第七章 キングストン・バルブ
その後しばらく、二ヶ月ほどの期間を掛け、ススムはセミンと共に、ニシオオイのIX侵入の手配を進めていった。
冬も押迫り、クリスマスシーズンの飾り付けが町を賑わし始めた頃、
「ススム。幾つか疑問、いいか?」
セミンは今、「まほろば」の手配により、STTDのメンテナンス・エンジニアの仕事に就いている。主に、サーバやオフィス機器のメンテナンスに従事しているのだが、器用者のセミンは無難にこなしているようだ。
「何?」
ススムの方はと言えば、日夜、サフランの技術者から入手した、キングストン・バルブの改良に努めていた。
IXに侵入した際には、可能な限り短時間で、プロトコル・キーの配布を済まさねばならない。そのためには、余計なオペレーションは、少なければ少ないほど良い。
できうるならば、マスターサーバにアクセスすると、自動的にキーの配布が実行されるのが、最も望ましいのである。
「まほろば」の二人は、今、東京人権大学の空き教室を勝手に占拠している。次の講義は三時間後であるため、教室の中はもちろん、周囲にも人気はない。
ススムは、セミンがSTTDで不法入手した、IXのネットワーク構成図、及び機器配置図を吟味している最中だ。最も単純、かつ確実な、手順の検討を進めているのである。
「まず一つ目だが、先日、仕事でサーバのインストール作業をしていて、気がついたことな。
もしもキングストン・バルブで、目論見どおりバーティカルフィルタリングを破壊できたとしても、ソフトウェアの媒体は残っているわけだ。
ということは、連中としては、単に再インストールをすれば、バーティカルフィルタイリングを復活できるんじゃないか?」
構成図に何やら書き込みをしていたススムは、顔を上げ、
「お、鋭い」
と、悪ぶった口調で、ニヤリと口元を歪めてみせた。生憎、童顔の少年では、似合っているとはお世辞にも言えなかった。
「そう、サフラン社は製品納入時に、STTDにソフトウェアをメディアで納品している。もちろん、IXにもコピーが保存されていると思うよ。
普通なら、フィルターを壊されても、まあ手間ではあるけど、全てをインストールし直せば、また復活する。ところがね、」
ススムは無意識に声を落とし、
「それじゃあ、そもそもキングストン・バルブにならないでしょう。
サフランの開発陣が汚いというか、巧妙なのは、メディアからインストールをしたとしても、オプションのファンクション・ファイルを該当フォルダに置かなければ、フィルターが動作しないようにコーディングしたという点なんだ。
これ、実はサフラン社のノウハウ扱いで、仕様書にも載っていないんだよ。情報委員会はもちろん、STTDさえも知らない、秘密仕様というわけ。
つまり、バーティカルフィルタリングを機能させるには、メディアのソフトウェアだけでは不足なんだ。あくまで、サフランの技術者が、インストール作業を行い、ファンクション・ファイルをコピーしなければならない。
いくらインストールや設定作業が完璧に行われても、ファンクションが無ければ、バーティカルフィルタリングは張子の虎状態なんだよ。だからこそ、これがキングストン・バルブになるんだ。
ね、巧妙でしょう?」
「なるほどな」
セミンはいたく感心したように、無造作な仕草で無精髭を撫でた。
「それじゃ、次の質問な。
IXからの、え~と、何だっけ? あ、プロトコル・キーか。
プロトコル・キーを連邦中の検閲サーバに配布して、連邦と外とのやり取りが自由になり、検索なんかのフィルターも働かなくなったとする。その場合に、連邦側がIXを落としてしまうという可能性は無いのか?
つまり、連邦の外とのデータ通信全てを、故意に遮断してしまうわけだ。
むしろ、検閲できない情報が連邦中に溢れかえるよりは、そっちを選択するんじゃないのか、情報委員会は?」
「その可能性も、もちろんあるけどね」
ススムは素直に肯定してみせたものだ。
「でもね、この巨大な市民連邦の、経済活動の肝とも言える金融機能。これが今や、インターネット~厳密にはイントラネットだけど~経由でしか、行われていない状況なんだ。
つまり、もしも連邦がIXを遮断してしまうと、連邦外とのあらゆる貿易の決済が止まることになる。決済だけではなく、送金、信用情報のやり取り、融資や投資なんかも、全部止まってしまうんだよ。
これは、連邦の経済に致命傷を与えると思うよ。何しろ、決済が行えないということは、輸入も輸出も不可能になるという意味だから、ほとんど鎖国するようなもんだ。
原油や天然ガスなどの、資源の輸入も止まるから、交通機関や産業が止まるのはもちろん、そのうち電気も使えなくなるよ。
そうなると、通信が完璧に麻痺してしまい、政府の機能がほぼ停止する。これは逆の意味で、致命傷でしょう、連邦には」
「なるほど。それは無理だ、確かに」
セミンは鼻の奥の方から、下品なうめき声を上げた。
「すると、市民連邦は情報統制が不可能になっても、連邦外からの通信を遮断もできず、奴らにとって危険な情報が拡散していくのを、指をくわえて眺めているしかないわけだ。う~ん、面白いな、確かに」
「でしょう?」
ススムは思わず胸を張ったものである。
「確か以前、キングストン・バルブはボトルネック、つまり弱点みたいなものだ、と説明したよね。
まさに市民連邦のボトルネックは、IXそれ自体なんだ。あの白い、平べったい建物が、市民連邦のボトルネックであり、極めて脆い急所なんだよ。
そういう意味だと、『まほろば』には、あのIXを爆破してしまうという選択肢もあるわけだね。
でも、特に警備が厳重でないところを見ると、市民連邦はその手のテロを、あまり警戒していないようだけど。
おそらく、第一市民の連中は、第三市民を舐めているんだよ。普通はそういう乱暴な手段には訴えないからね、第三地域の人たちは」
「う~む」
心底から感心したような声が、心地よく耳に響き、少年は感情が高ぶっていくのを覚えた。
第一市民は、情報の重要性というものをよく理解している。だからこそ、メディアを支配下に置き、インターネットにおける情報検閲を実施しているのだ。被支配者へ与える情報を統制することで、支配者としての権力維持を図っているのである。
このことは、逆に自由な情報交換、つまりオープンなコミュニケーションを、市民連邦が大いに恐れているという、ひとつの証でもある。
ススムたちが計画しているバーティカルフィルタリングの無効化は、まさに市民連邦にとって、痛恨の一撃を与える可能性が高いのだ。
「よし、大体把握できた。
あとはこれを元に、管理端末のブラウザにスクリプトを設定すれば終わりだ。これでマスターサーバにアクセスさえすれば、自動的にアドミン権限で、管理画面に入れる」
「ふむ。それじゃあ、オレの方はスケジュールの確定だな。
STTDでディスパッチをやっている奴は相当にヌルい、いい加減な奴だから、すぐに決まると思う。
たぶん、プリンタとか複合機とか、何かのオフィス機器のメンテナンスのタイミングが、一番自然で、余計なリスクを負わなくて済むんじゃないか?」
「うん」
まるで小学生のように快活な声音で返答し、ススムはネットワーク構成図や機器配置図をしまいこんだ。
日々、冬が深まっていく中、IXのフィルター排除オペレーションの準備は、何事もなく、着々と進んだ。
それはもう、怖いほどに、順調に。
後に、ススムは闇の中で幾たびも後悔したものである。
不気味なほど、順調だったのに。いや、だからこそ。
『FROM〔MIKI
(miki.fujisaki@mahoroba.s-wmx) 〕
TO〔SUSUMU
(susumu.tachibana@mahoroba.s-wmx) 〕
SUBJECT〔RE:1984年完全読破報告〕
おはよう、ススム。
あの、初心者には取っつきにくいオーウェルの本を読破してしまうとは、本当に凄いわ。驚きました。
ススムが言う通り、もう( )はやめにするね。
おめでとう。漢字のお勉強は、もう卒業です。卒業証書は差し上げられないので、代わりにメールしてみました。
クリスマスが近づき、そちらはますます寒くなってきていることと思います。こちらはご存知の通り常夏の島なので、少し羨ましいです。季節を感じることができて。
IXのオペレーションの基本プロシージャを、くだんの元サフラン氏に確認してもらいました。
ススムのプロシージャには、手順の間違いや漏れは全く無いと褒めていました。よほど不測の事態が起きない限り、巧くいくだろうと、お墨付きまでくれました。
彼はとても変な人で、失業中とはいえ、しょっちゅう『まほろば』のオフィスに顔を出しています。そんなにオペレーションの進捗が気になるのかしら?
ススム。
ススムがわたしたちに協力してくれたこと、本当に感謝しています。
もしかしたら、本当に市民連邦が支配する世界、新全体主義の世界に、風穴を開けることができるかもしれない。本当にわたしたちの力で、世界を変えることができるかも知れない。
その可能性を、希望をもたらしてくれたのは、ススム、あなたです。ありがとう。
でも、明日のオペレーションでは、作戦の成功よりも、自分の身の安全を優先して行動してください。危ないと思ったら、何もかも構わず、とりあえず逃げてね。
遠い太平洋の島から、無事を祈っています。
それでは、幸運を。
MIKI』
「ご苦労様です」
ビルの管理人室に駐在している警備員が、気軽な口調で挨拶をする。STTDの制服を身にまとった「まほろば」の両名は、小窓から顔を覗かせる相手に、無意識に会釈を返していた。
「ども」
二人が所持する入館証は、もちろんSTTD(厳密にはIXを管理している、情報委員会『通信局第二課』)が発行した正規のものである。その上、セミンは別件で何度もこのビルに出入りしたことがあり、警備員と顔見知りになっていた。
特に何の不審も抱かず、警備員はドアの錠を解除してくれた。
「失礼します」
ススムはメンテナンス用の端末やマニュアル、それに何点かの工具を詰めこんだ、シルバー色のケースを引きずっている。キャスターを転がし、甲高い音を立てながら、ススムは先を歩くセミンを追った。
IXのビルの管理人室や通用門は、地下にある。
STTDの社用車で堂々と乗り付けた両名は、地下の業務用エレベータに乗り込み、目的地である三階を目指した。
三階の廊下を抜けた、北端のサーバルームに、バーティカルフィルタリングのマスターサーバは置かれている。
無論、マスターサーバに物理的に接続する必要はない。サーバルームのVLANに接続さえできれば、マスターサーバにはアクセス可能なはずだ。今回のススムの目的には、とりあえずそれで充分である。
普段は、技術担当SEやオペレータでごった返すサーバルームだが、本日は祝祭日で、一般職員は休みだ。おそらく、緊急対応時のオペレータが、単身で待機しているだけのはずである。
休日であるため、IXの建物には、人気が全く無い。自分たちの靴音と、キャスターの車輪音だけが響き渡る、灰色の長い、長い廊下を、二人は進んだ。
この建物には、太平洋を越え引き込まれた、膨大な数量の光ファイバーケーブルが、集束されている。集められた光ファイバーは、巨大な地下室を占領しているオプティカルスイッチや、DWDMなどの光学装置により分波されている。
分波された一部の光ファイバーは、東海や韓国海峡を越え、大陸へと向かう。
残りは第三地域中に張り巡らされた光ファイバー網へと接続され、世界史上最大の閉域網である、イントラネット大アジアを構成しているのである。
しかし、これほど長い廊下にも関わらず、誰ともすれ違わないというのは、異様である。両側に佇むように存在する無数の扉の向こうにも、人が蠢く気配が全くない。
ススムもセミンも、何となく押し黙ったままだ。ただひたすら交互に足を出し、一番奥のサーバルームを目指した。
それにしても、静かだ。
ススムは、自分が何のためにこの場を歩いているのか、徐々に現実感が薄れるのを感じた。まるで、自分はこの色の無い、秩序そのもののような静寂の廊下を、永遠に歩き続けるために、この世に生を受け、世界に存在しているような気さえしてきた。
だが、もちろんそんなはずはなく、二人はやがて『かんけいしゃいがい にゅうしゅつきんし』の札がぶら下げられた、サーバルームの扉の前に立っていた。
インターホン越しにセミンが要件を告げ、自動ドアが開く。
「はい、ご苦労さん」
初老のオペレータが、笑顔を浮かべながら二人を出迎えてくれる。
祭日に待機を命じられた、不運な職員であるはずなのだが、特に不満を感じている風には見えない。初老の男は、快活とも言える動作で、サーバルームの奥、ガラス張りの小部屋に設置された、数台のオフィス機器を指差した。
「そこの複合機二台と、そっちのプリンタ。それに、向こうのFAXね。特にプリンタの調子が最近おかしいので、しっかり見てやってよ」
「はい」
二人は声を揃えて返事をし、小部屋へと足を向けた。
「それじゃあ、わたしはその辺にいるので、終わったら声をかけてね」
それだけ言うと、初老の男は自分の仕事へと戻っていった。
セミンはシルバーケースからメンテナンス・マニュアルを引っ張り出し、まずは巨大な複合機のチェックから始めた。一応、用心のために、メンテナンス作業をしている振りをする必要がある。
オフィス機器の知識が皆無で、メンテナンス業務の役に立たないススムは、ケースから端末を引き出し、自分の仕事に取り掛かった。
端末を立ち上げ、ギガイーサのケーブルを、複合機が接続されているHUBに繋ぐ。
IPアドレスは、普通にDHCPで配布されており、その際に端末認証などのチェック機能は無い。事前にネットワーク構成図や、仕様書で確認済みである。
IXの重要性の割に、つくづく「ぬるい」セキュリティだ。
サーバルームのVLANへの接続が完了し、ススムはブラウザを立ち上げた。マスターサーバの管理コンソールは、普通のWEBアプリケーションである。
事前にスクリプトを組んであるので、認証作業無しで、マスターサーバのURLへと接続を開始した。
待つほどのことも無く、即座にバーティカルフィルタリングの管理画面が立ち上がる。
ススムは現在、トランスペアレンシーモードという、特殊なアドミン権限でアクセスしている。そのため、ススムの作業が何らかのアラートを出すことはあり得ず、もちろんログも全く残らない。
デバッグモードとも異なる、特殊モードである。サフラン社の一部の者だけが認識している、特殊仕様の一つだ。
ここまでの作業は、順調に進んだ。全てがプロシージャ通りで、何の不測事態も発生していない。
ふと気がつくと、複合機のチェックをしていたはずのセミンが、無言で横から端末のOEL画面を覗き込んでいる。
やはり、気になるらしい。無理もないが。
予めHDDに保存しておいた、フィルター機能破壊用のプロトコル・キーを、マスターサーバにアップロードする。HDDのファイルが破損している可能性を考慮し、フラッシュメディアでもプロトコル・キーを用意しておいたが、どうやら杞憂だったようである。
ギガイーサネットの回線を通じ、プロトコル・キーのアップロードが開始された。作業中の砂時計のマークが、画面上でぐるぐると回り始める。
キーの容量が大きいため、さすがにこれは、少々時間の掛かる作業である。もっとも、回線帯域から考えて、長くても二、三分程度と思われるが。
「ススム。オレがなぜ『まほろば』に協力しているか、知っているか?」
不意にセミンが話しかけてきたので、ススムは一瞬、心臓が口から飛び出すかと思った。焦ったなどという、生易しいものではない。
このタイミングで、これはない。心底から魂消たススムは、心拍数が急上昇するのを感じた。
だが、セミンは少年の返答を待つこともなく、
「オレの爺ちゃんが、ニッテイ軍の中尉だったってのは、話したよな。
爺ちゃんは、第二次大戦中は満州にいて、一時は憲兵隊にも属していた。まあ、表も裏も真っ黒な、根っからの親日派だな。これはつまり、半島ではまごうことなき売国奴、ということになる。
戦後、大韓民国が成立した直後は、しばらく軍で教官の仕事に就いていたが、すぐに身を引いた。初代大統領の李承晩や、軍のあまりの駄目っぷり、それにアメリカの専横に、うんざりしたらしい。
昔の同僚だった朴正煕が政権を握ると、一時的に軍の仕事をやっていたが、朴正煕死後の軍事政権時代には、完全に軍人を引退した。
一般の、いわゆる民間人になったわけだ。
オレは父親を早くに亡くしたので、幼少の頃からこの爺ちゃんに育てられた。
俺が産まれたときには、すでに八十歳を越えていたが、とにかく闊達だったよ。ノリがニッテイ軍の憲兵そのものなので、もう怖いなんてもんじゃなかった。
この爺ちゃんに、オレは第三地域の言葉と英語を叩き込まれた。
幼少の頃は、ハングルよりも「ゆとり文字」や漢字、それにアルファベットを読む方が多かったな。家には古い歴史文献が山ほどあったが、中学生になる前に全部読まされた。
正直、きついなんてもんじゃなかったな。
まあ、第三地域の言葉に堪能なおかげで、インターネットでアニメやドラマ、映画なんかも字幕無しで観ることができた。ガンダムやマクロスも、エヴァやハルヒも、宮藤官やデスノートも、第三地域のコンテンツを、もう、ひたすら観て、観て、観まくった。
それが、少年時代の、オレの唯一の楽しみだったのさ」
唐突に、セミンが始めた独白に、ススムは何となく不穏な空気を覚えた。が、特に不信を口に出さずにいた。
正直、それどころではないのだ。もうそろそろ、プロトコル・キーのアップロードが完了する。
「第三地域やアメリカの歴史書を読んで成長したおかげで、オレは半島のウリナラ(朝鮮民族)至上主義の歴史観が、莫迦莫迦しくてしかたがなかった。一種のファンタジーか、架空歴史小説だと思って、授業にはつき合ってやったがな。
ススム、知っているか?
半島の歴史授業では、下関条約の第一条を生徒に教えないんだぜ。俺は、繰り返し読んだので、暗記しているけどな。
下関条約第一条。清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
長年、清国の属国だった李王朝だが、第三地域が清国を戦争で打ち破ったおかげで独立できた。半島が独立を取り戻したのは、第三地域のおかげである。
こんな歴史事実、ウリナラ歴史観では、受け入れられっこないんだ。
だから、下関条約については「ぼかして」教えている。
と言うか、世界史のカリキュラムがほとんど無いんだよ、半島の歴史授業では。
清国から独立した記念の「独立門」だけどな、まだ実物が残っている。ところが、半島の連中は、あれをニッテイからの独立の記念碑と勘違いしているんだよ。
ハングル教育が進んだせいで、もう誰も昔の文献を読めなくなっている。おかげで、大学教授や歴史学者でさえ、色々と勘違いしているんだ。マジで笑えるだろう?
まあ、オレの場合は、爺ちゃんから話を聞いたり、色々な文献を読んだりしていたので、事実がどうだったのか知っている。
一言で済ますならば、惨めな歴史の連続なわけだよ、半島は。
外的からの侵略に次ぐ侵略で、属国化と内乱の繰り返しだ。
高麗時代に至っては、モンゴルに毎年何千名もの、処女を献上させられた。その屈辱感たるや、半端じゃないぜ。
もっとも、さらに最悪なのは、明と清の属国をやっていた、李王朝だけどな」
プロトコル・キーのアップロードが、そろそろ完了する。
ススムは心の中で、キーの配布手順を確認した。ここで何かの手違いや、作業ミスがあると、全てが無に帰してしまう。
「第二次大戦後の長期の南北分断が、金王の統一事業でようやく終わった。
だが、北の連中の民度も、やはり南と似たようなものだ。いや、李王朝に先祖帰りしていたから、悪化していたと言えないこともないな。
所詮は南も北も、同じ半島市民なんだよ。
放っておくと、半島市民は人類文明終焉まで、このまんまだろうよ。
永遠に自分たちを省みることなく、あらゆることを他者のせいにして、自分では決して責任を取ることがなく、第一市民に事大し、声の大きい者だけの意見が通り、被害者意識だけが強く、謝罪やら賠償を要求して嫌われる、高麗民族のままだ。
第一市民たちは、半島を利用することしか考えていないし、金王に至っては、李王朝時代の、腐りきった国王たちの再来に過ぎない。
このままでは、永久に半島市民は変われないんだよ。
爺ちゃんと同じ親日派だった朴正煕も、経済を立て直すことはできたが、市民の民度を引き上げ、第一や第三へのコンプレックスを取り除くことは、ついにできなかった。
その前に、暗殺されてしまったからな。
だから、代わりにオレがやってやることにしたのさ」
不意に、セミンの声に強烈な意志が込められ、一瞬、ススムの作業の手が止まった。
結局、何が言いたいのだろうか、セミンは?
「『まほろば』に協力していたのは、特に第三市民のためではない。
オレの目的、とりあえず金王の専制から、第二市民を解き放つこと。そのためには、『まほろば』を利用するのも、一つの道だと考えたからだ。
金王を倒しても、その後には、あの性根が捻じ曲がった半島市民の意識を変革するという、気の遠くなるような仕事が待ち受けている。
それはもちろん、長い道のりになることは覚悟しているさ。でも、オレは爺ちゃんや朴正煕の意志を継ぎ、何十年掛かろうと、必ず成し遂げるつもりだ。
だがな、ススム。意志の力がどれだけ強くても、時間には限りというものがあるんだよ」
ついに、プロトコル・キーのアップロードが完了した。
残る作業は、このプロトコル・キーを各地の推論エンジンに配布する。それだけだ。
それだけで、イントラネット大アジアを成立させているバーティカルフィルタリングは崩壊する。市民連邦は、後戻りすることのできない局面を迎えるのだ。
自分が世界を変える。
MIKIの可憐な顔が、一瞬、ススムの脳裏をよぎった。
刹那、突然、セミンの声音が凍りつくような響きを帯びた。
「時間には限りがある。だから、近道できそうなら、そうするしかないんだ。
悪く思うなよ、ススム」
突如伸びてきたセミンの長い手が、無造作に端末のケーブルを引き抜いた。
「なっ!」
物理的な回線が遮断されたため、マスターサーバとのセッションが切れた。瞬転、画面がフリーズする。
「何するんだ!」
ススムは驚愕の叫びを上げ、咄嗟に、セミンの手元からギガイーサのケーブルを取り返そうと試みた。
まだ、間に合う。アップロードされたプロトコル・キーは、すでにデプロイ・ファイルにコンパイルされた。後は、推論エンジンに配布するだけだ。
それだけで、世界が変わる。
たった、それだけで。
「ケーブルを返せ、セミン。タイムアウトする前に、セッションを張り直す」
「遅かったじゃねえか」
その言葉は、ススムに向けられたものではなかった。
一体、いつからそこにいたのであろうか。
気配をまるで感じさせることなく、禿頭に眼鏡を掛けた中肉中背の男が、二人の背後に立っていた。人ごみに紛れれば、全く印象が残らないと思われるほどに、目立たない、まさしく「普通」という言葉がしっくり来る男である。
だが、ススムはその男の顔はもちろん、名前さえも知っていた。
「フータートゥン・・・」
「遅いというがね、チョ君」
フータートゥンは少年の存在を完璧に無視し、セミンに語りかけた。
「情報委員会の事務次官を、メール一本で直接呼びつける方も、どうかしていると思うよ。
事務次官という地位にもあれば、色々と雑用も絶えない。そんな中、わざわざ時間を割いて、来て差し上げたんだ。
しかも、今回は多少の荒事になりそうなので、人数も揃えなければならなかったしね」
それにしても、フータートゥンの言葉には、淀みがない。まるで母国語であるかのごとく、堪能な喋り口調であった。
ススムは徐々に現実感が失われる中、妙なことに感心していた。風貌は第三市民には全く見えないのだが、その口調には、全く違和感が感じられないのだ。
いつの間にか、ススムは十名ほどの黒服を着た男たちに包囲されていた。
男たち全員が、精悍な顔つきをした、まるでフットボーラーのように筋肉質な体型をしている。おそらく、ススムが五人くらい束になったとしても、一人を相手にするのも無理であろう。
「さて、この子供かね、チョ君。今回のIX破壊未遂事件の、主犯のテロリスト。恐るべき連邦転覆犯は」
子供ではない。来年、二十歳になる。
と、叫ぼうとはしたものの、少年の喉は、まるで接着剤で固められたように動かなかった。
「ああ。なかなか信じてもらえなかったから、ここまで引っ張らせてもらったが、実際のところ危なかったんだぜ。
少しは情報委員会も、警備の甘さを自覚したほうがいい」
「肝に銘じておくよ、チョ君」
どうでもよさそうな口調で同意すると、フータートゥンは、部下の黒服たちに軽く合図をした。
「気をつけたまえ。市民連邦転覆未遂犯。無慈悲で残酷なテロリストだ。
どんな武器を隠し持っているか、知れたものじゃない」
男たちは用心深く、ススムを囲むように接近してきた。格闘技の心得も無ければ、身を守るナイフ一つ持たないススムには、逃げようがない。
「悪く思うなよ、ススム」
セミンは手元のケーブルを乱暴に投げ捨て、先ほどの言葉を繰り返した。
「さっきも言ったが、時間は無限にあるわけじゃないんだ。
情報委員会の事務次官、しかも第一市民の有力政治家と、コネクションを作るチャンスを逃すわけにはいかない。ススムを撒き餌として利用させてもらったぜ。
『まほろば』は、お前が思っているよりも、しっかりとした組織でな。
オレも内部情報については、そんなには詳しくないのさ。第三地域に入り込んでいるエージェントについても、ススム以外は知らされていないし、知らない。
そうなると、バーティカルフィルタリングの破壊という、市民連邦には致命的な工作活動を、危ういところで食い止めた。そのくらいのお土産が必要だったんだよ」
「このっ! 裏切り者! ひっ」
ようやく喉の動きが回復したススムは、溜め込んだ怒りを爆発させた。
顔面を紅潮させ、飛び掛ろうとした少年であったが、薄笑いを浮かべたセミンに先手を打たれる。
「卑怯だなんて、考えないほうがいいぜ。
そんな奇麗事を口にできるのは、ススム、お前が恵まれた環境で育った、恵まれた民族だからだよ。
大陸や半島で一ヶ月も暮らしてみろよ。そんな奇麗事など、単語ごと脳味噌から吹き飛んでしまうさ。
死ぬか生きるか、明日の太陽を拝むことも保障されない社会では、奇麗事を口にする奴らから、順番に死ぬからな。
オレには目的がある以上、それを果たすために手段を選ぶつもりはないぜ。
子供の頃から歴史文献ばかり読んできたオレは、つくづく思い知ったんだ。
歴史とは、勝者だけが書き記す権利を持つんだよ。敗者がどれほど清廉潔白であったとしても、全く意味が無い。死んだ後に、勝者からどういう書き方をされたとしても、敗者は文句を言えないのさ」
それは、違う!
と、叫ぼうとしたススムであったが、すでに黒服たちに体を拘束され、床に押さえ込まれているため、果たせなかった。無理やりに額を押し付けられた灰色のタイル製の床は、まるで氷のようで、無情なまでに固く冷たい。
「まあ、テロリストと言っても、あまり、乱暴にすることはないかな。何しろ、相手はまだ、子供だ」
フータートゥンが黒服たちに指示をし、ススムを引き起こさせた。髪を掴まれたススムは、今度は強引に面を上げさせられる。
その瞬間、フータートゥンはついに初めて、ススムと目を合わせたのである。
「はじめまして、タチバナススム君。
すでに君の方は見知っているようだが、わたしはフータートゥン。先日、この地域の情報委員会の事務次官に就任したばかりの、しがない官僚だよ。
君には、色々とお聞かせ頂きたいことがある。ぜひとも、我が情報委員会にご招待申し上げよう」
自分の身が、情報委員会の手に落ちた。
(違う! 違う! 違う!)
人権委員会の訪問を受けたときと同じく、意識が激しい否定を繰り返している。
圧倒的な、抵抗しようが無い何かに、自分の身体が固く拘束されていくのを感じる。重い、閉塞感に満ち溢れた、絶望的なまでに無慈悲な存在。
人がどれだけ進化を遂げようと、その存在から逃れることは、不可能だ。
その存在の名前は、恐怖。
(MIKI・・・)
心の中に焼き付けられていたはずの、可憐な少女のイメージが薄れていく。顔が徐々に、思い出せなくなっていく。
少年は、必死の思いで首をめぐらし、窓の外へと目をやった。
ああ。空が近い。あの青空が落ちてきて、自分の身を押し潰そうとしている。
黒服たちに連行されながら、ススムは自分の人生が終幕を迎えたことを、少しずつ悟っていった。
第一部 完
*この物語はフィクションです。 第八章 青い空の向こう側 へ続く