「キングストン・バルブ?」
セミンは心底から嫌そうな顔をして、訊ねてくる。
本日、二人はトウキョウ第五区のニシオオイに来ていた。
この辺りは企業のデータセンターが集まっている地域で、特徴の薄い、幅広の低層建築物が幾つも並んでいる。まるで事前に打ち合わせをしたかのように、似たような、マッチ箱の形状の建物ばかりだ。
「そう。キングストン・バルブ」
ススムは鸚鵡返しに返した。
「何だよ、そりゃ」
セミンはいかにも聞きたくなさそうな表情で、一応、問い返す。ススムがこの手の薀蓄を語りだすと、ブレーキが効かなくなり、聞いている方は徐々に混乱して、最後にはさっぱり理解できなくなることを、セミンは十分に承知しているのだ。
「キングストン・バルブというのは、船舶のハルを貫いて造られている、海水の取り入れ口のことだよ。船底から海水を取り入れて、エンジンを冷却するのに使うわけ。だから、冷却系の配管が損傷していたりしたら、破損箇所から海水が際限なく入り込むことになるので、船は沈没してしまう
船舶は、普通はキングストン・バルブを開けっ放しにしておくので、その状況で冷却系のパイプが壊れたりすると、船は沈む。逆に、船を沈没させようとするなら、キングストン・バルブを開けた状態で、冷却系の配管を壊してしまうのが一番手っ取り早いんだよ。
よく戦記物なんかで『キングストン・バルブを開け、船を自沈させた』なんて表現があるけど、実際にはキングストン・バルブを開けても、船は沈まない。と言うか、常に開きっぱなしなんだ、キングストン・バルブは。
そもそもキングストン・バルブというのは、イギリスのバルブメーカであるキングストン社が・・・」
「ちょっと、待て!」
話がひたすら横道にそれていく予兆を敏感に感じ取り、セミンは慌てて遮った。
「そのイギリスのバルブ屋と、オレたちがこうしてニシオオイくんだりまで足を伸ばしていることと、関係あるのか? ないだろ? 絶対にないだろ?」
「ああ、ごめん、ごめん」
ススムは我に返り、少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「まあ、何が言いたいかというと、キングストン・バルブは『ボトルネック』の象徴ということなんだけどね」
「ボトルネック?」
「そう。瓶とかで、妙に細くなっているところがあるでしょう。例えば、砂時計の中心部とか。もしも砂時計を壊したければ、あの一番細い部分をパキッと折れば、それだけでもう、その砂時計は使い物にならないわけだ。
さっきも言ったとおり、厳密にはキングストン・バルブを全開にしても、船舶は沈んだりしない。だけど昔から何となく、船が沈没する際の自沈装置みたいな扱いをされている言葉なんだよ、キングストン・バルブは」
「つまりは、自爆装置だな」
「ん・・・、合っているかも」
苦笑いしながら、ススムは首を縦に振った。
「まほろば」の両名は、別に目的もなくニシオオイを徘徊しているわけではない。
ニシオオイには企業のデータセンターのみならず、政府系の施設も集中している。その中に、一際目立たぬようにこぢんまりとした灰色のビルがあった。
看板はもちろん、建物の名称や住所の表示すらない、森林の中の一本の樹であるごとく静かに、地味に、それは鎮座していた。東海道新幹線の高架からほど近い、周囲は公園や神社に囲まれた静かな一地帯に、それは佇むように存在していた。
「あれか?」
セミンは信じがたいという口振りで、ススムと顔を見合わせた。
「地図が正しければ、そのはずだけど・・・」
イントラネット大アジアと世界の通信の全てが、この平たい建物を経由すると説明されても、信じる者は少ないであろう。だが、現実には市民連邦と連邦外の間で交わされる、あらゆるデータ通信が、このさして大きくもないビルに設置されたIX(インターネットエクスチェンジ)を通して行われているのである。
「あり得ねえ・・・。警備も何も無いじゃないか・・・。情報委員会の連中は、何を考えているんだ? 普通は、軍隊にでも守らせるべき、超重要施設だろ・・・」
「まあ、まさか解放軍をここに派遣するわけにもいかないだろうしね。それに、こんな一般の場所にIXを置いておくなんて、普通は誰も考えないから、結構、裏をかいた良い考えかもよ」
「そうかな?」
「それよりも不思議なんだけど、何でそもそも、IXみたいな施設を第三地域に置いておくのかな? 第一地域や第二地域にでも造って、それこそ解放軍にでも人民軍にでも護らせればいいだろうに」
疑問を呈したススムに、セミンはニヤリと不穏な笑顔を見せたものだ。
「それこそあり得ねえ話だよ。第一の連中は、金王なんて、これっぽっちも信用していないぜ。第二地域にIXなんて建てたら、自分たちの金玉を金王に握られるようなもんだ。
それに、第一地域に建てようにも、あいつら今、内戦ぶちかましているんだ。そこにこんな設備建てても、一週間くらいで爆破テロに遭うに決まってる」
「え、そうなの?」
ススムはかなり仰天して、足を止めた。そんな話、初めて耳にした。
「本当なの、それ? メディアでは全く報道していないのに」
「報道させてくれるわけないだろ、情報委員会様が。いの真っ先に検閲の対象だよ、こんな話は」
セミンは少し考え込むような仕草を見せ、静かな口調で、
「まあ、内戦と言ったら言い過ぎかもしれないが、千人、万人規模の農民暴動やら都市暴動が、年に二十万件くらい起きていて、北半分ではまともな水が枯渇してしまったから、村同士で水の奪い合いで殺し合い~現地では、械闘って呼ぶんだけど~やらかしているんだ。
それに、四川方面では資源の奪い合いが始まっていて、すでに解放軍同士で小競り合いを繰り返している。
それから、それこそ第一地域の自爆装置と言えないこともない三峡ダムを、ムスリム系テロリストが狙っているという噂が広まっている。おかげで、解放軍が厳重警備中だそうだ。長江の下流の連中は、もうひたすらビビリまくっているぜ。
ま、内戦は大袈裟かもしれないが、内戦一歩寸前、と言ったところかな」
いや、いや。ススムは心の中でかぶりを振ったものである。それは立派な内戦だ。
一年間に二十万件ということは、一日に五百件以上の暴動が起きているわけだ。しかも、千人、万人クラスの暴動とは、スケールが大きすぎ、ススムにはどれほどの規模なのか、想像もつかなかった。
「信じられない! 何で第三地域のメディアはどこも報道しないんだ! 年間二十万件の暴動なんて、社会が崩壊しているも同然じゃないか!
いくら情報委員会が目を光らせているからって、少しは漏れ伝わってきてもよさそうなものなのに・・・」
「それは、ほら、記者交換協定ってのがあるからさ」
セミンは何となく斜に構え、嘲笑するような口調で解説する。
「この記者交換協定で、第三地域は記者を第一地域に派遣する代わりに、第一地域の意に反する報道を行わない、という約束を交わしているんだわ。
ま、一種の自主検閲だな。だから第三地域のメディアは、どこの新聞もテレビも、第一地域に不利な報道は一切しないのさ」
ススムは絶句した。
知らなかった。その地に不利な報道をしないなど、メディアとしての責任を放棄しているも同然ではないか。不利な報道をしないという事は、裏を返せば、プロパガンダの片棒を担ぐと言っているのに等しい。もはやメディアと呼ぶよりも、第一地域の飼い犬とでも呼ぶ方が適切な気がする。
「それって、極東戦争や連邦成立のせいなのか」
との問いに、セミンはいかにも面白そうな表情で、一つ、軽くススムの肩を叩いた。
「残念! この協定が結ばれたのは、1960年頃の話だから、今から五十年以上も昔のことだな」
唖然とする相手に、からかうような視線を与え、
「要するに、その時からすでに、始まっていたわけだ、解放が」
一つ肩を竦めると、呆然と立ちつくすススムを置き去りに、セミンは早足で歩いていった。
「それは、いきなり聞いたら驚くかもね。ススムには今まで、過去の話は沢山してきたけど、現在の地域外連邦の話は、あまりしなかったから」
可憐な少女は画面越しにも分かる、肌色の良い頬を桜色に染め、小首を傾げてみせた。
最近のススムは、MIKIが微笑むたびに、電子データに分解され、OELに吸い込まれていく気分を味合う。かなり重症である。
「第二地域、つまり大朝鮮民族主義高麗連邦~どうでもいいけど、無駄に長い名前よね~が最近、どんな状況になっているかは、多分、セミンから聞いたわよね?」
「うん」
「ご存知の通り、アサヒメディアやSHKなどのメディアは、第二地域を『地上の楽園』と呼んで、どれだけ理想的な社会が実現したか、毎日のように報道しているわ。人権が守られ、平和を尊ぶ平等な社会で、環境保護にも国を挙げて努めているって。
それに比べて、第三地域は人権侵害事件が続き、極東戦争が終結したにも関わらず軍縮に背を向け、二酸化炭素排出で世界の環境を破壊している。これが彼ら良心勢力、つまりメディアの論調よね。第三地域は、人権、平和、環境の敵だって。
第一地域についての論評も、基本的にはこの路線に沿って行われているわ。人権、平和、環境の心強い味方。これまで一度も軍事侵略をしたこともなければ、市民の人権を何よりも尊重し、環境に気を配りつつ平和的に経済発展を遂げているって」
「違うんだね・・・」
ススムの呟きに、繊妍な少女は華奢な手指を頬に副え、少し困ったような笑みをこぼした。
「そうね・・・。言葉で説明すると長くなるから、簡単な資料を送るわ。受信して」
MIKIが手元で何やら操作をすると、間を置かずススムの端末の受信LEDが点灯した。
数千キロを隔て会話する二人であるが、データも一瞬で共有できるわけである。改めて考えると凄い技術だが、幼少の頃からインターネットダイバーのススムは、特に何らかの感慨を抱いたこともない。
もっとも、イントラネット大アジアのフィルタリングを回避できるのは、本当に有難い。心底から清清しい気分で、開放感が全身に満ち溢れてくる。
ススムは画面分割を実施し、MIKIの映像はそのままに、OELの下半面に、受信した第一地域による、侵略や人権侵害のリストを表示させた。
1949年 東トルキスタンを侵略、新疆ウイグル地区を設置
1950年 朝鮮戦争参戦。国民党の敗残兵の厄介払いを企図。人海戦術で、何十万もの旧国民党軍の兵士を死に追いやる。
同年 チベットへの軍事侵略開始。
1958年 大躍進運動開始。無茶な農業集団化や、無謀な農工業大増産を図ったが、完全に失敗。三年間で少なくとも二千万の餓死者を出す。
1962年 中印国境紛争で、チベットを越え、インド侵略。
1964年 文化大革命開始。共産党員や市民に対する大粛清が行われ、少なくとも一千万以上の市民が死亡。文化大革命は70年代前半まで続いた。
1969年 中ソ国境紛争。珍宝島問題で、ソ連と軍事衝突
1979年 中越戦争で、ベトナムを軍事侵略。
1989年 六四天安門事件。北京の天安門に集結していた、民主化を求める学生や一般市民を、人民解放軍が虐殺。
1996年 民主化された台湾の総統選挙を妨害するため、基隆沖海域にミサイルを発射。
1997年 気功集団である法輪功への弾圧開始
2008年 チベット動乱。チベット仏教の僧侶やチベット人デモ隊を虐殺。
2010年 尖閣諸島を軍事侵略。極東戦争開始。
2012年 台湾有事で、台湾を軍事侵略。
「第二次大戦以降、これだけ侵略や、市民に対する人権侵害を繰り返した政権は、世界に類を見ないわ。
*この物語はフィクションです。
第七章 キングストン・バルブ へ続く

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