新世紀のビッグブラザーへ 本文へジャンプ
Contents 08/02/27掲載


新世紀のビッグブラザーへ 著:三橋貴明

第六章 人権、平和、環境の敵

 

「キングストン・バルブ?」

 セミンは心底から嫌そうな顔をして、訊ねてくる。

 本日、二人はトウキョウ第五区のニシオオイに来ていた。

この辺りは企業のデータセンターが集まっている地域で、特徴の薄い、幅広の低層建築物が幾つも並んでいる。まるで事前に打ち合わせをしたかのように、似たような、マッチ箱の形状の建物ばかりだ。

「そう。キングストン・バルブ」

 ススムは鸚鵡返しに返した。

「何だよ、そりゃ」

 セミンはいかにも聞きたくなさそうな表情で、一応、問い返す。ススムがこの手の薀蓄を語りだすと、ブレーキが効かなくなり、聞いている方は徐々に混乱して、最後にはさっぱり理解できなくなることを、セミンは十分に承知しているのだ。

「キングストン・バルブというのは、船舶のハルを貫いて造られている、海水の取り入れ口のことだよ。船底から海水を取り入れて、エンジンを冷却するのに使うわけ。だから、冷却系の配管が損傷していたりしたら、破損箇所から海水が際限なく入り込むことになるので、船は沈没してしまう

船舶は、普通はキングストン・バルブを開けっ放しにしておくので、その状況で冷却系のパイプが壊れたりすると、船は沈む。逆に、船を沈没させようとするなら、キングストン・バルブを開けた状態で、冷却系の配管を壊してしまうのが一番手っ取り早いんだよ。

 よく戦記物なんかで『キングストン・バルブを開け、船を自沈させた』なんて表現があるけど、実際にはキングストン・バルブを開けても、船は沈まない。と言うか、常に開きっぱなしなんだ、キングストン・バルブは。

 そもそもキングストン・バルブというのは、イギリスのバルブメーカであるキングストン社が・・・」

「ちょっと、待て!」

 話がひたすら横道にそれていく予兆を敏感に感じ取り、セミンは慌てて遮った。

「そのイギリスのバルブ屋と、オレたちがこうしてニシオオイくんだりまで足を伸ばしていることと、関係あるのか? ないだろ? 絶対にないだろ?」

「ああ、ごめん、ごめん」

 ススムは我に返り、少し恥ずかしそうに頭をかいた。

「まあ、何が言いたいかというと、キングストン・バルブは『ボトルネック』の象徴ということなんだけどね」

「ボトルネック?」

「そう。瓶とかで、妙に細くなっているところがあるでしょう。例えば、砂時計の中心部とか。もしも砂時計を壊したければ、あの一番細い部分をパキッと折れば、それだけでもう、その砂時計は使い物にならないわけだ。

 さっきも言ったとおり、厳密にはキングストン・バルブを全開にしても、船舶は沈んだりしない。だけど昔から何となく、船が沈没する際の自沈装置みたいな扱いをされている言葉なんだよ、キングストン・バルブは」

「つまりは、自爆装置だな」

「ん・・・、合っているかも」

 苦笑いしながら、ススムは首を縦に振った。

「まほろば」の両名は、別に目的もなくニシオオイを徘徊しているわけではない。

 ニシオオイには企業のデータセンターのみならず、政府系の施設も集中している。その中に、一際目立たぬようにこぢんまりとした灰色のビルがあった。

看板はもちろん、建物の名称や住所の表示すらない、森林の中の一本の樹であるごとく静かに、地味に、それは鎮座していた。東海道新幹線の高架からほど近い、周囲は公園や神社に囲まれた静かな一地帯に、それは佇むように存在していた。

「あれか?」

 セミンは信じがたいという口振りで、ススムと顔を見合わせた。

「地図が正しければ、そのはずだけど・・・」

 イントラネット大アジアと世界の通信の全てが、この平たい建物を経由すると説明されても、信じる者は少ないであろう。だが、現実には市民連邦と連邦外の間で交わされる、あらゆるデータ通信が、このさして大きくもないビルに設置されたIX(インターネットエクスチェンジ)を通して行われているのである。

「あり得ねえ・・・。警備も何も無いじゃないか・・・。情報委員会の連中は、何を考えているんだ? 普通は、軍隊にでも守らせるべき、超重要施設だろ・・・」

「まあ、まさか解放軍をここに派遣するわけにもいかないだろうしね。それに、こんな一般の場所にIXを置いておくなんて、普通は誰も考えないから、結構、裏をかいた良い考えかもよ」

「そうかな?」

「それよりも不思議なんだけど、何でそもそも、IXみたいな施設を第三地域に置いておくのかな? 第一地域や第二地域にでも造って、それこそ解放軍にでも人民軍にでも護らせればいいだろうに」

 疑問を呈したススムに、セミンはニヤリと不穏な笑顔を見せたものだ。

「それこそあり得ねえ話だよ。第一の連中は、金王なんて、これっぽっちも信用していないぜ。第二地域にIXなんて建てたら、自分たちの金玉を金王に握られるようなもんだ。

それに、第一地域に建てようにも、あいつら今、内戦ぶちかましているんだ。そこにこんな設備建てても、一週間くらいで爆破テロに遭うに決まってる」

「え、そうなの?」

 ススムはかなり仰天して、足を止めた。そんな話、初めて耳にした。

「本当なの、それ? メディアでは全く報道していないのに」

「報道させてくれるわけないだろ、情報委員会様が。いの真っ先に検閲の対象だよ、こんな話は」

 セミンは少し考え込むような仕草を見せ、静かな口調で、

「まあ、内戦と言ったら言い過ぎかもしれないが、千人、万人規模の農民暴動やら都市暴動が、年に二十万件くらい起きていて、北半分ではまともな水が枯渇してしまったから、村同士で水の奪い合いで殺し合い~現地では、械闘って呼ぶんだけど~やらかしているんだ。

それに、四川方面では資源の奪い合いが始まっていて、すでに解放軍同士で小競り合いを繰り返している。

それから、それこそ第一地域の自爆装置と言えないこともない三峡ダムを、ムスリム系テロリストが狙っているという噂が広まっている。おかげで、解放軍が厳重警備中だそうだ。長江の下流の連中は、もうひたすらビビリまくっているぜ。

 ま、内戦は大袈裟かもしれないが、内戦一歩寸前、と言ったところかな」

 いや、いや。ススムは心の中でかぶりを振ったものである。それは立派な内戦だ。

 一年間に二十万件ということは、一日に五百件以上の暴動が起きているわけだ。しかも、千人、万人クラスの暴動とは、スケールが大きすぎ、ススムにはどれほどの規模なのか、想像もつかなかった。

「信じられない! 何で第三地域のメディアはどこも報道しないんだ! 年間二十万件の暴動なんて、社会が崩壊しているも同然じゃないか! 

いくら情報委員会が目を光らせているからって、少しは漏れ伝わってきてもよさそうなものなのに・・・」

「それは、ほら、記者交換協定ってのがあるからさ」

 セミンは何となく斜に構え、嘲笑するような口調で解説する。

「この記者交換協定で、第三地域は記者を第一地域に派遣する代わりに、第一地域の意に反する報道を行わない、という約束を交わしているんだわ。

ま、一種の自主検閲だな。だから第三地域のメディアは、どこの新聞もテレビも、第一地域に不利な報道は一切しないのさ」

 ススムは絶句した。

知らなかった。その地に不利な報道をしないなど、メディアとしての責任を放棄しているも同然ではないか。不利な報道をしないという事は、裏を返せば、プロパガンダの片棒を担ぐと言っているのに等しい。もはやメディアと呼ぶよりも、第一地域の飼い犬とでも呼ぶ方が適切な気がする。

「それって、極東戦争や連邦成立のせいなのか」

 との問いに、セミンはいかにも面白そうな表情で、一つ、軽くススムの肩を叩いた。

「残念! この協定が結ばれたのは、1960年頃の話だから、今から五十年以上も昔のことだな」

 唖然とする相手に、からかうような視線を与え、

「要するに、その時からすでに、始まっていたわけだ、解放が」

 一つ肩を竦めると、呆然と立ちつくすススムを置き去りに、セミンは早足で歩いていった。

 

「それは、いきなり聞いたら驚くかもね。ススムには今まで、過去の話は沢山してきたけど、現在の地域外連邦の話は、あまりしなかったから」

 可憐な少女は画面越しにも分かる、肌色の良い頬を桜色に染め、小首を傾げてみせた。

最近のススムは、MIKIが微笑むたびに、電子データに分解され、OELに吸い込まれていく気分を味合う。かなり重症である。

「第二地域、つまり大朝鮮民族主義高麗連邦~どうでもいいけど、無駄に長い名前よね~が最近、どんな状況になっているかは、多分、セミンから聞いたわよね?」

「うん」

「ご存知の通り、アサヒメディアやSHKなどのメディアは、第二地域を『地上の楽園』と呼んで、どれだけ理想的な社会が実現したか、毎日のように報道しているわ。人権が守られ、平和を尊ぶ平等な社会で、環境保護にも国を挙げて努めているって。

それに比べて、第三地域は人権侵害事件が続き、極東戦争が終結したにも関わらず軍縮に背を向け、二酸化炭素排出で世界の環境を破壊している。これが彼ら良心勢力、つまりメディアの論調よね。第三地域は、人権、平和、環境の敵だって。

 第一地域についての論評も、基本的にはこの路線に沿って行われているわ。人権、平和、環境の心強い味方。これまで一度も軍事侵略をしたこともなければ、市民の人権を何よりも尊重し、環境に気を配りつつ平和的に経済発展を遂げているって」

「違うんだね・・・」

 ススムの呟きに、繊妍な少女は華奢な手指を頬に副え、少し困ったような笑みをこぼした。

「そうね・・・。言葉で説明すると長くなるから、簡単な資料を送るわ。受信して」

 MIKIが手元で何やら操作をすると、間を置かずススムの端末の受信LEDが点灯した。

数千キロを隔て会話する二人であるが、データも一瞬で共有できるわけである。改めて考えると凄い技術だが、幼少の頃からインターネットダイバーのススムは、特に何らかの感慨を抱いたこともない。

もっとも、イントラネット大アジアのフィルタリングを回避できるのは、本当に有難い。心底から清清しい気分で、開放感が全身に満ち溢れてくる。

ススムは画面分割を実施し、MIKIの映像はそのままに、OELの下半面に、受信した第一地域による、侵略や人権侵害のリストを表示させた。

 

1949年 東トルキスタンを侵略、新疆ウイグル地区を設置

1950年 朝鮮戦争参戦。国民党の敗残兵の厄介払いを企図。人海戦術で、何十万もの旧国民党軍の兵士を死に追いやる。

同年 チベットへの軍事侵略開始。

1958年 大躍進運動開始。無茶な農業集団化や、無謀な農工業大増産を図ったが、完全に失敗。三年間で少なくとも二千万の餓死者を出す。

1962年 中印国境紛争で、チベットを越え、インド侵略。

1964年 文化大革命開始。共産党員や市民に対する大粛清が行われ、少なくとも一千万以上の市民が死亡。文化大革命は70年代前半まで続いた。

1969年 中ソ国境紛争。珍宝島問題で、ソ連と軍事衝突

1979年 中越戦争で、ベトナムを軍事侵略。

1989年 六四天安門事件。北京の天安門に集結していた、民主化を求める学生や一般市民を、人民解放軍が虐殺。

1996年 民主化された台湾の総統選挙を妨害するため、基隆沖海域にミサイルを発射。

1997年 気功集団である法輪功への弾圧開始

2008年 チベット動乱。チベット仏教の僧侶やチベット人デモ隊を虐殺。

2010年 尖閣諸島を軍事侵略。極東戦争開始。

2012年 台湾有事で、台湾を軍事侵略。

 

「第二次大戦以降、これだけ侵略や、市民に対する人権侵害を繰り返した政権は、世界に類を見ないわ。

 ちなみに第二次大戦終結後から、極東戦争開始までの長い期間、第三地域の軍は、たった一人の兵士も、もちろん民間人も殺していないのよ。

それにも関わらず、良心勢力は第三地域の軍が平和の敵であると主張する。何らかの政治的な意図があるとしか、考えられないわ」

 呆然とリストに見入っていたススムは、返す言葉が思い当たらなかった。

「市民に対する人権侵害や、軍事侵略だけではないわ。

 第一地域の無謀な経済成長路線は、大陸の環境を、完膚なきまでに破壊してしまったの。

 すでに黄河、昔は大陸の北方を流れていた大きな河のことだけど、これが完全に枯渇してしまって、周辺一帯が砂漠化で凄い状況になっているわ。

最近、第一市民の大物政治家が、こぞってOKINAWAの新中南海に集まってきているのを知っているでしょう。あれは実は、首都が北京砂漠に飲み込まれてしまったので、上層部が避難してきているのよ。

 元々、大陸は水資源について豊かではなかったけれど、今はもう、人口を養う分も確保できなくなっているわね。地方では、水や水源を奪い合って、村同士で械闘、戦闘を繰り広げているの。

最近では、別の土地から人間を浚ってきて、『それ』を代価に水を売買しているという、信じられないような話も伝わってきているわ。

 時々、第三地域の西側に黄色い砂が飛来するけど、あれは北京砂漠から飛んできているのよ。

 もちろん環境が破壊されたのは、北部だけではないわ。

砂漠化を免れた地帯についても、土壌がすっかり汚染されてしまったので、カドミウムや水銀が掘れるような場所で、農産物を作っているのが現状なのよ。もちろん、汚染まみれの、毒菜しか収穫できやしないわよ。

水も汚染されて、腐ったような凄い匂いだから、潔癖症の第三市民では、飲むのはもちろん、シャワーを浴びるのも無理ね。

何しろ大陸では、川という川が、純白とか、オレンジ色とか、自然界では決してあり得ない不気味な色に染まっているの。『虹色の川の大地』なんて、皮肉な呼び方をする人もいるくらいよ。

最近、第三地域から大陸に向けた、農産物や水の輸出が増えているでしょう? あれは、もう大陸では汚染されていない農産物は獲れないし、水についても、沸かしても飲めないほどに、危険レベルになっているせいなのよ。

もちろん、輸入品を買うお金のない市民は、我慢して汚染された食品を食べるしかないわけね。おかげで、奇妙な、奇怪な現象が色々と始まっているのよ。

例えば大陸では、女の子の初潮が、七歳くらいにはもう始まっちゃうの。加えて、そのくらいの年齢から、胸も大きくなり始めるのよ。

初潮の時期の世界的な平均年齢は、十二歳くらいだから、これがどれほど異常なことか、分かるでしょう。

以前の『まほろば』の分析官たちは、第一市民の上層部は第三地域の力、つまり世界有数の経済力や軍事力、それに技術力を、彼らの『世界革命』に利用する、要は『世界革命』の尖兵にするために、解放を仕掛けてきていると推測していたわ。

でも、最近は違うの。

大陸であまりにも環境汚染や、環境破壊が進んでしまったから、一部の第一市民の上層部だけ、つまり自分たちだけでも生き延びられるよう、逃げ場所を用意するために第三地域を手に入れようとしている。そういう意見が増えてきているわ。

現に、一部の上層部は、すでにOKINAWAの新中南海に逃げてきているでしょう。もちろん家族も一緒だから、事実上の疎開みたいなものね。

その上、最近は一般の第一市民が、第三地域に向かう公的ルートが、一つ残らず塞がれちゃったの。公的ルートだけではなく、二年くらい前から第一地域の海軍が、大陸の沿岸をパトロールしていて、汚染地域を逃れ不法に第三地域に向かう船を、片端から撃沈しているわ。それはもう、容赦なく。

おかげで、最近の第三地域では、第二市民のニューカマーは相変わらず増え続けているけど、第一市民はそうでもないでしょう? 以前は大陸からの渡海ビジネスを手がけていた蛇頭も、最近はすっかり半島に、第二地域に地盤を移したわ。

大陸に取り残された十億を超える人々は、陸伝いによそに逃げるか、あるいは汚染地域で汚染食品を食べ、汚染飲料を口にしながら生きていくしかないわ。これから彼らがどうなっていくのか、どう変貌していくのか、誰にも分からない」

「どうして・・・?」

 ススムは我慢できなくなり、口を挟んだ。

「どうしてそんな状況で、社会が維持されているの。いや、それは暴動とかは頻発しているんだろうけど、一応、まだ秩序を保っているところもあるんだよね」

「そうよ」

「それが不思議なんだ。第一地域の現実が、本当にそこまで凄いなら、とっくに崩壊してもおかしくないと思うんだけど・・・」

 人形じみた少女の目元に、昏色の陰が走った。

「それが、情報の力よ。

いくら貧しい農民や、都市の労働者が暴動を起こしても、人権警察や公安、時には解放軍までが動いて、容赦なく叩き潰されてしまうの。

でも、どれだけ酷い弾圧を重ねても、情報委員会がメディアを完全に掌握しているから、連邦の外に事実が漏れることは、滅多にないわ。通信も完璧に盗聴されているから、暴動を起こした農民たちが連携し合うことも、ほぼ不可能な状況なのよ。

第一地域では、世界のほとんどのメディアは、自由な取材を許されていないの。一応、第三地域のメディアは記者を置いているけど、例の記者交換協定のおかげで、オープンな報道ができないでいるし。

メディアさえまともなら、第一地域こそが人権、平和、環境の敵であることを、連邦の市民や、世界中に知らせることができるのに・・・。

あ、そうだわ!」

不意に、MIKIは我に返った様子で、

「あのね、ススム。わたしが送ったリストにある言葉、特に『六四』とか『文化大革命』、それに『大躍進』や『法輪功』などの単語では、決して手繰っては駄目よ。すぐにフィルターが反応して、ポートスキャンニングを掛けられるから」

「わかった」

 その手の話は、どちらかと言えばススムの方が専門である。

IXのフィルターやキングストン・ラベルの話は、元々はススムが思いついて、MIKIと共に進めてきたのだ。

「そう言えば・・・」

 さすがに第一地域の話はお腹一杯になったので、ススムは会話の流れを変えることにした。

「サフランの技術者の件は、どうなったの?」

「あ、そうだったわ。そもそも、その話をしたくて、ビデオコールしたんだった」

 繊妍な少女は、少し恥ずかしそうに目を伏せると、画面の外で何かを探す素振りを見せた。

「あ、あった。え~と・・・意味がよく分からないから、そのまま読むね。

 サフラン社の技術者からのメッセージは、以下の通り。

 バーティカルフィルタリングの基幹機能である、最適化フィルターは、AIの推論エンジンがコア技術となっている。推論エンジンにおいては、プロトコル・キーの更新により、常にアルゴリズムを最適化する仕組みとなっている。プロトコル・キーはIXのマスターサーバにて管理される。

 推論エンジンは、市民連邦の各地のジョイントサーバに、それぞれ配備されているが、メンテナンスの都合上、プロトコル・キーの管理はIX一箇所のみである。IXのマスターサーバより、各地のジョイントサーバに対し、最新のプロトコル・キーがデプロイされる。

結果、各推論サーバは、常に最新のプロトコルによりフィルタリングを実行している。

推論エンジン自体はライブラリであり、特殊なプロトコル・キーを配布することでキングストン・バルブと化すことが可能である。

 ・・・。

・・・分かった?」

 MIKIが不安げな様子で、ススムの顔を覗き込んできた。おそらく、少女にはほとんど理解できなかったのであろう。

 ススムの方はといえば、思わず小躍りしたくなるのを、必死に押さえ込んでいた。

 元々、ススムが第三地域のIX、すなわち大アジア人権主義市民連邦と世界のゲートウェイや、各地の拠点に配備された、フィルターの破壊を思いついたのは、サフラン社が開発したバーティカルフィルタリングの技術が、強力すぎたからである。

サフラン社の開発陣は、特に初めから、市民連邦を顧客として意識し、バーティカルフィルタリングを開発したわけではない。開発時には、このフィルター技術がどこで使われるか、彼らには知る由もなかったはずである。

 となれば、万が一、アメリカ政府なりに採用された場合のことを考えると、情報統制のダメージを直接受けるのは、自分たち自身ということになる。そう考えると、フィルターの全プログラムをホワイトボックス化し、弱点皆無で完璧なフィルター、つまりは「情報検閲技術」を、素直に製品化するとは考えにくい。

必ず、何らかのセキュリティホール、あるいはフィルターの機能を無効化する手段、すなわちキングストン・バルブを、どこかに仕掛けたに違いないと推測したのである。少なくとも、ススムがもしも、これほどに強力な情報統制プログラムを開発するのならば、自衛のために必ずそうする。

バーティカルフィルタリングの構築は、第三地域最大のシステムインテグレータである、STTDが請け負った。

「まほろば」経由の情報により、実は、実際にフィルターのインストール作業を行ったのは、STTDの社員ではなく、サフラン社からの派遣技術者であることを知った。それ以来、ススムの心にある種の確信めいたものが芽生えたのである。

バーティカルフィルタリングには、キングストン・バルブがある、と。

そして、ついにサフランの技術者により、ススムの推測の正しさが証明されたわけだ。湧き上がる熱い想いを抑えるように、ススムは言葉を継いだ。

「完璧に理解できたよ。それで、そのプロトコル・キーは入手できそうなの?」

「ええ」

 深海色の瞳の少女は、本日初めて、心から嬉しそうに微笑んだ。

「サフラン社の技術者・・・。あ、サフランは経営陣が収監されて、二ヶ月前にチャプターセブン(倒産)になったから、元、サフランの技術者ね。

 とにかく、バーティカルフィルタリングの開発陣の一人と合意ができて、キングトン・バルブ、具体的にはフィルターを無効化する、プロトコル・キーを提供してもらえることになったの。その人は、物凄いアンチ市民連邦だから、喜んで協力してくれたわ。

 さすがにオンラインで送るのは怖いので、誰か人を介して届けるね」

「分かった・・・」

 話が徐々に、具体的になってきた。ススムは心が高ぶり始めた自分に気がつき、苦笑する。まだまだ、慌てる時間ではない。

「あとはセミンとSTTDの方が予定通りいけば、いよいよだね」

「ええ」

 武者震いを感じ始めたススムに対し、繊妍な少女の方は浮かない顔である。何かを言いたそうに口を開いたものの、結局は目を伏せ押し黙ってしまう。

ススムはそんなMIKIの素振りを、不振に思い、

「どうしたの?」

 MIKIは二度、三度と紅唇の開閉を繰り返したが、ついに、

「ススム。今回のオペレーション。やっぱり取り止めにしない?」

「どうして!」

 少女の突然の変心に、ススムは思わず頓狂な叫び声を上げていた。

「・・・心配なのよ、あなたたちが。

 今まで色々と依頼したことは、まあ時には少し踏み外したことがあったかも知れないけど、一応は市民連邦の、法律の枠内で可能なことをお願いしていたわ。

でも、今回のオペレーションは、完全に違法な破壊工作だもの。万が一、失敗したりしたら・・・」

「何だ、そんなこと」

 ススムはホッと息をつき、思わず笑い出してしまう。「あなたたち」という単語が、微妙に気になったが、何かトラブルというわけではないらしい。

「心配性だなあ。大丈夫だよ。

どのみち、セミンの方が巧くいかなければ、オペレーションも何もないんだし。いくらキングストン・バルブが入手できたとしても、プロトコル・キーを更新する機会がなければ、どうにもならないから。

 逆にキーを更新する機会さえつかめれば、何しろ、ファイルをデプロイするだけだから、軽く、本当にほんの数分で終わる作業だよ、多分。

 それよりも、」

「まほろば」の少女の不安を払拭するため、ススムは話を強引に引き戻す。

「もしも、フィルターを解除することに成功したら、MIKIは何をしたいの」

「そうね」

 心配をかけまいという、ススムの気持ちが伝わったのだろう。MIKIは優しく、穏やかな笑みを浮かべ、答えた。

「わたしは、ある『本』を、デジタルデータで全市民連邦の人たち、特に第三市民のみんなに配布したいの。

著作権違反になっちゃうけど、この際、勘弁してもらうわ」

「本?」

 ススムは少し意表を突かれたものだ。

「本って、もしかして『1984年』?」

「いいえ。あの本はまだ『ゆとり書籍化』が完了していないから、配布したとしても、みんなはまだ、読めないわ。

 でもまあ、近いと言えば近いわね。

 わたしが配布したい本は、『新世紀のビッグブラザーへ』、という本なの。ビッグブラザーと言うのは、もちろん『1984年』から取られたのよ。

 第一地域による解放が始まったとき、第三地域の近未来における新全体主義、極度の管理社会を予測して、人々に警鐘を鳴らすために書かれたディストピアなお話。そういう意味では、ジョージ・オーウェルと同じ目的で書かれたことになるので、『1984年』への、ある種のオマージュと言っていいわね」

「へえ」

 ゆとり文字世代のススムは、『新世紀のビッグブラザーへ』などという本は、聞いたことがなかった。まあ、それを言うならば、もしも人権犯罪人として貶められることがなければ、ジョージ・オーウェルの名も、『1984年』についても、一生知る機会は無かったであろう。

「それで、その『新世紀のビッグブラザーへ』の、作者の人はどうしたの。出版したときは、まだ解放は始まっていなかったんだよね」

 少女の小さな顔に、またもや薄く陰が走った。

「解放前と言っても、それはもう、進歩的な良心勢力の皆様から、物凄い迫害や圧力を受けたわ。

 当時はまだ、人権擁護法は『法案』状態で、施行はされていなかったんだけど、本の内容が差別的だとか、一方的だとか、妄言の連続だとか、表現が不公正だとか、色々と非難されて、言葉尻を捉えられて何度も裁判起こされて、糾弾会に引っ張り出されて、とにかく大変な目に会ったわ。

 そういえば第三地域で少し前から流行している、『ウヨク分子』というレッテルがあるでしょう。あのレッテルを大っぴらに貼られたのは、この本の作者が第一号よ、確か。他にも『キョクウ作家』とか、『差別主義者』とか、『ニッテイ主義者』とか。

良心勢力は、お得意のレッテル貼りで、この作家の信用を落として、何とか口を塞ごうとしたの。

よく考えてみると、今とあまり変わらないわね。

ウヨク分子というのは、ファシズム信奉者とか、軍国主義者みたいな意味だから、本人はさぞや不本意だったでしょうね。この作者は、ファシズムだろうがコミュニズムだろうが、全体主義的なものが、とにかく大嫌いだったから」

「へえ」

 ススムは、何となく感動を覚えたものだ。昔にも、今のススムたちと同様に、全体主義と闘おうとした人たちはいたのだ。それが嬉しかったのである。

「結局、その作者の人は、どうなったの? まさか・・・」

 ススムの懸念に、MIKIは軽く手を振って応じたものだ。

「大丈夫、大丈夫。迫害を避けるために、アメリカに渡らざるを得なかったけど、命を落とすようなことはなかったわ。

今でも元気一杯よ。ある意味、人生を謳歌していると言えるわね」

「詳しいね、MIKI」

 ススムは驚き、

「もしかして、会ったことあるの?」

「それは、もちろんあるわよ。実は、この『新世紀のビッグブラザーへ』の作者、フジサキタカユキは、わたしたち『まほろば』の創設者の一人なのよ。

それに・・・」

 少女はどことなく恥ずかしそうに、同時にどこか誇らしげに、ススムに告げた。

「フジサキタカユキは、わたしのお父さんよ」


*この物語はフィクションです。


第七章 キングストン・バルブ へ続く


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