第一章 人権擁護な新世界
空は突き抜けるように蒼く、やや肌寒い風が、塵一つ落ちていない路上を薙いでいく。澄み切った大気が肺を心地よく満たし、まるで音無き調べのごとく、四季の移ろいを明瞭に伝えてくれる。
秋が深い。
最近流行の石畳風に、完璧なまでに美しく舗装された道の両脇には、比較的新しい家屋が立ち並ぶ。家々と路地を隔てる、几帳面に切り揃えられた木立は、紅色や黄褐色、あるいは朽葉色に、匂やかに枯れ立つものが目立ち始めた。
立ち並ぶ家々は、極目立ちにくい自然色がほとんどで、原色は皆無である。各家屋は存在感を訴えることなく、見事なまでに後ろの風景に溶け込んでいた。
この辺りは、比較的古くから住宅地として発展している地域だが、それ以前はただ、大根畑がひたすら広がっていたそうである。もちろん、ススムが産まれる以前、いや、ススムの父親が産まれるより昔の話である。当時の記憶を留めている人は、もはや数えるほどしか残っていない。
この区域に住む人々は、いわゆる新興の中産階級の第三市民がほとんどで、犯罪はトウキョウ十二地区にしては、まだ少ない。
住民たちは基本的には早起きで、自主的に近辺の掃除をし、清閑な環境を保とうとしている。夕刻を過ぎると人通りも絶え、趣味の良い石畳風の通りは、夜が明け、住民たちが活動を再開するまで、静かに時を待つことになる。
とはいえ、今はまだ黄昏どきである。
ススムは幾度となく、夕食の買い物を済ませ、帰りを急ぐ主婦や、着飾ったカップル、それに営業帰りらしいサラリーマンの群れとすれ違った。
だが、ススムが人間以外の生物を見かけることや、あるいはすれ違うことは無かった。昨今では、野良犬や野良猫と呼ばれる連中は、すっかり姿を消してしまったのである。
第二市民の貧民連中が、売り飛ばして金に換える、あるいは自ら喰うために、犬猫を浚っていくとの噂が絶えない。そのため、近頃は愛犬と散歩する老人や少女など、微笑ましくのどかな光景など、全く見られなくなってしまった。
小動物好きの人々は、ペットを家の中に閉じ込め、たとえ自宅の庭であろうと、決して表には出さないようになっている。
見境無く家の前に撒き散らされる犬の糞に悩まされることも、野良犬や猫が子供を襲い、噛みつき、引っ掻き傷を負わせることも無くなった。これほど素晴らしき新世界はないではないか。などと主張する、愚昧な環境委員会の広報を、ススムは昨晩メディアで見た。
(糞嘗めどもが!)
心中で下品な罵詈を吐き捨て、ついでにススムは道端に痰を吐き捨てた。直後、自分のレベルがまるで第一市民の民度にまで落ちた気分になり、ススムの瞳に昏い影が落ちた。
現実のススムの世界では、犬猫なんぞよりも遥かに恐ろしいモンスターが、始終そこら中を徘徊しているのである。確かに、道端で犬猫に噛まれる危険性は限りなくゼロに近づいたが、だから何だと言うのだ。
(・・・う)
ススムは唐突に悪寒に襲われ、一度、ブルッと身を震わせた。
(・・・気持ち悪い)
悪寒に留まらず、吐き気まで込み上げてきた。ススムは口元を押さえると、その場に蹲り、膝を付いてしまう。
それは、ある種の予感だったのだろうか。ススムが身震いした十数秒後、一度聞いたら忘れることのない異音が、背中の方角から迫ってきた。電気自動車が全盛のこの時代に、特権をひけらかす、ただそれだけが理由で、本体も燃料も高価なガソリン車を乗り回す連中だ。
ガソリンエンジンの音に思わず振り向いたススムの眼前に、どぎついピンク色で染め上げられたマイクロバスが迫ってきた。マイクロバスの上部には巨大なスピーカーが据え付けられている。
ギラギラと下品な輝きを放つスピーカーから、いきなり轟いた爆声に、ススムは思わず耳を塞いだ。
「そこの人! こちらは人権委員会です! 道の端に寄りなさい!」
言われなくても分かっている。どこの世界に、こんなショッキングピンクのマイクロバスを乗り回す、正常な人間がいるというのだ。
マイクロバスは遠慮のかけらもなく、クラクションを連打してくる。ススムは吐き気を堪えながら、慌てて路地の片隅へ自らの身を運んでいった。
ガソリンが焼ける匂いと、耳障りな爆音を響かせながら、ピンク・マイクロバスは通り過ぎていった。
過ぎ行きざまに、マフラーから白煙を噴出する。ガスの燃え滓をまともに吸い込んだススムは、益々気分が悪くなった。
だが、いつまでも蹲っているわけにもいかない。ススムは全身を震わせながら、必至に近くの木立に取りすがった。
「まさか・・・」
また「うち」なのか?
ススムは今度は恐怖から身をおののかせ、慌てて角を曲がったマイクロバスの車影を追った。十字路をほとんど減速することなく曲がりおおせたマイクロバスが、急ブレーキを踏む音が聞こえる。ススムの心臓は、文字通り縮み上がったものだ。
つんのめるような足取りで十字路を曲がったススムの目に、路地に左寄せで停止しているマイクロバスの背面と、リアガラスに張られた巨大なステッカーが映った。
いわゆる萌え系のアニメ少女が、「ダメダメ」のポーズをしながら叫んでいる。
「★☆ ジンケンようご! サベツはんたい! ネ❤ ☆★」
人権委員会の差別禁止推進キャラクター「ジンケンたん」だ。可愛くデフォルメされたキャラクターに「ネ❤」と愛らしく呼びかけられても、メッセージとのギャップがあまりにもありすぎ、ひたすら不気味なだけだ。
ひょっとして、人権委員会は自分たちへの嫌悪感を煽るために、狙ってやっているのだろうか。さすがに穿ちすぎる見方だとは思うが、人権委員会が考えていることなど、一般市民には見当もつかない。
「ジンケンたん」に嫌悪感を掻き立てられたものの、とりあえずマイクロバスが道の左側に停まっている事に、ススムは胸をなでおろしたものである。
(・・・うちじゃない。)
斜め向かいのヨシダさんの家だ。
ススムは小走りにマイクロバスに駆け寄り、ヨシダ邸の外壁とバスの隙間から、すでに始まっている大騒動を覗き込んだ。人権委員会が絡むと、何事もヒステリックに狂騒を帯び、どことなく喜劇じみてくるが、今回も例外ではないようだ。
ヨシダ邸の門から身を乗り出すように、くたびれたスーツを着た男が両手を振り回し、何か怒鳴っている。まさに喧騒という言葉がしっくり来る光景で、とにかく男は休むことなく、口から泡を飛ばしながら叫び続けている。
「あいつだ! あいつが俺を差別したんだ! 俺がせっかく持ってきてやった儲け話を拒否しやがった! あいつが差別主義者だ! あいつがニッテイ主義者のウヨク分子だ!」
「君、君。少し冷静になりなさい・・・」
門の内側から心底から呆れた口調で、それでも落ち着き払ったヨシダ氏の声が返ってきた。
「わたしは君の会社のデリバティブを購入するのを、お断りしただけだ。仕組みもよく分からないし、そもそもそんなリスクの高い証券に投資できるほど、うちは裕福じゃない」
「嘘だ!」
スーツの男はヨシダ氏の言葉を遮ると、腕を激しく振り回しながら自説を主張した。
「こんな良い家に住んでいながら、投資資金が無いなんて嘘だ! それに、お前、俺の名刺を見てから断った! 名刺の名前が地域外だから、第三市民風じゃないから、たったそれだけで俺を追い返した! これは立派な人権侵害ね! 俺は差別された! 人権犯罪だ! 人権犯罪だ!」
「莫迦莫迦しい・・・」
ヨシダ氏はさすがにうんざりとした様子で、一つ大きくため息をつく。
「何が人権侵害だ。私はただ、投資商品の訪問販売を断っただけじゃないか。
これで差別だの人権犯罪だの言われては、今後、誰も訪問販売を断れなくなってしまう。
そんな狂った話があるわけない。こっちは、好きで押しかけられているわけではないんだからな」
「失礼ですが」
またもや話の腰を折られたヨシダ氏だが、今度の相手はスーツの男ではなかった。
それまで無言で男の背後に控えていた五人の内の一人、上半身をエメラルドグリーンのブレザーで包んだ、ショートカットの女性が進み出たのである。この悪趣味なブレザーも、人権委員会のお仕着せ、つまり制服である。
それにしても、いちいち色彩が奇抜だ、人権委員会は。本人たちは趣味が良いとでも、思っているのだろうか。
ススムは妙なところが気になって仕方がなかった。
「ヨシダさん。わたくしはトウキョウ第十二地区人権擁護委員、フクシマと申します。
ご理解されていらっしゃらないようですので、ご説明させて頂きますが、ヨシダさんがこの方の売込みをお断りになったのは、立派な差別であり、人権侵害でございますのよ」
「何を莫迦なことを!」
さすがに驚きを隠せず、ヨシダ氏は血相を変え、門扉ににじり寄った。勢いあまり鉄枠を膝で蹴りつけてしまう。一つ大きく門扉が揺れ、鈍い音が周囲に響き渡った。
「いいえ、莫迦なことでも何でもございません。何しろ、法律でそう決まっているのです」
人権擁護委員フクシマは、一つ肩をすくめると、胸元から人権手帳を取り出す。慣れた手つきでページをめくり、人権擁護法が記載された箇所を見つけると、淡々とした口ぶりで読み上げ始めた。
「人権擁護法、第一章、総則。第二条、定義。この法律において、『人権侵害』とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為をいう」
ここまで読み上げると、人権擁護委員フクシマは手帳を閉じ、無言でヨシダ氏を凝視した。
「それがどうしたというのかね」
ヨシダ氏は面食らった様子である。
「わたしは彼を不当に差別もしていなければ、虐待もしていないぞ。人権侵害の定義とやらに、全く当てはまっていないじゃないか」
ヨシダ氏の正論は、人権擁護委員の冷笑により迎えられた。口元を嫌な形に歪めながら、人権擁護委員フクシマは二度、三度、頭を振る。
「きちんと聞いていらっしゃいました? 人権侵害の定義とは、不当な差別、虐待その他人権を侵害する行為をいう、と申し上げました。つまり不当な差別や虐待でなくとも、『その他人権を侵害する行為』があれば、立派な人権侵害として認められるわけですわ」
「何だそれは!」
完全にいつもの温厚さを失い、怒り狂った様相のヨシダ氏が門から身を乗り出してくる。
お向かいさんであるススムは、幼少の頃からヨシダ氏を見知っていたが、氏が激怒した姿を見たのは、実は初めてだ。ヨシダ氏はすっかり我を失ってしまった様子で、顔を赤く染め、門扉を掴んだ両手が、怒りのあまり震えている。
「そんないい加減な定義では、全く定義になっていないじゃないか! 大体、『人権侵害』の定義が『人権を侵害する行為』って、何だね、それは? 人権侵害とは、人権を侵害する行為って、当たり前だ、そんなこと! 殺人とは、人を殺す事、と言っているのと同じじゃないか!」
「そんなに興奮なさってはいけませんわ」
冷笑の仮面を顔に貼り付けたまま、人権擁護委員フクシマはヨシダ氏を宥めた。
「とにかく、あなたはこの方の名刺を見て、つまり第二市民風の氏名を確認して、この方の売込みをお断りになられたわけです。
これはマイノリティである第二市民のこの方を、氏名を理由に不当に傷つけ、この方の人権を侵害したことと同意ですのよ。つまり、先ほどわたくしが読み上げた人権擁護法に抵触する、立派な人権犯罪ということですわ」
「何が不当な差別だ!」
激怒したヨシダ氏は、更なる抗弁を試みる。
「そもそもわたしは、彼の名刺など、ろくに見ていない。初めから投資商品など買うつもりはなかったからな」
「そういう問題ではないのね!」
いきなりヨシダ氏と人権擁護委員フクシマの間に割り込んだのは、もう一人の女性の人権擁護委員であった。
フクシマと同じくエメラルドグリーンの制服を着込んでいるが、ブレザーの着こなしだけではなく、髪型や体型、それにかもし出す雰囲気までもが、まるでフクシマと瓜二つである。顔つきが全く違うので、双子というわけではなさそうだが、足取りや仕草までもがフクシマとそっくりだ。
「あなたが、どういうつもりだったか。そんなこと、全然、関係ないのね! わかるう? あなたのつもり、関係ない。問題は、この人がどう思たかなのね! この人が差別されたと感じたら、それは差別なのね!」
顔や服装は第三市民風の枠内に入るが、口調が全く異なる。かなり訛りの強い喋り方で、彼女が第三市民ではない、つまり地域外市民であることが推測される。
「地域外市民・・・」
やや毒気を抜かれた様子で、ヨシダ氏は呟くように言葉を発した。何となく、怯える様子で二、三歩、後ろに下がる。
「・・・人権委員会にも地域外市民がいるのか。一応、政府の機関なのに・・・」
「別に不思議でも何でもないですわ。
チョンさん、ここはわたくしに任せて、下がっていて下さる?」
人権擁護委員フクシマは、同僚の委員を軽く押しとどめ、再びヨシダ氏に向き直った。
「何しろ、人権擁護法にはコクセキ条項~この言葉の意味を知っている人も、少なくなってしまいましたわね~がございませんもの。別に第三市民でなくとも、誰でも人権委員や人権擁護委員になれますわ。
いえ、むしろマイノリティで人権犯罪に会いやすい第二市民の方が、人権擁護委員の地位に相応しいかも知れませんわ。まあ、まだまだ人権擁護委員会では、わたくしのような第三市民が多数派ですけれども」
(お前は第二・五市民だろ! 半島市民に魂を売った売女が!)
静かに様子を伺っていたススムは、フクシマの言い草に、思わず心の中で毒を投げつけたものだ。奇しくもススムと全く同じ感想を抱いたらしいヨシダ氏も、吐き捨てるように呟く。
「・・・ご立派なものだな、第二・五市民さんは」
小首を傾げ覗き込んでくる人権擁護委員に、ヨシダ氏は軽蔑の視線を与えた。
「何も言ってない。もし何か聞こえたとしたら、そりゃ、あんたに身に覚えがありすぎるせいだろう」
人権擁護委員フクシマは見下すような笑みを浮かべ、肩をすくめたが、口では何も言わず、後ろの同僚たちを振り返った。
「さ、人権擁護委員の皆様。お仕事ですわよ、お、し、ご、と」
フクシマの言葉を合図に、それまで一様に口を真一文字に引き締め、立ち続けていた残りの人権擁護委員たちが、一斉に動き始めた。
無言でヨシダ氏の元に歩み寄り、氏を無視したまま手を伸ばし、門の鍵を内側から開けようとする者。押収する書類を詰め込むためのダンボールを、マイクロバスから何十枚も引きずり出す者。高性能のHDビデオカメラを手に、人権委員会の活動を記録する者。
「待ちなさい! 許可無くわたしの家に立ち入るとは、一体どういうつもりだ!」
我が家に乱暴に踏み込まれ、仰天したヨシダ氏は、これまでとは比較にならない切迫した形相で悲鳴を上げた。
「何を仰いますの。人権委員会の立ち入り検査ですわ。あなたが差別主義者かどうか、調査するため、書類やパソコンを押収させて頂きますの。
拒否されると、三十万アキュ以下の過料が科せられますわよ」
「だからと言って、無断で人様の家に押し入る道理があるか!
家宅捜査の令状はあるのか! 無ければ、住居侵入罪で訴えることになるぞ!
それに、ノートパソコンは仕事で使っているんだ。持って行かれたら・・・」
もはや劈くという表現がしっくりくる、甲高い叫び声が周囲に響き渡った。
髪を振り乱して抗議するヨシダ氏を、男の人権擁護委員が乱暴に押しのける。能面のように笑みが凍りついたその表情は、まるで出来損ないの道化師のようで、ヨシダ氏の心胆を寒からしめた。
人権委員会の無法三昧を無言で見ていたススムは、顔を背け、悲鳴から遠ざかるように身を翻したものだ。
東京人権大学の現役学生で、日々、人権教育を受けているススムは、知っていたのである。人権委員会が三条委員会である、つまり証券取引委員会や連邦地域税庁と同じ、独立した強大な権力を持っているということを。
三条委員会とは行政機関の設置を定めた、連邦第三地域行政組織法三条に基づき設置される機関である。委員会は主要行政機関の外局として置かれ、専門性が必要な領域や、公正中立性が求められる問題を取り扱うものとされている。
例えば、公正取引委員会は主に企業の独占禁止法違反などを調査し、税庁は連邦地域政府の歳入確保のため、所得税や法人税、消費税などの課税や徴収、時に脱税の摘発を行う。
独禁法違反調査にしても、脱税摘発にしても、数字やデータを扱う高度な専門性が必要である。かつ汚職や賄賂の横行を避けるため、予算や人事に関する独立性も求められるわけである。
ところで、独禁法違反や脱税は、取引関連書類や帳簿、決算数字や銀行の取引履歴など、歴とした証拠が残されるため、その判断において主観性が立ち入る要素は極めて少ない。そのため、証券取引委員会や税庁に、調査のための強大な権限が与えられていても、問題視する人はあまりいなかった。
ところが「人権侵害」という、極めて曖昧な事柄を扱う人権委員会が、三条委員会として設立されてしまったのである。
最高権力者である人権委員長以下、実際に人権委員会を切り回す人権委員五名の下に、各地区ごとの下部組織として、人権擁護委員会が配置される。
一般市民は、人権「擁護」委員会と、その上位組織をひとまとめに「人権委員会」と呼んでいるが、厳密にはこれは間違いである。
各地区の人権擁護委員会ごとに配置される人権擁護委員だが、通常は人権委員と同数の五名で構成される。そしてこの人権擁護委員の選定の基準が非常に曖昧で、問題を引き起こしているのである。
何しろ人権委員会は、各地区に対し「人格が高潔な者」や「高い見識を持つ者」を人権擁護委員として選ぶよう指示しているのだ。
だが「人格が高潔な者」や「高い見識を持つ者」とは、どのような評価基準をもって判断すればいいのだろうか? 本人が「わたしの人格は高潔だ」「わたしは高い見識を持つ」と自己申告すれば、それで良いのだろうか?
さらに人権擁護委員選定の規定の中には、ヨシダ氏が驚愕したように「国籍条項」が無い。フクシマが述べたとおり、第三市民ではない地域外市民であっても、人権擁護委員になれるのである。
この「国籍条項」について、ススムはMIKIから繰り返し説明を受けたのだが、完全に理解できたかどうか、未だに自信が持てないでいる。ある日、MIKIが国籍条項を「連邦地域戸籍条項」と言い換えてくれたので、初めて何となくの意味が分かった。
さて、人格高潔で高い見識という、言語明瞭意味不明な基準により選ばれた人権擁護委員、時に第三市民でさえない人権擁護委員には、前述したとおり行政組織法三条に基づく三条委員会として、強大な権力が与えられている。人権擁護委員は法に則り、人権侵害に関する情報収集や、裁判所の令状「なし」に関係文書の提出を要求し、押収する権利を与えられているのだ。
つまり、ヨシダ氏が住居侵入罪で人権擁護委員を告訴しようとしても、無駄なのである。彼らの活動は、人権擁護法という立派な法律に保護されている。
だが、現実には、横暴な人権擁護委員のやり方が、余計なトラブルを引き起こす事例が絶えない。
また、人権侵害の定義が極めて曖昧であるため、示威的な解釈による人権擁護活動が頻発していることも、大きな問題となっている。
特に第二市民のケースに多いのだが、「目を合わせてくれない」や、「クスリと笑われた」などというくだらない理由で人権侵害を訴える、あるいは特定の政治目的で、政敵を陥れるため人権犯罪を言い立てるなど、人権擁護法を悪用する例は枚挙の暇がない。
何しろ、法律がそれを可能にしてくれているのだ。
ちなみに、前述のように、不当に人権を侵害したと疑われた人への、保護の仕組みは存在しない。実際の罪の有無に関わらず、人権委員会に訴えられ、最終的に罰則を免れた者はいないのだ。
一応、人権侵害を言い立てられた者が、裁判により名誉回復を図るという手段が、あるにはある。
だが、法律の性質上、人権侵害を訴えられた者は「人権を侵害していない」事を、自ら証明しなければならないのだ。これは、俗に言う「悪魔の証明」である。「悪魔はいる」と主張する者に対し、「悪魔が存在しない」ということを、一体どのように証明すればいいのだろうか?
同様に、「人権を侵害された」と主張する者を相手取り、「人権侵害などしていない」事を証明するなど、現実にはこの世の誰にもできない。
どれだけ言葉を重ね、自らの無罪を訴えても、相手が納得しなければそれまでだ。何しろ人権侵害で物的証拠があるケースなど皆無に近く、反証を用意しようにも不可能なのである。
要するに、人権擁護法は人間の「気持ち」を規制しようとしているのである。「気持ち」が人間の目に見えず、触ることも計測することもできない以上、平等で公正な人権の擁護など、空理空論でしかないのだ。
他にも、例えば公務員職の地位にある者は、人権委員会への訴求を免れるなど、人権擁護法は不平等、不公正、不完全の塊と言われる。
要は、人権擁護法の存在そのものが、人権侵害を引き起こしている事例が、巷に満ち溢れているのである。
「やめろ! パソコンを持っていくのは、やめてくれ! 本当に仕事ができなくなってしまうじゃないか!」
人権侵害調査に必要な(一体どのような基準で必要性を判断しているのか、一般市民が知らされる事はない)関係書類や、パソコンなどの電子機器が詰め込まれたダンボールを、無作為にマイクロバスに積み込む人権擁護委員に、ヨシダ氏が必死に食い下がっている。だが、法により絶大な権力を与えられている人権擁護委員たちは、歯牙にもかけない。
「何度も言わせないで下さいな。わたくしどもの行動を邪魔なさると、三十万以下の過料が科せられますのよ」
相変わらず冷ややかな笑みを浮かべたまま、人権擁護委員フクシマが突き放すような声を出す。
その脇で、この騒動を引き起こした張本人、くたびれたスーツを着た第二市民の男が、下卑の極みとも言える醜い笑顔を浮かべているのが、大変印象的であった。
「いい気味だ。ニッテイ主義者のウヨク分子の末路は、路上を這い回るゴミ虫だ。思い知れ、差別主義者」
「な!」
あまりに非道な言い草に、さすがにヨシダ氏も怒り心頭に達した。視線だけで相手を殺せそうな強烈な目つきで、ヨシダ氏は男を睨みつける。だが、人権委員会という毒蛇の威光をまとった男は、まるでひるむ様子を見せない。
「こんなもんで済ますつもりは、毛頭無いぞ。深く、深~く、傷つけられた俺の心は、こんなものでは癒せない。もっと、もっと、苦しめてやるから覚悟しておけ。もちろん、謝罪と賠償も要求してやるし、もっともっと凄いことをしてやる。予め、ちゃ~んと、連絡をしておいたんだ、ケラケラッ!」
(えっ)
すでに騒動から離れ、自宅に逃げ込もうとしていたススムは、この第二市民の男の台詞に、思わず振り返ったものだ。
(まさか・・・)
その、まさかであった。
ススムの右手から、大地を唸らすような鈍いエンジン音を響かせ、大量のAV機材を車体からはみ出させた、巨大な多目的車が接近してきた。ボンネットに「昇る太陽」の紋章。民間の最大手である、アサヒメディアの中継車だ。
凍りついたように立ちすくむススムの前を行き過ぎ、アサヒメディアのドライバーは、見事な運転技術を披露してみせる。まるで曲芸車のごとく豪快なドリフトを決め、人権委員会のマイクロバスの前でぴたりと停止した。
さすがに呆気に取られ、作業の手を止めた人権擁護委員たちが見守る中、中継車の両開きの扉が開く。車内から勢いよく、お揃いのウインドブレーカを着た男たちが飛び出すや否や、全く躊躇することなく、放送機材の設置を始めた。
驚くべき手際の良さで、機材のセッティングを終えた男たちが一歩下がる。すると、中継車から真っ赤な背広で身を包んだ中肉中背の男が、ゆったりとした動作で歩み出てきた。背広だけではなく、ネクタイまで輝くような真紅色で、鼻の下に小さな髭を蓄えている。趣味の悪さもここまでくると、一種の才能であろう。
「はい、準備完了ですね! 本番入ります! テープ回して!」
赤服の男がよく通る声で命じると、ウインドブレーカの男たちが慣れた動きで駆け回り始めた。
「はい、カメラオッケーです。本番、どうぞ!」
巨大な業務用のビデオカメラを肩に抱えたカメラマンの合図に、赤い男はマイクを手に、静かな声音で語り始めた。
「視聴者の皆さん、こんにちは。アサヒメディアのパクチョンジュです。
またもや、哀しい出来事が起きてしまいました。人権犯罪です。本日もまた、第三市民による残酷な差別、人権犯罪が発生してしまったのです。
トウキョウ第十二区より、キャスターのパクチョンジュがお送りいたします」
いきなり始まったアサヒメディアの収録に、その場にいた人たちは唖然とし、絞り出す言葉も無い。
だが、パクチョンジュは場の空気など全く気にする様子も無く、ずかずかとショッキングピンク色のマイクロバスに近寄る。さすがに困惑した様子で立ち尽くしている人権擁護委員、フクシマに無遠慮にマイクを向けた。
「人権擁護委員、アサヒメディアのパクチョンジュです。本日はどのように残酷な人権犯罪が起きたのでしょうか?」
「困りますわ、パクさん。本事例は、未だ調査段階ですのに・・・」
眉を寄せるフクシマの回答に、パクは悪びれる様子も無く、くるりとカメラの方に向き直った。
「人権犯罪です。人権犯罪です。人権擁護委員のコメントによると、極めて悪質な差別、虐待が行われた模様です。さて・・・」
周囲を一通り見回すと、パクは小走りにスーツを着た第二市民の元に駆け寄った。
「あなたですね、今回の被害者は。いやあ、この度は本当にお気の毒な事でした。残酷な差別によりお心が傷ついている中、大変恐縮なのですが、今回の人権犯罪の概要を教えて頂けませんか?」
「お、おう・・・」
あまりにも傍若無人なアサヒメディアの態度に、さすがに毒気を抜かれたらしい。やや呆けた様子を見せながら、第二市民の男はヨシダ氏を指差した。
「あ、あいつだ。あいつが俺を差別したんだ。第二市民だからという、ただそれだけの理由で、俺からデリバティブを買うのを拒否りやがった・・・」
「ああっ! 何てことだ!」
パクチョンジュは大げさな身振りで頭を振ると、両手を大きく天に突き上げた。そして、再びマイクを口元に運び、
「この方が第二市民である! たったそれだけ! たったそれだけ理由で、この方のデリバリーを買うのを断るとは! まさに悪夢のデリバリー!」
「い、いや。デリバリーじゃなくて、デリバティブ・・・」
慌てふためき、小さな声で訂正する第二市民の男を尻目に、パクは感極まった形相で中継を続けた。完全に自分に酔っている様子で、その声には明らかにヒステリックな狂気が滲んでいる。
「あ、ちょっと待って下さい」
ウインドブレーカを着たアサヒメディアの職員が、小さなメモをパクチョンジュに手渡した。
「ヨシダイチロウ。今回の人権侵害を引き起こした加害者、人権犯罪人の名前は、ヨシダイチロウであるとの情報が入りました。
あ、あれが人権犯罪人のヨシダイチロウか? カメラさん、ちょっとあの人を映して」
「やめてくれ! やめてくれ!」
唐突にTVカメラを向けられ、ヨシダ氏は悲鳴を上げて蹲ってしまった。カメラの残酷なレンズは、容赦なくヨシダ氏の一挙一動を撮影し続ける。
明らかに無実の罪で人権犯罪人呼ばわりされ、しかも名前や顔が全国ネットで放映されようとしているのである。さすがにヨシダ氏の神経が、限界を迎えてしまった様子である。
不思議なことに、あからさまに職務を妨害されている人権擁護委員たちが、誰もアサヒメディアを咎めようとも、収録を止めさせようともしない。常日頃の傍若無人ぶりは影を潜め、何となく立ち位置に困っている様子だ。
人権擁護委員たちの奇妙な振舞い。その理由もまた、曖昧な人権擁護法そのものにあることを、ススムは承知していた。
三条委員会である人権委員会は、人権侵害の加害者の氏名や勧告内容を公表することが可能である(人権擁護法 第六十一条 勧告の公表)。
だが、どのように公表するべきか、法律の条文には明記されていない。そのため、人権委員会の加害者公表作業を、メディアが肩代わりしているだけである。というのが、メディア側の主張であり、言い分だ。これを人権委員会側としては、むげに拒否することが難しい状況なのだ。
さらに、他の三条委員会、例えば公正取引委員会による立ち入り検査の場合は、立ち入り検査が行われただけでメディアが大々的に報道している。
法律のグレーゾーンの存在や、公正取引委員会の事例が、メディアが人権侵害の加害者を(調査段階で!)オープンにする蛮行を許しているのである。
ススムは終わりなき修羅場を、これ以上見ていられなくなり、自宅の門に手を掛けた。
ヨシダ氏のためにススムがして上げられることはない。まだ。
表で延々と続く狂騒から耳を塞ぐように、ススムは足を速め自宅の中に逃げ込んだ。靴を脱ぎ捨てるや、玄関とリビングを通り抜け、自分に与えられている三階の屋根裏部屋まで駆け上がる。
その途上、ススムはメディアによる人権侵害報道について記憶を辿っていた。少し前に、MIKIからメディアによる人権侵害に関する偏向報道について、最初の事例を教えてもらった記憶がある。
屋根裏部屋のベッドに転がり込み、ススムは今や自分の命よりも大切にしている、SuperWiMAXの端末を操作する。
あった。端末の優れた検索機能により、目的の情報はすぐに見つかった。今から十年以上も昔、オオサカ地区に本社を持つ、セキスイという企業に勤務する第二市民が起こした、人権侵害裁判、通称、セキスイ事件だ。
セキスイに勤務する第二市民が、顧客との間にトラブルを起こし、「差別発言を受けた」と顧客に慰謝料と謝罪広告を求め、提訴した裁判である。
昨今の「ゆとり書籍化」により、おそらくこの事件は文字通り闇に葬られ、報道記事などはすでに残っていないであろう。MIKIからの翻訳ソースの提供が無ければ、ススムが知る由も無かった事件である。
「げ・・・」
ススムは突然、本日お向かいのヨシダ氏が巻き込まれたトラブルと、セキスイ事件との類似性に気がつき、ウンザリした気分に陥った。何と言えばいいのか、物凄い閉塞感だ。
セキスイ事件では、原告の第二市民が勤務する企業が裁判費用を負担し、裁判への出廷を勤務時間として認めるなど、企業側の異常な支援体制が話題になった。
しかし、それよりもはるかに不気味だったのは、事件を当時のNHK(現在のSHK、市民放送協会)や複数の民放が特集を組み報道し、「差別が行われました」「差別が行われました」と連呼し続けたことだ。
無論、未だ裁判も始まっていない、初期段階である。人権侵害について裁判所に提訴された、ただこれだけが事実にも関わらず、全ての放送局が第二市民側に立ち、差別が行われたものとして、偏向報道を続けたのである。
たかが一般の民間人同士の揉め事を、なぜ複数の放送メディアが連日報道を繰り返したのか。ススムがその真の狙いを知ったのは、ごく最近のことである。
セキスイ事件から、すでに十年を越える歳月が流れた。だが、セキスイ事件の悪夢は、現代を生きる全ての第三市民の頭上に、明日にでも降りかかる可能性がある、今そこにある災いなのである。
これが、大アジア人権主義市民連邦。
これが、人権擁護な新世界だ。
*この物語はフィクションです。
第二章 大アジア人権主義市民連邦 へ続く

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