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Contents 08/04/27掲載


新世紀のビッグブラザーへ 著:三橋貴明

第九章 環境に優しいガイア市民

 

まだ幼かったススムの目には、まるで世界中の人々がそこに集まっているかに映った。

 大勢の、とても数えきれないほど大勢の人々が集い、笑い合い、走り回っている。未だ身体の小さかった少年が人波に押し流されないよう、ススムの姉がしっかりと手を握ってくれていた。

 あの場所は、何と言っただろうか。

・・・シュウナダ。・・・そう、エンシュウナダだ。

海を望む広大な砂丘に、濃紺色のだぶだぶの衣装を身につけた大勢の人々が群れ集まり、何やら口々に叫んでいた。人々の声が入り交じり、まるで蜂の羽音のような鈍い音を響かせ、幼いススムを脅えさせていた。

 見事なまでに晴れ渡った青空に、高々とラッパの音が響き渡った。

途端、どよめきが起き、濃紺色の男女が一斉に走り出した。ススムは入り乱れる人々の間で恐怖に身を竦め、必死に姉の腕にしがみついたものだ。

 いつの間にか、大空に色彩鮮やかな板のような物が飛び回っていた。あの巨大な物体は、何と言っただろうか・・・。

そうだ、凧。確か、凧と呼ばれていた。

 空を飛び交う大凧たちはぶつかり合い、凧糸を切り合うべく、互いに絡み合う。糸と呼ぶには少々太すぎるロープを切られると、大凧は暫く空中をさまよった後、大海に墜落した。

大凧が海面に激突するたびに、人々は興奮し、悲鳴や歓喜の声が轟き渡る。

 喧噪と混乱の中、一枚の青凧が糸を切られ、地上へ落下してきた。

海風に流され、まさにススムたちを直撃するコースを辿っている。

「!」

 あまりの恐怖に悲鳴を上げることもできず、幼い少年は息を止めた。大凧が陽光を遮り、ススムの顔に影が落ちる。

 幼い少年には、それはまるで、青空そのものが落ちてきたような、強烈な印象を与えたのである。

 結局、大凧はコースを外れ、かなり離れた地点に落下したのだが、大凧祭りからの帰り道、ススムは、

「空が落ちてきた・・・。空が落ちてきた・・・」

 と、延々と泣き続け、家族を大いに呆れさせたものである。

 それ以来、ススムが駄々をこねると、姉は「我が儘言っていると、また青空が落ちてくるよ」と脅かしたものだ。

 父親の仕事の事情で、トウキョウ第十二地区に住居を移したススムの家族は、すぐに大凧祭りでの出来事を忘れてしまった。無論、未だ年端もいかなかったススムも、新たな環境に適応するにつれ、祭りの恐怖を次第に記憶の奥底へとしまい込んでいった。

 極東戦争終結後、共生委員会主導で「ゆとり文字化」や「呼称正規化運動」など、様々な社会変革運動が推進された。この時期、第三地域の「伝統」や「固有の文化」は、正規化や地球市民化、ガイア市民化を妨げる悪しきものとして、徐々に市民権を失っていったのである。

 失われた第三地域の伝統の中には、もちろん「祭り」も含まれていた。

第三地域の全ての「祭り」が中止された頃には、すでにススムは「祭り」という単語も、その存在すらも完璧に忘れ去ってしまっていたのである。

 ごくまれに、何らかの切っ掛けで、青空に圧迫感を感じる奇妙な症状が発現した。だがススムは愚民化教育を受け続ける内に、恐怖の原因である「祭り」や「大凧」の存在を、単語ごと思い出せなくなってしまっていた。

 恐らくPTSD、心的外傷後ストレス障害の一種だったのだろう。原因が分からない分、少年の心の傷は長期に渡り、癒されることはなかったのである。

 

 情報委員会事務次官の一言が、「祭り」に関するススムの記憶を蘇らせてくれた。改めて考えてみると、何ということもない理由である。

自分は子供の頃、家族と一緒に祭りに出かけ、墜落した大凧の直撃を受けそうになった。ただ、それだけである。

記憶が蘇ってみれば、何がそれほど恐ろしかったのか、不思議になるほどたわいのない出来事だ。ある意味、微笑ましくさえある思い出である。

愚民化教育や様々な社会変革により「祭り」の単語が封印され、あの日の出来事と青空の恐怖を結びつける線が切れてしまった。恐らく問題は、それだけだったのだろう。

ススムはすでに、あの大凧祭りでの出来事の全てを、記憶の奥底からあらいざらいすくい出していた。

特に怪我をしたわけではないのだが、幼い自分にとって、落下してくる大凧の印象は相当に強烈だったのだろう。大凧が陽光を遮った瞬間、自分の顔に落ちた影の感触さえ思い出せるほどだ。

記憶を封じられていた反動なのだろうか。

少年は今や、あの日、エンシュウナダで目撃した光景を、細部までまざまざと思い出すことができた。大凧に描かれていた怪物の絵ですら、明瞭に思い浮かべることができるのである。

あの怪物は、何と言っただろうか?

そう。ナマハゲだ。

大昔からアキタ地区に伝わっている化け物で、鬼の一種であると父親が説明してくれた。巨大な出刃包丁を持ち、子供や怠け者を捜して暴れまくる。

一年の終わりの日、大晦日。アキタ地区ではナマハゲに扮した男たちが、「泣ぐ子はいねが~、泣ぐ子はいねが~」と独特の口調で叫びながら、地区の家々を回る。

今では失われてしまった民俗行事、第三地域の伝統の一つである。

 全てを思い出し、心が清水で洗われた気分の少年に、フータートゥンは静かに語りかけた。

「随分と楽しそうだね、タチバナススム君。先程とは別人のようだ」

「楽しいというか・・・」

 ススムは浮き立つ気持ちを抑えきれず、屈託のない笑顔を向けた。

「すっきりしただけですけどね。絡み合った毛糸の固まりが解けた気分と言うか、喉に刺さった魚の骨が、ようやく抜けたというか・・・」

「要するに、長年の悩みが解消したというわけかね」

「ま、簡単に言うと、そうです」

 朗らかに笑う少年とは対照的に、事務次官は苦虫を噛みつぶすような顔を見せた。

「第三市民は、全く・・・。

不公平じゃないか・・・。

なぜこの状況で、そのように明るく振る舞える。なぜ脅えて、命乞いをしようとしない。なぜ負けを認めようとしない。なぜ権力者である我々の主張を、素直に受け入れない。なぜ第一や第二の人民のように、権力の前に膝をつかない。なぜ権力に対し、反論をしようとする。

なぜ政治力もないくせに、権力に屈しようとしないのだ」

「間違った事を言われたら、反論して当たり前でしょう」

 ススムは即座に言い返した。

「大体、権力だとか、政治力って何ですか。くだらない。

第一市民の共産党中央委員は、そんな莫迦莫迦しいことばかり考えているんですか? 陰湿ですね、相当に。それって、人としてどうなんでしょう。

権力だの、政治だの言ったところで、所詮はみんな、同じ人間じゃないですか」

「・・・」

 突如、フータートゥンの雰囲気が一変した。まるで事務次官を取り巻く空気の色までもが変わったようで、ススムは若干たじろいだものである。

「・・・虫酸が走る」

 まるで地獄の底から響くような声音で、事務次官は呟いた。

「お前たち第三市民の、その中途半端な善人ぶりに虫酸が走る。お前たちの人間としての真っ当ぶりに、虫酸が走る。お前たちの、その無意味に高い知性に虫酸が走る。選ばれし者でもないくせに・・・」

「善人で、真っ当で、知性が高くて、何が悪いんですか」

 さすがに呆れかえったススムは、改めて事務次官の様子を観察した。

 フータートゥンの顔から、表情が完璧に消えて失せていた。それはまるで人形のような、いや、むしろ屍のような異様な目線で、宙の一点を凝視している。

恐らく、先程までの余裕のある官僚風な装いは、あくまで擬態で、この動く屍の方がこの男の本性だ。ススムは瞬間的に、それを悟った。

この人間離れした不気味な姿こそが、共産党中央委員の正体なのだ。

「偉大なるマオ主席は、我が祖父を湖南省の一貧農から、その地の党書記にまでお引き立て下さった。祖父は前世紀の世界革命を、マオ主席と共に闘ったのだ。

祖父は地元の郷紳や資本家、右派分子、知識人階級、反党分子を弾圧し、迫害し、下放し、そして処刑した。

加害者になれば、被害者にならずに済む。延安の整風運動や反右派闘争、大躍進や文化大革命の際も、祖父は自ら加害の先陣を切ることで身を守り続けたのだ。

 自分を守るために他者を傷つける。それは、人間として当たり前の行為だ。

祖父は人として当たり前の行為を重ねることで、人を支配し、権力を維持し続けたのだ」

「人を傷つけてまで、権力を守りたいなんて・・・」

 いきなり独白を始めたフータートゥンに、ススムは反射的に口を挟んでいた。

「どれだけさもしいんですか。他人を傷つけてまで得た力に、意味なんかあるものか。暴力で手に入れた権力なんて、所詮は紛い物のガラクタだ」

「そういう綺麗事を・・・」

 事務次官はまるで魚のような視線を泳がせ、絞り出すような声を出す。

「本気で言っているから、第三市民は度し難いというのだ。無駄に善人で、知性に穢れている。

 マオ主席が栄光ある共産革命を実現されたとき、人々は純粋だった。純粋なればこそ、人々の怒りは資本家や富農階級を叩き潰すまでに高まり、革命により世界を変えることができたのだ」

「何が純粋だか」

 ススムはむしろ嘲笑するような口振りで、言った。

「当時の第一地域の人々が、無知で、貧乏で、単純だっただけじゃないですか。

貧しくて、何も守る物が無いからこそ、持てる者である資本家階級を虐殺して回ることができたのでしょう。無知だったからこそ、愚昧な共産主義のユートピア論に、コロリと騙されたんでしょう」

「・・・無駄に知恵をつけている。『まほろば』も罪作りなものだ」

「大体、何が栄光ある共産革命だか。単に貧乏人が暴動を起こして、それまでの権力層を皆殺しにして、自分たちが新たな権力層に居座っただけじゃないですか。

権力層が入れ替わっただけで、社会全体としては何も変わっていない。相変わらず、人々は圧制に苦しみ、今の権力層を恨んでいる。

共産革命により新たな権力を握った連中が、前と同じように人々から搾取し続けているだけだ。第一地域で人々が奴隷状態なのは、革命前も後も、変わりはないでしょう。

奴隷状態の上に、共産党の無謀な開発や成長路線のおかげで、環境が完全に破壊されてしまった。みんな毒の水を飲み、毒の野菜を食べながら、何とか生き延びているのが現実でしょう。

ソ連がアラル海を滅ぼした頃から、共産党は何も成長していない。

第一地域に至っては、革命で誰もが平等になったはずが、格差は世界最悪な状態で、おまけに金権主義が蔓延している。

貧乏人、いや、一般の人だって健康保険が無いから、病院にも行けない悲惨な状況なのでしょう。しかも行ったら行ったで、偽物の医者に騙されて法外な金を取り立てられ、あげくに偽薬を飲まされ、片端から死んでいっている。

大したユートピアを作り上げたものですね、共産革命とやらは。

人々から相当に恨まれているでしょ、第一地域の共産党は。

違いますか?

違わないからこそ、あなた達は自分たちを守るために、人民解放軍という『共産党の軍隊』を持っているんでしょう。軍隊を持って自分たちを守らせなければ、今度は自分たちが民衆に虐殺される番だって、知っているんだ」

「幾ら無駄な知識をつけ、革命論を展開したところで・・・」

 ようやく少年に視線を戻し、フータートゥンは気怠そうな声を出す。

「所詮は蟷螂の斧というものだよ、タチバナススム君。なぜなら今の第三地域の権力層は、我々であって、君ではない」

「・・・」

「そもそも、君は権力というものについて分かっていない。人が人を支配するには、権力が必要だ。つまり、あらゆる社会体制には権力が必要なのだよ。世界に支配階級の存在しない場所など、ないからな。

 支配という言葉が気になるなら、『管理』に言い換えてもいい。権力層、管理層が存在しない社会など、無政府状態でしかないよ。権力の存在こそが、社会に安定と秩序をもたらし、無秩序な混沌状態に陥ることを押し止めているのだ。

 しかし、確かにこの第三地域は例外かも知れないな。

 この地域では、長年に渡り権力と権威が分離されていたため、厳然たる支配階級というものが存在しなくなっていた。『誰もが平等』などという世迷い言が、ここまで実現した社会は、第三地域をおいて他にはないだろう。

まさに、ある意味で、第一以上に共産主義的だよ、第三地域は」

 フーはまるで蛙の呻きのような、不気味極まりない笑い声を上げた。

「ついでに言っておくがね、タチバナススム君。

権力を持つということを、あまり安易に考えてもらっては困るな。権力を持ち続けるというのは、君が思っている以上に、はるかに困難な業なのだ。

何しろ、権力を得るには暴力で事足りるが、それを維持するには、権力者の正当性、つまり権威が、どうしても必要になるからな。

君の言うとおり、確かにかつての~いや、今もそうだが~第一市民たちは純粋であると同時に、無知蒙昧だった。要は、愚民だったわけだ。

民衆が無知蒙昧な愚民である限り、ユートピア的な理想主義のプロパガンダや、適当な対外戦争勝利の喧伝で、彼らは騙されてくれたのだよ。共産党が彼らを理想の社会に導くという幻想に酔い、かつ嘘っぱちの対外戦争勝利で愛党精神を高めてくれれば、共産党は充分に権力を維持することができた。

なぜならば理想的な未来と対外戦争勝利により、我が党に権威がもたらされるからだ。

しかし、この第三地域ときたら・・・」

フータートゥンは心底からうんざりしたように、二度三度と頭を振った。

「民衆が無駄に知性が高く、ユートピア的な理想論など鼻で笑われてしまう。しかも、対外戦争勝利を喧伝しようにも、ついこの間まで我々と戦争を繰り広げていた、まさにその当事地域だ。

 我々がどれだけ苦労したか、分かるかね!」

 不意に事務局長が激しくデスクを叩き、ススムは一瞬、鋭く身を震わせた。

「かつての共産革命の時、第一地域の民衆は充分に貧しく、かつ無知蒙昧だった。マオ主席や祖父が彼らを扇動し、時の権力層をうち倒すなど、実に簡単だったろう。

 だが、長く平和と経済的繁栄が続き、人々が富と知識と教養を獲得してしまった第三地域のような場所では、どうしたらいい? 

一体、どうすればいいのかね? このように富み栄える地域で、どうすれば世界革命を起こすことができるというのか?」

 この辺りのロジックについて、予め「まほろば」から教え込まれていたススムは、事務次官の問いに即答することができた。

「その地域の人々に、自分たちに対する自信を失わせればいいんでしょ」

「その通り!」

 フータートゥンは我が意を得たとばかりに、大きく頷いた。

「君の言う通り、第三地域の人々から、自分たちの過去や現在についての自信を奪い去ればいいのだ。

今の自分たちはダメだ。過去の自分たちもダメだ。このままでは未来の自分たちもダメだ。と、第三地域の政治、行政、文化、経済、軍事、教育、治安、技術、その他諸々。あらゆる事に関する自信を奪い去り、否定させればいい。

 さもなければ、この地を世界革命に巻き込むなど、夢のまた夢だ。今の自分たちに自信を持ち、満足している人々が、誰が革命など望むだろうか。ラディカルな革新を実現するには、まずは現在を全否定してもらわねば困るのだよ。

 現実の第三地域は、世界的に見ても経済力、技術力、そして軍事力に秀で、政治的な影響力も、君が想像する以上に大きかった。そもそも莫大な金を貯め込んでいたからな、この地域は。

おまけに治安は世界最高水準で、更にこの地域の文化ときたら、まさしく世界制覇目前と言っても過言ではなかった。

多面的に見ても、アメリカに匹敵するほど、世界への影響力が強かったのだよ、第三地域は。

 だが、その現実を自覚し、認識して貰っては困るのだ。自分たちの実績に自信を持たれると、誰も革新的な政治を望まなくなるだろうからな。

実は自分たちは成功している、などと真実に目覚められると、永遠に保守系政党が選挙で勝ち続けることになってしまう。民主連合政府の実現も、落日の夢に終わっただろう」

「それで、メディア統制ですか・・・」

「ああ。勿論、メディアも利用したとも。プロパガンダと呼びたければ、呼ぶがいい。

だが、メディアだけではないぞ。

政治家、官僚、財界人、学者、企業家、宗教家、評論家、人権活動家、労働運動家、学校教師、大学教授、弁護士、歌手、俳優、コメンテータ。

ありとあらゆる手段で、影響力を持つ彼らを籠絡し、この地の人々の自信を奪い去るべく発言させ、行動させた。第三地域を解放する、つまり革命をもたらすために、我々は長期に渡り、大変な努力を重ねたのだよ。

 正直、ここまで大々的に、しかも長期に渡り繰り広げられたキャンペーンは、世界史上に例を見ないと自負しているよ。

 だが・・・」

 事務次官は突如、苦虫を噛み潰したように唇を歪めてみせた。

「だが、それだけでは足りない。例え人々の自信を奪い去り、民主連合政府、つまりは革命政権へ希望を持たせることで、政変を実現しても、それだけでは足りないのだ。

 なぜならば、例え運良く権力を奪取したとしても、権威無しでそれを維持することは不可能だからだ。

我々は第三地域の人々の自信を失わせ、民主連合政府による政権奪取を工作すると同時に、新たな支配者である我々の権威づけをも図らねばならなかった。

 七十年だ!

 そのために我々は、七十年以上もの歳月を費やしたのだ!」

「・・・それで人権擁護法ですか」

「そう。人権擁護法。もっと正確に言えば、罪悪感だよ、罪悪感。

 この地の人々に、我々に対する加害者意識を、罪悪感を刷り込む必要があったのだ。

 人権擁護法も、高麗棒子どもが未だに騒いでいるニッテイ軍の売春婦の件も、先程の南京大屠殺の件にしても、根は完全に同じだよ。

 面白いことに、第三市民はありもしないでっち上げの歴史事実でも、我々が騒ぎ立てると、とりあえず謝ってくる。信じがたいほど、愚かな連中だよ、全く。

 いや、それはある意味、第三地域が平和で安定した社会である証でもあるわけで、時には羨ましくも感じるがな。

何しろ大陸では、謝罪するということは、自分の政治力が相手よりも下と認めることになり、その後は何をされても文句を言えなくなる。謝罪というのは、一種の自殺行為なのだよ、大陸では。

 アサヒメディアが『南京大屠殺』だとか『従軍慰安婦』のキャンペーンを始めたとき、我々は正直、半信半疑で眺めていたよ。余程の愚者でもない限り、あんないい加減なプロパガンダに、引っ掛かる人間はいないと思っていたからな。

 まさか第三地域の政府が、禄に調べもせずに、謝罪してくるとは思ってもみなかった。さすがにアサヒメディアは、元々この地域の報道機関なだけあって、第三市民の心情や習慣がよく分かっている。

 第三地域の政府も軟弱だったが、それに輪を掛けて愚かだったのは、前世紀に隆盛を極めた、この地域の『進歩的知識人』、つまり良心勢力たちだ。

前世紀の多くの進歩的知識人たちは、民主人権党やアサヒメディアのような、権力目当ての確信犯ではない。何と彼らは、自分の『良心』から第三地域の歴史を否定し、非難し、我々に媚びを売ってきたのだ。

 正直、彼らほど知性に欠け、軟弱な生き物は、他には存在しないよ。

第三地域で言論の自由が保証されているのをいいことに、自分たち民族の歴史、伝統や文化を散々に批判し、蔑み、貶めた。

実際、彼らの数々の言論活動は、我々の第三地域解放に大いに役立ってくれた。しかも、彼らが第三地域を非難する根拠と来たら、大元はアサヒメディアや我々の作り話なのだから、笑いが止まらないとはこのことだよ」

 唐突に、フータートゥンは部屋中に轟き渡るような声で笑い始めた。それはまさに哄笑と表現するのが相応しい、豪快な笑いぶりである。

 だが、事務次官の目は据わったままで、その姿はまるで笑う死体のようであった。

「進歩的知識人たちは、我々のプロパガンダに引っ掛かり、それはもう見事に踊ってくれた。自分が属する民族を批判することこそが、進歩的であり、知識的であると、理解不能な勘違いをしていたようだ。

 わたしに言わせれば、彼らは単なる甘えっ子だがな。

あの進歩的知識人たちは、現実には進歩的でも無ければ、そもそも知識人でさえなかったよ。あの連中は単に、第三地域が寛容で、社会的な包容力が大きかったことに甘えていただけだ。

 要は、子供だ。

 だが、あの大人の顔を持つ子供たちのおかげで、我々の第三地域の解放は大いに前進した。それを思えば、少し悪し様に言い過ぎた気もするな。

改めて考えてみると、解放に対する彼らの協力は絶大だったわけだ。我々は彼らに、感謝をしなければならない立場なのだな。

 あの連中のおかげで、第三市民の多くはニッテイ軍の罪を~実はそれすらも、プロパガンダの創作だというのに~自分で引き受けた気分になり、我々に対し罪悪感を持ってくれた。

そもそも、自分が犯した罪でもないのに、何で加害者意識を持たねばならないのか。こういう正論を吐くウヨク分子は、進歩的知識人たちが集団で、徹底的に吊し上げてくれたものだ。

大笑いだよ。

『東アジア共同体』が、かつてのニッテイの『大東亜共栄圏』のコピーで、『多文化共生社会』が『五族共和』そのもので、ガイア市民のコンセプトが『八紘一宇』の丸写しであることにも気づかず、大まじめに『一つのアジア』などと叫んでいたからな。個人的には、彼らには進歩的知識人よりも、退化的無知能人という名が相応しいと思うよ。

ま、大変寂しいことに、彼らは解放後の大粛正で、その多くが処分されてしまった。解放された大アジア人権主義市民連邦には、彼らのような知能の低い人々は、生きる場所がないからな。

だがまあ、自分たちの望み通り第三地域の解放が実現して、きっとあの世で喜んでいることだろう。

何しろ自称『良心勢力』だ。

自分の良心に従い、栄光の市民連邦のために貢献し、役割を終え、処分されただけだ。おそらく、良心勢力の天国でも、あまり恨み言も口にしていないだろう」

「・・・」

 嘲笑的な口振りのフータートゥンを、少年はただ黙って見つめるのみであった。

「大体な、タチバナススム君。この第三地域は、真っ当すぎるのだ。しつこくて申し訳ないがな」

 事務次官の方は徐々に興が乗ってきたらしい。声が軽い調子を帯びるに伴い、死人じみた雰囲気が徐々に薄れてきた。

「君たちに加害者意識と罪悪感を持たせるのに、八十年も昔の事件を引っ張り出さなければならないのだから、こちらとしてはたまったものではないのだよ。しかも、その事件自体も、我々やアサヒメディアの創作ファンタジーだ。

 八十年も昔の作り話を持ち出さなければ、プロパガンダ一つ展開できない。本当に困った地域だよ、ここは。

 歴史的に見ても、この地の者たちは甘やかされすぎなのだ。

我々の先祖は、周囲を陸続きの外敵に囲まれていたため、何度も征服され、皆殺しの憂き目に会ってきた。

四千年の歴史を持つ漢民族と名乗ったところで、すでに三、四回は民族が完全に入れ替わってしまっている。

厳密には、我々は大漢帝国の血を引き継いでいるとは言えないのだよ。それは遺伝的に見てもそうだし、文化的に見てもそうなのだ。

それに比べ、第三地域は周囲を海に囲まれていたおかげで、世界史的にも稀に見る平和な年月を重ねてきた。我々が繰り返し、殺され、奪われ、犯され続けていた永劫の間、安寧と繁栄を貪り続けてきたのだ」

事務次官は、ここでニヤッと笑った。

「どうかね、タチバナススム君。

少し、我々に対する同情心が浮かんできただろう。その同情心が、我々に権威を与えてくれる源泉なのだよ。

そもそも、我々の先祖の話に、君個人は何の関わりもないはずじゃないか。それにも関わらず、自分が歴史的に恵まれた民族であるというだけで、我々に対する同情心が浮かんでくるだろう。それが我々の権力を支えてくれているのだ。

つまり我々に対し、『非同情者』という権威がもたらされたわけだな」

「・・・」

「だが、さすがに同情心を煽るだけでは、強引に奪った権力を維持する権威としては、力不足だ。更に我々の権威を高めるためにも、人権擁護法の成立は、どうしても必要だったのだよ」

 事務次官は、まるでススムを真似たような屈託のない笑みを見せたものだ。

「一つ、思い出話をしていいかね。

実は、わたしは人権擁護法がまだ『法案』だった頃に、偶然ながら第三地域への工作を担当する小工組に所属していた。その時、わたしは初めて第三地域と深い関わりを持ったわけだが、いきなり心底から驚愕する羽目に陥ったのだよ。

知っているかね。この人権擁護法は、元々は国連人権委員会が出した勧告が発端だ。その勧告とは『公務員による人権侵害』に対処するため、政府から独立した人権機関を作れ、というものだった。

この国連勧告の解釈を強引にねじ曲げ、絶対権力を持つ三条委員会としての人権委員会を作らせたわけだ。

法案の内容を審議していた当時、つまりこの法案が成立する少し前に、第三地域における人権侵害事件数を調査した、実に嫌な奴がいたのだよ。

調査の結果、第三地域の深刻な人権侵害事件は、一年にわずか数件を数えるのみだったそうだ。一年間に数件だけ、政府機関の対処が必要なレベルの差別事件が起きていたわけだな。

どれだけ真っ当なんだね、第三地域は。年に数件では、人権擁護法を強引に立法化するにも、無理がありすぎるだろう。年に数件の人権侵害事件のために、全地区に何万人もの人権擁護委員を配置するのでは、まるでコメディだ」

「それで、セキスイ事件ですか」

 消え失せるような声で呟いたススムに、フータートゥンはかなり意表を突かれた様子であった。

「ああ、そうだ。よく知っているな・・・。

確かにあの事件は、第三地域に『差別が蔓延している』という印象を植えつけることを目的に、SHKを始めとする各メディアに大々的に報道させたものだ。

人間とは面白いもので、ほとんど差別の存在しない第三地域の市民であっても、テレビでたった一つの事件を繰り返し、繰り返し報道されると、あたかもその種の事件が蔓延しているような印象を覚えてしまうのだ。

プロパガンダ戦術の、基本中の基本だな。

だが、あの事件は、少しやりすぎた。

差別事件が裁判になるという事実だけで、あれだけ『差別だ、差別だ』の偏向報道を繰り返しては、見てる方がプロパガンダの匂いを嗅ぎとってしまう。実際には、判決前どころか、公判にさえ入っていない段階だったのだからな。

おまけにあの時は、第三地域の全放送局が特集を組み、在三半島市民への残酷な差別事件として、一方的な立場からひたすら報道を繰り返した。

余程の莫迦でもない限り、何らかの政治的な意図があると気がついてしまうよ。特に、この第三地域ではな。

あまりにも露骨なプロパガンダだったので、『ゆとり書籍化』の際に、あの事件の記録は抹消させたはずだが、君はどこから情報を得たのかね。やはり『まほろば』か」

ススムは無言のまま、立ちつくしていた。

「セキスイ事件は確かに失敗例だが、人権擁護法制定後は、何とか巧くいった。

 どれだけ矮小なケース、あるいは事実無根のケースであっても『差別! 差別!』や『人権侵害! 人権侵害!』を繰り返させ、片端から集中的に報道させたからな。

さすがに第三市民も、この地域で差別事例が満ち溢れている。自分たちが差別者側だ、人権侵害の加害者だという印象を持ち始めた。

無論、真実は印象の遙か彼方にあったわけだが」

ススムはかつて、セミンが少年に言った言葉を思い出していた。

・・・「でもな、真実なんて実際にはどうでもいいんだよ。自分を被害者だと強調して、相手に加害者意識を持たせれば、相手より優位に立てるじゃないか」)

 従軍慰安婦そのものは否定した直後に、セミンは確か、このような台詞を口にした。

ススムは今や、はっきりと理解していた。全ては繋がっている。

「人権擁護法成立により、ようやく我々の権力が、権威づけられたわけだ。我々地域外市民は、この地で『被差別者』あるいは『差別される可哀想な人』としての、権威を手に入れることができたのだよ。

 この権威無しでは、我々は権力を維持できない。全ては我々の権力のために必要な工程、プロセスだったのだよ」

「権力・・・。結局は、権力なんですか」

 かすれるような声のススムを、フータートゥンはぎらつく視線で凝視した。

当たり前だよ、タチバナススム君。

人が生きていく目的に、権力以外の何があるというのかね。

誰だって、他人よりは楽をしたいし、快楽を得たい。金だって無尽蔵に欲しいし、最高の女を抱きたい。君だって、きっと心の底ではそう思っているだろう。

この、人間に充満する欲求を、誰が否定できる。誰も否定など、できやしないよ。

だが、支配される側にいる限り、こんな望みはかないっこないし、かなったとしても限定的だ。そうであれば、望みをかなえるためには支配する側に立たねばならないし、そのためには権力がいるんだよ。

権力。全ては我々の権力のためだ。

人権擁護法も、外国人参政法も、上級公務員法改正も、南京大屠殺や従軍慰安婦に代表される、メディアのプロパガンダも、セキスイ事件も、情報統制も、そしてこの『大アジア人権主義市民連邦』さえも、元を辿れば、全ては我々の権力のために必要な法案であり、ツールであり、オブジェクトなのだよ。

分かるかな、タチバナススム君」

「いくら権力を持ったところで」

 ススムはしっかりと顔を上げ、堂々とした口調で反駁した。

「政治的に他者に破れれば、それまでじゃないですか。

 第一地域はアメリカのような民主主義ではない。共産主義社会で政治的に破れれば、どれだけ権力を誇っていたところで、地獄一直線でしょう。

 共産主義では、民主主義のように主権を市民が持っているわけではない。

軍隊の指揮権もそうですが、主権を持っているのは、共産党という曖昧な化け物です。いくら権力を誇ったところで、共産党という化け物の不興を買えば、それまでなのでしょう。

 劉少奇は、どのように死にました? 

彭徳懐は、どのように死にました?

林彪は、どのように死にました?

周恩来は、胡耀邦は、趙紫陽は、どのように死にました?

一時は権力の絶頂にいた彼らは、幸せな天寿を全うできましたか? 家族に愛され、人々から尊敬され、愛する人々に看取られながら、人間として満足のいく死に方ができましたか?

彼らの運命は、きっとあなたの明日の姿ですよ、事務次官」

「・・・」

 再び、フータートゥンは沈黙した。

 少年も合わせたように口を閉ざし、具合の悪い静寂がその場を支配した。

 やがて、禿頭の事務次官は、ゆっくりと口を開き、

「我が偉大なる祖先は、素晴らしき先例を残してくれた。

 かつて、司馬遷という偉大なる歴史家がいた。彼はあまりにも偉大すぎ、時の権力者にとり不都合な存在となった。

司馬遷は時の皇帝の不興を買い、残忍な刑罰を与えられた。殺されずに済んだのは、司馬遷があまりにも偉大な存在だったためか、それとも時の皇帝が人道主義者だったのか。今のわたしには知るべくもない。

だがまあ、わたしも当時の皇帝、漢武の故事に習い、人命尊重の精神で行動しようと思う。君のような前途ある若者の命が失われるのは、さすがに市民連邦としても大きな損失だからな」

不意に、ススムの全身に戦慄が走った。

それはまるで、凍てついた死神に背中から抱きしめられたようで、少年は口元から悲鳴が漏れ出るのを、全力で押さえ込まなければならなかった。

圧倒的な恐怖と絶望が、ススムの心臓を素手で鷲掴みにしたのである。

「君がこれまで溜め込んだ知識と、学習努力に免じて、命だけは助けてあげよう、タチバナススム君。

 連邦転覆犯は通常は極刑だが、ま、未成年ということもある。

 今回は君の将来に免じて、環境対応のみで釈放してあげることにする。もっとも、若い君にとっては、ある意味、死よりも悲惨な懲罰かも知れないがな。

 タチバナススム君。

 環境に優しいガイア市民になりたまえ」

 

 環境対応。

 環境対応。

 環境対応。

 

 残忍な共産党中央委員の言葉が、少年の頭の中でこだました。

 

 環境対応。

 環境対応。

 環境対応。

 

 環境対応。正しい医学的表現は、不妊手術。別名は、断種。あるいは、去勢。

「あああぁーっっ!!!」

 少年は言葉にならない絶叫を上げ、その場で意識を失った。


*この物語はフィクションです。

最終章 新世紀のビッグブラザーへ へ続く 


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