遊び
玉木正之:スポーツとは何か,講談社現代新書,1999。p.p18-24
【
遊び好きの日本人
】
日本人とは,遊びが大好きな国民である。遊ぶことが巧みで,遊び上手な民族である。
そう書くと,首を傾げるひとが少なくないだろう。一般的には,日本人は勤勉で遊びが下手と思われている。
が,過去の日本文化を並べると,「日本人は遊び好き」としか考えられない事実が浮かびあがる。伎楽,
猿楽,田楽,能,狂言,歌舞伎,文楽,相撲,和歌,俳句,茶の湯,生け花,浮世絵,読み本,将棋,囲碁,
吉原,島原の遊郭,それに各地に伝わる数々の祭り・・・・・。 それらが,勤勉という性格から生まれ出たも
のとは断じて思えない。
さらに,<遊びをせんとや生まれけむ>という歌謡を,12世紀という時代に歌い踊ったのが日本人である。
世界中を探しても,これほど遊興好きの民族は見あたらない。
ところが,明治時代(近代)になって事態は一変する。黒船に驚き,欧米先進諸国の文明に追いつき追い越
そうと決意した日本人は,遊びを捨て,もうひとつの民族的特質である勤勉に専念した。そのように,
日本
人が遊びを捨てた時代に,スポーツが欧米文明のひとつとして流入した。それは日本のスポーツにとって
最大の不幸といえる出来事だった
。
【
スポーツと遊び
】
スポーツの基本は,遊び
である。遊びとは<非実用的でそれ自身のために追求される肉体的,精神的な活
動>のことである。また,<目的のない活動であり,それ自体のためにあり,仕事の反対語>でもある。遊
びとは<あくまでも自由の領域にあるもの>といえる。
遊びは,<自然発生的な遊び>と<
組織化された遊び
>に分けることができ,後者は<
ゲーム
>となる。
ゲームは<競争しないゲーム>と<
競争するゲーム
>に分かれ,後者は<
競技
(
コンテスト
)>となる。
競技(コンテスト)は,<主に頭を使う競技>と<
主に身体を使う競技
>に分かれ,後者を<
スポーツ
>と
呼ぶ。以上は,アメリカのスポーツ社会学者アレン・グットマンによる遊びの分類である。また彼は,<まっ
たく知的な技術を欠いたスポーツをイメージすることは困難である>として,スポーツを<
遊びの要素の濃
い身体的な競技
>と,定義している。
フランスの思想家のロジェ・カイヨワは,遊びを<アゴン(速さ,強さ,技術等を競う競争)><アレア(運に
任せる遊び)><ミミクリ(変身する擬態の遊び)><イリンクス(身体と心を混乱に陥れる眩暈
めまい
)>
の4つに分類した。彼は,ミミクリのなかにスポーツを入れていない。が,多くのスポーツマンが好んで一流
選手の動きを真似ていることを考えると,スポーツには,カイヨワの定義した遊びのすべての要素がふくま
れているといえる。
【
スポーツの定義
】
スポーツの定義は,国語辞典ならば,<遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素をふくむ身体運動の総称>といっ
た説明でいいのだろう。が,「スポーツとは何か?」という命題に対する回答としては,「スポーツ学者の数だ
けある」といわれるくらい数多く存在する。
その一部を,紹介してみよう。
<余暇における余剰エネルギーの消費(浪費)>(多くのスポーツ学者の説)
<歴史に生じてきた非暴力化(文明化)の傾向を,直接身体で表象する実践の形式>(ノルベルト・エリアス)
<人間及び動物がその美しさを増大することを目的として行う努力>(マルセル・ブランジェ)
<遊戯,闘争,および激しい肉体活動の複合されたもの>(ベルナール・ジレ)
<プレイ(遊び)の性格を持ち,自己または他者との競争,あるいは自然の障害との対決をふくむ運動>(
ICSPE「国際スポーツ・体育評議会」)
「身体運動による精神の解放」「合理的な身体運動のなかで,非合理的な人間の存在を浮き彫りにする行為」
−−この2つは,本書の著者による定義である。
いずれにしても,スポーツとは,「自由の領域での遊び」が前提になっている。
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