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Contents 08/02/27掲載


新世紀のビッグブラザーへ 著:三橋貴明

第三章 イントラネット大アジア

 

 死神の来訪を告げる鐘の響きは、ススムの場合、あまりにも日常的な呼び鈴の音だった。

 特に何の予感も覚えぬまま、家の玄関の扉を開けたススムの目に、ピンク色に染められたマイクロバスの巨影が飛び込んできた。いや、決して大きくはないのだが、そのショッキング・ピンクのインパクトたるや、保育園児の中に相撲取りが混じっているように、途轍もないものがあった。

「タチバナススムさん?」

「はい」

 エメラルドグリーンのブレザーを着た中年の女性の問いかけに、ススムは条件反射で頷いていた。今、思い返してみると、あの人権擁護委員の女性は、フクシマだったような気もするが、確かなところは思い出せない。

「キムミョンバクさんから、あなたに対し人権侵害の申し立てが成されました。明日の午後一時に、人権擁護委員会の事務所まで出頭してください」

「キムミョンバク?」

 知らない名だ。しかも、明らかに第二市民の名前の響きである。当時のススムには、第二市民の知り合いなどいなかった。

「ああ、この方は普段、大学では通名を使っていらっしゃるようですわね。通名の方は、カナスギアキヒロ。身に覚えがおありではなくて?」

「・・・」

 全くない。カナスギアキヒロという名前には心当たりがあったが、同ゼミ生であるのだから、当然だ。

「とにかく、本日付で、この方から人権侵害の申し立てを受理しましたの。立ち入り検査をさせて頂くと共に、先ほども申し上げたとおり、明日の午後一時に、人権擁護委員会まで出頭してください。拒否されますと、三十万アキュ以下の過料に処せられますので、ご注意を」

 まるで機械のように冷たい声で告げる、人権擁護委員の言葉を聴きながら、ススムは「何かの間違いだ。何かの間違いだ」と、心の中で繰り返していた。

(自分じゃない。人権委員会に呼ばれたのは、きっと自分じゃない・・・)

 逃避、葛藤、否認。奪われていく、何か。失ってはいけないものを、失う。

 目眩がしてきた。ふと、気がつくと、空の色が蒼く、重い。

 

 人権委員会のお膝元学校と言える、東京人権大学。この大学における教養課目の一つである人権教育が、なぜ受講生にとって苦痛かと言えば、それは単純につまらないからである。

講義は受講生に、いかに人権侵害や差別が残酷で、そして醜悪なものか、徹底的に叩き込むことを主目的にしている。毎回の講義では、ありとあらゆるバリエーションの人権蹂躙や人権侵害の事例を、ドキュメンタリータッチの映像で振り返る。

 不思議なことに、講義にきちんと出席していると、徐々に自分が「差別者側」の立場である気がしてくる。第二市民や第二・五市民(良心勢力)の一部に対し、差別を繰り返していた自分たちは、何と非道な人間か、何と残酷な人間か。と、加害者としての罪悪感に満ち溢れてくるのである。(本人が、実際に過去に他者を差別したかどうかは、あまり関係ない。)

そして、この罪悪感の植え付けこそが、人権教育の真の狙いである。

この辺りの裏事情を、ススムは知り尽くしているので、週に二回、延々と繰り返される講義は、自然、退屈極まるものとなる。

「はぁ・・・」

 人権侵害のドキュメントを見るともなしに見、聞くともなしに聞いていたススムであったが、周りの人々に気づかれないよう、小さく吐息を漏らしたものだ。深刻な顔つきで映像を見ているため、第三者からは真剣に講義を受けている風に見えたかもしれない。

 ススムが何をそんなに思い悩んでいるのかと言えば、わざわざ解説する必要もない気がするが、MIKIのことである。今朝のビデオコール以来、MIKIの端正な美貌が頭に貼りつき、離れないのだ。

 教室の前方に据えつけられた液晶大画面モニターで、涙を振りかざし、何か姦しく叫んでいる女優の顔までもが、MIKIに見えてきた。

重症である。

 物思い、と言うより、明らかな恋煩いのおかげで、講義の時間は予想よりも速く過ぎた。講義終了を告げる鐘の音が、重々しく響き渡る。

 本日午後、二番目のカリキュラムは、ネットワーク・アーキテクチャだ。本来ススムが専攻しているネットワーク工学科の、必修科目の一つである。

かつて、ネットワーク分野ではトップクラスである東京大学工学部、ネットワーク工学科で勉学にいそしんでいたススムは、人権委員会により東京人権大学へ強制転入させられたのである。この人権委員会のお仕着せ大学にも、ネットワーク工学科があったのが、唯一の救いであった。

 ススムはネットワーク・アーキテクチャの講義が行われる、第三講義棟に急ぎながら、胸元のSuperWiMAXの端末を何度も確認した。

SuperWiMAXの端末は、さすがにアメリカ製品らしく、ジャケットの内ポケットに納めるには微妙に大きく、重い。自動車で移動するアメリカ人には相応しいサイズなのだろうが、基本的に歩いて行動するススムには、少々きつい。画面が大きいのは、大変嬉しいのだが。

 ススムは少し足を速めながら、このSuperWiMAXの端末を入手し、初めてMIKIとビデオコールをするまでの時間を振り返っていた。

 

 人権委員会の査問会~第三市民の間では、人民裁判と呼ばれている~から解放され、ススムは委員会の建物を後にした。人間の悪意という悪意を、体中の毛穴から強引に吸い込まされた気分で、自分が今、足をきちんと交互に出せているかどうかさえ、認識することができない。

 頭がふらつく。吐き気が止まらない。だが、心の中に満ち溢れているのは、大きな安堵感であった。

(・・・終わった)

 そう、終わった。もはや罵詈雑言を投げつけられることも、自己批判を繰り返させられることもないのだ。

 だが、これからどうやって生きていこう?

 安堵の気持ちと疑問感が交互に襲ってきて、ススムは混乱した。自分が世界から失われる感覚と、世界が自分から失われる感覚が、心の中で螺旋を描いている。

 現実感覚を徐々に失いつつあったススムの前に、一人の男が立った。

「タチバナススム」

 ススムは瞳孔の定まらない視線を男に合わせた。なぜか目の前に薄い膜が張っているようで、男の容貌が確認できない。

男は古い書物を差し出すと、ススムの手元に押し込んだ。

「これを君に差し上げよう」

 状況をきちんと認識できず、濁った目で見返してくるススムに、男は凍てつくようで、そしてなぜかどこか暖かく感じる口調で続けた。

「君はもはや、屍だ。人権委員会に査問された連中は、ほぼ例外なく、生きた屍となる。たとえ肉体は生き続けようとも、心は死んでしまったままだ。しかも、自分の心が死んでしまったことにさえ気づかずに、肉体が滅びるまで永劫の時間を過ごすことになる。

 もしも君がそれを肯んぜず、生き返りたいと願うのなら、手繰れ。そうすれば、再び生命を得ることがかなうかも知れない。

タチバナススム」

 男は最後にもう一度、ススムの名前を呼ぶと、身を翻し、早足で立ち去った。

「・・・手繰れ?」

 「手繰る」とは、インターネットの隠語で、「検索する」という意味である。ネットワーク工学科の現役学生であり、インターネットダイバーでもあるススムは、もちろん知っていた。

ススムは色々な意味で混乱しながら、手元に残された書物に目をやった。

「ジョージ・オーウェル(?) 1984(?)。カイコ文字?」

 ゆとり文字化が完了して以降、本格的な教育を受けたススムは、懐古文字(漢字のこと)を全く理解できない。そのため、書物の題名さえ、全てを読むことはできなかった。

 だが、インターネットのサーチエンジン(検索エンジン)は使える。

 

 第三講義棟に到着したススムは、階段を駆け上がり、インターネット講義室に急いだ。

 ネットワーク・アーキテクチャの講義開始直前に、講義室に駆け込む。まだそれほど席は埋まっておらず、ススムは安堵のため息をついた。

 着席したススムは講義のメモを取るために、キーボードを引っ張り出し、パソコンを起動した。当たり前だが、OSやアプリケーションソフトに、漢字変換機能などついていない。ゆとり文字、及びローマ字の入力しか出来ないわけだ。

 昨今の共生委員会は、またぞろ「新ゆとり文字運動」が必要だと叫び始めている。ローマ字以外の文字の利用を、禁止しようとしているのだ。

近いうちに、キーボードから「ひらがな」が消え、ソフトウェアから「かな入力」の機能も取り外され、ローマ字以外の使用が不可能になるかもしれない。

 担当助教授が入室し、ネットワーク・アーキテクチャの授業が始まった。

 が、ススムはすぐに退屈を覚え始めた。

何しろ本日の講義内容は、一年ほど前に東京大学工学部時代に受けた授業と瓜二つなのだ。まさかこの助教授が、東大工学部の講義を受講し、一年遅れでトランスファー(転送)しているわけではないとは思うが。

 ススムは今日何度目かの、深いため息をついた。

 手持ち無沙汰になり、インターネットにダイブしようかとも思ったが、アクセスログが記録されるこの端末では気が進まない。インターネットへの帯域は大して太くもないくせに、フィルタリングやロギングの機能だけは、やたら充実しているのである、この大学は。

 もっとも、フィルタリングの話をすれば、市民連邦と連邦外を連結するIX(インターネットエクスチェンジ)には、超強力なフィルターが設置されている。連邦全土が、「本物」のインターネットから隔離されているようなものである。

 IXに据えられたフィルターは、OSIモデルの各レイアで連携し、パケットを遮断するという巧妙な手法で、バーティカルフィルタリングと呼ばれている。

このフィルタリング機能は、技術的には極めて優れており、完成度が高い。何しろ個人のメールに添付されたドキュメントの中までもをキーワードサーチし、事実上のオンライン検閲を実現してしまうのだ。

ちなみに、暗号化により通信の秘密を保持しようとしても、暗号化されたパケットを探知された瞬間に、セッションを遮断されてしまうので、無駄である。

バーティカルフィルタリングの手法は、アメリカの大手IT企業サフランが開発し、市民連邦に売り込んだものだ。サフランの経営陣は、このフィルタリングのパテントの売却だけで、地球レベルの億万長者になったと言われている。敵対国家にさえに、高度技術を売り込むサフランの商業主義には、さすがに世界中が度肝を抜かれた。

まあ、さすがにサフランの経営陣は、アメリカ議会の公聴会に引きずり出され、社会的な制裁を食らう羽目になった。

 このフィルタリング機能により、当然ながら検索の際のキーワードも監視、制限を受けている。特定の禁止キーワードで検索をかけると、すぐにポートスキャニングを受け、IPアドレスが監視対象となる。

第一地域や第二地域の場合は、下手をすると人権警察が急行してきて、検索をかけた者の人生が終わりかねない。第三地域では、さすがにまだ、そこまでは徹底していないが、これも時間の問題のような気がする。

というわけで、このインターネットのようで、インターネットではないコンピュータネットワークを、ススムら第三地域のネットダイバーたちは、自嘲と皮肉の意を込め、こう呼んでいる。

「イントラネット大アジア」、と。

イントラネットとは、一般には企業内などの限定された範囲で構築されるネットワークで、技術的にはインターネットと同じものを使用している。語彙的には、社会基盤の総称であるインフラストラクチャーと、インターネットを合成させたものだ。一見、インターネットとして全世界とオープンな通信が可能なようで、実際には不可能なのである。

 

インターネットダイバーの間で出回っている「禁止リスト」及び「制限リスト」を何度も確認したが、「ジョージ・オーウェル」というキーワードは載っていなかった。

それでも、さすがに自宅のパソコンを使うのは気が引けたので、ススムは久々に都心まで足を伸ばした。駅前で、最初に見つけたインターネットカフェに転がり込む。

もちろん、インターネットカフェの各パソコン房は、常時、カメラで監視されており、アクセスも記録される。だが、ススムはほとんど自暴自棄になっており、あまり気にならなかった。

あの男の言うとおりである。確かに今の自分は、歩く屍だ。

念のため、ダイバー仲間から手に入れた、偽造IDとパスワードを使用する。ススムは手馴れた手順を踏み、インター(実際はイントラ)ネットに接続した。第三地域で、いや市民連邦で最もメジャーなサーチエンジンである「ダイバー」のサイトを開く。(ちなみに、インターネット愛好者を示す「ダイバー」の語源は、このサイトから来ている。)

軽い手つきでキーボードを打ち鳴らし、ダイバーで検索をかけたススムの目が、驚愕に大きく見開く。

何と、

ジョージ・オーウェルのけんさくけっか 『ジョージ・オーウェル』にいっちするページは、みつかりませんでした。」

と、表示されたのである。要は、何もヒットしなかったわけだ。

その後、「ジョージ」と「オーウェル」の間の「・」を削除する、あるいは「ひらがな」で検索するなど、色々と試してみたのだが、何の結果も得られなかった。

焦ったススムは、あの日以来、なぜか肌身離さず持ち歩いている書物を取り出し、ぱらぱらとページをめくってみた。と、書籍の真ん中辺りのページに、細長い栞が挟みこまれているのに気がついた。

栞を摘み上げてみると、それは「まほろばしょぼう」という、聞いたことのないオンライン書店の広告であった。その書店名の脇に、目立たないフォントでURLが記載されている。(URLとは、インターネットにおける「住所」のようなものである。通常はhttpで始まる。)

「まさか・・・」

 ススムは半信半疑ながらも、そのURLを打ち込み、オンライン書店のサイトを訪れてみた。

「・・・工事中ですか」

 そう。そのサイトはまだ開発途上のようで、ピンク色の髪のアニメ系少女が、「まだコウジチュウなんです ゴメンネ」と、片目をつぶり、申し訳なさそうに謝っていた。

一応、メニューだけは表示されていたので、ススムは念のため、各メニューをクリックしてみる。が、リンク先は全てホームと同じく、萌え系少女が謝っているだけであった。

「さて、万策尽きちゃったわけだけど・・・」

 ススムは頭の上で両手を組むと、背筋を伸ばし、天を仰いだ。と、視界の隅を、一瞬、検索ボックスのイメージが走った。

驚いたススムが改めて確認してみると、確かにサイトのページの右上に、検索ボックスが設置されている。恐ろしく地味だ。あまりにも目立たないので、今まで気がつかなかった。

 工事中のサイトで検索機能が使えるとは思えないが、ススムは一応、気休めのつもりで「手繰って」みることにする。

「ジョージ・オーウェル、と」

 途端、ススムの手元にある書籍と同じく、地図上に巨大な目が描かれた表紙のイメージが、鮮明な画像で表示されたので、ススムは危うく椅子から転げ落ちそうになった。

その書籍イメージは、ススムが持つものとは異なり、すでに「ゆとり文字化」されていた。ススムはついに、この書籍の著者名とタイトルを知ったのである。

「ジョージ・オーウェル著。『1984年』・・・」

 不思議なことに、なぜかこの瞬間、ススムの心が大きく震えた。それが何の感情に因るものであったのか。この時のススムには全く理解できなかったし、将来においては益々分からなかった。

 サイトはほとんど未完成にも関わらず、なぜかこの書籍だけは注文可能なようだ。書籍イメージの下に、「ショッピングカートにいれる」という購入用のボタンが配置されている。

 震える手つきでキーボードを操り、ススムは購入手続きを済ませた。自宅の住所を入力する時には、さすがに少しためらいが生じたが、まあ、今さらである。

 何となく予想はしていたが、購入手続きを終えてサイトのホームに戻ってみると、すでに検索ボックスは消え失せてしまっており、バックボタンも効かなくなっていた。

 

 ネットワーク・アーキテクチャの講義が終了し、ススムは席を立った。

 本日の講義はこれで終了だが、もう一つ、ススムにはやり残したことがある。MIKIに依頼された、大講堂の下見だ。平和地球会議とやらの、お花畑イベントが開催される現場を確認しなければならない。

 第三講義棟を後にしたススムは、銀杏の落ち葉で舗装された小道を、日暮れの方角に歩いていった。

 たとえ、どれほど閉塞的な社会に変貌を遂げたとしても、やはりこの地の秋は美しい。小道を淡黄色と黄褐色で埋め尽くした銀杏の葉が、黄昏の光を反射し、黄金色に輝きを放っている。まるで、天界の王宮さながらの、壮大な美の饗宴である。

 ススムはそのあまりの荘厳さに、しばし圧倒されてしまう。

 いつか、この季節に、この道をあの繊妍な少女と二人で歩きたい。などと、赤面ものの想いが心の中に浮かび、さすがに恥ずかしくなったので、口に出すのはやめておいた。

 そもそも、この場所が天下の東京人権大学の構内であることを考えれば、妄想の魅力も四割減である。

 さして歩くまでもなく、東京人権大学の大講堂が見えてきた。さすがに国家予算を、遠慮なく投入しただけのことはある。ちょっとした博覧会が開けるのではないかと思えるほど、巨大で絢爛なドーム状の建物である。

 今日はあくまで下見であるので、ススムはさして緊張することもなく、講堂の周囲をぐるりと巡ってみる。特に明日の会議の下準備をしている様子もなく、無人の銀杏並木がどこまでも続いていた。

 銀杏の落ち葉を踏みしめていくと、内ポケットのSuperWiMAXの端末が小さな揺れを繰り返し、違和感が増してくる。

この端末を入手し、MIKIと初めて会話を交わしたあの日も、こんな突き抜けるような青い空だった。

 

 その荷が、ごく一般的な様相の宅配便で届けられたとき、ススムはたまたま自宅に一人きりであった。

宅配担当者は長身色黒の、目つきが鋭い男で、宅配会社のユニフォームのサイズが、微妙に合っていない。

 実はこの男も「まほろば」の一員で、第二地域からの逃亡者であることを、後にススムは知った。男の名前はチョ・セミン。

近い将来、ススムのパートナーになる者であったが、このときのススムには知る由もない。

 ススムは機械的な動作で、受取証にサインをした。

荷を受け取り、送り主を確認する。

(まほろば書房・・・)

 本当に送られてきた。

 送り主の住所は、トウキョウ第十三地区となっている。もちろん、現実には存在しない、架空の住所である。何しろトウキョウの地区は、ススムが住んでいる第十二番目までしか存在しないのだ。

「あっりがとうっ、ございましたっ!」

 独特の調子で帽子を脱ぎ、挨拶した宅配担当者を見送り、ススムはしばらくその場に立ちつくしたものだ。書籍を一冊注文しただけにも関わらず、箱が妙に大きく、おまけにずっしりと重いのである。明らかに、書物一冊分の重さの範囲を超えている。

 ススムは玄関からリビングを抜け、自室である屋根裏部屋へと急いだ。鼓動が速太鼓のように連続的に撃ち鳴らされ、呼吸も荒々しくなっているが、これは別に階段を駆け抜けたせいではない。

 自室に戻ると、ススムは一つ、大きく深呼吸をしてから、箱に手を伸ばした。

「げ・・・」

 箱をこじ開けたススムは、呆然としてその場にへたり込んでしまった。

「これは・・・?」

 中に入っていたのは、ジョージ・オーウェルの著作などではなかった。それどころか、書籍ですらない。黒の下地に、青色とオレンジのフォントという、毒々しい色彩のパッケージ。それは明らかに、何かの電子機器であった。ロゴがローマ字であるから、おそらくアメリカ製品である。

「・・・SuperWiMAX」

この電子機器については、聞いた覚えがあった。確か、一年ほど前に、インターネットダイバーたちの間で話題になった、超長距離・超広帯域のモバイル端末である。

SuperWiMAX。IEEEの規格ナンバーは802・16swx。基地局から端末までの無線到達距離は、実に千八百海里(約三千三百キロ)、平均通信速度が1・25Gbpsの超広帯域。

間違いなく、現代最強のモバイル通信規格である。

 場所によっては、連邦外地域の基地局経由で、世界中とオープンな通信が可能である。そのため、当然ながら市民連邦では採用されていない規格だ。ススムも噂を聞いたことがあるだけで、実物はおろか、写真画像でさえ見たことがない代物である。

 ススムは震える手つきでケースから端末を取り出し、電源を入れてみた。小さなビープ音が鳴り響き、パワーLEDが青く点灯する。

「うわっ!」

 黒い画面に何かのプログラムが走り、OSの起動が完了した途端、前触れなくバイブレーションを始めたので、ススムは思わず端末を取り落としてしまった。

危うく床と激突するところを、足で受け止め、事なきを得る。

 いつの間にか、端末のOEL画面が白い輝きを放っていた。

 画面の下部に、極太の赤色で「VIDEO CALL」のフォントが点滅し、その上で、暁の陽光を浴びた海洋のごとく印象的な少女が、こちらを覗き込む素振りを見せていた。二つの瞳がOELの光を反射し、まるで双子の宝石のように輝かせている。

桜色の唇が何か言葉を紡いでいるが、通話状態ではないため、音声は聞こえない。ススムは半分、恐慌状態に陥りながらも、慌てて通話ボタンらしきものを押し込んだ。

「・・・てば、お~い! 早く出なさいよ! お~いっ!」

「出たよ」

 刹那、相手がギョッと、大仰な仕草で身を引くのが映った。少女は改めて、まじまじとススムを凝視すると、少しすねたように口を尖らせたものだ。

「・・・いきなり出ないでよ。恥ずかしいでしょ」

「ごめん・・・」

 どう考えてもススムは悪くないはずだが、少女の勢いに呑まれ、とりあえず謝ってしまう。だが、不思議と悪い気はしない。

「ふふふ」

 少女は、どことなく蠱惑的な印象を与える笑い声を上げた。それにしても、表情がまるで猫のように、ころころと変わる。

「ごめんなさいは、こっちね。

改めまして、こんにちは、タチバナススム君。あたしは、MIKI」

「MIKI・・・」

 ススムは初めて少女の名前を知り、口の中で繰り返した。なぜか、甘い蜂蜜のような香りが口の中に広がった。

「そうよ、MIKI。これから、わたしはあなたのことを『ススム』と呼ぶので、あなたもわたしのことを『MIKI』と呼び捨てにして。ね、ススム」

「・・・」

 ススムは緊張した面持ちで、一つ大きく頷いてみせる。ゴクリと唾を飲み込む音がしたが、それが自分のものであるとは気がつかなかった。

「うん、ススム。それじゃあ、今から色々と説明しなければならないことがあるわ。と言っても、今日は、ほんの『さわり』でしかないんだけど」

 MIKIは玲瓏な、通りの良い声音で、続けた。

「まず、あなたの元に届いたこの端末について説明するね。もしかしたら、知っているかもしれないけど、これはSuperWiMAXという、最新モバイル技術を使った携帯端末です。西太平洋の、とある島に基地局があって、そこと無線で接続されているの。だから、市民連邦のインターネットやフィルタリングを通ることなく、世界中と通信することが可能よ。連邦お得意のオンライン検閲を、かわすことができるというわけね。

 わたしと今、こうやってビデオコールで話ができているけど、わたしは別に連邦にいるわけではないの。外国、って言ったら分からないわね。ええと、連邦外地域にいるのよ。実は、こっちの時間では、まだ夜明け前だったりするのよね。

多分、若いからすぐに覚えられるだろうとは思うけど、とにかくこの端末のマニュアルは全ページを頭に叩き込んで、使い方をマスターしておいてね

 可憐な少女は悪戯っぽく笑うと、手元のメモに視線を落とした。

「次に、わたしたち『まほろば』のことについて説明します」

 ススムは唐突に、周囲が気になり始めた。閉鎖されたこの空間は安全なはずだが、家人には、できれば帰ってきて欲しくない。

「多分、想像しているとは思うけど、わたしたち『まほろば』は、連邦を脱出した日系人が主体となって活動している、市民連邦に対するレジスタンス・グループです。

本部はアメリカ西海岸にあるんだけど、世界中に支部を置いているのよ。もちろん、連邦の中にも何人も関係者が入っいて、主に情報収集活動に従事しています。

ここまではいい?」

 ススムが無言のまま肯定してみせると、MIKIは少し重々しい口調で、

「それじゃあ、ここで、一つだけ確認させてもらわなければならないのだけど~わたしは別にいいんだけど、マニュアルに書いてあるのよね~もしもススムが、まあ、人権犯罪人にはされてしまったわけだけど、それでも、とりあえず市民連邦で普通に暮らしていくつもりなら、その旨を今ここで、意思表示して欲しいの。

その場合、このSuperWiMAXの端末は遠隔操作が可能だから、とりあえずソフトウェアやデータを全部消去させてもらうわ。その後はまあ、わたしたちのことは忘れてもらって、端末は燃えないゴミにでも出して、捨ててちょうだい。

別に、当局に届けて点数を稼ぎたければ、それでも構わないわ。わたしたち『まほろば』は、特に秘密組織とかではなくて~もっとも、市民連邦の中では機密扱いらしいんだけど~世界中でオープンに活動しているグループだから」

少女はここで一旦、言葉を切り、怖いほどに美しい瞳でススムを見つめた。

「あるいは、もしも、ススムが今後、わたしたちの助けになってくれると言うのであれば、わたしたちも可能な限りの手段で、これからのススムをサポートします。

 さあ、どうするか決めてちょうだい。市民連邦の従順な市民として生きるか、それとも生命の危険を冒してでも、戦うか」

 通話開始以来、初めて深刻な面持ちを見せ、MIKIは口をつぐんだ。唐突に、実際には数千キロの距離を置く二人の間に、深い沈黙が漂った。

 ススムは黙したまま、しばらく考え込み、与えられた情報を吟味していた。返答は、まあ、考えるまでもないのだが、きちんと理解しないまま回答するのは憚られた。何となく、いい加減な返答をすると、この美しい少女に対する、冒涜のような気がしてならなかったのである。

 数十秒後、ススムは画面で固まったように返事を待つ「まほろば」の少女を見つめ、はっきりとした口調で答えを告げた。

「生きた屍はごめんだ。人間として戦って、人間として死にたい」

 この瞬間、ススムは「まほろば」のエージェントとなった。

 その後、MIKIはススムがこれまで知らなかった多くのことを、本当に多くのことを教えてくれた。第三地域やアジアの歴史のこと。人権委員会の真の目的。メディアとプロパガンダのこと。世界のこと。そして、敵のことを。

 もちろん、長年、愚民化教育を受け続けてきたススムには、すんなりと理解できないことが多々あった。だが、とにかくススムは懸命に理解する努力を続け、MIKIも苦労しながら、情報を噛み砕きつつ解説してくれた。

 数十分の時が経過し、最後に、ススムは以前、男に手渡されたジョージ・オーウェルの著作を取り出した。

「この本・・・。『1984年』を、きちんと読んでみたいんだけど・・・。もしも『ゆとり書籍化』されているものがあるなら・・・」

送ってくれないかと、希望を述べると、少女は申しわけなさそうに、小さな顔を横に二度、三度、振った。

「ごめんなさい。その本は『ゆとり書籍化』の際には、確実に『紛失』される類の本なの。だから、ゆとり文字化はされていないし、まほろば書房のサイトの画像は、わたしたちが細工したものなのよ。

 でも安心して。わたしがあなたに、漢字~ええと、そちらでは懐古文字って言うんだっけ?~の読み方を教えてあげるから。どのみち、漢字が読めないことには、昔の文献や歴史書も読めないわけだから、必ず覚えてもらう必要があるの。きっとすぐに読めるようになるわよ。

それじゃあ、またね、ススム」

セッションが切断され、端末の画面が暗転した。

「・・・」

 あまりにも様々な情報を、短時間に頭に詰め込まれたため、ススムはしばらく呆然と座り込んでいた。情報を整理するには、少々時間が必要である。

 ふと、屋根裏部屋の小さな窓から空を見上げると、あの日、人権委員が自宅を訪れた日と同じく、果てしない青い空が地平線にまで広がっていた。

不思議である。以前は、押し潰されるように重圧感のある青空だったのが、遠く、天空の果てまでも突き抜けて見えた。

 

 東京人権大学大講堂は、御影石がふんだんに使われた贅沢な造りで、赤煉瓦色のドームが建物に古風な彩を与えている。

 周囲の下見を終えたススムは中に入ろうと試みたが、正面の大扉にはしっかりと鍵が掛かっていた。残念である。

 少し陽が翳ってきた。吹き付ける風が冷たさを増していく。

 「まほろば」とはこの土地の古語で、「素晴らしき場所」あるいは「帰るべきところ」の意味があるそうである。古代の人々が「まほろば」を夢見たとき、大空はやはり、このように艶やかに澄み渡っていたのだろうか


*この物語はフィクションです。


第四章 土曜日でも水曜デモ へ続く


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