れることはないだろう。そういう人間は、一度負けたら自分自身が否定されるなどとは思わないだろうからだ。

 勝利至上主義のもう一つの問題は、勝利というものが稀少であるという事実だ。一つの試合に勝つことは簡単かもしれないが、全部の試合に勝つのは至難の業である。特にトーナメントなどの場合、最終的に勝利と呼べるのは、(特に「勝利至上主義」的アスリートにとっては)優勝だけである。つまり、勝利だけを価値あるものとしている限り、ほとんどのアスリートは最終的には満足を得ることが出来ないのである。しかも、一度頂点に立って束の間の安堵を得ても、彼の立場はすぐに危険にさらされるのである。彼は、自分に自信を持って生きていくために、競技を続ける限り勝ちつづけなければならない。これを幸福と呼べるだろうか?

 

「結果」は「結果」でしかない

 以上の考察は、「結果志向」のより過剰な形態についてのものであった。では、「健全な」結果志向というものが存在しうるのであろうか?ここで、第2章の冒頭に挙げた、ロジャー・バニスターの例を思い出して欲しい。彼は1マイル4分の壁を破るべく競技会に出場し、そして実際にその目標を達成したのであった。このバニスターの行為は、紛れもなく「結果志向」であるように思える。だが、彼自身による彼の心理描写を信用するならば、彼はそのレース中、なんともいえない歓びを感じながら走っていたのである。同じ「結果志向」においてこの違いは一体どこにあるのか?

 答えは簡単である。バニスターの目的は「結果」そのものにあったのである。つまり、彼が欲していたのは1マイルで4分を切るということそのものであり、それによって自信を得ようだとか、なにか今までとは違う人間になれるだとか、そういった動機とはまったく無縁だったのだ。彼は自分の能力を開発することに歓びを感じ、その歓びを「結果」をだすことで結実させようとしたのである。

 ここで私は、「結果志向」におけるもう一つの側面、「記録」について考えることが出来る。一見したところでは、勝利=アゴーン(競争)、記録=ルドゥス(達成)であり、私の立場からすれば、記録を志向することはスポーツの本質的価値に適うものであるように思われる。だが、真実はそうではないのだ。「結果志向」の分水嶺は、勝利と記録の間にあるのではない。「手段」としての結果か「目的」としての結果か、その間にあるのである。つまり、よい記録を出すことが、自信を得たいだとか、「何者か」になりたいだとか、あるいは称賛を得たいだとか、そういうことの「手段」ならば、それは質の悪い「結果志向」であり、反対に、それまで練習を通じて培ってきた能力を試合で発揮してその結果として勝ちたい、勝つこと自体にその結実を見たいというような「結果志向」ならば、それは健全である。そのような態度のアスリートにとって、「結果」は文字通り、それまでの練習の「結果」、レースやゲームで全力を出し尽くした「結果」なのであり、それ以上の何物でもない。そして、そういった態度は結局のところ、「過程志向」――スポーツを行うという行為そのものの中に価値を見出し、その歓びを味わうという態度――から生まれてくるものなのである。

 スポーツにおける「結果」は、「結果」以外の何物でもない――。この一見単純かつ当然と思える事実を再確認するところから、アスリートとスポーツの幸せな関係に向けての展望が見えてくるのではないだろうか。私は、そのことを願って止まない。


あとがき

 

 卒論でスポーツを取り上げるなど、ゼミに入った当初は考えたこともなかった。そもそも私は、スポーツについての学問などハナから馬鹿にしていた。スポーツは「する」ものであって、「学問する」対象になるわけがない。そう決め付けていた。

 だが、いざ卒論を書こうという段になって、自分にとって何がもっとも切実な問題なのかと考えたときに最後に残ったのは、スポーツだった。自分は何者かということを知るために、スポーツについて考えることは避けて通れないように思えたのである。

 しかし、4年生の頃はまだ競技も現役で続けていたこともあって、スポーツについて真正面から客観的に考えることはかなり困難だったし、精神的にもきついものがあった。留年することをすでに決めていたこともあり、私は途中で卒論を放り投げてしまった。要するに逃げたのである。

 で、そのまま逃げ切ろうと思っていたのに、結局は逃げ切れなかった。5年生も11月になってからのテーマ変更で、加藤先生もさぞ驚いたことと思う。だが、テーマを再びスポーツに戻したのは、5年生になってからの競技生活において色々と考えるところがあったからである。その意味で、この時のテーマ変更には、言わば“勝算”があった。

 だが、実際にスポーツについて勉強しはじめると、それが意外なほど奥の深いものであることに気付かされた。そして、自分がスポーツについて、ほとんど何も知らないことを知った。考えてみればおかしな話である。あんなにスポーツばかりやっていたのに、その実それがなんなのかは全然理解していなかったのである。

 この論文の執筆を通して、私のスポーツに対する理解は格段に深まったように思う。以前は、自分の成績や自分がしているスポーツにしか関心がなかったが、最近はスポーツそのものに興味を感じるようになった。これまたおかしな話だが、スポーツ嫌いのスポーツ選手というのは結構多いのである。

 惜しむらくは、私自身がすでに競技の一線から退いてしまっていて、これから何らかの競技スポーツをやる予定もないということである。この論文に書いたようなことを以前から理解していれば、私のスポーツ人生もまた別であったろうと思うと少々残念である。そういう意味では、今現在スポーツをやっている人にぜひ拙論を読んでほしいという淡い期待を抱いている。卒論としては全く不勉強な駄作であるかもしれないが、きっとなにか考えるところがあるはずだと思う。

 だが、私は自分のスポーツ人生を後悔しているわけではない。もちろん、悔いが残ることはたくさんあるが、得るものも多かったと思っている。特に大学に入り、陸上競技部に入ってからは、日々楽しいときを過ごすことが出来た。この卒論は、何よりもまず、陸上部で過ごした日々の賜物である。陸上部の先輩・同輩・後輩のみんなに感謝申し上げたい。

 また、木下ゼミ幹率いる昨年度の同期、そして松井ゼミ幹率いる今年度の同期、両ゼミテンにも感謝申し上げる。ゼミはさぼってばかり寝てばかりのこんな私でも、加藤ゼミは大好きでした。そして、加藤哲郎先生。だめな5年生ぶりを遺憾なく発揮してご迷惑ばかりかけてしまいました。でも、先生に反面教師にさせられるのは、ちょっと快感でした。先生あっての加藤ゼミ。私も先生の度量の大きさ、おおらかさに一歩でも近づけるよう、自分を磨いていきたいと思っています。

 最後に、勉強しないでスポーツばかりやってるドラ息子を5年間大学に通わせてくれた両親と、つらい時期に心の支えになってくれた人たちに、深く深く感謝の意を捧げ、筆を置きたいと思います。

 

2002年1月30日

                              藤原 周作

 


参考文献一覧

 

アレン・グットマン『スポーツと現代アメリカ』清水哲男訳、TBSブリタニカ、1981
A.コーン『競争社会を超えて』山本啓他訳、法政大学出版局、1994
オモー・グルーペ『文化としてのスポーツ』永島惇正他訳、ベースボールマガジン社、1997
J・P・サルトル『存在と無』第3巻、松波信三郎訳、人文書院、1960
Th・W・アドルノ『プリズム』竹内豊治他訳、法政大学出版局、1970
D・S・バット『文明としてのスポーツ』浅田隆夫他訳、日本経済新聞社、1978
マイケル・ノバック『スポーツ その歓喜』片岡暁夫訳、不昧堂出版、1979
ミハイ・チクセントミハイ『楽しみの社会学』今村浩明訳、思索社、1979
ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳、中公文庫、1973
レイモン・トマ『スポーツの歴史』蔵持不三也訳、白水社、1993
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』清水幾多郎他訳、岩波書店、1970
斎藤孝『「できる人」はどこが違うのか』ちくま新書、2001
多木浩二『スポーツを考える』ちくま新書、1995
中井正一「スポーツ気分の構造」『中井正一評論集』、岩波文庫、1995所収
中井正一「スポーツの美的要素」同上
西村清和『遊びの現象学』勁草書房、1989
松井良明『近代スポーツの誕生』講談社現代新書、2000
山際淳司「ポールヴォルター」『スローカーブを、もう一球』角川文庫、1985所収
『Number』494号、文藝春秋



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