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記者の目:新型インフルエンザ メキシコの教訓=庭田学

 日本でも感染者が拡大している新型インフルエンザの流行は最初、メキシコで報告された。幸いウイルスの毒性は強力なものではなく、被害は最小限に抑えられているかに見える。首都メキシコ市で暮らしていて、貧しい人々が最も感染の脅威に直面していることを実感した。新型インフルエンザの震源地メキシコの教訓は、世界各国の貧困層に予防対策を徹底することが急務だと示している。

 標高2240メートル。メキシコ市の空気は薄い。国全体の新型インフルエンザ感染者約3000人のうち半数が首都で確認された。日中の気温は30度。人口2000万人で大気汚染は世界最悪レベルだ。感染予防にマスクをつけると、息苦しさが一層増す。

 テレビで、市民が疑問を投げる特別番組が連日放送されていた。「マスクは不快だから着けない」「マスクに予防効果があるとは思えない」。街頭からの声に、専門家は丁寧に効能を説明していた。

 世界中がメキシコを注視し、まるで国中がゴーストタウンになったかのような報道もあった。だが、実際のメキシコはずっと平穏で、国外の報道ぶりが大げさに過ぎるような気がした。その半面、メキシコ人の危機意識の希薄さには少々あきれもした。

 感染予防のため学校が休みになった時には、子供連れで買い物に出る人々が大勢いた。まるで休日気分だ。しかも全員マスクなし。5月に入り、流行の減退傾向が発表された途端、マスク着用者は激減した。政府は再流行に備え引き続きマスク着用を呼びかけるのだが、国民はお構いなしという状況だ。

 低い危機意識の一因には、貧困という社会全体の「慢性疾患」があると思う。

 新型インフルエンザの流行がピークになった4月25日のこと。歩道に座り込み、物ごいをしている父子がいた。5歳ぐらいの男児が持っていたパンが地面にころがった。男の子はそのパンを拾って、またかじり始めた。

 休校の時は、「働く子供たち」も街頭に繰り出した。ペットボトルの水やガムを売ったり、車の窓ガラスをふいて小銭を稼ぐ小さな子供たちだ。裸足の子供もいる。汗とほこりにまみれながら。

 世界保健機関(WHO)が警戒度を「複数国で人から人への感染が進み、世界的大流行の一歩手前」とするフェーズ5に引き上げた先月29日のことだった。私の自宅近くで、いつものように先住民系の母子3人が地べたに座り、売れそうもないビニールひもを編んだ手芸品を並べていた。無論、マスクなしだ。貧しい人々は、目に見えないウイルスに感染するリスクなど考えてもいられない現実を見せつけられた。

 メキシコでは約70人の死亡者が確認され、多くの専門家が「この国で死者が多いのは貧困が原因では」と指摘している。国内で3人に1人が最低限の生活費を得られず貧困にあえぐ。感染者の階層を含め詳細な分析が必要だが、貧困層が保健衛生や医療の届かない生活を送っているのは疑いようがない。

 メキシコや米国、カナダを旅した人々が世界中に散り、新型インフルエンザが拡散している。そして、最も深刻な被害にさらされるのは、その日を生きることに懸命で医療から離れた貧しい人々である。残酷な現実だ。「富める国」と「貧しい国」の間では対応力に当然落差がある。

 WHOのマーガレット・チャン事務局長は警戒度をフェーズ5に上げた際、「インフルエンザは豊かな国では軽い病気だが、発展途上国では重病であり命取りになる」と警告した。この言葉を国際社会は重く受け止めるべきだ。

 メキシコでは今月11日から小中学校が再開され、社会は一応正常化に向かっている。政府は学校の衛生管理を徹底すると意気込む。カルデロン大統領は「我々はメキシコ人だけでなく、全人類を守っている」と勇ましい。だが、地元紙は全国の学校のトイレなどが極めて劣悪な環境にあると告発している。

 今回の新型インフルエンザに対するメキシコの行政府、国民の対応は共に決して満点ではなかった。しかし、手洗いやマスク着用が予防につながることを、不十分とはいえ、国民は学習したと思う。

 「日本での新型インフルエンザ発生への反応が過剰気味だ」という声をメキシコでよく聞く。私も一時そう思った。だが、人の生命を守ることに「過剰」の断言ができるだろうか。疫病の犠牲になる危険を最も抱えているのは世界の貧しい人々だ。医療品などハード面だけではない。手洗いやうがいの励行から始まり学校教科書づくりや教育研修などソフト面でも、衛生意識向上を目指した保健教育普及を充実すべきだ。この分野で、途上国支援は手厚くあってほしい。(メキシコ市支局)

毎日新聞 2009年5月19日 1時52分

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