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雨あがる

改訂版

by.六面球



その五




 それから数日後の事である。

 城の庭に設けられた、広々としている試合場を前にして、トウジは先日のごとく広縁に腰掛けている。

 顔には、何かを楽しみに待っている、子供みたいな表情が浮かんでいる。

 その後ろには、家老などの主立った家臣達が並んで座っていた。

 試合場の左右にも家臣達が居並んで、静かだが、どこか緊張を孕んだ空気を漂わせている。






 だが、基本的にせっかちな性分のトウジである。

 待ち望んでいる光景が一向に始まらない事に苛々し始め、知らず知らずのうちに声に出してしまう。

「何で、始まらんのや? もう、ええ加減、陽も高いで」

 イライラした口調のトウジの言葉に口を開いたのは、後ろに控えていたゲンドウだ。

「実は、本日の試合に出るはずの町道場の師範三名が、未だ参りませぬ故」

「はあ? 試合をするのは、その三人だけと違うやろが」

「勿論、当藩の者を二名、用意してございます」

 その程度、当然だろうと言いたげにゲンドウは冷笑するように唇を歪めて言うが、これは薮蛇だった。

 ただでさえ苛ついていたトウジの怒りに、油を注ぎ込込んでしまう。

「アホか、おのれは! それやったら、そいつらから始めれば、ええだけの話やろうが!! ええから、もう始めさせ!」

 人を嘲る暇あったら、無駄な時間を使わせるなと激怒しながら、トウジは始まりを宣言する。


 その声を聞いて、すぐに試合場の右手の方から、鉢巻をきりりと締め、試合装束に身を包んだ若い侍が木刀を片手に出て来た。

 左手からは、いつもの格好のシンジが飄々とした足取りで、木刀を下げて出て来る。

 二人は、静かにトウジの前に出てくると一礼して、再び距離を取って相対した。


「黒川と申します。お手柔らかに」

 精悍そのものの表情で黒川と名乗る若侍が言うが、シンジはいつものごとく、穏やかそのものの表情である。

「碇シンジです。よろしく」

 そう言って、静かに頭を下げた。

 あまりの覇気の無さ具合に、鍋山は口元が綻ぶのを押さえるのを、なかなか隠せない。

 楽勝気分を強めながら、木刀を青眼に構えた。


 対するシンジの方は、ふらりと力を抜いて立っているようにしか見えない。

 木刀も、右手に下げているだけだ。

 緊張した面持ちで試合を見ている家臣の者達の中にも、あまりに覇気の無いシンジの姿に、笑い声を立てる者もいる。

 彼らにとっては、間抜けそのものにしか見えないのだろう。


『どいつもこいつも、目が節穴やのう。センセの凄さが、見えんのかい』


 家臣達の見る目の無さを、トウジは心の中で吐き捨てると、瞬きすら惜しむようにシンジを見つめていた。

 元来が活発で、暇さえあれば武芸の稽古をしていたトウジである。

 達人とまではいかないが、それなりの実力も見る目も持ち合わせているのだ。

 シンジの姿が、のんびり立っているように見えてその実、打ち込む隙が全く無い事を見て取っていた。



 それに気づかない黒川は、じりじりとシンジに間合いを詰めていくと一気に勝負を付けるべく、苛烈な一撃を食らわせた。

 誰もが、その一撃でシンジが打ち倒される様を想像したが、現実はそうはいかない。

 動く気配すら見えない、ほんの僅かの動作で、彼の木刀はあっさりと捌かれてしまう。

「くっ!?」

 思ってもいなかったシンジの動きに苛立ちつつも、横殴りの一撃でシンジに木刀を叩きつけようとする。

 だが、

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」

 叩きつけようとした木刀は、シンジが軽く振った一撃に迎え撃たれてしまった。

 力強さの欠片もないような、軽い一撃。

 カツンッと、軽く響くような音のする叩き方だ。

 それなのに、黒川は腰から崩されて膝から崩れ落ちた上、手に握り締めていた木刀をあっさりと叩き落とされてしまった。


「!!」


 あまりの光景に、冷笑混じりにシンジを見ていた者達は絶句してしまう。

 黒川自身も、暫し呆然としていたが、我に返ると

「参った!!」

 そう、潔く敗北を認める。

 シンジの実力を、はっきりと思い知ったのだろう。

 木刀を叩き落として、すぐにでも彼に一撃を与えられる余裕が、シンジにはあったのだ。

 その上、木刀を持っていた手だけでなく、足腰まで痺れてしまい、立ち上がる事もままならない。

 子供でも出来そうな一撃に見えて、それがどれほどの力を内包していたのか、如実に分かる影響だ。

 軽く当てて、これほどの衝撃なのだから、本気で打たれていたら死んでいたかもしれない。

 自分が相手にした人間が、そこまで練り上げた技の持ち主であった事に気付き、内心で冷や汗をかいている。

 だが、そんな彼にかかってくる言葉は、想像の範囲外にあるものだ。


「……あの…大丈夫ですか? 出来るだけ、怪我しないように打ったつもりなんですが」


 やたらと心配そうな声で、シンジは尋ねて来る。

 顔を見上げると、本気で心配している顔だ。

 勝った高揚感より、何か悪い事をしたような、罪悪感の方が色濃い。

「……大丈夫です」

 試合に勝った者とも思えない、シンジの気遣いに満ちた言葉に、何となく黒川は奇妙な気分になってしまう。

 ホッとしたようで、何か面白くない、おかしな気分だ。

 内心の複雑さを示すように奇異な表情のまま、黒川はトウジの方に頭を下げた。

 そうして、木刀を拾って、そそくさと下がっていく。


「次や、次!」


 騒然としている家臣達の不甲斐なさを心の中で嘆きつつ、トウジが号令をかけた。

 その声を待っていたかのように、すぐに中年の壮漢が出てくる。

「影山と申す!」

 気合いに満ちた声を張り上げるが、シンジの方は落ち着いたものだ。

「よろしく」

 のほほんとした笑顔のシンジを笑う者は、もういない。

 水を打ったかのように静まり返っている試合場の中で、影山は木刀を振り上げるが、シンジは相変わらず気にした風もない。

 まるで、戦うと言う事を理解すらしていないかのようだ。

 不気味なまでの静かさに、先程の光景が脳裏に蘇ったのだろう。

 うかつに撃ち込めない影山は、少しでも隙を探そうと、じりじりと足を運びながら、間合いを少しずつ詰めていく。

 そんな彼の姿に、シンジはすたすた、飄々とした足取りで近づいていく。

 散歩でもしているかのような、気楽な足取り。

 何か不気味な物を感じ、慌てて後ろに下がって間合いを離そうとするが、シンジは気にした風もなく、さら近づいて来る。

「ぬ……」

 このままでは、次第に追い込まれてジリ貧になってしまう。

 そう考えた影山は覚悟を決めると、一気に間合いを詰めて袈裟懸けを食らわそうと、木刀を振り上げた。

 だが、

「!?」

 シンジの方へ飛び込みながら木刀を振り上げた瞬間、彼の姿が、視界から消え去る。

 そして、

「うわ!?」

 次の瞬間、目の前に木刀の先が突き出されていた。

 全身が悲鳴を上げながら動きを制止し、何とか止まってくれる。

 見ると、シンジが突き出した木刀は、ちょうど彼のすぐ目の前で止まっていた。

 あと僅かでも、止まるのが遅ければ、影山の鼻は陥没して、目も当てられない状態となっていただろう。

「参った!」

 一歩も動けなくなった影山は、慌てて負けを認める。

 彼が止まる位置すら計算して、シンジは木刀を突き出したのを見抜いたのだ。

 そんな事まで出来る相手に勝てると思うほど、自惚れてはいなかった。





「よっしゃ、次や次!」

 どよめく一同を後目に、トウジが言うが、脇に控えていたケンスケが首を振る。

「それなんですが、町道場の師範達が、まだ到着していません」

「ふん、どうせ、そいつら逃げよったに決まっとるわい。待っとっても、しゃあないからケンスケ、お前、センセの相手をしてこい」

 トウジの無茶な要求に、ケンスケは苦笑を浮かべた。

「無茶を言わないでくださいよ。碇殿の腕前に比べたら、俺の腕前なんて、足下にも及ばないんですから」

「ほおか、じゃあ、しゃあない。他には、誰かおらんか?」

 幼馴染のケンスケも、トウジに付き合わされて稽古を積んでいるため、それなりの技量は持っているが、シンジの相手をするには足りない。

 それが分かっているため、トウジは周囲を見回すが、誰も名乗りを上げようとはしない。

 ゲンドウの長年の悪政のおかげで、骨のある家臣は皆、閑職に追われてしまった。

 その悪影響の一端が、ここにも現れている。

 先ほどの黒川も影山も、決して身分は高くない。

 武勇の腕さえあれば良いと思うほど愚かではないが、上に立つ者にはそれなりの気骨があるべきだ。

 そう言う考えの持ち主であるトウジは、心が苛立つのを抑えられない。

 暫く待ってみたが、それでも名乗りがあがらないのに、遂に我慢の限界に達してしまう。

 そのまま苛立った表情を隠さず、いきなり立ち上がった。

「なんや、なんや! どいつもこいつも、臆病風に吹かれよってからに。よっしゃ、ここは一つ、ワシが出たるわい」

 一瞬、ざわめく家臣達だったが、気骨の無さがここに現れてしまう。

 止める者もいなければ、自分が代わりにと、名乗り出る者もいなかった。

「殿、何というお戯れを」

 唯一、口を出したのはゲンドウだったが、こちらは論外である。

 血の気の多いトウジを、小馬鹿にした口調だ。

 瞬間、トウジの頭にさらに血が上る。

「じゃかあしい! 一人で喧嘩も出来へん腰抜けは、黙っとれ!」

 強烈に図星な台詞が、一瞬で返って来た。

「っ?!」

 強烈な一喝を食らい、表面上は冷静を保ちつつも、ゲンドウは屈辱感に目を血走らせる。

 人を嘲り、慇懃無礼な態度を取る事は出来ても、自分がそうされる事には平静でいられないのだ。

「殿」

 怒りで顔を不気味な色に染めているゲンドウを尻目に、隣に控えていた時田が言葉を発する。

「何や? お前がやるんか?」

「滅相もございません。私にそんな腕はありませんので」

 苦笑しながら、時田は首を振る。

「殿が相手をされるとの事ですが、試合である以上、怪我は付き物です。殿に何かあった場合でも、碇殿に咎めは無い。そう明言されてからの方が宜しいかと」

「おお、それはそうや。言っとかんと、センセも気楽にやれんからのう」

 言われて、ポンとトウジは手を打った。

 先ほどから見ていて、シンジは相手に怪我をさせずに勝っているが、武術の試合はお遊戯とは違う。

 僅かな狂いで、怪我や死に繋がる事故が起こる確率は、常に存在する。

 相手が殿様である以上、それを恐れて上手く戦えないのは人情と言うやつだ。

 そうならないように、予めトウジの口から保証しておいてやれば良い。

 時田の進言は、トウジの好みにも至極、合致するものだった。

「そう言う事や、センセ。ワシが怪我しても、咎は一切無いからのう。安心してええわ」

 豪快に笑いながら言うトウジに、シンジは困ったように笑う。

 怪我をさせない自信はあるが、殿様を相手にするのは、なかなか厄介だ。

 何か上手く断ろうかと思っていたところに退路を断たれてしまい、苦笑するしかない。

「稽古の槍なんぞじゃ、面白うないからな。どうや、本身の槍を使うっちゅうのは?」

「構いませんよ」

 少し困っていたものの、試合である以上、切り替えも早い。

 えらく物騒なトウジの言葉に気にした風もなく、シンジはニッコリとした笑顔で答える。

「おう、誰か槍を持って来いや!」

「はっ!」

 シンジの答えに満足げに頷きながらのトウジの言葉に、ケンスケが走っていこうとする。

「慌てんなや、ケンスケ。本身の槍やったら、広間の長押にかかっとるさかいな」

 そう言って身支度しながら、トウジは足袋のままで庭へ降りる。

 ケンスケから槍を受け取ると鞘を取らせ、一扱きして具合を確かめた。

 手入れは怠っていないため、確かな感触が手に伝わって来る。

 具合を確かめたトウジは、堂々とした足取りでシンジの前に立つ。


 奇麗な構えだな、とシンジは思った。

 腰も奇麗に落ちており、無駄な力も入っていない。

 殿様の道楽でなく、熱心に稽古を続けていたのだろう。


「行くで!」

 気合いに満ちたトウジの言葉に、シンジは穏やかな顔で一礼を返した。

「どうぞ」

 言うが速いか、トウジは恐ろしい激しさで、槍を突き出して来る。

 本身で突き込まれているのにも関わらず、シンジは気にした風もなく、容易く槍の軌道を見切ると、最小限の動きで捌いていく。

 風の中を舞う木の葉を相手にしているかのように、トウジの槍は、シンジに掠りもしない。

 シンジは、試合場を散歩するかのように、トウジの槍を捌きながら移動していった。

「センセ、遠慮は無用やで!」

 庭にある池を背にして、逃げ切れなくなってしまい、シンジは困った事になったかな?とでも言いたげな顔になる。

 そこへトウジは猛然と槍を突き込んでいくが、シンジは気にした風も見せずに、あっさりと槍をかわすと、トウジの方に身を寄せていく。

「な……!?」

 トウジは慌てて、シンジから身を離して間合いを取ろうとするが、細い手が槍を掴んだ瞬間、ガクンッと重心が崩されてしまう。

「くくっ!」

 たたらを踏みそうになりながらも、トウジは必死に踏ん張りながら槍を引き離そうとしても、シンジは気にした風もない。

 クルッとシンジが槍を捻ると、さらにトウジはたたらを踏んでしまうが、踏んでいった方向が悪かった。

 槍に押されて、トウジがたたらを踏んだのは、池の方角だったのだ。

「お、お、お〜〜〜っ!?」

 池の縁まで来て、必死にトウジは踏ん張るが池の縁の草に滑り、もんどり打つかのように派手に落下してしまう。

 大きな水飛沫と共に、トウジの姿が池の中に消えた。

 あまりにもあまりな光景に、誰も声一つ出せない。

 溺れるほど深くない、トウジの腰までの深さも無い池であるため、すぐさま憮然とした表情で池の中で立ち上がる。

 バカ殿髷も水で萎びてしまい、泥まみれの、見るも無惨な姿になってしまっていた。

 シンジは、いち早く正気に戻ると、慌ててトウジの元に駆け寄る。

 その背後では、トウジの無様な敗北ぶりと、シンジが不興を買う事を予想したのだろう。

 ゲンドウが目に黄色っぽい光を浮かべながら、唇を歪めていやらしい笑みを浮かべていた。

「これは、とんだ粗相を。その……つい、本気になってしまいまして……大丈夫ですか? どこかお怪我は……」

 池から上がってくると、おろおろした口調で心配そうに言うシンジに対して、トウジは不機嫌そうに口を開いた。

「……センセ」

 そう言って、シンジが持っている槍を奪い取る。

「勝ったくせして、何をビクついとるんや! もうちょっと、勝ったら勝ったで、堂々とせんかい! なんや、その勝ったのが悪いみたいなビクつきかたは!?」

「は…はあ……」

 てっきり、責められるのかと思ったら、別の意味で怒られてシンジの目が丸くなった。

「ああ、もう!」

 合点のいっていないシンジに、トウジは苛ついて叫んだ。

 怒りのあまり、水で萎びていたバカ殿髷も復活し、雄々しく天へと屹立する。

「だ・か・ら! もうちょい、堂々とせい! ほら、背筋伸ばして、胸も張らんかい! ほら、早くせえ!」

「は、はい!」

 これ以上、怒らせるのも何なので、シンジは慌ててトウジの言葉に従った。

「そうそう、そやそや。そういう風にしとったらええんや」

 慌てて、シャンとした姿勢になったシンジを見て、トウジは満足げな表情になった。

「まったく、あんたはワシでも歯が立たんような名人なんや。その上、この藩の指南役に誘われてるんやで、センセ。もう少し、シャンとしとらな、あかんで」

 一矢報いたかのように、トウジはニヤリと笑う。

 それにつられて、周囲の者達にも、さざなみのように笑い声が広がっていく。

 後ろでは、トウジがシンジへの好意を消していない事に苛立つゲンドウが、血走った目で二人を見つめていたが、誰も気づいていない。

 また、そんなゲンドウを、ただ一人ケンスケだけがメガネの奥からじっと見つめている事も、この場の誰もが気づいていなかった。








 試合も終わり、夕刻になった城門から、シンジとケンスケが出て来る。

 どこか元気の無い青年を見て、ケンスケが口を開いた。

「まあまあ、お気になさらずに。殿も気にしてないみたいですから。まあ、指南役に招こうって実力の方に勝負を挑もうってのが、軽はずみなんですから。いい薬ですよ」

「ですが、僕は……」

「だからあ……」

 それでも、元気を取り戻さないシンジに、ケンスケは、ちっちっと指を振る。

「殿も言われていた通り、もっと堂々としていないと駄目ですよ。帰ったら、待ってるご妻女が心配するじゃないですか」

「はあ……」

 そう言われて、マユミの心配する顔が目に浮かんだシンジは、少し元気を取り戻した。

「では、駕篭で送らせますので」

 ようやく元気になってきたのに安心したのか、ケンスケが言うが、シンジは笑顔で首を振る。

「いいえ。ちょっと風に当たって、頭を冷やしながら帰ろうかと思いますから……。あなたには、本当にお世話になりました」

 そう言って、丁寧にお辞儀して歩き出していった。

 ケンスケはシンジを見送ると、何事か考えて、すぐに城に戻っていった。







 シンジが宿への林道に足を踏み入れると、ただでさえ低い夕日が、沈みかけるかのような低さになっていた。

 何事か考えながら歩いていたが、何かに気づいたかように足を止めると、辺りを見回す。

 すると、道の両側の林の間から、十人ほどの侍達が飛び出して、シンジを取り囲んだ。

「ほお、馬子にも衣装だな」

「どこの馬の骨とも知れない痩せ侍の分際で、藩の指南役だと? 身の程を知れ!」

 吐き捨てるように言いながら、男達は口々にシンジを罵ると、刀を抜き放つ。

 僅かに残った夕日が刃に反射されて、ギラリとした光を放った。

 だが、剥き出しの殺気をぶつけられても、シンジはキョトンとしている。

「……皆さん、いったい、何方ですか?」

 言われて、完全に忘れ去られている事に気づき、先日の道場主の一人……畑倉が、怒り狂って叫んだ。
 
「忘れたとは言わさんぞ! あの賭け勝負をな! あの時はまんまと貴様に騙されたが、今度はその手は食わん。さあ、抜け!」

「抜けっ! この乞食浪人めが!」

 そう言われて、思い出したシンジだが、それでも戦う気にはなれない。

 今の状態で応じると、苛ついているシンジには手加減出来る自信がないのだ。

「まあまあ、待ってください。賭け勝負でいただいたお金は、もう使ってしまって、手元には無いんです。申し訳ないんですが、返せと言われても……。それに、指南役の話も、そうと決まった訳ではないんですから。そんなに事を荒立てなくても………」

 胸がむかつくのを押さえ切れないのを懸命に堪えながら、シンジはなるたけ穏やかな口調で諭すように言う。

 だが、そんな言葉を聞いてくれるほど男達は甘くなかった。

「やかましい、下郎めが!!」

 シンジの言葉を遮るように一人が、いきなり斬りかかる。

 空気を切り裂くような苛烈な斬撃だったが、斬られかけた青年は、最小限の動きでそれを捌いてしまう。

「頼むから、僕に抜かせないでよ……。今日の僕は、虫の居所が最悪なんだから……。血を見ないと収まりがつきそうにないんだ……」

 いつの間にか、一人称が『僕』になっている。

 マユミの前以外では、人前で剥き出しの感情を見せる事のないシンジが、感情的になって来ている証拠である。

 絞り出すようなシンジの言葉を無視して、もう一人も斬りかかるが、こちらはさらに運が悪かった。

 容易く斬撃を捌かれ、たたらを踏んで刀から左手を外してしまった所を、シンジに右手を捕られてしまう。

 斬られないように、側面に廻ったシンジは刀を握ったままの男の手首を掴んだ。

 剣術と柔術の修練で鍛え抜かれたシンジの五指が、手首の急所に鉤爪のように食い込んで、グイッと圧迫する。

 軽く押しただけでも飛び上がるほど痛い急所を抉られる激痛に、男の口から絶叫が迸るが、それはまだ序の口だった。

 手首を固めるのと同時に、もう片方の手が、男の肘に巻き付いていたのである。

「ギャアアアア!」

 一瞬の後、骨が折られる不気味な音が辺りに鳴り響き、男は地面に投げ出された。

 持っていた刀はシンジの手に移り、その足元では肘をへし折られた男が、地面の上をのた打ち回っている。

 斬りかかってから、へし折られるまでに五つと数える暇も無い。

 仲間が助けに入る事も出来ない、早業だった。

「お願いだから、僕をそっとしておいてよ」
 
 のた打ち回る男を冷ややかに見つめながら、シンジは言い放つ。

 歯止めが完全に聞かなくなっている事が、自覚出来ていた。

 悠々と道の真ん中に、奪った刀をぶら下げたまま立つシンジを、九本の刃が取り囲むが、臆する様子すら見せない。

 そんな姿に不気味な物を感じつつも、男達は数が多いのに安心感を抱いているのか、強気な態度を崩そうとはしなかった。

「痩せ浪人の分際で、小癪な!」

「とっとと地獄へ逝け!! 貴様の女房は、我らが可愛がってやるからなあ」

「!?」

 そんな台詞を吐きながら、また一人が斬りかかる。

 台詞が耳に入った瞬間、シンジの表情が、はっきりと変わった。

 もし、それを聞いていなければ、峰打ちで済ませていただろう。

 だが、その言葉を聞いたシンジは、斬撃を捌きながら、刀を返しもせずに下から斬り上げた。

 瞬間、何か小さな物が数個、地面にボトボトと落ちると、男が持っていた刀まで地面に落ちてしまう。

「へ……? ひ…ひィィィィィ!!!!!???」

 どうして自分が刀を取り落としたのか分からず、男が手元を覗き込んだ次の瞬間、悲鳴が迸った。

 親指以外の両手の指が、第二関節から綺麗に消えて無くなっていたのである。

 シンジは、斬り上げる時に刀を持っていた指を狙ったのだった。

 切断された部分から、ようやく斬られたのに気づいたかのように、血が噴き出してくる。

 悲鳴を上げながら、地面に散らばった己の指をかき集める男に一瞥もくれようとはせずに、シンジは残った男達に視線を向ける。

 囲まれているのを、まるで気にもしていないシンジに不気味なものを感じながら、男達はあくまでも彼を殺そうとするのを止めようとはしない。

 だが、シンジの方は、数に囲まれたと言っても、無闇に恐れる事はなかった。

 師から伝授された冬月一刀流は、基本的に源流である小野派一刀流や、その分派の中西一刀流などの技法で構成されている。

 そして一刀流系統の剣術には、多数の位、もしくは八方分身の技法と呼ばれる、多人数を相手にする場合の技法が伝えられているのである。

 敵が何人であろうとも、直接に近寄って来て斬りかかれるのは八方向からの八人ぐらいであり、その八人にしても、それぞれの間合いも違えば、掛かってくる速さも違う。

 よほどの高度な集団戦闘の訓練を受けていればともかく、全員が同時に斬りかかれるというものでもないのだ。

 自分の間合いに最も近付いてくる敵を制する事を心がければ、結局は一人を相手にしているのと変わらないと、シンジは冬月に教わったのである。

 剣術における極意的な技法であるのだが、シンジがそれすら使いこなせるほどの実力の持ち主である事に気づきもしない男達は、一斉に斬りかかった。

 一人ずつでは危ないとでも思ったのか、前と後ろから同時に斬りかかる。

 だが、シンジはぎりぎりまで二人を引きつけて、瞬時に横にかわす。

 そのまま、渾身の一撃をかわされて、つんのめった男の肩に、峰で一撃を入れると骨の砕かれる不気味な感触が手に伝わってくる。

 男は悲鳴を上げながら、正面から斬りかかった男とぶつかり、そのまま倒れてしまった。

「死ねや!」

 そう叫んで、もう一人が横なぐりに斬ってくるのを、身をかがめてかわし、シンジは男の両臑に斬りつける。

 臑を一瞬で切り裂かれて転がる男を後目に、シンジは油断なく周囲を伺った。

 残るは、六人。

 そのうち半数は、既に逃げ腰になっており、切っ掛けさえあれば、すぐにでも逃げ出してしまうだろう。

 だが、道場主をしている例の三人は、未だに血走った目をしながら刀を構えていた。

 夜を迎えようとする林の中を、手傷を負った男達のうめき声が響いていく。

「もう、やめてよ……。僕と妻に手を出さないと約束してくれるなら、もう何もしないから」

 血の香りに酔いそうな自分に嫌悪を感じながら、面倒臭げにシンジは言った。

「ほざけ!!」

 このまま、はいそうですかと退いたら、彼らが弟子達から軽蔑され、次々と離反される憂き目を見るのは確実だ。

 また、ゲンドウに使えないと判断されれば、用済みとされる危険もあった。

 もはや、彼らにはシンジを殺すしか、道は残されていないのである。

 三人は一斉に斬りかかるが、シンジにしてみれば、警戒するほどのものではない。

 正面から胸板を突きに来た畑倉の一撃をかわしざまに、シンジは一撃を食らわせて、肘をへし折ってしまう。

 そのまま、野田が飛びかかって袈裟懸けに斬りかかって来るのを捌き、たたらを踏んだ所をシンジは蹴りつけた。

 蹴られてよろけた所に、運が悪い事に笠原がシンジに振り下ろそうとする刀があった。

 味方であるはずの笠原の一撃で肩口を斬り裂かれ、野田は血を吹き出しながら地面に転がる。

 敵でなく味方を斬ってしまって呆然としていた笠原は、肩口に叩き込まれたシンジの峰打ちを避ける事が出来ず、肩骨を砕かれてしまった。

 その光景を見るや、残りの三人は慌てて逃げ出していく。

 三人が逃げ去っていくのを見届けたシンジは、持っていた刀を林の草むらに投げ捨て、そのまま宿への道を歩き出した。

 まるで、帰る途中のちょっとした寄り道を終えて、そのまま帰るかのように。

 後には、呻き声を上げる愚か者ども達だけが、地面に転がっていた。







 その夜、シンジが宿へと帰る頃。

 トウジは不機嫌そうな顔をして、自室で酒を飲んでいた。

 小姓も共の者も置かず、正室のヒカリだけを側に置いている。

「どうしたの?」

 勝手知ったる口調で、ヒカリはトウジの顔を覗き込むように尋ねた。

「なんでもないわい!」

「……また癇癪を起こして。嫌なことでもあったの?」

 不機嫌そうに怒鳴るトウジを気にした風もなく、ヒカリは優しく尋ねる。

 幼馴染である彼女にかかっては、怒れる殿様も赤子扱いだ。

 頭が上がらない事を重々承知しているため、トウジは渋々と口を開く。

「実はのう……今日、庭で試合をしてな。池に叩き込まれたんや」

「ま!」

 いきなりの告白に、ヒカリの目が丸くなった。

「まあ、それはええんや。その後が問題でな。ワシを池に叩き込んだセンセが、あんまり丁重に詫びるもんやからな。思わず怒鳴りつけてしもうたんや」

「……………」

 ヒカリは、トウジの言葉をじっと聞いている。

 昔は、そばかすのあったヒカリの顔も、今ではすっかり美しい肌になっていた。

 あの頃は、後ろでお下げが二つあったんやったなあ、と昔の妻の姿を思い浮かべながら、トウジは話を続ける事にする。

「大人気無い話とは思うんやがな……。ワシ、さっきから考えてたんやが……勝負に勝った者の優しい言葉っちゅうのは、負けた者の心を傷つけるような気がするんや。ワシはあのセンセの事は、そんなに詳しく知っとる訳と違うけど、人柄の良さは、よう分かっとるつもりや。センセの人柄を、ちゃんと知っとる奴でないと、からかわれてる気がすると思うねん」

 センセ……ね。

 ここ数日、トウジが嬉しそうに話す人物の事だろうと、ヒカリは当たりをつける。

「面白そうな人ね。優しさって……時には、人の心を傷つける事もあるから……」

「そうかもしれんな。誰かて、気の毒に思われたがらんわな。自尊心っちゅうのを、傷つけられるさかいのお」

 そう言って、トウジは杯から酒を飲み干した。

「強いって言うのも大変なのね。本当に強い人は、どんなに人柄が良くても、必ず誰かの恨みを買うようになってるのかもしれない」

「ふむ……」

 妻の鋭い言葉に、トウジは、ピンと来るものがあった。

「? 待てよ……よう考えたら、センセ……仕官しても上手くいかへんとか言っとったな。…………なるほどのう、これで合点がいったで。そういう事やったんか……」

 一人で頷きながら、トウジはシンジの言葉を反芻しながら、思い出す。

 なるほど。

 確かに、どこに行っても上手くいかない訳だ。

 人柄が悪いのではなく、良すぎるために損をする。

 どこか滑稽な事柄に、トウジは少しおかしくなってしまう。

 だが同時に、シンジを指南役に迎えたいという欲求は、さらに強くなっているのを自覚していた。

 何としてでも、うちに迎え入れたい。

 武術の腕だけでなく、頭も切れる上に人柄も良い。

 家臣となってくれたら、きっと藩にとって強い力となってくれるだろう。

 有能な家臣を集める事にご執心なトウジは、何としてでもシンジを指南役にする気となっていた。




「殿」

 そんなところに、襖の向こうから声がかけられる。

「おう、遠慮はいらんで。入れや」

 トウジの言葉に、襖が静かに開けられると、そこには時田とカヲルが控えていた。

「案配の方は、どないや?」

 穏やかな気性の二人に似合わず、どちらも憮然として能面のような表情になっている。

 そんな顔を見やりながら、トウジは鋭い視線で尋ねる。

「全て、整っております。報告では、明日にでも殿の元に、例の事を告げ口に参るかと」

「ふん」

 時田の言葉にトウジは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「人任せで、どうにもならんから、今度は告げ口かいや。つくづく、自分で何も出来んやっちゃで。センセの方はどないや?」

「報告では、襲撃を撃退して宿に戻っております。宿はまだ何人か客が居るので、彼らも手は出しにくいでしょう。念のために、信頼出来る者の何人かに見張らせています」

「上出来や」

 カヲルの報告に、トウジは満足げに頷く。

「明日は忙しくなるで。いよいよ、大掃除やさかいのう」

 そう言って、トウジは男臭い笑みを浮かべた。













 シンジが宿に帰り着いた頃、マユミは部屋で行燈の下にいた。

 小机に向かって、かわいらしい造りをした手作りの帳面に、何やら書き込んでいる。

 どうやら日記をつけているようだ。

 時々、何事か思い出すように考え込みながら、書き込んでいく。

 そんな時に、土間の方から声が聞こえて来て、マユミは帳面から顔を上げた。

「お帰んなさい」

「旦那、お帰りなさい」

 女中と亭主の声から、夫が帰って来たのが分かる。

 マユミは耳を澄ませながら、不安な面持ちで日記を片づけ始めた。

 何やら、嫌な予感がしてならない。

 予感が外れている事を祈りながら、マユミは夫を待った。

 すぐに、板戸が開いてシンジが入ってくる。

「ただいま」

「お帰りなさいませ。お食事になさいますか?」

 三つ指をついて迎えてくれるマユミに、シンジは安心させるかのように微笑むが、それは逆効果だった。

 その笑顔の奥に、耐え難いほどの苦悩があるのを見抜き、マユミの顔が曇る。

「ちょっと、表で体を拭いて来たんだ」

 言われてみると、外出して来たにしては、小綺麗な顔である。

 外の井戸で、顔と体を拭いてきたのだろう。

「今日は、一つ飲みたいな」

「……………」

 酒もあまり飲まないシンジが飲みたがるのは、相当な事である。

 よほどの事が起こったのだろう。

 裃を脱ぎながら隅の日記帳を見て、シンジはふっと息を吐いた。

 息を吐きながら座る夫の様子を見て、マユミは静かに立ち上がると、そっと板戸を閉め、つっかい棒で戸が開かないようにしてしまう。

「マユミ?」

 妻の突然の行動に、シンジはキョトンとした顔になった。

 だが、マユミは再びシンジの前に座ると、静かに口を開く。

「何かあったんですね」

 その言葉に、夫の体が微かに震えた。

 ジッとマユミの目が、シンジの顔を見つめる。

「そんな事……」

 小声で否定しようとするが、彼女の静かな光をたたえた瞳で見つめられると、続けられない。

「……………本当に、何もなかったんだよ……」

 シンジは、消え入りそうな声で何とか言ってみたものの、自分でも、その言葉に説得力があるとは思えなかった。

 マユミの視線は真剣そのものだが、それはシンジを責めている類の物ではない。

 むしろ、彼を心配する優しさに満ちていた。

「………………………」

 そんな視線が、シンジには痛くてたまらない。

 思わず、うつむき加減になって視線から逃れようとするが、それが逆に彼女への後ろめたさを助長する事になってしまった。

 嘘をついてもばれるだろうし、沈黙したままでうやむやにしてくれるとも思えない。

 まして、怒って誤魔化すなどという選択を、シンジが思いつける訳もなかった。

「…………………うん」

 とうとう観念して、小さな小さな声で、シンジは自白する。

 マユミに問われて、百を数えるまで、沈黙を守り切れていない。

 とことん、妻には頭の上がらないシンジである。

「今日、試合をしたんだけど……」

「けど?」

「殿様とも試合する事になって……殿を、池に落としちゃったんだ……」

「まあ」

 シンジの告白に、マユミの目が丸くなる。

 さすがにそんな事をしたとは、想像の範囲外だったようだ。

「殿は、気にするなって言ってくれたけど……やっぱり…その……」

「でも、それだけではないんでしょう?」

 しどもどろに言うシンジの言葉に、マユミはあっさりと、そう言ってのけた。

「え?」

 ギクリとなるのを隠せないのが、シンジらしい。

「あなたがそれだけで、そんな顔になる訳がありませんから」

「僕の顔?」

 ペタリと、シンジは自分の顔に手を当てて一さすりしてみるが、別にいつもの感触しか、返って来はしなかった。

「はい」

 それでも、マユミは静かに頷いた。

「シンジさん、すごく怖がっていますから」

「怖がる……」

「仕官が駄目になったのを後悔しているんじゃなくて、何か、自分が自分でなくなりそうなのを怖がっている……そんな風に感じたんです」

「…………………」

 あまりに鋭い言葉に、思わず絶句してしまう。

「何があったのか、教えてもらえないんですか?」

 口調は優しいが、マユミの目が微かに潤んでいるのが、メガネ越しにもシンジの目に見えた。

「私達、夫婦なんですよ?」

 軽く首を傾げながら、悲しげな笑顔で続ける。

「夫婦なんですから、辛い事も悲しい事も、隠さないでください……」

「それとも……私、そんなに頼りにならないんですか?」

 悲しげに呟く妻の姿に、シンジは、今日の出来事を隠す事を断念せざるを得なかった。

 最初から、隠そうと考えたのが間違いだったと、シンジは自分の愚かさを責めたくなる。

「ごめん、マユミ……」

 そう言って謝ると、シンジは再び口を開いた。

「実は…」





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 西暦・二千四年八月十四日 第二稿脱稿