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雨あがる

改訂版

by.六面球



その七




 水面が元に戻った川面に、朝霧が流れていく。

 昇り始めた太陽が照らし出す川面は、美しく輝かんばかりだ。

 早くも、河は人足と河を渡る人々で活気に満ちかけている。



 そんな喧噪とは関係なく、根穂戸屋のがらんとした土間には朝日が射し込み、炉の煙だけが細々と立ちのぼっている。



 碇夫妻が宿泊している部屋では、マユミがせっせと荷物を片づけ始めていた。

「今日は、好いお日和ですね」

 窓から差し込む朝日を見やりながら、マユミは何かを包みながら言う。

「少し雲があるぐらいの日でも、あの峠は雨が良く降るそうですから。河を渡るなら、今日のような日が良いと思うんですけど……」

 妻の独り言を聞いてるのかいないのか、シンジは落ち着きの無い様子で、開け放たれた障子越しに日射しを見上げて、唐突に立ち上がった。

「お出かけになるんですか?」

 その様子に、マユミは首を傾げながら聞く。

「いや、出かける訳じゃないよ。ちょっと……」

 そう言って、シンジは表へ出て行ってみる。



 落ち着かない様子で表に出たシンジは、不安げな面持ちで辺りを見回した。

 城の方角に向けて歩き出しそうになるが、それに気付いて足を止めると、溜息を吐く。

 そんな所へ、シンジの耳に馬の蹄の音が聞こえてきた。

 シンジは顔をパッと輝かせながら、慌てて宿へ入ろうとして、その姿のままで振り返って見る。

 すると、向こうから来たのは、旅の客を乗せた馬だった。

 シンジは失望の溜息を吐きそうになるが、宿の中から出立するために飴売りが太鼓を叩きながら出て来てしまい、思わず照れた様子で宿の中へ戻ってしまう。

「おはようございます。今日は、円満に大吉でござい!」

 そう、景気良く飴売りの男は言う。

「お二方のお幸せを、お祈り申しております」

 シンジの方を振り向いて、ニコッと笑ってそう言うと、飴売りの男は太鼓の音と共に遠ざかっていった。




 部屋に戻ってみると、マユミは部屋の片づけを続けている。

「天気は、申し分ないね」

 そう言って、シンジはマユミの側に腰を下ろす。

「ともかく、先方でも何か言ってくるだろうし……黙って立つ訳にもいかないと思うんだ」

「そうですね。でも、支度だけはしておきますね」

 何やら予感がするのか、マユミは支度の手を止めない。

「うん、そうだね。どちらにしても、此処は出ていくんだし……」

 そんな事を言っているうちに、馬の蹄の音がシンジの耳に聞こえてきた。

 マユミも気付くが、こちらは気にした風もなく、支度を続ける。

「どうやら、来たようだね」

 シンジは立ち上がって着物を直すと、落ち着いた口調で言って出ていった。

 片づけの手を休めたマユミは何事か考えると、自分も立ち上がって、シンジの後を追った。




 平常心を心がけながらシンジは穏やかな微笑を浮かべて、上がり端まで出迎えて座る。

 入って来たのは、意外な事に家老のゲンドウだった。

 薄汚い家の中を見回し、不愉快そうな顔をして入ってくる。

 後ろから、そんあゲンドウを不愉快そうに見ているケンスケが続いてきた。

 背中の視線に気付かず、ゲンドウは一瞬だけ、シンジの背後にいるマユミに好色そうな黄色っぽい視線を向ける。

 それに気付かれる前に青年へ向き直り、どこか苛ただしげな口調で話し始めた。

「貴殿は、まことに類い希なる武芸者。その腕前と言い、高邁なるお志と言い、是非とも藩の指南番にと殿達もご熱心でな」

 言う事は丁重なようだが、口調は明らかに不愉快げである。

 誉め言葉も、お座なりな通り一遍のもの。

 自分だけは熱心でないと、わざわざ言いたげだ。

「いえ、そんな。それは過分なお言葉です。私はそんな……」

 そんなゲンドウの無礼な言葉にも、シンジは穏やかに対応する。

 こちらは、無礼な真似をされても怒るのが苦手な、らしい対応だ。

 だが、ゲンドウにとっては、シンジの穏やかさなどは好意に値しない。

「左様な次第で……殿に対しての不作法もあったと言うのに、当藩の者達はどういう訳か、貴殿の召し抱えを決定しかけていたのだ。……決定しかけていたのだがな、そこに思わぬ故障が入ったのだよ」

 ゲンドウの口元に、いやらしい笑みが浮かんだ。

 彼には、無抵抗の者を嬲れる絶好の機会と思えているのだろう。

 だが、何がどうなっているのか分からないシンジは、呆然するしかない。

「故障と申しても、当方の事では断じてない。責任は、そこもとから出たのだよ」

 ケンスケは、何事か考えながら、ジッとシンジの方を見ている。

 金属が軋みを上げるような不愉快な声で、ゲンドウは冷ややかに続けた。

「先日、貴殿は賭け試合をされたそうだな? 城下町のさる道場において金子を賭けて試合をし、勝ってその金子を取って行かれた。勿論、ご記憶がおありであろう?」

 気に入らないシンジが愕然とする様子に、ゲンドウは快感すら感じる。

 青ざめつつも、シンジはかろうじて頷いた。

 そんな二人を見ているケンスケの表情は、どこか読めない。

 シンジを非難している類ではないが、考えている事を全く表に出していないのだ。

「確かに覚えています」

 喜色満面のゲンドウと、能面のような顔のケンスケに、シンジはそれだけを言った。

 本来なら、幾らでも抗弁しようと思えば出来るのだが、その気になれない。

 ゲンドウとは先日に会ったばかりだが、下手な言い訳をすると、さらにつけ上がらせてしまうと言う事に、無意識に気付いているのかも知れなかった。

「そちらにも理由が有ろうが、そんな事はどうでもいい。武士として賭け試合をするなどと言う、不届き千万な真似をしたのだ。不面目の第一なだけではない。それを訴えた者がいる以上、当藩としては慣例から考えるに、手を引くのが筋というもの。残念だが、この話は無かった事にしていただく」

 最後通告を出すゲンドウだが、これは先走りと言うものである。

 実のところ、トウジはゲンドウが告げ口に来ても、はっきりとした事を口にしてはいない。

 彼がゲンドウに命じたのは、シンジに事の真相を聞き出せという事だけだった。

 仔細に話を聞き、事と次第によっては、断る事を考えるかもしれん、と。


 だが、ゲンドウにはトウジの命令を守る気など、さらさら無かった。

 どういう訳か、その任にゲンドウを当てたのを幸いとして、シンジを追い出す腹づもりだった。

 実力行使が失敗した上に、トウジの確固とした言葉も得られていない。

 指南役からシンジを引き摺り下ろすには、この時しか手は無かった。

 そのため、普段なら面倒臭がって、適当な理由をつけて断ってしまうような雑事を渋々ながら引き受けたのである。

 また、トウジの命でケンスケも付いて来ていたが、お前は何も言うなと、威圧的な口調で厳命してある。

 たとえ、殿の近習頭と言えども、無事で済むと思うなよ?とも遠回しに口にしていた。

 ケンスケの返事は曖昧だったが、ゲンドウは気にしていない。

 人が一人いなくなる事など、ありふれた話だし、今までにも気に入らない者達を何人か、『ありふれた話』の登場人物にしてしまっていたからだ。

 それが一人増えるぐらい、どうと言う事もない。

 邪魔をする者は一人もいないと言う確信の元、ゲンドウはさらにシンジを嘲り続ける事にする。

 自分の計画を邪魔された腹立ちは、この程度では収まらない。

 何とかして、さらにシンジを痛めつけなければ、気が澄みそうになかった。





「まあ、私の注進を殿が聞き届けた結果だがな。当然の処置だ」

 そんな言葉にも、シンジは青ざめた表情を変えない。

 元々は覚悟していた事だったが、それがこんなに最悪な形で返ってくるとは思わなかった。

 あまりにも意地の悪い展開に、シンジは笑いたくなるほどだった。

 何よりも、後ろで静かに控えているマユミが不憫でならない。

 ようやくの事で、彼女に楽をさせてやれると思ったのに。

 自分への情けなさと妻への申し訳なさに、シンジは青ざめたままで、強く唇を噛みしめて俯く。

 そんなシンジの苦しみを存分に味わい、楽しんだゲンドウは、さらに調子に乗って続ける。

 起きている虎の目の前で、その尾を踏み躙る行為だという事に気付いていないのが、滑稽と言えば滑稽である。

「まったく、殿も気まぐれを起こしたものよ。私が出自の正しい者を推薦したと言うのに、何処の者とも知れない、賭け試合をするような者を召し抱えようなどとはな」

「まあ、殿もさすがに、そのような不面目な者など召し抱える気も無くしたと見えるが」

 ここまでは、シンジも耐える事が出来た。

 だが、誰も何も言わない事に調子に乗ったゲンドウは、言ってはいけない事を口に出していく。

 珍しいと言えば、珍しい事だった。

 トウジが口にした通り、ゲンドウは基本的に臆病者である。

 それ故に、嫌味な言葉を多用しても、自分の身を危うくするような事は口にせず、ボロを出す事は絶対にしない。

 小心者故の用心深さが彼の保身に役立っているのは、言うまでも無いだろう。


 だが、この時は少しばかり違った。

 ここ最近、ゲンドウの心はとみに苛立ちを抑える事が出来なくなっていたのである。

 何せ、侮っていたトウジが随分と強気になり、自分を公然と非難してくる。

 政を牛耳っていた自分の提言を尽く無視し、力を削ぎ落とそうと言う動きすら見せていた。

 傲岸不遜と見えるようで内心は小心者のゲンドウにとって、それがどれだけ心を苛立たせる事かは考えるまでもない。

 その上、藩の指南役に関する計画を、流れ者に潰されかけた。

 積もり積もった怒りの感情の捌け口を、張本人であるシンジにぶつけているのである。



「貴殿のご妻女も、こんな甲斐性の無い、ろくでもない男と夫婦になって不運な事よ」

「拙者のような男であれば、貴殿とは違って幾らでも贅沢をさせてやれるのだがなあ」

 人が気に病んでいる事を、傷口に塩を擦り込むような言い方で嘲って行く。

 言われなくても、それはシンジが最も気にしている事でもあった。

 だから、何の反論も出来ず、たたただ項垂れるしかない。

 何も言い返せずに、屈辱に身を震わせているシンジに、ゲンドウは気を良くする。

 そして、臆病者ゆえに、常に人とは距離を取る男には珍しく、シンジの耳元まで顔を近づける。

 今の打ちのめされているシンジには、反撃など出来ないと決めつけているのだった。

 だが、そこから口にした台詞が不味過ぎた。

「どうだ? 一晩、貴殿の女房を拙者に貸してみないか? そうすれば、殿へ貴殿を再び推薦する事を考えてやっても構わんぞ。悪い条件ではあるまい? 女房一人貸す程度で、指南役に推薦してもらえるのだからな」

 当然、シンジがもしも応じたとしても、ゲンドウには約束を守る気など、さらさらない。

 シンジが何か言ってきたとしても、そら惚ける自信はあった。

 その台詞を聞いた瞬間、シンジの目が見開かれ、グッと拳が固く握り締められた事に、ゲンドウは気付かない。

 小心者故の用心深さを維持していれば、ここまでは口にしなかっただろう。

 だが、これまでの贅沢な暮らしと、積もり積もった怒りのために用心深さが鈍っていたのが災いした。

 本来の臆病さを持っている時なら、即座に危険と判断してしまうようなシンジの感情の変化に気付こうともせず、彼が必死で維持している最後の理性の糸を切り刻む言葉を、ゲンドウは発した。

「いや、それとも、そんな事には慣れているのか? 考えてみれば、賭け試合をするような、恥を知らない痩せ浪人の事。生活に困っては、女房に躰を売らせていたのだろう? ならば、一晩ぐらい、拙者に渡しても問題はあるまい? 貴殿や、他の男の使い古しで我慢してやろうと言うのだ。拙者の寛大さに感謝して貰いたいものだな」

 この言葉を聞いた瞬間、控えていたケンスケは怒りを覚える前に、ゲンドウの死を予感してしまった。

 必死に耐えていたシンジの最後の一線が、音を立てて切れるのを目にしたのだから、当然とも言えよう。

 それほどまでに、目の前の青年の表情の一変ぶりは、凄まじかった。




 自分が侮辱され、非難されるのは、我慢出来る。

 だが、そんな男に愚痴一つ言わずに支えて来てくれた妻を、ゲンドウは侮辱したのだ。

 それも、この上無いほど心無い言葉で。

 自分に対する怒りが、そのまま増幅されてゲンドウへの殺意と変わるのを、シンジははっきりと自覚していた。

「………?」

 静かに顔を上げたシンジの表情を見て、ゲンドウは奇異な印象を受ける。

 予想では、彼の顔は泣くか、絶望に彩られているはずであった。

 だが、上げられた顔は、まるで能面のように無表情である。

 その瞳も、絶望どころか、冷たい無表情さを備えていた。

 ここで、ようやく生来の用心深さが、その表情の意味と警告を頭の中に、けたたましく報せる。

 臆病者の本性を傲慢な厚化粧で隠し通していたゲンドウは、警告が頭の中で発せられた途端、蛇に睨まれた蛙のごとく硬直してしまう。

「今、何て言った?」

 ゲンドウも、報告を受けた時、しっかりと記憶していれば良かったのだ。

 彼が本気で怒ったのが、妻を侮辱された時だと言う事を。

 存分にいたぶれる散々に愚弄して来たのが、僅かに調子に乗ったために自殺行為と化した事を、ゲンドウはようやくにして気付いた。

「確かに僕は、賭け試合をしたさ。それで、仕官が出来なくなるのも、覚悟してたよ」

 穏やかな、本当に静かな口調で言うのが逆に恐怖感を煽る。

「だけどね、だからと言って、それを理由に妻を…マユミを……侮辱するだと?」

 静かな表情のまま、シンジの全身から殺気が噴き出すかのように立ちのぼる。

「ひぃぃぃ!?」

 ギラついた脂っぽさなど微塵も存在しない、刃のように純粋な殺気を受けて、ゲンドウは恥も外聞もなく恐怖の叫びを上げた。

「ふざけるな!」

「駄目! シンジさん!?」

 殺気が生じた瞬間、いち早く気付いていたマユミがシンジに向かって、普段の彼女からは想像も付かないほどの強さで叫ぶ。

 妻の声が耳を打つのと、シンジが拳をゲンドウの顔に叩き込んだのは、ほぼ同時だった。

 長身のゲンドウに対して小柄なシンジであるが、板の間に立っていたため、身長差は全く無い。

 身長差が無くなっている上に、シンジを嘲るためにゲンドウが顔を近づけていたのも、さらに始末を悪くしていた。

 鈍い音と共に、青年の拳はゲンドウの髭面に吸い込まれ、容易く入り口近くまで吹き飛ばしてしまう。

 メガネが顔から吹き飛び、地面に割れたガラスの破片を撒き散らしながら転がっていく。

 顔面を変形させたゲンドウの口からは、折れ飛んだ幾本もの歯と血飛沫が飛び散り、空中を汚していった。

 音を立てて派手に地面に転がったゲンドウを睨み付けながら、シンジは荒い息を吐いた。

 あの時、マユミの叫びを聞いたシンジは、寸前で手加減をしたのである。

 そうでなければ、柔術の修行で教わった危険な当て身技を顔面の急所に入れて、その場でゲンドウを仕留めているところだった。

 そんなシンジの手加減に気付いていたのか、さっきから静観していたケンスケは、静かに評する。

「碇殿、お見事」

 そう言って、無様に転がっている髭面を見やって、ニヤリと笑う。

「ええ、見事にやってしまいました」

 ようやく息を整えながら、シンジは哀しそうに言った。

「これで、僕達はここには完璧にいられなくなりましたよ。すぐにでも、ここを出るつもりです」

「そうですか……」

 完全に諦めたような顔を見て、ケンスケは自分では説得出来ないだろうと考えると、懐から小さいのに重そうな包みを出して、シンジの足下に置く。

「もしもの時は、これを旅費の足しにしてくれと、殿が俺に預けていたものです。少ないけど、どうか受け取ってくれませんかね」

「いや、とんでもない」

 シンジは、哀しそうな顔のままで手を振った。

「そんな心配は、しないでください。この前から、色々と戴いているんですから……どうか……」

 ケンスケが包みを置いた時、包みごしにも、ゴトッという重い音が響いている。

 中身は小判……それも一両、二両なんて金額ではない事ぐらい、簡単に察しが付いた。

 餞別と言うには、貰うのが躊躇われるような金額である。

 シンジに受け取れる筈もなかった。

 だが、

「いいえ、ありがたく頂戴いたします」

 そう言って、マユミはシンジの脇に座る。

「マユミ……?」

 突然の妻の発言に、シンジは驚いたようにマユミの横に腰を下ろして彼女の顔を見つめた。

 ケンスケも興味深そうに二人を見つめている。

 マユミは、そんな二人の様子を気にした風もなく、未だに地面に転がって呻き声をあげているゲンドウに、普段の彼女からは想像もつかないほどの冷ややかな視線を向けると、静かに話し出した。

「主人が賭け試合をしたのは、確かに悪い事でした。私も、以前から、それだけはやめてほしいと何度も願って来ましたから……。でも、それは間違いでした」

「!?」

 意外な一言に、シンジの目が丸くなる。

「私、初めから分かっていた……いえ、知っていたのに分からない振りをしていたんです。主人も賭け試合が不面目だというのを、嫌と言うほど知っていたのを」

 そこまで言ったマユミの表情は、能面のように無表情なのに、どこか泣いているかのようにシンジには思えた。

「でも、分かっていてもやむにやまれない、どうしてもそうしなければならない場合もあった事に目を塞いでいたんです。私、馬鹿でした……。夫に不面目な事をさせたくないばっかりに……」

「何をしたかだけではなくて、何のためにしたか、何をもたらしたのかも見なくてはいけないのに、そんな事も分かってあげられなくて………。あなたのような、木偶の坊には、お分かりいただけないでしょうけど」

 そう、最後の言葉をゲンドウに向けて言い放つ。

「マユミ……もう、いいよ。もういいから」

 シンジ以上に、人を傷つけるのが苦手なマユミだ。

 ゲンドウ相手とは言え、こうして辛辣な言葉を続けるのは、それだけでも苦痛な事だろう。

 まるで今にも泣きそうなほど哀しげなマユミを気遣って、シンジはいたわしげに声を出すが、彼女は動じない。

「はい。もう、やめます。でも、これだけは聞いてください」

 そう言って、マユミはシンジに向き直ると、微かに声を震わせながら続けた。

「これからは、シンジさんの望む通り、いくらでも賭け試合をしてください。そして、貧しくて頼る者のない、気の毒な方達を、一人でも多く喜ばせてあげてください……」

 言った彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

「ごめんなさい」

 驚いたシンジの耳に、マユミの嗚咽混じりの言葉が届いた。

「私、あなたの妻なのに、お気持ちをちっとも分かってあげられなくて……。本当なら、私だけはあなたの味方でなければならなかったのに」

「夫婦なのに……。あなたの…優しさを…つらさを…知っていたのに……私……私……」

「本当に、ごめんなさい………」

 それ以上の言葉は、嗚咽で掻き消されてしまう。

 手で口元を押さえながら泣き続けるマユミを見ていると、シンジは先程までの怒りの感情も、仕官を諦めざるを得なかった空しさも忘れてしまう。

 空しさを忘れ、優しさを取り戻した表情で優しく抱き締める。

 彼女にそこまで言ってもらえれば、それだけで良いと心から思えた。

「いいんだ。もう、いいんだよ、マユミ。僕はマユミに、そこまで言ってもらえれば、十分だから。だから、もう泣かないで……」

 優しく彼女を抱き締めながら言うシンジに、マユミは強く抱きつきながら、なかなか泣きやまずに嗚咽を続ける。

 そんな二人の様子を、ケンスケは感じ入ったように見ていた。

 その目には、感動すら浮かんでいる。

 この場に紙と絵筆を持って来ていなかった事を、猛烈に後悔していた。

 こんなに美しい夫婦愛の姿など、もう、二度とお目にかかれないかも知れないと言うのに。

 だが、反面では邪魔するのも悪いと理性では分かっていた。

 そんな時に、怒りの混じった呻き声が足下から聞こえて来る。

「……………」

 こう言う無粋な奴も、出て行く口実にぐらいは役に立つものだ。

 ケンスケは、無言で足下で呻いているゲンドウの襟首を掴むと、そのまま外へと連れ出していってしまう。

 シンジもマユミも、お互いを労り合うように抱き合っていて、その事には気付いていない。

 気付いたのは、二騎の馬が足音も高く駆けていくのが聞こえてからだった。






 ケンスケ達が宿から去ってから暫くが過ぎ、マユミがようやく落ち着いたのを確認すると、シンジは出立する事にした。

 既に、妻が殆どの片づけを終えていたため、支度には時間はかからなかった。

 草履を履いている二人を、宿の主人の夫婦がジッと見守っている。

 そんな所に、ミサトがぶらっと姿を見せた。

 どこか吹っ切れたような、さっぱりとしたような顔をしている。

「あ………あのね」

 そう言って二人の所まで来ると、ミサトはまごついたように逡巡するが、すぐに気持ちを切り替えたのか、にこっと笑顔になった。

「ご新造さん(いわゆる奥さんの事)。これ……よければ、持ってってくんないかな」

 そう言って、懐から古びた薬袋を、キョトンとした表情のマユミに渡す。

「草蛙にくわれた時とかに付けるといいのよ。煙草の灰なんだけどさ。唾で練って付けると、良く効くのよ。つまんないもんだけどさ……よかったら」

「いいえ、嬉しいです。どうも、ありがとう」

 そう言って、マユミは嬉しそうに袋を受け取った。

 そんな様子に目を細めながら、ミサトはマユミの耳元に口を寄せると、シンジに聞こえないように小声で続けた。

「旦那さん、離しちゃ駄目よん? あんないい人、いないんだからさ。あんた達、これからは苦労した分だけ、たくさん幸せにならないといけないんだからね?」

 初対面の時の印象が信じられないほど酷く優しい声で、そう言った。

「はい。でも、私はもう、十分幸せですよ」

 ミサトの優しい言葉にマユミは頷くが、惚気を返すのは忘れていない。

「あはは、参りました」

 苦笑しながら、ミサトは降参したように言った。

「それでは、僕達はこれで」

「薬をどうも、ありがとうございます」

「二度と会う事無いだろけど、お幸せにね」

 立ち上がった二人が宿を出るのを見送りながら、ミサトは、丁寧に挨拶してきたシンジとマユミを満面の笑顔で送り出した。

 優しい、どこか儚い笑顔が、二人の心に印象強く残った。





「本当に、幸せになんのよ……」

 二人の姿が見えなくなると、ミサトは表情を引き締めて、宿の裏に出る。

「じゃ、行きますか」

「ええ、準備も完了していますしね」

 そう声をかけた視線の先には、いつもの微笑を浮かべたカヲルが立っている。

 これから待ち受ける事柄を考えて、ミサトは先程の笑顔が思い出せないほど、能面のような冷ややかな表情となった。







 そんなミサトの事を知らず、シンジ達は陽光をいっぱいに浴びている河を渡っていた。

 人足達が担いでいる輦台に乗って、二人は数日前までの増水が信じられないほどの穏やかさを見せている河を眺めている。

 マユミは、そっと隣に目を向けて、まだ少し元気のないシンジを心配そうに見ていた。

「……ったく、こんな立派な先生を袖にするなんてよう…」

 人足達も気にしていたのか、一人が口を開き始めると、次々に相槌が続く。

「ここの殿様……すげえとか言われてるけど、実は鯉のぼりの鯉なんじゃねえのか?」

「どういうこったい、それは?」

「見かけは立派でも、中身は空っぽってな」

「まあまあ、そう言わずに」

 トウジへの不満を口にする人足達を、シンジは苦笑混じりで止めた。

「ここの殿様は、立派な良い殿様だよ。僕も、ここなら務まると思ったんだけどね……」

 少し残念そうな響きが、河に吸い込まれていった。









 さて、それから少しばかり経った頃。

 トウジは城の庭に立っていた。

 彼が睨み付ける先には、ゲンドウが無駄に傲然とした姿で立っている。

 だが、メガネは歪んでレンズがひび割れ、顔が変形した上に鼻と口は、固まった血で黒い染みが点々とついているため、どこか滑稽である。

 後ろには、ケンスケが立っていた。



 トウジの機嫌は、先日以上に悪い。

 先程まで、ゲンドウの無駄に長い愚痴を延々と聞かされれば、不愉快を通り越すのも無理はないだろう。

 その上、人数を揃えてシンジ達を捕縛する事の許可を、ゲンドウは求めてきたのだった。

 藩の家老に暴力を振るったのが、その理由だと言う。

 散々にシンジを侮辱し、殴られるどころか斬り捨てられても怒れないような自分の発言については、見事なまでに口を噤んでいる。

 脅しをかけておいたケンスケは喋らないだろうと、自信すら持っていた。



「……それでや、ケンスケ」

 ゲンドウの要求に耳を貸さず、トウジはケンスケに向かって口を開く。

「そこでセンセの嫁はんは、大切な事は、何をしたかだけやなくて、何のためにしたのか、何をもたらしたのかをも見んといかんと、言うたんやな?」

「はい」

 ケンスケは頷いた。

「確かに、そう言われました。そして、あなたのような……」

 そう言って、ゲンドウに視線を向ける。

「木偶の坊には分かるまい、と」

「そうか……」

 トウジは、満足げに何度も頷いた。

 ケンスケの報告から、シンジの妻が出来た女性であるとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。

 センセは幸せもんやのう。

 そんな事を思いながら、ゲンドウに向き直って、

「で、その言葉を、お前は何と聞いた?」

 そう、言葉の端に、ある意味を込めて聞く。

「くだらん、の一言ですな」

 だが、返って来たのは、傲慢な一言だけだった。

 どうやら、完璧に理解されなかったらしい。

「くだらんやと?」

 トウジの目が、スッと細まる。

 普段が大らかな彼にしては、珍しい表情だ。

 それほどの顔になるのが、どう言う意味を持つのか。

 少し考えてみれば分かりそうなものだが、生憎とゲンドウは気付かない。

 今の彼には、トウジの表情の変化よりも自分の怒りをぶち撒ける方が重要だった。

「そうですとも。事実を口にされたから、怒って拙者に手を挙げたのでしょう。賭け試合などして日銭を稼ぐ、痩せ浪人の典型的な手口ですな。そんな事も棚に上げて、ぬけぬけと言うとは、呆れたものです」

 他人に完全に責任を被せ、ゲンドウは言い放った。

「ふん」

 戯言をあっさりと聞き流し、トウジは冷たい口調で問い返す。

「ワシが今から、指南役にするためにセンセ達を連れ戻して来いっちゅうたら、どうするつもりや?」

「戯れ事ですな」

「戯れ事やと?」

「殿も、賭け試合をした以上、やむを得ぬと言った筈です」

「おのれは、耳どころか頭の中身まで腐っとるようやのう?」

 トウジは冷たい怒りを抑えながら、鳩尾で蠢く声で言った。

「センセの嫁はんが、木偶の坊呼ばわりする訳や。ワシはそもそも、断れって言った覚えは無いで。何で賭け試合をしたのか、聞いて来い。理由の如何によっては断るかもしれん。そう言うたはずや」

「救いようのない奴やとは思うとったが、ここまでとは思わなんだで」

 最後の一言には、トウジのゲンドウに対する最終的な通告も多分に含まれていた。

 言葉に含められた物の剣呑さに、ゲンドウが反応する暇を与えずにトウジが指を鳴らすと、複数の足音が背後から聞こえて来る。

「?」

 ゲンドウが振り返ると、棒を持った若い家臣達が何人か、彼らを取り囲んでいた。

「貴様ら、何の真似だ!?」

 反射的にゲンドウは、威圧的な声で一喝する。

 気の弱い者なら、腰を抜かしかねないだろうが、誰も気にした風はない。

 自分の威圧が通じない事に焦ったゲンドウは、思わずトウジの方に向き直る。

「殿、これはいった……ぐっ!?」

 焦った声は、ケンスケがゲンドウの鳩尾にぶち込んだ拳で打ち消されてしまう。

 武術の腕に自信が無いと言っても、油断している相手に当身を入れるぐらいの腕はあった。

「〜〜〜っ!?」

 たまらず倒れたゲンドウの口を、ケンスケは猿ぐつわで縛り、喋れないようにしてしまう。

 素早くケンスケが離れると、取り囲んだ男達は、一斉にゲンドウに向かって六尺棒を振り下ろした。

 庭に、骨の叩き折られる不気味な音が響き渡る。

「……!? 〜!!!」

 両手足をへし折られ、あまりの激痛にゲンドウは芋虫のようにもがきながら、声にならない叫びをあげた。

 そんな彼の様子に構わず、家臣達は持っていた縄で折れた手足を縛り上げてしまう。

 完全に身動きが出来なくなったのを確認すると、家臣達はトウジに一礼して、またどこかに走って行く。

「残念やで、六分儀。まだ望みがあるようやったら、命だけは助けて、こっから追放程度にしといたろうと思うとったんやがのう」

 去っていく家臣達の姿を横目で見ながら言うトウジの言葉に、ゲンドウはピクリと動きを止める。

「六分儀ゲンドウ。証拠も何もかも、上がっとるで。お前が、賭け試合に応じた道場主どもを焚き付けてセンセを殺させようとした事も、ワシに隠れて私腹を肥やし取った事も……そして」

 瞬間、剣呑だったトウジの顔に凄まじいまでの迫力が宿った。

 殺意まで混じった怒りの表情で、一気に言い放つ。

「十五年前に、家老の葛城春之進と家臣の加持リョウジを殺した事もな。全部、ばれとるんや」

 その言葉に、ゲンドウの目が大きく見開かれた。

 思ってもいなかった言葉に、全身から脂っぽい汗が噴き出してくる。

 何事か言おうと必死で呻くが、猿ぐつわで阻まれて、意味不明の唸り声にしか聞こえない。

「何や言いたそうやがのう。言い逃れは出来んで。何せ、証人がおるさかいのう……」

 そう言って、トウジは背後に怒鳴る。

「ナルシス・ホモ!」

「殿……こんな時ぐらい、本名で呼んでくださいよ」

 苦笑しながら、トウジの背後からカヲルが姿を現す。

 そして、

「!?」

 カヲルの隣から、ゲンドウに向かって歩いてきた人物を見て、驚愕の叫びがあがった。



「久しぶりよねえ。六分儀」

 ミサトが奇妙なまでに無表情な、能面を思わせる表情で言う。

「驚いたとこ見ると、あたしが死んでるものとばっか思ってたのねえ?」

 楽しげに言いながら、倒れているゲンドウの傍らに跪いた。

「残念だけどさ、そう簡単に死ねると思う? 父さんと加持の目の前で嬲りものにされてさ。あんた達、あたしを犬にまで犯らせたわよねえ? 父さん達を殺して、あたしを売り飛ばして……」

 静かな口調が、逆に冷たい怒りをよく現している。

 聞いているだけで、痛みを感じる。

 それほどの鋭さと冷たさを持った声だ。

 とっくの昔に死んでいたと思っていたミサトが、復讐のために現れたと言うぐらい、ゲンドウにも分かっていた。

 彼女が自分をどうするかを考えて、滑稽なほどに震え出す。

「あらら、やあねえ。そんなに震えなくてもいいじゃない。そんなに、酷い真似はしないわよ」

 くすくす笑いながら、ミサトはゲンドウの着物の帯を外すと、手早く下半身だけ裸にした。

 下帯まで脱がすと、醜悪な姿をした、萎びた一物も姿を見せる。

「何、縮んでんのよ? あたしが目の前にいるってのにさ。昔は、嫌がるあたしを無理矢理犯ったってのに」

 そう言って、ミサトはゲンドウの萎びたモノを手で包むと、手慣れた手つきで弄り出す。

 生きていく上で、身に付いてしまった技術だ。

 巧みな動きに、ゲンドウの男根はすぐに大きくなり始めるが、それを見て彼女の顔に皮肉な笑みが浮かぶ。

「あらら……今から考えたら、あんたの物って、貧相だったのね。全然じゃない?」

 毒を含んだ口調で、ミサトは嘲った。

 鉱山に売られた時、毎日のようにミサトを性欲の処理に使った男達や、夜鷹に身を落とした時に客として迎えた者達。

 数限りない男達に抱かれてきたミサトの記憶でも、最も貧弱な部類に入るものだった。

「碇だったっけ? あんたが嫌ってた若い子ね。あの子、あんたなんか、足下にも及ばないぐらいの立派なもんだったわよ? 奥さんも幸せでしょうねえ。あんな男前で優しくて、立派なモノ持ってる人にされてるんだからさ」

 嘲るために言っているが、見たのは本当の話である。

 ミサトがシンジの裸身を見たのは、偶然だった。

 客を取って早朝帰った時、井戸の端で体を洗っていたシンジの裸身を偶然見たのである。

 ほっそりとしているのに逞しく、股間には想像もつかないほど猛々しいモノを備えていたシンジの裸身を見て、ミサトは柄にもなく赤面したものだ。

「………………」

 男なら言われたくない侮辱に、ゲンドウは憎悪のこもった視線をミサトに向けるが、生憎と苦痛と恐怖に塗れながらでは通じるものも通じない。

「ミサト殿、これを」

 そんな所に、カヲルが大工道具を収めた箱みたいな物を持って来た。

 ミサトの傍らに置いて蓋を開けると、ゲンドウは目眩を感じそうになる。

 最初に中から取り出したのは、女性達が同性愛の時に使う、男根を模した金属製の張り型のような物だった。

 ただ、形状が凶悪だ。

 太く長く、拳を握った子供の腕ほどもある。

 そして、先端以外の全体に鈍く光沢を放つ、金属の棘が取り付けられていた。

「ねえ?」

 嫌な笑顔を浮かべたミサトは、どこか悪戯っぽい声でゲンドウに話しかける。

「覚えてる? あんたがあたしを犯した時の事。あんた、嫌がるあたしにさ、前戯もせずに突っ込んだわよねえ? 面倒だからって、濡れてもいないあそこに、油を塗って」

 くすくす笑いながら、ミサトは張り型をゲンドウに見せる。

 あらかじめ油が塗られていたのか、黒い張り型はヌメヌメと輝いている。

「だからさ、あんたも大丈夫だと思うのよ。今から、試してあげるわね」




 それから、ゆっくり数えて二千を数える間、ゲンドウは声と力の限り叫んだ。

 猿ぐつわで締め付けられた口から、くぐもった絶叫が庭中に木霊していく。

 それまで、とトウジが止めに入って、ようやくミサトが立ち上がった時、彼女の両手は血で真っ赤に濡れていた。

 見下ろすと、ゲンドウの下半身は無惨な状態になっている。

 後ろの穴は、ザクロが弾けたように肉が大きく弾け、ポッカリとした空洞になってしまっている。

 派手に流れ出した、血と汚物の悪臭も酷かった。

 前の方も悲惨だ。

 箱に入っていた紙ヤスリで丹念に扱かれ、ゲンドウのただでさえ貧弱だった一物は、血塗れの肉の切れ端がぶら下がっているようにしか見えない。

 凄惨な復讐を遂げたミサトを後ろに下がらせると、トウジはケンスケに命じて、ゲンドウの猿ぐつわを外させた。

 この臆病者は、この期に及んでも、自殺する勇気もないだろうと睨んでいるのである。

 実際、その予想は当たっていた。

 噴き出した鼻血と、声も枯れんばかりに絶叫したため、喉からも出血し、顔中を血塗れにしているゲンドウは、弱々しく口を開く。

「これで、貴様もお終いだ……」


 配下の者が公儀に、家老を惨殺したトウジの話を耳に入れれば、ただでは済まない。

 そんな意味合いを込めた言葉を投げつけるが、そんな言い草も鼻で笑い飛ばし、トウジは言い放った。

「終わりなのは、お前の方やで、六分儀。もう、お前の仲間の道場主も、その手先の奴らも、全員捕まえてあるんでな」

「……っ!?」

 激痛と恐怖で濁った頭に、一つの考えが閃く。

 小心な臆病者故に恵まれた、鋭い思考能力が僅かに回復し、全てのあらましを正確に捉えたのである。

 今となっては、全てが遅過ぎるのだが。

「そうか…貴様、最初から………」

 ゲンドウは呻きながら言うが、トウジには最早、ゲンドウと会話を続けるつもりは毛ほども無かった。

「連れてけや。こいつの後始末は、他の所でや」

 そう言って、どこかに行っていた家臣達を呼び戻すと、彼らに命じてゲンドウを引き摺らせて行く。

「後悔させてやる………。絶対に貴様を後悔させてやるからな……」

 聞いただけで災いを受けそうなほど、地の底から這い出て来るような声がトウジにぶつけられる。

 最早、望みの無いゲンドウに出来る事はそれしかなかったが、そんな呪詛も虚しく空気に消えて行くだけだ。

「……ふん。後悔やと?」

 引き摺られて行くゲンドウに視線すら向けず、背中越しにトウジは呟いた。

「ワシが後悔してるのはな。今の今まで、おんどれら腐れ外道を生かしとった事だけや」

 引き摺られて行くゲンドウが最後に耳にした言葉は、半ば自分自身にすら吐き捨てるような言葉だった。







「で、これからどうするんや?」

 連行されたゲンドウの事を頭の隅から追い出したトウジは、ミサトに目を向ける。

「出来れば、尼になろうかと思ってるんです。もう、まともな生き方は出来そうにないですから」

 そう言って寂しそうに笑うミサトに、トウジは胸に痛みを覚えた。

 誰かが正確にゲンドウの事を見抜いていれば、彼女や彼女の家族が、そしてこれまで領内で同じような目に遭って来た者達の悲劇は起きなかっただろう。

 その責任の一端は、自分や自分の父にもある。

 家臣や領民達が平穏に暮らせるよう、人を見定めるのは領主の務めだ。

 それが出来なかったために、ここまでの事が起きてしまった。

 思えば思うほど、胸が締め付けられる。


「……これから、幸せになるっちゅうのは、出来んのか?」

 罪悪感のあまり、思わず言ってしまった後で、自分に嫌悪感を感じてしまう。

 自分の罪悪感を薄めるために口にしてしまった事を、トウジは嫌と言うほど自覚してしまったからだ。

「お心遣いは嬉しいんですけど……」

 そんなトウジの表情を見て、ミサトは困ったように微笑む。

 彼の内心の葛藤を正確に読み取れたが、その顔に責める様子は見られない。

「多分、幸せになれるあたしは、あの時に死んだから……。復讐するためだけに生きてきたあたしには、もう……」

「そうか……」

 だが、返って来た言葉は、やはり変わらなかった。

 聞いて、トウジは納得した訳ではないが、頷く事しか出来ないのも分かっていた。

 ミサトのために出来るのは、希望を叶えてやる事ぐらいしかない。


「……それにね」

「?」

 だが、ミサトにはもう少しだけ言う事があるようだ。

「ホントはあたし、復讐が叶ったら、死ぬつもりだったんです。生きていても、仕方ないからって。たとえ返り討ちにあっても、それでいいって……」

 でもね、と続ける。

「あの二人に会って、死ぬのはやめる事にしたんです。辛くても生きていれば、あんな人達に会えるんだなって思わせてくれたから……。幸せにならないと駄目な人……ううん、幸せになって欲しくなる人がいるって思えたから。だから……」

「これからは、父さんと…加持を弔うだけじゃなくて……あの二人の幸せを願って生きていく事にします」

 そう言ったミサトの顔は、とても晴れやかなものだった。

 トウジは、ふむ……と頷く。

 ミサトが、僅かなりとも希望を持って生きていける事に内心で安堵する。

 また一つシンジ達に感謝する事が増えたなと思いつつ、トウジは口を開いた。


「分かった。寺の方は、ワシが事情のよう分かっとるのを紹介したるわ。あいつらの方も、責任持って始末しといたる」



 トウジは、ミサトがゲンドウに復讐するのを許したものの、息の根を止める事自体は禁じていたのである。

 誰もが仇討ちを認めるだろうが、トウジはミサトに言った。

 あんたが、手を汚すほどの値打ちは無い、と。

 そして、仇討ちで死なせるちうな情けはかけるべきでない、と。

 奴らには、武士の面目など無い、徹底的な屈辱に満ちた死がふさわしい、とも言った。

 彼の説得に、ミサトがあっさりと応じたのが不思議だったが、シンジとマユミの影響がここにも働いたのかもしれない。

 そう思い、トウジは一人で頷く。






「じゃあ、センセを迎えに行かんとのう。下らんお家騒動で迷惑をかけたさかい、謝らんと……」

 全てが終わったようで、これから大事な仕事が待っている。

 ミサトを別室に案内させた後、トウジはぼやくが、その顔に大変そうな表情は無い。

「ケンスケ、ナルシス・ホモ! 馬引いて来い!」

「ハッ!」

 言われたケンスケとカヲルも、先程までのゲンドウへ向けていた冷ややかな表情と違い、顔を輝かせて駆け出している。

 先ほどまでの嫌な仕事に比べれば、これから待っている仕事は大変でも、はるかに楽しいと思えたからだ。




 三人が城から弾丸のように飛び出たのは、それからすぐの事だった。








 この後、ミサトは希望通り出家して尼となり 生涯、父と許嫁の霊を弔い続けたと言われている。




 六分儀ゲンドウと、野田、畑倉、笠原の道場主達。

 その道場主の手駒の弟子達は、残らず捕らえられて処罰された。

 苛烈な拷問を伴う尋問で、洗いざらいを白状させられた結果は、悲惨の一言だった。

 家老と家老の娘の許嫁を殺害し、家老の娘を手込めにして売り飛ばす。

 それだけでも、死罪どころの話ではない。

 その後も、ゲンドウが私腹を肥やす課程で、殺人などを重ねていたのである。

 前代未聞の犯罪に対して、トウジが下した処罰は厳しい物だった。



 藩に対しての背信行為として下された罰は、以下の通り。

 まず、荷担した弟子達は残らず打ち首にされて、首を晒された。 

 ゲンドウと道場主達も、表向きは打ち首に晒し首とされているが、実際は違ったようだ。


 諸説入り乱れているため、どのような刑罰を受けたかは今となっては定かではないが、最も信頼性のある資料のものでも、凄惨の一言に尽きる。


 それによると、先ずは切り開いた尻の穴に、中身が空洞の鉄筒を突っ込み、餌を与えずに飢えたネズミ達を、そこから突っ込んだと言う。

 ネズミ達を入れ終えると、筒に蓋をし、蓋を火で炙った。

 炙られて、逃げ出したネズミ達は必死で筒を走り抜け、彼らの内臓に到達し、少しでも逃れようと体内を食い荒らして行った。

 体内を食い荒される苦しみに絶叫する彼らだったが、刑はそれだけで終わらなかったらしい。

 説によると、首から上だけを箱で保護され、下は血に飢えた野犬達の餌にされたのである。

 犬が獲物を仕留めるやり方は意外と残酷で、大概の獲物はなかなか止めを刺してもらえない。

 そんな野犬の群れに襲われたゲンドウ達は意識を失えないまま、長い時間をかけてゆっくりとずたずたにされ、生きながら体を内と外から食い散らかされた。

 ようやく彼らの心臓が止まった時、死体は人間だった時の原型を止めていなかった。

 その上で、打ち首にして晒されたのであるが、その苦悶に満ちた顔を見れば、彼らがどんな事をされた後に殺されたのが分かったと言う。



 武士に許された名誉ある死に方である切腹なども一切許されず、全員がお家お取り潰しと言う厳しい処罰まで追加されていた。

 だが、現在まで残っている資料を散見してみても、その処罰に対して抗議を行った者は、ほとんどいなかったようである。

 逆に祝いをした者までいたと言うから、相当な憎まれようだ。

 それほどまでに、六分儀ゲンドウとその一派は、藩内に悪い影響を及ぼしていたらしい。

 同情する者がいないだけでなく、喜ぶ者が大半を占めると言うのは、ある意味で哀れなまでの憎まれぶりと言えよう。

 この時の事件について、後世で幾人もの歴史家が意見を述べているが、その後に続く事については、全員が一致の見解を示している。

 すなわち、この事によって、藩主・鈴原トウジの支配体制が確立された、と。


















 自分達が、そんな生臭い事件に巻き込まれていたとは露とも知らず、シンジとマユミは澄み渡るような青空の広がる下、峠の道をのんびりと進んでいた。





 そんな彼らに追いつくべく、トウジ達の馬は素晴らしい速度で夫婦の進んだ道を走って行く。





 峠を歩くマユミの足取りは軽いが、シンジの方は、まだ少し重い。

 少し、シンジより先に歩いていたマユミは、道端に咲き誇る花々の美しさに見惚れた。

 嬉しそうに眺めていた彼女は、登って来たシンジに微笑みかける。

「……不思議な話ですね」

「?」

 ようやく追いついたシンジは、マユミにそう言われて、キョトンとなった。

「シンジさんは、これだけ立派な腕をお持ちなのに、花を咲かせる事が出来ないなんて、不思議な巡り合わせです……。でも……私、それでもいいと思うんです」

 そう言って、花が咲き誇るかのような笑顔を浮かべる。

「他人を押し退けたりせず、他人の席を奪わず、貧しいけれど真実な人達が困っているのを見れば、喜びや望みを与える……。そんなシンジさんは立派ですもの」

「マユミ……」

「覚えていますか? 私達が初めて出会った時の事……」

 言われて、シンジは頷いた。

 彼女と出会ってから、過ごして来た大切な日々の事は忘れる事など出来ない。

「あの時、他人も自分も嫌いで……。何もかも嫌だった頃、シンジさんだけが優しくしてくれて……。あなただけは微笑んでくれて」

「………」

「あの時、思ったんです。生きていくのも、良いものなんだなって」

「私もシンジさんみたいに、頑張ろうって。そうしたら、嫌な私から、好きになれる私に変われるかもしれないからって」

 そこまで言って、マユミは恥ずかしいのか、顔を伏せて頬を赤らめた。

「私が好きになったのは、そんな優しいシンジさんですから……だから……」

「あなたが考えている以上に、私……幸せなんですよ?」

 そう顔を赤らめたまま、マユミに告白されたシンジは、愕然となってしまう。



 ああ、僕は馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、完璧なまでの馬鹿者だ、とシンジは思った。

 マユミを幸せにしたいと願い続けて来たのに、肝心な事に気付いていなかったのだ。

 夫婦なのに、彼女の事を分かろうとしていなかった。

 何を考えていたのだろう、と自分を殴りつけたくなる。

 ずっと自分の良いところを見続けていてくれたマユミに、申し訳ない気分だった。



「あの…その……」

 マユミへの愛おしさが募って、シンジは彼女に手を伸ばしかけるが、寸前で止める。

「一汗かいてくるよ」

 代わりにそう言って、シンジは荷物を置くと林の中に消えていった。



 林の中、マユミの姿が見えなくなる所まで歩いてきたシンジは、音も無く刀を抜いた。

 そのまま、居合と剣術の型を繰り返して行くが、以前とはまるで違う。

 何かに追いつめられるかのような鋭さは、そこには無い。

 鋭さそのものは失われていないのに、穏やかで、とても柔らかなのだ。

 シンジの表情も、まるで微笑むかのように柔和な表情になっている。

 木の間から差し込む光が当たって、剣が時折、光り輝く。

 悟りを得たシンジの剣は、林の中で目立たず、消え去らず、光が舞うかのような姿を見せていた。



 そうして、一頻り型を終えると、シンジは再び刀を鞘に収めてマユミの元へと歩き出す。



 戻ってみると、手近な石に腰を下ろしていたマユミは、澄み渡った青空をボーッと眺めている。

 そこへ、さっぱりとした、憑き物が落ちたような表情のシンジが現れた。

 夫が戻って来た事に気付くと、マユミは立ち上がって、微笑みと共に迎えてくれる。

「さ、行こうか。もう、未練も嫌な物も、全て斬って捨てて来たよ。だから、マユミも元気を出してくれる?」

 そう言われて、マユミは悪戯っぽい顔になった。

「あら、私は元気ですよ? シンジさんが元気なら、私はいつでも元気ですから」

「そうなんだ?」

 澄ました顔で言う妻に、シンジも思わず笑ってしまう。

 二人は、お互いに微笑み合うと、連れ添って再び歩き始めた。





 二人が微笑み合っている間も、トウジ達はひたすら馬を走らせる。

 シンジとマユミが自分の足で歩いている以上、馬に乗っている自分達なら必ず追いつける。

 トウジは二人へ、どう詫びるか考えながら、馬を急がせた。




 追いかけられている二人の方は、峠を登り終えて、眼下に海が開けている場所に出ていた。

 大海原が一面に広がり、良い具合に涼しい潮風が吹き上げてくる。

 海と山の、美しい自然の風景に、シンジは微笑んだ。

「凄いなあ。素晴らしいよ、これは。なんて美しいんだろう……」

「ええ。本当に、綺麗ですね……」

「体中が震えそうだよ……」

 沖の小島に、波が寄せては白く砕け散る様をシンジは眺める。

 美しい風景に魅せられている夫に、マユミはそっと身を寄せた。

 シンジも気付いて、彼女の肩に優しく手を回して抱き寄せる。

 お互いへの優しさと愛情を心地良く感じながら、二人は身を寄せ合っていく。





 そんな風に寄り添う二人を、周囲の自然は祝福するかのように、優しく包み込むのだった。





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