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Contents 08/02/27掲載


新世紀のビッグブラザーへ 著:三橋貴明

第二章 栄光の大アジア人権主義市民連邦

 

「タチバナさん! わたしとつき合って!」

 大学の構内、正門から第一校舎へと至る桜並木の下という、陳腐と言えば陳腐な場所で受けた、陳腐な告白だった。

 ススムは彼女、セミロングに細縁の眼鏡が良く似合う彼女と、特に親しいと言うわけではなかった。たまたまゼミが同じで、幾度か課題を一緒にやったことがある、その程度の仲だったのである。

 つきあい始めた当初に、恋愛感情があったかと言われると、本当のところ自信が無い。ただ、桜吹雪の中でススムに向き直り、髪をかきあげながら告白した彼女の姿が、あまりにも元気一杯で、可愛かったので、思わずオーケーしたというのが正直なところだ。

 あれからまだ半年しか経っていないも関わらず、ススムは彼女の顔をよく覚えていない。それどころか、すでに名前さえも、うろ覚えである。

 恋人とゼミが一緒というのは、なかなか気恥ずかしいものがあった。だが、その後の大学生活や、ゼミで記憶に残っているのは、甘酸っぱい恋愛模様などではなく、いつも自分たちに異様に鋭い視線を送っていた、あの男の姿だけである。

 彼女の記憶は薄れつつあるが、あの男の容貌と名前だけは忘れることがない。

 カナスギアキヒロ。

だが、実はそれが男の本名ではないと知ったのは、彼女の告白から二ヶ月ほど経った日のことだった。

 

 冷たい汗と共にススムは目覚め、いつものように、込み上げてくる吐き気と戦った。今朝は吐き気のみならず、頭痛もひどい。

 人権委員会に出頭したあの日以来、快適な目覚めからすっかり縁遠くなってしまったススムである。家の者の話によると、夜中にうなされ、うめき声を上げていることが多いそうだが、あの日のフラッシュバックを夢見ているのだろうか。

 ほぼ毎晩、欠かさず悪夢を見ているようではあるが、その内容が記憶に残っていたことは無い。もちろん残っていて欲しいなどと、ススムが思うはずもなかった。

 やっとのことで身を起こし、ススムは時計を確認した。

続けていつもの習慣で、朝焼けを反射して光り輝くSuperWiMAXの端末に目をやる。LEDがオレンジ色に点灯し、MIKIからのメッセージ着信を教えてくれた。今や、この端末だけがススムの心の頼りだ。

 慣れた手つきで端末を操作し、ススムはMIKIからのメールを表示させた。

 

『FROM〔MIKI

(miki.fujisaki@mahoroba.s-wmx) 〕

TO〔SUSUMU

(susumu.tachibana@mahoroba.s-wmx)

SUBJECT〔RE:トウキョウ第十二地区人権擁護委員〕

 おはよう、ススム。昨夜はありがとう。人権擁護委員やアサヒメディアの社員(しゃいん)の氏名は、大変貴重(たいへんきちょう)な情報です。こちらで調査していますので、詳細(しょうさい)が分かったら、お知らせします。

 また、オーウェルの本をすでに半分(はんぶん)まで読み進めているとは、驚きました。もう、この(  )は必要ないかな? 

先日アップデートした辞書(じしょ)ソフトはどうでしょう? 役立(やくだ)っているかしら? 開発元(かいはつもと)にフィードバックする必要がありますので、使い心地(ここち)や不足機能(ふそくきのう)について、まとめておいてくれると嬉しいです。

 ところで、IXとSTTDに関する現場(げんば)情報が送られてきました。こちらで整理(せいり)し、そちらの時間で夜までには転送できると思います。

MIKI

追伸(ついしん)こちらはスコールが降っています。大アジア人権主義市民連邦のお天気はいかが?』

 

「・・・大アジア人権主義市民連邦のお天気はいかが」

 最後の一文が妙に印象に残り、ススムはそっと口の中で繰り返したものだ。

 ススムが住む「地域」は第三地域であるが、残りの第一地域と第二地域を合わせた広大な領域が、大アジア人権主義市民連邦、略して「市民連邦」である。

 MIKIとのメールのやり取りを始め、最初に教えてもらったのが、市民連邦成立の歴史であった。

連邦成立当時、ススムは九歳で、物心はついていたはずなのだが、記憶には何も残っていない。あれほどの大変動の記憶が残っていないとは、実に不可解な話なのだが、MIKIは、

「それも『ゆとり文字化』と『呼称正規化』、それに人権教育の賜物よ」

と、当たり前のように解説し、まるで不思議がることはなかった。

 おそらく自分だけではなく、MIKIが接触している他の少年少女たちも、似たような状況なのだろう。

ススムは最近、嫌というほど思い知ったのである。人の記憶はいくらでも管理できる。社会変革と愚民化教育によって。

「大アジア人権主義市民連邦・・・」

 ススムの唇が再度、どことなくコミカルな印象を与える、この長い連邦名をつむぐ。さらにススムは、器用なキー捌きで端末を操作し、市民連邦成立の過程、「歴史情報」を引き出した。

 

 尖閣諸島の領有権争いに端を発した極東戦争において、今日の第三地域である列島国は、当初の戦闘では幾つかの戦術的勝利を重ねた。軍の規模はともかく、こと海軍の戦力を見た場合、艦船の装備や連度において、敵国とは比較にならない高次元にあったためである。

 ところが、この戦術的勝利を文字通り一発でひっくり返したのが、中華人民共和国の同盟国として参戦した、半島の朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の核ミサイルであった。寧辺のミサイル基地から発射された核搭載の弾道弾は、列島を横断、駿河湾の中心部に着弾した。

 核爆発は決して大きいものではなく、人的損害もごく軽微ではあったが、市民の戦意に与えた影響は途轍もなく大きかった。

当時、列島にはすでに世界最高レベルのMD、つまりミサイル防御システムが完備されていた。だが、当時の防衛大臣のサボタージュにより、弾道弾を撃墜する機会を逸してしまったのである。ハードウェアの軍備がどれほど完備していても、それを運用する人間、つまりソフトウェアに欠陥があれば、結局は勝者にはなれないという良い見本である。

(このサボタージュの報償として、当時の防衛大臣ニカイは、後の「良心勢力」大粛清を免れ、今はOKINAWAで悠々自適の引退生活を送っている。もっとも、ニカイの場合、ミサイル迎撃のサボタージュもさることながら、選挙地盤に江沢民の銅像を立てるなど、日頃からの忠誠心を、高く評価されたとも言われている。)

北朝鮮がなぜわざわざ、戦略的にも戦術的にも全く無意味な駿河湾を狙ったのか? これには幾つか説がある。最も有力で、かつ説得力のある説明は、北朝鮮が東京圏、もしくは東海工業地域を狙ったにも関わらず、大きく目標を外してしまったというものである。

改めて振り返ると莫迦らしい話だが、当時の市民たちはこの「北朝鮮の的外れ説」により、かえって恐怖を高める羽目に陥ったのである。何しろ、撃った本人もどこに落ちるか皆目見当がつかない、核ミサイルが飛んでくるのである。つまり、どこに逃げようと、百パーセント安全とは言い切れないのだ。

本来、この列島の安全保障を担うはずであったアメリカ合衆国は、民主党系の女性大統領の時代で、開戦直後より極東戦争不介入の意を表明していた。各地に駐留していたアメリカ軍は、戦争開始と共にグアムに撤退し、市民を失望と絶望の渦に叩き込んだのであった。

このアメリカの動きの背後には、中華系ロビーの巨額マネーがあったと言われているが、もちろん真相が明らかになるはずもない。確かなことは、安保条約に従い軍事介入を主張する国防省及び議会と、介入拒否派である大統領、国務省との間で深刻な対立が生じ、アメリカ政治が麻痺状態に陥ってしまったということである。

無論、アメリカの政治は最終的には正常化したものの、その時にはすでに全てが手遅れであった。

ちなみに、極東戦争の最終段階で、最も醜い動きを見せたのが、二つ目の半島国家、大韓民国である。

この国は、開戦当初こそ厳正中立を宣言していたものの、北朝鮮の核ミサイルが駿河湾に落ち、戦況が大陸側に優位に傾いたと判断するや否や、突如参戦を表明したのである。当然ながら、勝利目前の大陸側の一員としてである。

大韓民国は宣戦布告そっちのけで、大規模な軍を対馬諸島に進め、これを占拠した。

そのあまりにも火事場泥棒的な手口に、世界各国から非難が殺到したが、この国はまもなく、自らの卑劣な愚挙の報いを受けることになった。それも、もっとも悲惨で、陰惨な形で。

極東戦争における劣勢は、列島の市民に大きな動揺を与えた。政治面では、万年与党の衰退を招き、政界の大再編を引き起こしたのである。

当時、さして注目されていなかった政治イシューである人権擁護法案が、政界再編の台風の目になるとは、誰も予想していなかった。

明確に人権擁護法案を推進していた民主党が核となり、ここに同じく推進派の社民党、公明党、及び与党内の「良心勢力」が加わり、民主人権党が結成された。

民主人権党は、結成当初から議会の過半数に迫ろうかという大勢力であり、特に部落解放同盟、朝鮮総連、大韓民国民団、自治労、日教組、連合など、「良心勢力」の強力なバックアップを受けていた。

極東戦争終盤に行われた総選挙において、民主人権党は早期停戦を掲げ、大勝利を収めた。だが、このときのマニフェストに、「人権擁護法の早期成立」「外国人参政権の早期確立」「沖縄の一国二制度実現」など、極めてラディカルな政策が忍び込まされていたことなど、厭戦気分に浸っていた市民は誰も気がつかなかったのである。

(これらラディカルな政策は、極東戦争以前の民主党マニフェストにも明確に記載されていたので、今回からわざわざ盛り込んだわけではないと、民主人権党は主張している。そして、これは実のところ正しい。それまでは、民主党が政権を取ることが無かったため、誰もその意味を深く考えなかったのである。)

新首相となった民主人権党の党首、スガイチロウは、極東戦争の和平会議である「平壌会議」に出席、極東戦争を「終戦」し、勝敗を明らかにしない代わりに、北東アジアの一体化を推進する幾つかの政策に合意した。それは北東アジアを束ねる共同体としての「アジア市民連邦」の創立、アジア中央銀行とアジア共通通貨アキュ(ACU、ASIAN CURRENCY UNIT)の設立、沖縄及び対馬の「一国二制度化」などである。

その後の動きは、極めて早かった。

マニフェストに従い、民主人権党は人権擁護法、外国人参政法、改正上級公務員法(外国人の上級公務員職への就任を可能にする)、環境保護新法、沖縄・対馬特別法などを次々に可決した。

ACB(ASIA CENTRAL BANK。アジア中央銀行)など、市民連邦側の動きにも、目を見張るものがあった。

手始めに、円、ウォン、人民元などのローカル通貨が廃止され、アキュへ統一された。

さらに各国の共生委員会を中心に、連邦加盟諸国において「呼称正規化運動」が推進された。これは、アジアの同胞である連邦市民のために、各呼称を「正規化」し、分かりやすい呼称に呼び換える運動である。

例えば、中華人民共和国は「第一地域」と呼び換え、北朝鮮が大韓民国を吸収する形で成立した大朝鮮民族主義高麗連邦は「第二地域」に呼び換える、などが代表的な正規化である。

「国」は「意味が不明確」と言うことで、「連邦地域」に。国民や人は、「市民」に。市民連邦加盟国の外国人は「地域外連邦市民」に、連邦外の外国人は「連邦外市民」に。

そして第二地域市民の強い要請に従い、天皇を「日王」に。

ちなみに、第三地域の市民に対しては、「第一」地域や「第二」地域などの数字はただの便宜的な呼称であり、優劣を意味しないと強調されている。無論、第三地域の市民が、こんな詭弁を誰一人として信じていないのは、言うまでもない。

共生委員会は、建前上は、呼称正規化は強制ではなく、自発的に行われるものとした。だが、ありとあらゆるメディアが呼称正規化を後押しし、政府や教育界までもが多大な予算を注ぎ込み、推進したのである。個人が呼称正規化に逆らうことが難しい空気が、いつの間にか醸成されていった。

呼称正規化が一通り完了すると、次は文字の「改善」が行われた。

すでに簡字体やハングル文字の利用により、漢字が読めなくなっている(つまりは過去の歴史文献などが読めなくなっている)地域外連邦市民のために、「ゆとり文字化運動」が推進されたのである。これは学習に時間が掛かる漢字の利用を制限し、「ひらがな」と「カタカナ」のみで単語や文章を書き表そうという運動であった。

ゆとり文字化を加速するため、各家庭の書籍を一時的に預かり、ゆとり文字化して返却する活動、いわゆる「ゆとり書籍化」も同時に行われた。

但し、単に文字を「ゆとり化」して返却される書物はフィクションのみで、歴史書、報道ドキュメントなどのノンフィクションは返却されないか、または内容が書き変えられているとのもっぱらの噂だ。

さらに最終段階として、沖縄・対馬特別法に従い、投票率が異常に低い住民投票が強行された。

結果、沖縄はOKINAWAとして第一地域に、対馬諸島はTSUSHIMAとして第二地域に「編入」されたわけだが、この住民投票において、参政権を認められた外国人や、良心勢力が大いに活躍したのは言うまでもない。

これで、大陸勢力が当初から構想していた「解放」は一通り完了したわけだが、もちろん「解放」には最後の仕上げというものがある。

「解放」に多大な貢献をしてくれた良心勢力の始末、つまりは粛清である。これを実施しなければ、「解放」も片手落ちというものだ。

初期の市民連邦において、各種の運動の先頭に立っていた第三市民、つまりは良心勢力の人々が、次々に逮捕収監される事態が発生した。罪状は、軽犯罪法違反から脱税、汚職・背任、覚醒剤取締法違反や殺人教唆まで、何でもありである。

逮捕された者たちは、なぜか揃って母国ではなく、第一地域における裁判を望んだ。市民連邦法上、それは可能だったわけだが、本人の希望に沿って第一地域に移送された良心勢力の人々は、全員が全員、見事に消息が絶たれてしまったのである。

文字通り消え失せてしまった者たちの中には、民主人権党初代党首スガイチロウを筆頭に、民主人権党の初代幹事長ヨコヂ、それに旧万年与党を離党し、民主人権党結成に参加した元幹事長のカトウ、元副総裁のヤマザキ、「コウノ・プリンシパル」で有名な元議長のコウノ、良心団体「平和の船」設立者シジモトなど、超大物たちが含まれていた。

ちなみに、スガ党首の罪状は「児童買春法違反」であったが、裁判記録さえ残されていないので、実際のところどうだったのか、真相は永遠に謎のままである

 

ススムの持つ「歴史情報」では、半島の南側に位置する国家の運命についても触れられている。

極東戦争「終戦」後、英雄視された半島の北側の総書記による、連邦国家樹立の呼びかけに、南側の国民たちは狂喜して応じたのである。核兵器を持ち、憎き列島を痛めつけた、偉大なる民族の英雄からのお誘いだ。呼応しない方がおかしいのである。

北側のウォンと、南側のウォンの、一対一による兌換。およそ1000兆ウォンと試算される、北側の現代化インフラ工事費用を、南側が全面負担。北側の巨額対外債務の、南側による肩代わり。主体思想の国教化、などなど。通常では考えられない条件の数々を、南側の国とその国民は喜んで受け入れ、非武装地帯は解放された。

驚くべき短期間で準備を終えた国民投票により、大朝鮮民族主義高麗連邦(英語表記:UNITED KOREA。略称はUNKO、ユーエヌケーオー)が成立。直後の国政選挙により、北の総書記が就任期限無しの連邦大総統として選出された。

俗に言う、金王朝の誕生である。

大総統に就任した金王は、早速、家系の出生成分による、南の国民の階級化を実施し、南側の各地に「労働改造所」なるものを多数建設した。

外から見ていると、なかなか前途多難な様子ではあるが、元南側の国民は「核兵器を持つ大国の一員になれた」と喜び、元北側の国民も「とにかく、ご飯が食べられるようになった」と喜び、何となくみんなが幸せそうであった。高麗連邦の建国初期は、儚き薄羽蜻蛉のように、ある種の美しさに満ち溢れていたのである。

 

人権擁護法案であるが、第三地域に引き続き、高麗連邦成立直後に第二地域の全土に(南半分ではすでに施行されていた)、その半年後には第一地域においても立法化された。

かくして、アジア市民連邦は「大アジア人権主義市民連邦」と名称を変更し、人権擁護主義に満ち溢れた輝かしき連邦として、現在に至っている。

(この名称変更の際に、なぜ頭に「大」がついたのか、理由を知る者はいない。)

 

 ススムは端末の画面を落とすと、衣服を着替えることもなく、一階のリビングへと下りていった。

 ススムが人権委員会に出頭し、東京大学から東京「人権」大学への転入を強制されて以来、何となく家族とは疎遠になった。特に嫌われているとも、避けられているとも思わないのだが、人権犯罪人のススムをどのように取り扱ったものか、家族も距離を測りかねている様子である。

 いつもの通り、ススムが目覚めたときには、すでにこの家は無人となっていた。

 父親と姉は仕事だし、母親はボランティアだろう。大学生のススムとは活動の時間帯が微妙にずれ、一日に一度も家族と顔を合わせないことも稀ではない。

 ススムはキッチンに用意されていた朝食〜時間的には、もはや昼食と呼んだ方が適切かも知れないが〜を黙々と口に運びながら、テレビのリモコンに手を伸ばした。

今日の東京人権大学の講義は、午後からである。最初の科目は、

「何てこった・・・」

 ススムはカリキュラムを思い出し、うんざりとした顔で眉をひそめた。

 午後最初の科目は、(素晴らしき!)人権教育である。もちろん、ほとんど保護観察の身である自分が、欠席することなどできるわけもない。

 乱暴な手つきでリモコンを操作すると、65インチ液晶テレビの大画面に、現代の第三地域で最も有名な政治家の顔が、いきなりドアップで映し出された。

「・・・と、不満を述べる市民が多いことも、わたしは承知している。」

 第四代の民主人権党党首にして、大アジア人権主義市民連邦第三地域宰相である、マツイコウジである。マツイ宰相は眼鏡を掛けた、いかにも善人風な風貌に哀切を漂わせながら、議会で演説をしている。

「だが、考えてみて欲しい。大アジア人権主義市民連邦により、確かに世界は変わったのだ。それも、より良い方向に。一極帝国主義ではなく、多極的な和解世界へと、世界が大きな一歩を踏み出したのは、間違いなく市民連邦のおかげなのだ。言わば、連邦の誕生はハードパワーの世界から、ソフトパワーの世界への、重要な分岐点であったと断言できるのである。

 市民連邦成立により、人口世界第一位、GDP世界第一位、世界最大の経済力と軍事力を誇る、平和と人権を追求する共同体が誕生した。これにより、世界はもはや一地域の傲慢なパワーに耐える必要はなくなり、より安定したガイアへと進化を遂げたのである。

市民連邦の市民こそが、地球市民を超え、より進化したガイア市民のさきがけだ。市民連邦の誕生により、地球、ガイアの環境問題も、人権擁護の問題も、経済や為替通貨の問題も、あらゆる問題が一地域の我侭に振り回されることなく、真に和諧的に解決を目指すことができるようになったのである。

世界安定への我々、第三市民の貢献も、極めて大きい。第三市民の皆さんは、大いに誇って構わない。

 例えば呼称正規化、ゆとり書籍化の努力により、第一及び第二市民が第三地域の文化に触れることが、劇的に楽になった。これが連邦を、アジア共同体の市民の心を一つに束ねることに、多大な貢献をしていることは疑いない。

呼称正規化やゆとり文字化により、第三地域の文化が失われるなどと、短絡的な主張を繰り返すウヨク分子に、わたしは問いたい。地域外の市民が習得するのに苦労するもの、それが果たして文化と呼べるのか? 人の嫌がることはしないのが、当たり前ではないのか?

もう一度繰り返す。人の嫌がることはしないのが、当たり前ではないのか?」

「・・・列島市民を犠牲に、大陸市民と半島市民が楽しているだけじゃないか」

 ススムは皮肉な口調でつぶやき、苦いコーヒーを一気に喉に流し込んだ。

 この「人の嫌がることはしない」というのは、就任当初からマツイ宰相がビジョンとして掲げ、第三地域の流行語と化している言葉である。マツイの言う「人」とは、あくまで第一市民と第二市民に限定され、ススムら第三市民は「人」に含まれていないのは、今さら言うまでもない。

 ススムは心底から莫迦らしくなってしまったが、MIKIから政治家の発言は、可能な限り耳に留めておいて欲しいと言われている。テレビのスイッチはそのままに、演説を続けるマツイ宰相に背を向け、ススムは朝食の食器の片づけを始めた。

 と言っても、キッチンに備え付けの食器洗い乾燥機に皿やらマグカップやらを突っ込み、スイッチを押すだけであるが。

 クリーム色の下地に「センジョウカイシ」と小さく書かれた丸ボタンを押し込む。と、同時に、内ポケットのSupaerWiMAXの端末がバイブレーションを始めたので、ススムは思わず飛び上がった。偶然には違いないが、見事なタイミングである。

 端末を引っ張り出したススムの目に、漆黒の髪を短めに切り揃え、アーモンド型の印象的な大きな目をした、色白な美少女の上半身が飛び込んできた。

画面に映し出された形の良い小さな顔は、まるで月光を浴びた人形のようでもある。細く弧を描く眉毛に、長い睫毛。深い海の底を思い起こさせる、磨きぬかれた宝玉のような瞳に、形の整った桜色の唇。

ほっそりとした繊妍な姿態は、上半身だけであっても、まるで匂い立つように魅力的である。SupaerWiMAXの広帯域を利用して送られてくる映像は極めて鮮明で、美少女をまるでCGのごとく艶やかに映し出してくれる

もしかしたら美少女ではなく、美女という形容詞の方が適切なのかも知れない。が、いかんせん、ススムは彼女の本当の年齢を知らなかった。以前、ススムより少し年上であると、チラリと漏らしたことがあるが、本当のところは知る由もない。

MIKIだ。MIKIからの、ビデオコールである。

大慌てで通話ボタンを押し込んだため、ススムは危うく端末をお手玉しそうになってしまう。

「ススム・・・」

端末の小さなスピーカーから、鈴の音を打ち鳴らしたような玲瓏な声が響き渡った。少し小首を傾げるような仕草で、MIKIはささやくように続けた。

「今、大丈夫? まだ自宅よね。一応、GPSで確認したけど・・・・」

「うん。さっき、起きたとこだよ」

 ススムは端末に向き直ると、軽く肯定して見せた。こちらを撮影するカメラは、端末の画面の裏に隠されているので、特に意識することなく、画面の相手と話せばOKだ。

「ごめんなさい。緊急で依頼しなければならないことができたの」

「それはいいけど・・・」

 ススムは軽く眉間に皺を寄せる人形じみた少女の表情に、何となく不吉な予感を覚えたものだ。

「そっちは何時なの? まだ夜が明けていないんじゃない?」

「今、朝の四時くらいね」

 MIKIは小さく苦笑を漏らすと、そっと視線を落とした。

「実は、わたしも少し前に叩き起こされたばかりで・・・。いきなりすぎて、お化粧する時間があまり無かったのよね・・・」

 と、言われても、化粧の経験も無ければ、女心もよく分からないススムには、それがMIKIにとってどれほど重要なことか、皆目見当がつかなかった。返答に苦慮しているススムに、少女はわずかに慌てた様子で、

「まあ、いいわ。それより、依頼事項を伝えるわね」

 言いながら、MIKIは手元で何やら操作をしている様子だが、カメラには映らなかった。

「今、メールを送ったわ。届いたかどうか、確認して」

 可憐な少女の指示に、ススムは端末の送受信ボタンを押す。待つほども無く、すぐにLEDがオレンジ色に点灯した。

「うん。届いた」

「そのメールに、ある人物の顔写真が添付されているわ。顔のアップと、上半身の二枚。隠し撮りだから、鮮明とは言い切れないけど・・・」

 少女はどことなく、予め定められた文章を読み上げるような、感情の薄い調子で続けた。

「明日の土曜日に、トウキョウ人権大学の大講堂で、平和委員会主催の『平和地球会議』が開かれるの。え〜と・・・、第何回目になるのかしらね?」

 少女はカメラの外にある書類を、幾度かめくるような素振りを見せ、

「書いてないのね・・・。まあ、いいわ。確か、今世紀になってから始まったはずだから、十何回目のはずよ。とにかく、この平和地球会議に、メールで送った人物が出席するはずなの。ススムには、セミンと組んで、明日の会議に出席して、この人物が本当に来ているかどうか、確認して欲しいの。平和地球会議は特に入場制限をしていないから、トウ人大(東京人権大学のこと)の学生であるススムと組めば、二人とも問題なく入れるはずよ」

「・・・平和地球会議ね」

(平和地球会議。平和地球会議。平和・・・)

 ススムは、このいかにもお花畑な名称を、幾度か口の中で繰り返したものである。何しろ、MIKIの指示をメモに取ることは、固く禁止されているので、セキュリティ保護が万全なSuperWiMAXの端末に入力しておくか、あるいは自分の記憶に頼るしかないのだ。

 参考までに、SuperWiMAXの端末は、生態認証によりススム以外の人間が操作することは不可能である。他人の手が触れると、自動的にシステムフリーズを起こす。さらなる操作を加えると、勝手にデータを消去し、無理にデータ復旧を試みると、ディスクを強制フォーマットしてしまう優れものだ。

「本番は明日の会議だけど、できればススムには、今日中にトウ人大の大講堂の中や、周囲の環境の下見をしておいて欲しいの」

「わかった。で、明日、写真の人物を見つけたら、どうすればいいの」

 ススムの問いに、少女は少し言いにくそうに、

「この男は、おそらくトウ人大から、カスミガセキの行政庁のどれかに向かうと思うの。

できれば、会議が終わった後に尾行して、カスミガセキのどの庁舎に入るか確認してくれると嬉しいわ。よっぽどのことがない限り、徒歩でカスミガセキに戻ると思うの。トウ人大からカスミガセキは、車よりも歩いた方が絶対に近いから。庁舎を確認したら、引き上げて構わないわ。その辺は、セミンに指示しておくつもりだけど・・・」

 不安そうな声音のMIKIは、ここで一旦、言葉を切り、瞳に憂いの翳を浮かべた。ススムの心臓が、恐れからではなく、別の理由で大きく一つはねた。

「でも、絶対に無理はしないでね。少しでも違和感を覚えたら、中止して」

「了解」

 ススムは故意に、お気楽な表情を浮かべたものだ。

「それじゃあ、今日はその平和地球会議とやらが開かれる、現場の下見をしておけばいいんだね」

「そうよ。おそらく、もう明日の準備を始めているんじゃないかしら? あまり目立たないでね」

「了解」

 ススムは肩をすくめ、繰り返した。

「あまり心配すると、お肌に悪いよ。あと、睡眠もしっかりとらないと。『心配せず、気にせず、考えず。これが安眠と人生の秘訣です』って、環境委員会の広報で見た。まあ、永眠できますよ、という意味かも知れないけど」

「ふふっ」

 可憐な少女は、見る者全てを虜にするような、嫣然とした笑みを浮かべたものだ。

「ススムのいう通りね。それじゃあ、わたしはもう少し、眠らせてもらうわ。お休みなさい」

「お休みなさい」

「ふふ」

 もう一度、魅惑的な天使の笑みを向けると、MIKIは通話を打ち切った。

 端末の画面が暗転してからも、ススムは余韻を味わうかのように、その場に座り込んでいた。

 しばらく放心状態を続けていたが、さすがに恥ずかしくなり、無理やりに我に返った。

テレビではマツイ宰相の演説が、まだ続いている。MIKIとのビデオコールに集中しすぎて、テレビがつけっ放しであることにさえ、全く気がつかなかった。

「・・・中学生かよ」

 ススムは無理に悪ぶる不良少年のような笑みを浮かべ、テレビのリモコンに手を伸ばした。もうそろそろ出かけなければ、午後一の講義に遅刻してしまう。

「・・・かくして、世界の鍵は、そして地球の鍵さえも、我らが市民連邦に握られることになったのです。

 偉大なる人権擁護主義。偉大なる環境中心主義。偉大なる平和的覇権主義。

 偉大なる大アジア人権主義市民連邦。

 我らが大アジア人権主義市民連邦に栄光あれ!」

 感極まったかのように両手を広げるマツイの姿に、ススムは一つ舌を出し、躊躇することなくテレビのスイッチを切った。

*この物語はフィクションです。

 

第三章 イントラネット大アジア へ続

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