翌日の土曜日。
ススムはセミンとの約束の時間に間に合わせるため、朝食を済ませると、すぐにジャケットに袖を通した。命よりも大切なSuperWiMAXの端末は、無論、忘れない。
屋根裏部屋から下りていくと、玄関から話し声が聞こえた。来客のようである。ススムの母親と、甲高い特徴的な声の中年女性が、二人で何か話しこんでいる。
ススムは何となく邪魔するのがはばかられ、階段の踊り場で立ち止まった。
それにしても、来客の声はけたたましい響きであった。まるで家中に轟き渡るような大きな声で、ススムの母に何かを懸命に主張している様子である。
「でぇ~すから、奥さん! 環境対応ですわよ、環境対応! OKINAWAでは、すでに三割近い男性が、率先して環境対応を受けたんですのよ! まあ、まあ、何と環境に優しい、素晴らしい傾向だとは思いません、奥さん?」
ゾッと、一瞬でススムの背筋が凍りついた。
環境対応の斡旋。環境委員だ。ススムは自分の顔から血の気が引いていく音を、はっきりと聞いた。
「ええ、まあ・・・」
「結局のところ、地球人類は増えすぎたんですわ、奥さん! 地球に優しく、環境に優しく。
拙宅なんて、男の子が三人いたんですが、みんな環境対応させたんですのよ。
地球愛護! 環境愛護! 世界は、みんながみんな、平等に繁栄できるほど、広くも大きくもありません。
特に、お宅の坊ちゃんなんて、人権犯罪人でいらっしゃるでしょう?」
人権委員会の査問会で、最終的に人権侵害を認めたススムに貼られたレッテルは、一生消えることはない。
「イシザカ環境委員長も、よく仰っていますわ。今や、地球は増えすぎた人口に、悲鳴を上げておりますのよ。誰かが何とかしてくれる、の態度ではなく、自分たちでできることからやる。この姿勢が、何よりも大切ですわ。
特に、人権犯罪を起こした男性にとって、環境対応はむしろ義務であると、わたくしなどは考えております!
世界は差別主義者の人権犯罪人を受け入れてくれるほど、優しくもなければ、余裕もございませんのよ、奥さん。坊ちゃんのためを思うのなら、ぜひとも環境対応を薦めてください。これが人権犯罪を起こした、坊ちゃんのためでもありますわ。
考えてもみてください。人権犯罪人を親に持つ子供が、将来、自分の親について、一体どういう感想を持つか? 想像してみてくださいな、奥さん!」
人権犯罪人。人権犯罪人。人権犯罪人。
ススムは突如襲い掛かってきた激しい眩暈に、思わずその場に座り込んでしまう。
繰り返される「人権犯罪人」の単語に、ススムの心が、あの陰気な人権委員会の建物の中へ、フラッシュバックしたのである。煉獄の記憶の中へと。底の無い悪夢へと。
薄暗い、その割に妙に広々とした空間で、ススムは一人ぼっちであった。
いや、周囲を大勢の人間に囲まれ、物理的には一人とは言えないわけだ。だが、心情的には、ススムはまるで世界にたった一人で生き残ったごとく、途方もない孤独感に押し潰されようとしていた。
カナスギアキヒロ、本名キムミョンパクが提出した、ススムに対する人権侵害の申立書を、先ほど人権擁護委員の一人が読み上げた。
それによると、どうやらススムは日常的にカナスギに対する差別的言動を繰り返し、挙句の果てに、恋人まで奪い去ったことになっているようであった。
そのカナスギの奪われた恋人というのが、二ヶ月前に桜の下で告白された、今のススムの恋人であるとのことである。
さすがに、ススムは思わず爆笑してしまった。全て合点がいったのである。
カナスギの申立書によると、ススムは他人の目がある時は普通に接していたが、二人きりになるや、カナスギを「キム」と呼び、繰り返し屈辱感を与えていたそうである。現実には、ススムはそれまでカナスギと、ほとんど口をきいたことさえなかったのであるが。
そもそも、カナスギは通名ではない「本名」を呼ばれ、なぜ屈辱を感じなければならないのだろうか? 不思議である。もしもススムが「タチバナ」と呼ばれ、憤りを見せたりしたら、おそらく他人はススムを狂人と認識するであろう。
さらに、ススムがカナスギの長年の恋人に、
「第二市民のキム野郎とつき合うなんて、心と身体が穢れる」
と、詰め寄り、自分に乗り換えさせた、などという訴えを聞かされ、ススムはもはや真面目に対応する気が失せてしまった。
要は、カナスギの嫉妬心からくる妄想が、この一件を引き起こしたわけである。
しかし、ススムにとってはバカらしい話でも、一旦、人権委員会に持ち込まれると、極めて重大な人権侵害になってしまう。
真実がどうであろうと、とにかく人権委員会に話を持ち込まれたら、それで終わりなのだ。その後、ススムは心底から思い知ったのである。
頑固に(当然だが)、カナスギへの人権侵害を認めようとしないススムに、人権擁護委員たちは言葉の暴力の限りを尽くした。それは、罵声や怒号などというありきたりの言葉では、とても表現しきれない、想像を絶する凄まじさであった。
入れ替わり立ち代り、人権擁護委員たちが浴びせかける非難の嵐は、まさに人民裁判さながらの有様だ。もちろん、ススムの側に弁護人はおらず、人権擁護委員たちが検事と判事を兼任しているのである。
「差別主義者が!」
「人権犯罪人! 人権侵害を起こした上に、言い逃れを繰り返す虫けら!」
「言い逃れできると思うなよ。お前が差別主義者なのは、調査結果からも明らかだ。お前の周囲の誰もが、お前を差別主義者だと認めた!」
「それにも関わらず、差別された本人に罪をなすりつけようとしている! 最低の人間! いや、人間ですらない、けだもの以下の存在だ! 劣悪な蛆虫だ!」
そもそも、各地区の人権擁護委員の定員は五名のはずだが、このときはなぜか二十名以上の男女がススムを取り囲んでいた。内、五名がトウキョウ第十二区の人権擁護委員として、残りの者たちは誰だったのだろうか、ススムは永遠に知ることがなかった。
「人権侵害の被害者への、同情心すら持ち合わせないのか! 人非人! 残酷な人権の敵!」
「お前に必要なのは、言い訳ではなく、反省だ! 劣等市民!」
「そうだ! 言い訳するな! 反省しろ! 倭奴!」
「ニッテイ主義者! ウヨク分子! 敗戦市民!」
「自分の罪の重さも理解できない、差別主義者のウヨク分子は、死ね!」
「そうだ死ね!」
「死ね!」
「死ね!」
その場の全員が、ススムを一斉に指差し、大声で唱和した。
「死ね!」
「死ね!」
「死ね!」
「死ね!」
「死ね!」
「死ね!」
「死ぬのが嫌なら、自己批判しろ! 自分の罪を認めろ!」
「そうだ! 自己批判しろ! 人権犯罪人! 自己批判しろ! 罪を認めろ! 謝罪しろ!」
「自己批判だ! 自己批判だ!」
「罪悪感を持て! 罪悪感を持て! お前は差別主義者だ! 人権犯罪人だ!」
「自覚しろ! 人権犯罪人!」
怒涛のような悪口雑言の嵐は、数時間後、ススムの心が折れ、屈服するまで延々と続いたのである。
この日、人権委員会の査問会で、ススムの心は一度、死んだ。
「ススム、どうした。顔色が青い、と言うか、白いぞ」
東京人権大学の入り口で待ち合わせたセミンが、日焼けした顔で覗き込んでくる。
ようやくのことで環境委員が退散し、ススムは外出することができたのであるが、どうやってここまで来たのか、よく覚えていなかった。待ち合わせ場所が、通い慣れた大学前でなければ、辿り着けなかった可能性が高い。
「・・・遅れてゴメン」
蒼白な顔でススムが詫びると、セミンはニヤリと男っぽい笑みを見せ、
「運動不足だな。少しは野外で運動して、陽の光を浴びろ。道路工事のアルバイトなんかもいいぞ。運動不足は解消するし、いい金にはなるし、一石二鳥だ」
こういうときに、くどくどと理由を聞いてこないセミンは、本当にありがたい存在である。環境委員会に目を付けられたと言っても、所詮はススム個人の問題であり、他人に愚痴をこぼし、共感を求めても、何の解決にもならない。
「まほろば」に属している人間は、みなそれぞれが、それぞれの重荷を背負っている。この陽気で健康そうな第二市民、チョセミンとて例外ではない。そして各々の重荷は、各々で解決するか、あるいは背負い続けていくしかないのだ。
「ま、とにかくだ。来てくれて助かった。この近辺は、地理に不案内なんだよ。カスミガセキは警官が多いから、オレのようなニューカマーの脱半島者にとっては、ある意味、鬼門なんだ」
「うん」
ススムは一息入れ、セミンを大学構内へと促した。目的地である大講堂に向かい、二人は並んで歩きながら、銀杏の落ち葉を踏みしめていく。セミンはススムよりかなり年上のはずだが、若々しい健康的な風貌は、まあ、学生に見えないこともなかった。
チョセミンは最近増え続けている、第二地域からの脱出組である。昨今の金王の半鎖国政策により、第二地域に住む市民の海外との行き来は、公的ルートでは不可能になっているが、命懸けで脱出してくる人々の波は絶えない。
「そういえば・・・」
セミンと話し、少し元気を取り戻したススムは、話を振ってみた。
「ん?」
「昨日のアサヒメディアの夕刊で、また第二地域の特集が組まれていたよ。地上の楽園、現世の天国、だってさ」
「けっ!」
セミンはススムの言葉に、眼光をたぎらせ、口を真一文字に引き締めた。
「あの肥満児、金王様にとっては、そりゃ地上の楽園だろうし、現世の天国だろうよ」
「・・・」
「アサヒメディアの糞どもが、そんなに第二を素晴らしいと思うのなら、自分たちが率先して、移民でも何でもすりゃあいいんだよ。真っ先に銃口が出迎えて、労働改造所で歓待してくれるさ。飯は一日二食、おかず無しのトウモロコシだけだけどな!
胸糞悪い! さっさとくたばって、昇天してしまえ、糞メディアが! 第二が本当にこの世の天国なら、誰が命懸けでトウ海を越えてくるかよ!」
セミンが徐々にヒートアップして始めたので、ススムは少し後悔したものである。セミンは故郷の批判を始めると、歯止めが利かなくなる傾向があるのだ。
「大体、ススム、知ってるか? オレたち第二からの脱半島者が逃げ延びたとしても、現実には、どこに行っても碌な職には就けないんだよ。男ならオレみたいに、単純労働と肉体労働で食いつなぐか、女ならせいぜい売春婦だよ、売春婦。
それでも苦労して金王の領地から逃げ出しているわけだよ、オレたちは。その理由を進歩的なアサヒメディア様に、ぜひとも説明して欲しいもんだ。なぜ「地上の楽園」とやらから、毎年、十万人を越える市民が逃げ出しているのか、な。
まあ、オレの場合は、チンイルパ(親日派)の子孫で、第二じゃ一番下の階級の、そのまた下の出生成分だ。そもそも第二では生き延びようがないから、逃げ出すしかなかったわけで、飯がきちんと食えるだけマシだけどな、今は」
そうなのだ。チョセミンは、金王が大総統に就任直後に実施した、市民の出生成分による階級化の際に、最低ランクに位置づけられてしまう、親日派子孫なのである。
親日派子孫の迫害自体は、極東戦争以前から、半島の南側では盛んに行われていた。ちなみに、半島の北側では迫害以前に、そもそも一人残らず皆殺しにされてしまっていたので、親日派への迫害など存在し得なかった。
金王は大総統就任後、統一以前から半島の南に存在した「親日反民族特別法」なる遡及法を知り、いたく感心したという。
親日反民族特別法とは、正式名称を「ニッテイ強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」という。旧南側の大統領が設置した「真相究明委員会」が、過去の「反民族行為」を調査し、親日行為が明らかになった場合は、その「子孫」から土地や財産を召し上げるという、極めて超近代的な法律である。遡及法であるばかりか、連座法の概念まで持ち合わせているわけだ。
ちなみに、親日派子孫から奪った財産は、抗日派子孫に分け与えられる。ある意味、最強に進歩的な法律と言えよう。
「南の政治家には、資本主義に毒された愚か者しかいないと思っていが、どうしてなかなか、我が意を得る人物も存在するではないか!」
金王はこのように述べ、親日反民族特別法の「改正」を命じた。すなわち、親日派の定義を「真相究明委員会により親日派として認められた者」から、「親日派リストに載った者」と改めたのである。
この法改正により、金王は自分に都合の悪い人間を「親日派」として認定し、労働改造所に放り込むことが可能になった。何しろ、親日派リストに名前を載せればいいだけであるから、これほど簡単な峻別法も無いわけである。
もっとも、セミンの場合は本当に先祖がニッテイ軍の将校で、まごうことなき親日派の子孫であるとのことだが。
「肥満児にも腹が立つけど、もっとむかつくのは、あのパンチョッパリどもだ」
不意に、セミンの批判の矛先が金王やアサヒメディアから、第三地域在住の第二市民、いわゆる在三半島市民に変わった。セミンは興奮し、唾を撒き散らしながら、批判をエスカレートさせていった。
「『我々は偉大なる金王様の、忠実なる臣下』なんて阿呆な自慢をしやがって! いつの封建時代だよ。
そんなに肥満児がいとおしいなら、てめえらこそ、真っ先に半島に帰って、肥満児に仕えるなり、ぶち殺されるなりすればいいんだ。安全なところから、口先だけ偉そうなこと言って、オレらニューカマーを莫迦にしやがる。
ススム、知っているよな? あいつら、パンチョッパリの爺婆ども、掛け金も払っていないくせに、年金を貰っているんだぜ。しかも、若い奴らは生活保護にたかっていやがるし。屑だよ、屑。人間の屑」
厳密には、在三半島市民たちは年金を貰っているわけではない。各自治体が「善意」で実施している、「無年金外国人高齢者福祉給付金」なるものを受け取っているのである。当然だが、掛け金も支払っていない在三半島市民への、事実上の年金の原資は、第三市民が払った税金である。
川崎市や小平市を始め、元々この意味不明な給付金を、在三半島市民に支払っている自治体は少なくなかった。これが外国人参政法により、在三半島市民の政治力が増すに連れ、全く歯止めが効かなくなってしまったのである。
一部自治体に在三半島市民が集中して居住し、自分たちの傀儡を首長に当選させ(さすがに被選挙権はまだ無いので)、各種特権を享受するという事態が頻発したのだ。
外国人参政法の弊害は、無年金問題に留まらない。
セミンが吐き捨てたように、在三半島市民は自治体の政治を乗っ取ることにより、生活保護について優先的に享受している。本来保護されるべき、第三市民の母子家庭などよりも優先されているわけだから、尋常ではない。
さらに、理由無く住民税を免除されるなど、在三半島市民は外国人参政法を活用し、数々の特権を手に入れたのである。かつての伊賀市など、一部の自治体で行われていた狂った行政が、外国人参政法により一般化してしまったわけだ。
その上、改正上級公務員法により、在三半島市民が自治体の上級公務員に就くことが可能になった。ここに至り、事態はもはや収拾がつかない状況にまで悪化している。
八年間に一日も出勤しなかったにも関わらず、給与を満額貰った上に、自治体に貢献した功で表彰された、在三半島市民の「上級公務員」が出現するに至っては、さすがに誰もが度肝を抜かれた。かつての奈良市環境局の職員で、五年九ヶ月間に出勤八日という大記録を打ち立てた、部落解放同盟の幹部もびっくりである。
ちなみに、これまで述べたような、在三半島市民の特権を批判した政治家やジャーナリストには、人権擁護法によるありがたい運命が待ち受けていることは、言うまでもない。
「あいつら、パンチョッパリども、高麗語も喋れないくせに、第二市民を気取っていやがる。オレの知り合いの在三なんて、第六世だぜ、六世。もちろん高麗語なんて、全く理解できやしない。ザイサンハントウシミン六世陛下。プッ、どこの王様だっつう話だよ、莫迦らしい。
棄民のくせに、偉そうで本当にむかつく、ペクチョンのパンチョッパリどもが!」
セミンが金王や在三半島市民の悪口を撒き散らしている間に、トウ人大の大講堂に着いてしまった。ススムは慌ててセミンの袖を引っ張ったものである。
「セミン、声を落として。もう着いたから、目立ちたくない」
「お・・・。おお、悪い、悪い」
セミンは少し気恥ずかしそうに頭をかきながら、男臭い笑顔を見せた。
大講堂の正面には、「第十八回 平和地球会議」の立て看板が置かれている。すでに開始時間は過ぎているので、「まほろば」の二人はできるだけ目立たぬように、講堂正面の大階段を上った。
特に誰かが受付をしている様子もない。今ひとつ、やる気の感じられないイベントである。
それでは、遠慮なく。とばかりに、講堂の大扉を押し開け大講堂に入った二人は、そこで見た光景に、かなり仰天する羽目になった。
「え?」
「少な・・・」
すでに平和地球会議は始まっているようで、講堂のステージでシンポジウムらしきものが行われているのだが、客席の方がほとんど埋まっていないのである。と言うか、一目で出席者数を把握できるほどに少ない。試みにススムが数えてみたところ、出席者は全部で十三名であった。
ステージの上に、シンポジウムのパネラーが四名。ステージの袖で待機している係員が二名。そして出席者が十三名。ススムらを除くと、合計十九名が、この広大な講堂で平和地球会議に参加している全てのようである。
「・・・なにこれ?」
「いくら平和委員会がスポンサーとは言え、無駄遣いもいいところだな」
セミンは呆れたようにつぶやき、ステージに向かい、階段を下りかけたススムを押しとどめた。
「やめろ。今からあの中に混じると、目立ちすぎだ。この片隅で、ご相伴させてもらうとしようぜ」
「あ・・・、そうだね」
確かにこのタイミングでステージに近寄ると、とんでもなく目立ちそうである。ススムは自らの迂闊を恥じた。
二人はスポットライトの光も届かない、講堂の隅の席に身を落ち着けた。
ススムは膝の上でSuperWiMAXの端末を立ち上げ、MIKIから送られてきた写真を表示させる。MIKIからの依頼は、この写真の男が出席しているかどうか、確認して欲しいというものだった。
「あ。あれじゃないか? 一番左端、後ろから二番目の禿頭。スポットライトを反射している奴」
横からススムの端末を覗き込んでいたセミンが、出席者の群れに顎をしゃくった。
その半分頭の禿げ上がった眼鏡の男は、特徴あるストライプの背広を身に付け、腕組みしたまま、微動だにしなかった。明らかに、寝ている。
「あ、本当だ。あの眠っている男。でも、何で服装まで写真と一緒なんだろう?」
「一張羅なんだろ」
ススムの疑問に、セミンはどうでもよさそうに答え、自らの端末を取り出した。標的を見つけたと、MIKIに報告する必要がある。
セミンがメールを打ち込んでいる間、ススムは何となく、ステージで行われているシンポジウムを拝聴していた。大講堂の高価な音響設備のおかげで、これだけ距離があっても、パネラーたちの声を明瞭に聞き取ることができるのである。
司会の誘導に、各パネラーがそれぞれの意見を披露している。
「創造的会話です、創造的会話。世界のあらゆる争い、揉め事は、創造的会話によりこそ解決されるべきなのです」
「なるほど。ウエハラさんは、いかが思われますか?」
「実に、フジサワ先生のおっしゃるとおりですわ。創造的会話を広めることにより、世界から争いを消すことが可能なのです。
そのためには、無抵抗の文化です。無抵抗の文化を、世界に向けて第三地域から率先して広めなければなりません」
「ふむ、ふむ」
「戦争は人が死ぬのです。平和こそ、何よりもかけがえのないものです。人命尊重、人命は地球よりも重い。戦争はダメです。
そこで、各都市は予め無防備都市を宣言しておく。これが戦争回避の一番の手段なのですわ」
「無防備都市宣言ですか・・・」
「そうです、無防備都市宣言です。ジュネーブ条約追加第一議定書で認められた、市民の正当な権利ですわ。
わたしたちは無防備地域宣言運動を、ますます大々的に展開していかねばなりません。
武装放棄! 人命尊重! 創造的会話! そして無抵抗文化! それこそが、平和への近道なのです」
まばらな拍手が起きた。
ススムの方といえば、あまりにもお花畑な話が続き、徐々に眠たくなってきた。あの男が熟睡しているのも、無理もない気がする。
ちなみに無防備都市宣言は、ジュネーブ条約において「敵対する紛争当事者に対して行われる」と定められている。そのため、極東戦争が終戦し、すでに平時中の第三地域の各都市が幾ら無防備都市宣言を行っても、何の効力も意味も無い。
ありたいていに言って、時間と労力と金の無駄なのである。
しかも、無防備都市宣言をしていながら敵国に蹂躙された例は、第一次大戦時のベオグラード、第二次大戦時のイタリアの各都市、フィリピンのマニラ、今世紀に入ってからもユーゴ紛争やアフガン戦争における各重要拠点、イラク戦争時のバクダッドなど、枚挙の暇がないが、無防備都市宣言により交戦を免れた事例は、歴史上に存在しないのだ。
その上、ジュネーブ条約追加第一議定書について、アメリカを始めとして多くの国が、実は批准していない。批准していない国は、もちろん無防備都市宣言など守る必要はないし、守るつもりもないのである。
以上のような現実に目をつぶり、無防備都市宣言により平和を守れると主張するなど、まさにお花畑。幼稚園児レベル以下の、思考能力と言えよう。
「おっし、報告完了っ、と」
端末を落としたセミンの声を合図に、二人は立ち上がった。大きな音を立てないように注意し、大講堂から退散する。
出入り口は一箇所しかないので、外で待っていれば、いずれあの男も出てくる。
こんな時間つぶしのお花畑会議に、わざわざ最後までつき合う義理は、両名とも持ち合わせていなかった。第一、寝入らないようにするだけで、ひと苦労しそうだ。
大講堂の入り口が見えるベンチに陣取り、二人は秋の陽気を楽しむことにした。
ベンチ脇の自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら、ススムは相変わらず雲一つない蒼い空を見上げた。
朝はどうなることかと思ったが、まだ空は落ちてきていない。大丈夫。
「しかし、まあ、あの地球平和団があそこまでボケちゃったのも、分からないでもない。平和すぎるんだよ、ここは」
「え・・・?」
唐突にセミンが言葉を発したので、ススムは戸惑った。
(地球平和団?)
ああ、先ほどの平和地球会議の連中か。と、ススムは大講堂をぼんやり眺めながら、一つ肩をすくめたものだ。
まあ、名称なんて、どうでもいい。
「オレが第二地域で暮らしていたときは、身の危険を感じずに済んだ日なんて、一日しかなかったからな。ほら、あの日」
「あの日?」
「そう。あの、南北の非武装地帯が解放された日。あの日だけは、周囲がお祭り騒ぎだったので、さすがの親日派子孫のオレも、怯えずに済んだ。誰も彼もが浮かれきっていて、親日派がどうのこうの、言い出す奴もいなかったからな」
「・・・」
「まあ、北から住民が非武装地帯を越えてくると、みんな一気に目が覚めたが。何しろ、連中は誰も彼もがみんな痩せこけていて、子供の頃に婆ちゃんから聞いた、地獄をさまよう餓鬼そのものに見えたからな」
ススムは黙っていた。
内心、ここはここなりに、別の形をした危険で満ち満ちていると言いたかったが、口には出さないでおいた。さすがに、労働改造所という名の強制収容所に、人々が日常的に放り込まれ、片端から銃殺されるか、あるいは餓死している第二地域と比較するのは、無理がある。
「およ。終わったみたいだぞ」
大講堂の大扉が開き、人々がぞろぞろと連れ立って出てきた。平和地球会議が終了したようである。
人々の群れの中に、あのストライプの背広を身に着けた、禿頭の男も混ざっている。周囲を、いかにも屈強そうな黒服の男たちに囲まれ、かなり目立っていた。
「あらら、SP連れてやがる・・・。結構、大物なんじゃないのか、あいつ?」
セミンの言うとおりである。精悍そうな黒服の男たちは、明らかに禿頭の護衛のようであった。
「うん」
ススムは同意した。
MIKIの話によれば、禿頭の男は徒歩で移動するはずである。少々離れていても、見失う恐れは無いだろう。車を使われてしまった場合には、ま、その時はMIKIにそう報告すれば済む話だ。
ススムとセミンは、百メートルほどの距離をおき、禿頭のグループの尾行を始めた。黒服のSPたちが、まるで黒い叢雲のように見えるので、尾行も楽なものであった。
と、その時、
「ん、何か来たな」
セミンの指摘どおり、カスミガセキ官庁ビル群、つまりススムたちの進行方向から、こちらに向かってくる集団が見えた。シュプレヒコールも聞こえてくる。何かのデモ行進のようである。
「あ、そうか」
ススムはすぐに思いあたった。今日は土曜日。ここはトウキョウ第一区、カスミガセキ。
「水曜デモだよ、水曜デモ」
「ああ、なるほど」
セミンも納得がいったようである。
水曜デモとは、第二次大戦中に戦場で売春に従事していた女性、いわゆる「従軍慰安婦」に関する、第二市民、及び良心勢力による抗議活動である。
ニッテイ軍が、半島の女性を強制的に連行し、軍の性奴隷にした! という印象操作のために「従軍」の冠がついているが、この「従軍慰安婦」というのは後世の造語である。当時の戦場の売春婦は「慰安婦」や「接待婦」などの名称で呼ばれていた。
デモ隊が近づいてきた。
拡声器を使っているので、煽りの声は大きいのだが、人数は意外と少ない。シュプレヒコールも、どこか弱々しげであった。
老若男女取り合わせ、全部で二十名くらいだろうか? 先ほどの平和地球会議と、いい勝負である。当然だとは思うが、男性よりも女性の参加者の方が多い。
「第三地域政府は、従軍慰安婦に謝罪せよ! 賠償せよ!」
「おーっ!」
「ニッテイ軍は、ハルモニたちを強制連行して性奴隷にした!」
「悪魔だ! 悪魔だ!」
「ハルモニたちは、泣いているぞ!」
「おーっ!」
水曜デモは、何と前世紀から延々と続いており、先日、めでたく1400回を超えたばかりだ。
以前は半島の南側で毎週水曜日に行われていたのだが、大朝鮮民族主義高麗連邦成立後に、第三地域に場所を移した。その際に、曜日も土曜日に変更したのであるが、なぜか名称だけは「水曜デモ」のままである。
「第三地域政府は、従軍慰安婦に謝罪せよ! 賠償せよ!」
「おーっ!」
「ニッテイ軍は、ハルモニたちを強制連行して性奴隷にした!」
「悪魔だ! 悪魔だ!」
戦場には数万、あるいは数十万の健康的な若者が集まっているのが普通だ。つまり、性産業の膨大な需要があるわけである。これら戦場の兵士を標的市場とした、売春ビジネスが興隆するのは、ある意味当たり前のことであった。
戦時の売春ビジネスが、なぜ問題視されなければいけないのか、という視点がむしろ普通であろう。いや、もちろん、売春自体が問題なのだという論理は当然あり得るが、それは全く別の問題である。
軍隊の駐屯と、兵士による現地女性の強姦や性病の蔓延、そして強姦や性病を防ぐための売春施設の設置は、世界的に見ても自然な現象である。そもそも人間はロボットではないので、万を越す数の成年男子を集めておいて、性的トラブルを未然に、完璧に防ぐなど、所詮は無理な相談なのである。
そこで、従軍慰安婦運動を支援する良心勢力や、半島の南側の政府などは、ニッテイの軍隊が平和な村落から少女たちを強制的に連行し、性奴隷にしたと、論旨のすり替えを図った。これは、通常の戦時徴用であり、軍需工場などにおける勤労目的の「女子挺身隊」と、性ビジネスである「慰安婦」を故意に混同させた、悪質なプロパガンダである。「従軍慰安婦は軍隊に強制的に連行された悲惨な性奴隷」という、イメージ構築を狙ったわけだ。
ところが、半島の南側の政府は、自らが提示した慰安婦強制連行の証拠書類のおかげで、とんだ大恥を晒す羽目に陥ってしまった。
何しろ南側の政府が「強制連行」の証拠として提示した書類が、「慰安婦至急大募集」の新聞広告であったのである。まさに前代未聞の、壮大な自爆であった。
しかも募集広告には、「月収三百円以上」と明記されており、「強制連行された性奴隷」のはずの慰安婦が、とんでもない高給取りであったことまで、自ら暴露してしまったのである。第二次大戦の頃、軍の最高司令官の月収が五百五十円、末端の兵士の給与は月に二十円未満でしかなかった。
慰安婦は「半島の南側の政府の証拠書類」によると、将軍クラスの「初任給」だったわけである。随分と高給取りの、性奴隷もあったものである。
証拠書類を提示した当時、すでに半島の南側では、政府の役人までもが漢字の文献を読めなくなっていたのだ。ハングル愚民化政策の、完全勝利である。
ススムはかつて、セミンに聞いたことがある。
「第二市民は、本当に慰安婦は軍隊に強制連行されたって信じているの」
セミンはつまらなそうに、
「信じているわけないだろ。
もしも強制連行説が本当なら、オレたちのご先祖様は、自分の妻や娘が軍隊に連れ去られるのを、黙って見過ごした腰抜けということになる。何しろ、軍の強制連行とやらに刃向かって、殺された奴が一人もいないんだからな。
どんなへたれ民族なんだよ、オレたちは」
「あ・・・。そう言えば、そうだね」
「でもな、真実なんて実際にはどうでもいいんだよ。自分を被害者だと強調して、相手に加害者意識を持たせれば、相手より優位に立てるじゃないか」
セミンのこの言葉を、ススムは後に、幾度と無く思い返したものである。
水曜デモの隊列が接近してきた。
*この物語はフィクションです。
第五章 日王陛下の憂鬱 へ続く

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