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雨あがる

改訂版

by.六面球



その一




 その日も、雨が止む気配はなかった。

 風流を感じさせるような霧雨どころか、肌を容赦無く濡らす本降りなのだが、先日までの事を思えばましと言える。

 何せ、身体に当たれば痛みすら感じるような豪雨が、連日のように続いていたのだ。

 それを考えてみれば、雨足が収まってきたとも言えなくはない。

 とは言え、比較対象は、あくまでも『ひどい土砂降り』と言うだけの話だ。

 少しばかり雨足が収まっただけでは、出歩くのに不便な事は変わりがない。

 大粒の濁った雨は、道々に建つ長屋の藁葺き屋根に、井戸端に、安宿の入り口にかけられた桶にも強く当たり、その身を弾けさせては対象物を重く濡らしていく。

 雨が何かにぶつかり弾けて行く音は、家の中で布団に包まっていても、うるさくて眠れないほどだ。

 いつだって平等とは無縁な世の中だが、今降っている雨だけは、富める者にも、貧しい者の上にも等しく降り注いでいた。





 そんな、誰もが外出を嫌がるような雨の中。

 降り頻る雨の激しさに、怯えるように揺れる木立の中を一人の男が歩んで行く。

 雨と風に晒されている砂利道はじっとりと濡れ、歩みに慣れた者でも足取りを鈍くするものだが、彼の足取りは滑らかなままだ。

 ここいらに住んでいる者ではなく、どこかの宿に泊まっているのだろう。

 少し痛みかけた番傘には、『根穂戸屋』と大きく書かれている。

 今は使い込んでいるためか、雨のせいか、番傘の文字は滲み、歪んで奇妙な模様のようになっている。

 そんな傘をさして歩いている男は、お世辞にも裕福そうな身なりとは言えない。

 来ている袴は、仕立てが良かったのだろうか、元は鮮やかな色合いをしていたのだろう事を思わせる。 

 だが、今はすっかり色が剥げ、くすんだ感じをしていた。

 良く良く見てみれば、そこかしこに繕った跡も見て取れる。

 不潔な感じこそしないが、一目で貧しい生活状況が感じ取れる姿だ。

 男は、どこかに仕官をしていたが、何らかの理由で職を失った浪人なのだろう。

 武士らしく、腰に差した大小の刀だけは、綺麗に手入れされている。

 黒鞘もしっかりしており、立派な印象を与えるが、それが余計に男のみすぼらしさを浮き上がらせていた。

 道具だけ立派で身なりが貧しいままなのだから、当然とも言えるだろう。

 どこか滑稽な印象を与える男は、雨を気にする事もなく歩みを続けて行く。

 しばらく歩き続けると木立が開け、雲と雨に遮られながらも、僅かながらに日差しに照らされる。

 男の視界には、すぐに見渡す限りの大河が広がった。

 大陸の大河からすれば小川も良いところだろうが、それでも、向こう岸が見えないほどの河幅である。

 見回しても橋の姿は無く、渡し船か、河渡しの人足の手を借りなければ渡れないほどの幅があった。

 目前を流れるその河は、連日の大雨で荒れ狂っている。

 茶褐色の濁流となった河の水は、まるで何もかも砕いて飲み込もうとするかのように荒れ狂い、土手を越して、周囲まで削り取るかのように狂奔して流れていた。

 近くの土手には、普段は河渡しを生業としているのだろう。

 がっしりとした体格をした、人足風の姿の男達が四人、嘆くような表情で河を眺めている。

 嘆くのも当然だろう。

 幾ら逞しい体躯を持つ人足達とは言え、雨で荒れ狂う河を渡れる訳も無い。

 無理をしても自殺行為が関の山だ。

 河を渡る用事のある者達も災難だろうが、彼ら人足達にとっても、災厄そのものでしかなかった。



 未だに止む事を知らない雨の中、番傘を差した浪人は人足達に方に近づいていく。

 人足達も、警戒する様子は見せない。

 ここ数日の間、河の様子を見に来た人間は数多い。

 彼も、そんな一人だと判断したのだ。

 人足達のすぐ近くで足を止めた男は、傘の下から静かな口調で話しかける。

「この様子だと、雨が止んでも……。今暫くは、河を渡れそうにないですね………………」

 体格から推測すれば大人と言える年代なのに、変声期が終わったばかりのような少年のように澄んだ声だった。

 少し線が細いが、優しさを感じさせる柔らかな言葉遣いに、良く似合っている。



 横柄さを欠片も感じさせない丁寧な口調は、雨に苛ついている人足達にも、好意的に迎えられた。

 例え苛々していても、丁寧な物腰で話しかけられれば、人は怒りを持続させて応じる事は難しいのである。

「まず、早くて六日……。ひょっとすると、十日は渡れそうにないですよ。見たところ、旦那は旅の方らしいですがね。今はどこの宿も降り込められた客で、すし詰めでしょうねえ」

 普段は荒くれな人足達も、浪人とは言え侍に丁寧な口調で話しかけられたとあって、機嫌良く言葉を返す。

「ちげえねえや。今じゃあ、儲かるのは宿屋だけだぜ」

 一人が話し始めた途端、他の人足達も次々に言葉を発し始めた。

 誰もが、この雨で鬱屈していたものを吐き出す機会を待っていたのだ。

「この長雨で、俺達人足と来たら、ここんとこ空っ尻で……。博打ぃ打つ金もねえときたもんだ」

 だが、さすがに愚痴ばかり言っていれば、誰かが止めに入るものである。

「ぼやくなって! どんだけ雨が続いたって、俺達は建場にいるんだろ? 少なくとも、喰う心配も雨に濡れる心配もいらねえだろうが!? 宿にすし詰めになってる奴らは、どうだ? 旅の貧乏人は、この雨で路銀使い果たして、喰うや喰わずなんだぞ!?」

 次々と愚痴り始める人足達を、頭領格なのか、少し年かさの人足が嗜める。

 ぶっきらぼうな口調だが、真実を突いたその言葉に、人足達は気まずそうな表情になった。

 その中の一人に、横にいる浪人風の男も数えられる事を思い出したのである。

 好意的に思える人物に、無神経とも言える言葉をかけたのは、さすがに気まずい。

 だが、浪人は気にした風を見せない。

 神経が太いと言うより、鷹揚なのだろう。

 気を悪くした様子一つ見せず、彼等に軽く一礼すると、河に背を向けるように踵を返す。

 思わず頭を下げ返した人足達を背にして、男は元来た道を歩き始めた。

 そんな浪人を黙然と見送っていた人足達は、もう一度空を見上げるが、雨の止む気配は未だに見えて来ない。







 浪人が泊まっている宿……『根穂戸屋』は、城下町の外れから、さらに外れた場所にある。

 荒れ放題にうらぶれた姿は、幽霊屋敷と呼ばれても、誰も違和感を抱かないほどだ。

 止む事の無い雨は、いつ倒壊してもおかしくない根穂戸屋にも容赦なく降り注ぎ、木ぎれを叩く音が鳴り止もうとしない。

 そんなところへ、先ほどの男が帰って来た。

 戸口のところでボロボロになりかけた番傘を畳むと、ようやく、その下から浪人の顔が姿を見せる。

 年齢の割りに、幼い容貌だ。

 少年と言っても違和感が無いような、奇妙なあどけなさを持つ青年だった。

 中性的で人形のように端正な顔立ちは、晴れた日に町を歩けば、若い娘どころか、年増女から幼い幼女にまで熱い視線を向けられそうなほどである。

 色白で細面なのと、あまり大柄でないため、少し化粧を施せば女性と名乗っても疑われないだろう。

 濡れ闇色の、少しほつれた髪にも雨が滴り、頬に降りかかる。

 過酷な旅の暮らしのためか、それとも浪人生活の貧乏暮らしからか。

 青年のほっそりとした身体からは、贅肉や無駄肉の類は一切、削ぎ落とされている。

 貧しい身なりに、やせ細った身体。

 なのに、どこか優美な印象を与える青年だった。

 色の薄まった着物には、斜めに切られた植物の葉の下に、梵字を書いたような絵柄の家紋が、少し剥げかけた姿を見せている。

 あまり類を見ない家紋だ。

 こんなおかしな家紋を付けているのは、うちぐらいだろうな、とシンジは思うことがある。

 碇シンジ。

 それが、この浪人生活を続けている青年の名だった。





 傘を畳むと、シンジは立て付けの悪い入り口を開いて、宿に足を踏み入れる。

 長逗留しているため、既に勝手知ったる感じだ。

 元は豪農の家を改造して宿に仕立てたらしく、中の造りも、それに準じている。

 入ると、湿った臭気を放つ土間の独特の香りが、シンジを出迎えた。

 強い湿気を含んだ土間から板の間に上がると、炉のある大きな部屋がある。

 土間の片方の壁には、自炊できるようにへっついも並んでいるが、宿の人間の姿は殆ど見えない。

 根穂戸屋は、寝起きする場所を提供される以外は、全て自分で行わなければならない、最安値の木賃宿なのである。

 裏へ抜ける土間を挟んで、建て増ししたらしい小部屋が三つ、狭い廊下を前に並んでいた。

 シンジが連れと共に泊まっているのも、そこである。



 薪代以外は、余計な金の要らない木賃宿である。

 当然、金のない旅人が利用するのも、こんな場所だ。

 それに加えて、連日の雨が次から次へと予定外の旅人を飲み込み、根穂戸屋は大盛況となっていた。

 今、シンジが帰ってきてみても、その状況は、いささかも変わっていない。



 広いとは言えない板の間だが、足の踏み場を見つけるのが困難なほど、人に占領されてしまっている。

 その姿から想像できる職種は、様々だ。

 飴売りもいれば、縁日に店を出す商人、旅芸人に巡礼者までいる。

 一目見ただけでは識別しきれないほど、雑多な商売に身をやつした老若男女の姿がシンジの目に映った。

 共通点と言えば、どれも細々とした生活をしているのが見て取れる程度だ。

 そんな彼らで板の間が占拠されている上に、彼等の連れなのだろう。

 何人もの子供達が、てんでバラバラな仕草で狭い部屋に陣取ったり、走り回ったりしている。

 連日の雨で足止めされ、子供達も、生命力を持て余しているのだ。

 子供達の元気の良い姿を尻目にして、狭い板の間の上で、人々は思い思いの位置に陣取り、横になったり、がやがやと話をしたりしている。

 その頭上にも土間の上にも縄が何本も張り渡され、洗濯物が所狭しと干されている。

 外に洗濯物を干せないため、狭い面積を有効利用しているのだが、長雨の影響のためか、どれも湿ったままの姿で重くぶら下がっている。

 洗濯物が含む水気に、長雨による湿気、宿の人々から発する熱気で、宿の中は息が詰まりそうなほどのむさ苦しさだった。



 そんな、ここ数日間で見慣れた光景を眺めながら、漂う熱気に顔を僅かに顰めつつ、シンジは土間へと足を踏み入れる。

 足下を子供が二人、素っ裸で駆け抜けていった。

 どんな状況でも、子供の元気さだけは衰えていない。



「こら! 裸で飛び回るんじゃねえ!!」

 狭い宿中に響きわたるような大声に、シンジは視線を向けた。

 蒸し暑いところに、ドタバタ走り回られるのが不快だったのだろう。

 不精髭で体格の良い男が、子供達を怒鳴りつけたのだった。

 だが、それは逆効果どころか、関係のないところにまで飛び火してしまう。

「何、言ってんだい!!」

 先ほどより、さらに大きな声が響き渡った。

 思わず、シンジが視線を向け直してみると、今度は土間で洗濯をしていた女が、男に怒鳴り返したのだった。

「あたしら、一張羅だよ!! 着てる物洗濯したら、裸でいるよか仕方ないじゃないか!!」

 叫び返した女は、大年増をとっくの昔に通り過ぎた年代の、でっぷりと恰幅の良い姿をしている。

 横幅も凄く、体格の逞しさでは、男にも劣らない。

 殴り合いになっても、ひけは取らないだろう。

 だが、世の中はバランスが取れるように上手く出来ているものである。

 そんな、血の気が上りまくるような状況を取りなすかのように、力の無い笑い声が割ってはいる。

「ハハハ。人間、裸が一番いいんだよ」

 各地を巡礼して歩いているのだろう。

 お遍路姿の老人が、喧嘩を取り成しにかかった。

「人間、誰でも生まれた時には、裸だからねえ」

 怒鳴られたり、変に宥められていれば、逆効果だっただろうが、年寄りに穏やかに言われると、なかなかの効果がある。

 さすがに老人の、それもお遍路に怒鳴る訳にもいかず、女は何か言いたそうに口の中をもごもごと動かすだけだ。

 穏やかな笑みを浮かべながら、諭すかのように自分を見ているお遍路の表情を見ていて、これ以上怒鳴り散らすのも馬鹿馬鹿しいと思い至ったのだろう。

 女はお遍路に背を向けると、鼻を鳴らして、乱暴に洗濯物を引っ叩く。

「…ったく! いつまでたっても、乾きゃしない……。一体全体、お天道様は、何処へ行っちまったんだろうねえ! この雨、何時になったら止むんだか」

「いずれ、止みますよ」

 お遍路とは違う、穏やかな声が背中越しに聞こえた。

 女が振り向くと、そこにはシンジが柔らかな笑みを浮かべていた。

 見ているだけで引き込まれそうな、邪気の無い笑顔だ。

 先ほどまで怒鳴っていたのも忘れ、女は素直に聞いてしまう。

「これまで降ってきた雨は、どれも止みましたからね。死ぬまで降っている雨の話なんて、聞いた事無いでしょう?」

 何て言うことはない言葉だ。

 ある意味で陳腐とも言えるが、先ほどまで喧嘩していた二人は、どこか胸の支えが取れるような気分になるのを感じた。


「違えねえ! ハハハ……こいつはいいや!」


 青年の言葉は、他の宿の客にも飛び火していた。

 シンジの言葉を受けて、飴売りが太鼓を叩きながら、愉快がる。

 こうなると、喧嘩しようと言う雰囲気は、宿から奇麗に消えうせていた。

 上手い具合に介入してくれた飴売りの男にも笑顔で一礼すると、シンジは小部屋に通じる廊下に上がる。

 もう、自分がいなくても喧嘩は起きないと判断しての事だ。

 くたびれた身なりとは裏腹に、滑らかな足取りのシンジを見送ったお遍路は、しみじみとした表情になる。

 隣に座った飴売りの男に話しかける口調も、どこか感慨深げだ。

「あのお侍さんは、いいねえ。腰が低くて、何時もニコニコして、お侍の嫌なところが一つもないってんだから、こいつぁ、こてえられねえや」

「違いねえ」

 飴売りの男は、お遍路に同意するかのように、太鼓をまた叩いた。

 湿った空気なのに、どこか軽快な太鼓の音を背にして、シンジは一番奥の小部屋に到着する。

 板戸を開けて中に入ると、そこが彼と連れの宿泊している部屋だった。



 中は三畳ほどの狭い部屋だが、一応は畳が敷かれている。

 長雨の影響か、壁にも湿気のせいで水滴が付いているが、一応は雨露を凌げている。

 戸が開いて、シンジの帰宅に気付いた妻のマユミは、膝の上の縫い物を片寄せると、両手をついて迎えてくれた。

「お帰りなさいませ」

 小さいが、優しい、どこか芯の強さを感じさせる声だ。

「河を見て来たんだけど……。まだ、当分は渡れそうにないよ」

 妻の出迎えに笑顔で頷きながら、シンジは残念そうに言う。

 立ったまま、シンジは彼の足袋を繕ってくれているマユミを、改めて見つめてみる。

 夫同様、どこかあどけなさを残した、少し小柄な女性だ。

 濡れ闇色の黒髪を、結わずに背中の辺りまで伸ばしているので、少し身動きする度に微かに揺れている。

 前髪は、眉毛の辺りで綺麗に切り揃えて顔立ちが良く見えるため、不健康な感じはしない。

 小さな頃は、あまり外に出歩かなかったのだろう。

 旅続きの現在でも、血管が透けて見えそうなほどの色白な肌のままだった。

 まろやかさと穏やかさが同居した顔立ちは、まるで京人形のように整いつつも、女性的な柔らかさを少しも損なっていない。

 少しぽってりとした唇も、口元の左下にある特徴的な小さなホクロも、妙に色っぽい。

 この時代には珍しい、メガネの奥に位置する優しそうな瞳は、どこか強い好奇心を感じさせる。

 それが、彼女を少し幼く見せるのだと、シンジはかつて言われた事がある。

 少し潤んだような彼女の目で見詰められると、今でも胸が高鳴るのを止められないシンジには、実感の湧かない話だったが。

 そんな、シンジにとって何物にも代え難いほど大切な妻の姿は、少しやつれていた。

 買って何年にもなる着物は、どこか色が抜け落ちているし、所々に繕いの跡も見える。

 茶色に煤けた障子からの淡い光の元でも、彼女の痩せ具合は良く分かった。

 柔らかな丸みを帯びていた肩は、今では少し尖り、ふっくらとしていた頬も、僅かにこけ始めている。

 元々が白く細い指が、さらに細くなりかけているのまで、容易に見て取れた。

 大事な妻の痛々しいまでの姿を見ても、シンジには己の不甲斐なさを責める以外にないのが、ひどくもどかしい。

「ごめん…。苦労ばかりかけて…」

 そんな陳腐な言葉しか口から出て来ず、思わず項垂れてしまう。

 夫の苦しげな謝罪の言葉を聞いて、マユミは微かに笑みを浮かべると、何も言わずに首を振った。

 夫を慰めるためだけに首を振ったのではない。

 実際、彼女の方は、シンジが思っているより不幸せだとは思っていないのだ。

 貧乏暮らしだが、二人で穏やかに過ごせるのは、決して悪い境遇だと思っていない。

 そう思っているのだが、それが夫に伝わっていないのが、マユミにはもどかしい。

 少し引っ込み思案な所のある彼女は、自分の気持ちを伝えるのが少々、苦手なのだった。

 マユミは、自分の思いが伝わり切っていない事を感じ取り、僅かに悲しげな表情を見せる。

 それを見て、ますますシンジが申し訳無さそうな表情にならないよう、彼女は夫の視線から逃れるように立ち上がった。

 下から夫の顔を見上げると、安心させるように笑顔を浮かべる。

「お疲れでしょう? お茶でも入れますね」

 そう言って、宿の物らしい粗末な茶道具を持って、板戸を開けて出て行こうとする。

 だが、

「泥棒がいるのよ!! ここには、泥棒が!」

 大きな、あけすけな女の喚き声が響き渡って、彼女の考えを妨害してくれた。

 少し気の弱いマユミは、ビクッと身体を震わせて、立ち竦んでしまう。

 どこか子犬を思わせるような瞳に、少し怯えの表情が走る。

 妻を安心させるように、肩に手を置きながら、シンジも外を覗き込む。






 自炊用の釜戸の前に、日陰の商売に身をやつしているのだろう。

 腰まで黒髪を伸ばし、けばけばしいまでの厚化粧をした女がいる。

 年の頃は、三十前後。

 十代前半で結婚し、何人も子供を生むのが常識なこの時代では、大年増と呼ばれる年代だ。

 厚化粧に似合わないほど整った顔立ちをしているので、笑顔を浮かべればそれなりに愛嬌を感じる事も出来るだろう。

 だが、刺々しい声で喚かれている今、そんな想像をするのは極めて困難だ。

「人様の炊きかけの飯を盗むとは、良い度胸してるわよねえ! ちょっと裏で洗い物をしてる間になんてさ、あたしはね、鍋にちゃ〜んと印を付けといたんだからね!」

 その声に対する反応は、哀れなまでに少ない。

 もう、慣れっこになっているのか、板の間にたむろしている者達は、女から目をそらして、黙り込んでいる。

 相手にするだけ無駄だと、割り切ってしまっているのだ。


「また、あの人か…」

 女の喚き散らす声を聞き、シンジは穏やかな表情に、微量の苦味を浮かべる。

 そうして、足を踏み出そうとするが、

「あなた……」

 マユミに縋り付かれるようにされて、部屋に引き戻された。

 彼の膂力からすれば、少女のようなマユミに縋り付かれても、振り払うのは容易だ。

 しかし、彼の頭の中に妻を振り払うと言う選択肢など、まず存在しない。

 そのため、素直に部屋へ引き込まれてしまう。


 二人が部屋に消えても、声が消える訳ではない。

 夫婦の姿が消えると同時に、今度はの隣の二つの部屋の板戸が少し開いた。

 中にいた泊り客達が、何事かと様子を見に外を覗き込む。


「正直に言いなさいよ! あたしの飯を盗んだのは、誰なのか。泥棒は、誰よ!?」


 割れ金のような女の声を遮るかのように、マユミは板戸を閉めた。

 戸を閉めても女の喚き声は、完全には遮れていない。


「あんた? それとも、あんたなの!?」


「幾らなんでも、あれは……あんまりすぎるよ………。本当にそうだとしても、あれは……ひど過ぎる」

 未だに鳴り止まない女の金切り声を背にしながら、シンジが呟く。


「黙ってたって無駄だからね! あたしには、分かるんだから」


 そんな夫の言葉に、マユミは黙って首を横へ振った。

 怒鳴り声に怯えて身を竦めると言うより、何かに耐えるように縮こまった姿で、悲しげな表情を浮かべる。

「それは、そうなんですけど…」

 眉が下がり、今にも泣き出しそうな表情だ。

 それでも何か言いたげな妻の様子に、シンジは黙って彼女の前に座ると、静かな表情で見詰める。


「皆さん……あの方に、もう少し……ほんの少しでも良いんです。ほんの少しでも親切にして上げれば……少しでも普通に話しかければ……あんな風に、意味も無く怒る事なんてしません……」

 そう言って、先ほどよりも強く目を潤ませる。

 放っておけば、すぐにも涙が零れ落ちてしまいそうだ。

「あの方は、ただ……除け者にされるのが寂しいんだと思うんです。でも、みんなから除け者にされて……軽蔑されて……それが悲しくて、口惜しいから……つい、あんな風に………」

 目元を拭い、つかえつかえ言う彼女の悲しげな表情は、それだけが理由ではないだろうと、シンジは思う。

 そこまで分かっているのに、行動に移せない自分の気の弱さが、引っ込み思案が許せないのだろう。

 彼の妻は、そう言う優しさを持つ女性なのだ。

 そんなマユミの肩に手を置いて、慰めるようにシンジは優しい仕草で撫でてやる。

 どこか幼子を慰めるような仕草に、マユミは少しだけ顔を上げると、僅かに表情を緩める。

 目元は少し赤いが、もう涙は出ていない。

 少しは元に戻ったマユミに、青年は何かを言いたそうにするが、途中で止めた。

 そのまま立ち上がると、彼女が止める隙を与えず、するりと部屋から抜け出して行く。


「なんとか言いなさいよ! そこの爺さん……しらばくれたって、駄目だからね! あたしのこの目はね、節穴じゃないんだよ。あんたが盗んだって事ぐらい、初めかっら分かってるんだから! 何とか言いなさいったら!」


 外では、まだ女は喚き続けていた。

 疲れを知らないかのように怒りを撒き散らしている女の元に、シンジは穏やかな面持ちで近づいて行く。

「あなた……」

 部屋から、マユミが引き止めようとするかのように顔を出すが、シンジは振り向くと、大丈夫だとでも言うように微笑んだ。

 その顔を見て、何も言えなくなったマユミが立ち止まるのを見ると、そのまま女の元に足を進める。

 土間に降り立つと、シンジは裸足のままで、喚き散らしている女に駆け寄った。

「やめて………おやめください」

 そう言って女の前に立つと、シンジは幼子を宥めるかのように、優しい表情を浮かべる。

「ここには、そんな事をするような悪い人はいませんよ。それは、あなたも……良くご存じでしょう?」

 普通なら、そこで矛を収めるかもしれない。

 だが、そんなシンジの言葉も、今の女には効果が薄かった。

 矛を収めるどころか、逆に鬼のような白い目でシンジを睨み付けてくる。


「ほっといてよ! ここはねえ、お武家さまの出る幕じゃないんだからさ。このミサト姐さんはね、今でこそ卑しい稼業をやっちゃいますけど、元は葛城って立派な家の出なんですからね。他人に物を盗られて、黙ってるような、弱い人間じゃあ……」


「そうでしょうね。勿論、そうだと思います。でも、ここは……何でしたら、僕が償いますから、一つ……どうか……」

 睨み付けられても、シンジは怯む様子一つ見せない。

 この程度の事には慣れているのもあったし、何としてでも宥めたいからでもある。

 だが、ミサトと言う名の女は、なかなか強情な性質の持ち主だった。



「あたしはねえ、何もそんなつもりで……。別に、物が惜しくて言ってるんじゃ、ないんだからね!!」


 そう、なおも言い募る。


 憤怒の表情を崩さないミサトの顔を、シンジは、ほんの少しの間だけ見詰めた。

 良く見てみると、厚化粧の下には、元々は陽気そうな顔立ちが隠れていた。

 柔らかい笑顔が似合うだろう、整った顔立ちだ。

 武家の娘だったと言う話も、嘘ではないかもしれない。

 荒んだ生活が気品を削り取っていったのだろうが、注意して見れば、所作の端々から元の育ちの良さが見て取れた。
 
 ミサトが武家の娘だったと言うなら、マユミの言葉にも頷ける。

 何らかの理由で家を失い、荒んだ生活を送ってきたのだろう。

 その理由と、荒んだ生活が、今の彼女を形作ってきたのかも知れない。



 シンジは、妻の目利きの良さに改めて感心しつつ、素早く頭の中で考えを巡らせた。

 ミサトだけでなく、この宿に泊まっている者達は皆、苛立ちが頂点に達しかけている。

 鬱屈した気持ちを抱えているのは、彼女だけではないのだ。

 長雨で外に出られないだけでなく、この宿に足止めを食らっている者で、懐に余裕のある者など、一人もいない。

 シンジにしても、妻が苦心しながら遣り繰りしてくれているので、ほんの少しは持ち合わせがあるものの、それでも余裕が無いのは同じ事だった。



 このままでは、事あるごとにシンジが説得しようとも、その内に血を見ずには収まらないような事態になるかもしれない。

 状況を収めるには、何か、心に余裕を持たせるような事が必要だった。

 だが、悲しい事に、ここは人が暮らす世の中である。

 何か余裕を持とうと思えば、先立つ物が必ずいる。

 堂々巡りになる話だが、打破するための心当たりが、シンジには一つだけあった。

 あまり誉められる手段ではないが、何とか出来るだけのものが。


 しかし、『それ』が出来ない理由が、彼にはあった。

 妻から、お願いだから止めてくれと、頼み込まれていたのである。

 シンジは、これまで私欲から『それ』をした事は無いが、マユミの懇願を無下には出来なかった。

 彼女が悲しげな顔をしながら頼み込んで来るのを、シンジに断る事など出来る訳もなかったからだ。

 しかし、今は妻への約束を曲げてでも、やるべきなのではないか? とシンジは思っている。

 そうでなければ、今日明日にも血の雨が降るだろう。

 マユミとの約束も大事だが、シンジはそんな光景を見たくは無かった。



『この宿の人達のため……………。……………ごめん、マユミ……』



 決意を固めたシンジは、心の中で妻に詫びる。

 少しでも逡巡していれば、決意が鈍り、妻との約束を優先してしまうだろう。

 それが嫌と言うほど分かっているから、すぐさま行動に移す。

 シンジはミサトに黙礼すると、上がり口に置いてあった自分の下駄を履いた。

 先ほど入り口の柱にかけて置いた番傘を再び手に取り、ミサトの喚き声を聞きつけたのだろう。

 奥の方から、何事かと言いたそうな表情で出てきた宿の亭主と女房に、

「これを、また借りるよ」

 そう言って、下駄を突っかけるようにして、出て行く。

 その間、シンジは奥の方から彼を見ているマユミに振り向こうとは、決してしなかった。

 一度でも振り返ってしまえば、決意が鈍るのが分かっていたからだ。


「シンジさん………」


 立ち竦んだように佇むマユミの悲しげな呟きは、ほんの少しだけ、彼女の周囲の空気を震わせて消えていく。

 夫が何をしようとしているかは、痛いほど分かっている。

 だが、シンジの心中が分かるだけに、止める事は出来ない。

 何も出来ない自分が、彼女にはただただ悲しかった。







 青年が外出してから、大分時間が経過するが、未だに帰って来る様子は無い。

 出て行ったのは昼を過ぎた頃だが、夕刻はとっくに過ぎた。

 既に夜となっているが、帰宅する気配は無い。

 窓辺には燈心が揺れているが、外では相変わらずの雨足だ。

 外から休み無く聞こえてくる音が、降り止む気配のない雨の存在を、しつこいぐらいに伝えて来ていた。

 板の間の柱には、掛け行燈が一つだけ存在し、乏しい薄明かりに照らされた板の間には、相変わらず宿の客達がすし詰め状態になっている。

 皆、重苦しいまでに静かだ。

 昼間の騒ぎで、僅かに残っていた元気も無くなったのか、黙り込んでしまっている。

 シンジだけではなく、今はミサトの姿もない。

 客を取りに、先刻出て行ったのだ。

 あれだけ口うるさかったのに、今はミサトの不在までもが、彼等の口を重くしてしまっていた。

 暗く重苦しい沈黙は、宿の空気を痛々しいまでに冷たくしている。



 と、その時。

 立て付けの悪い戸を揺らして、色白な青年が顔を覗かせる。

 シンジが帰って来たのは、宿の者達が、その沈黙に耐えきれなくなる、その寸前だった。

 少し血の気の薄い顔をした彼の後ろには、五〜六人の若者や小僧達が、様々な荷物を持って付いて来ていた。

 ガラリと立て付けの悪い戸をいっぱいに開き、宿に入って来たシンジの後から、何人もの大荷物を抱えた者達がわらわらと入って来る。

 板の間の連中は、その様子を唖然とした様子で見詰めるばかりだ。

 そんな様子を尻目に、シンジは板の間の前まで来ると、優しい……痛々しいほど優しい、精一杯の笑顔を浮かべる。

「皆さん、すみませんが手を貸してください」

 そう言うと、後からついてきた連中に振り返った。

「さ、みんな荷物を下ろして、ここへ並べてください」

 その言葉に、板の間の連中は、後から付いてきた連中が、様々な職種の格好をしている事に気が付いた。

 魚屋の格好をしたのが、大きな盤台を二つ持って来ている。

 蓋を取って板の間に置こうとするのだが、人がすし詰めのため、置く場所が見当たらない。

 だが、魚屋が蓋を取ると、盤台の中を覗き込んだ者達が、驚いたように立ち上がって後ずさった。

 空いた隙間に、これ幸いと盤台が置かれる。

 その中に大小、様々な魚がぎっしりと詰まっているのが、板の間の全員の目に入った。

 驚いている間にも、次々と荷物が運び込まれて来る。

 八百屋らしき男が背負って来た大きな籠には、様々な野菜がびっしりと詰まっているし、酒屋らしき男は五升入りの酒樽、味噌、醤油を板の間に下ろした。

 米屋は、勿論米俵。
 
 他にも、豆腐や油揚げ、種々雑多な食物が、板の間に所狭しと並べられていくのに時間はかからない。

 あまりの品数の多さに、今まで板の間に陣取っていた連中は、座る事も出来ずに総立ちとなるが、文句を言う者はいなかった。

 ただただ、目の前の光景を呆然と眺めるだけだ。

 騒ぎを聞きつけて、今度は何だとばかりに、奥から慌てて出てきた宿の亭主と女将がシンジの前に走って来る。

「旦那……旦那……こりゃ……一体、どうなすったんで?」

 目の前の光景が信じられないのか、恐る恐ると言った口調で、亭主が尋ねる。

「いえ……ただ、長雨の縁起直しをやろうと思いましてね」

 少し血色が戻った白い顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべて、シンジは答えた。

 そして、板の間で目を丸くしたままの一同に告げる。

「すみませんが皆さん、手を貸してもらえませんか? 料理人はいないんで、手料理と言う事になりますけど一つ……。さ、何もありませんけど、みんなで楽しくやりましょう」

 そう、口にした途端だった。

 宿が揺れるほどの歓声が、湧き起こる。

 当然だろう。

 鬱屈としている気分が限界の時に、いきなり風穴を開けられ、気分転換になる宴会を持ち掛けられたのだ。

 断る訳も無かった。

 騒ぎを聞きつけ、小部屋の連中まで出て来ると、驚きつつ騒ぎに加わる。

 彼らもじきに宴会に加わる事だろう。

 だが、そんな喧噪に加わらない人物が一人だけいた。

 後ろから出て来た、マユミである。

 奥の方から、彼女は悲しげな顔でシンジを見詰めて来るだけだ。

 気配に気づいて、青年は思わず視線を向けるが、マユミの方が早かった。

 彼の視線が向く一瞬だけ早く目を伏せると、部屋に素早く駆け戻って、板戸を閉めてしまう。

「マユミ………………」

 この後に控えている、妻への釈明を考えて、シンジは少し気が遠くなるのを感じた。






 それから半刻が経過すると、根穂戸屋の中は見違えるような活気に満ちていた。

 掛行燈だけでなく、追加された行燈が三つ、ところどころに置かれたため、先ほどとは比べ物にならないほど明るい光で照らされている。

 重苦しい顔ですし詰めになっていた板の間は、今では賑やかな酒の席と化していた。

 料理の皿や酒の入った徳利が人の手から別の手へと渡され、ぎゅうぎゅう詰めになった人の頭の上を忙しそうに渡り歩いて行く。

 騒ぎを拵えた張本人はと言えば、そんな喧噪の中央に座らされていた。

 四方八方からひっきりなしに差し出される杯の相手をしたり、返したりするのに多忙を極めるという、なかなかに気の休まらない境遇である。

 そんなシンジの忙しい境遇の中、賑やかさは輪をかけていく。


「ああ、駄目駄目、うちの人にお燗番させちゃあ、駄目だってば。絶対、燗の付く前に飲んじまうんだから」


 説教節の爺さんの娘なのか、年増の頃合いも大きく過ぎたような中年女が、たしなめるように言う。

 しかし、熱燗の徳利達の前に陣取った爺さんは気にも留めない。

「固ぇこと、言うなって。どうだい、ええ? こう、ずらりと肴が並んで、おっとりと杯片手になんてえのは、豪勢なもんだねえ。まるで、公方様(将軍の事)にでもなったみてえだ」

 そんな事を言いながら、爺さんはクイッと、また酒を飲み干した。

 顔が茹蛸みたいに真っ赤になっている。

 完全に出来あがっている証拠だ。

「おいおい、爺さん。あんまり気取ってると、土間へ落ちちまうぞ」

 誰かが呆れたように言うが、言った自身も酔いが回って、呂律が回っていない。


「まるで夢みてえだねえ。こんな事が年に一ぺんでもあれば、どんな苦労でも我慢してけるのに……」


 誰かがポツリと漏らした言葉だったが、その言葉自体は良く宿中に響いた。

 一瞬、場がしんとなる。

 この中の誰もが、次はいつ、こんな楽しみにありつけるか分からない事を思い出したのだ。

 だが、そんな沈黙を嫌い、旅芸人姿の男が三味線を鳴らし始めた。

 今は、現実の嘆きを持ち込む場ではない。

 そんな気持ちが一杯に入った音色が、再び陽気な声を場に戻して行く。

 いつもは、はしゃぎ回って、うるさいぐらいの子供達は不思議と大人しい。

「餓鬼ども、変に大人しいな?」
  
「みんな、喰うのに忙しいのさ」

 昼間、子供達を怒鳴りつけた男が首をひねるが、お遍路がくすくす笑いながら指摘すると、納得したかのように再び杯に口を付け始める。

 今は騒いでいても、男も怒鳴ったりはしないだろう。



 そんな明るさに満ちていた場だったが、再び静寂した状態になるのは、すぐの事だった。

 ミサトが帰って来たのである。

 どうやら、この雨で客も取れなかったのだろう。

 宿に入った彼女の顔は、血の気が失せたかのように青ざめている。

 疲れからか言葉一つ出さず、土間に立って濡れた髪を拭こうとしたミサトは、顔を見上げて口をぽかんと開いた。

 板の間の酒宴を見て、呆気に取られたかの様に彼等を見回す。

 自分が宿から出ている間に、何があったと言うのか。

 信じられない光景に、ぱくぱくと口を開閉させるだけだ。


 だが、そんな彼女にかけられた第一声は、お世辞にも好意的とは言えなかった。

「おう、帰ってきたな! この、夜鷹の腐れ女が」

 そう怒鳴ると、さっきまで酒を煽っていたため覚束無い足取りで、説教師の爺さんは立ち上がる。

 手には、料理を盛った皿の姿がある。

 ふらつきながらも、ミサトに向かって怒鳴りつける口調は、年不相応なまでに大きかった。

「さあ、こっちへ来な! てめぇの飯を返してやるから、此処へ来やがれ!」

 中風気味なのか、それとも酒のせいなのか爺さんの舌はもつれ、何を言っているのか聞き取りにくい。

 だが、言葉が分からなくても、彼の怒りの激しさは誰もが良く分かる。

 既に何本も抜け落ちた黄色い歯の隙間から、怒りのあまり掠れた声が押し出されて来るのだから、嫌でも理解出来てしまうのだ。

 酒のためか怒りのためか、ミサトを睨む目は血走り、ぎらついた光を放っていた。

 わなわなと身体を震わせながら、昼間の彼女を思わせる激しさで爺さんは喚き続ける。

「人の事、盗人だなんて抜かしやがって……。てめえこそ、何様のつもりだ? よくも、こんな年寄りの事を……。さあ、とっとと来やがれ! おら、この通り、てめえの分は喰わずに取っといたんだ。好きなだけ持ってけ!」

 だが、騒ぎはそれ以上は続かなかった。

 このままでは、再び昼間の騒ぎのぶり返しだと判断したシンジが、静かに立ちあがったのである。

 持っていた杯を板の間に置くと、人を掻き分け掻き分けして行き、二人の仲裁に入る。

「待ってください。そんな事言わないで……。人には、間違いと言うものが有りますから………」

 力強いと言うより、いささか気の弱そうな声だ。

 まるで、自分が責められているかのように、おろおろした口調で言われ、二人も思わず視線を向けてしまう。

「それに……人間はみんな……その……悲しい……悲しい生き物なんですから……。一つ……もう勘弁して……仲直りを……」

 しどろな口調で言いながら、シンジはそこまでやっと口に出す。

 板の間の爺さんと、土間にいるミサトの沿う方に手を伸ばし、おろおろと手を動かす姿はどう考えても武士には見えない。

 見ていると、何だか自分達が悪者みたいだ。

 先ほどまでの事も忘れ、爺さんとミサトは奇妙に同じ事を思い浮かべた。

 そんな二人の内心に気付かないまま、シンジは言葉を続ける。

「あ……あの……あなたも……ミサトさんも、どうぞ。何もありませんけど……さあ、皆さんと一口、一緒にやってください。ね……? 人は、みんな……その……」

 さすがに、そんな様子を見かねたのだろう。

 飴売り姿の男が、いきなり立ち上がって歌い出した。

 歌に合わせがら器用に踊り出す男に合わせて、旅芸人の男も踊り出す。

 さすがに、彼らも気になっていたのだろう。

 同じく旅芸人の女達も三味線を弾き出し、たちまち宿の中を賑やかな空気が満たしていく。

 それがとどめだった。

 無理矢理なまでの賑やかさを前にして、説教節の爺さんも、ミサトも毒気が抜かれてしまったのか、無言で板の間に座り、酒を飲みながら料理をつつき始める。

 二人の様子に安心したのか、賑やかな空気は、さらに力を増していく。

 そんな光景に安心したような表情を浮かべると、シンジは刀と膳を持って、その場からそっと抜け出した。

 これから彼には、二人以上の難敵を宥めるという、試練が待っているのである。

 待ち受けている苦労を想像して、シンジは、そっと溜息を吐いた。






 板の間の賑やかさとは裏腹に、小部屋へ続く廊下を歩くシンジの足取りは、静かなものだ。

 だが、その足取りは綺麗と言うより、何かを恐れているための静かさが見て取れる。

 泊まっている部屋の前に着くと、膳を廊下に置いたシンジは板戸の前で困ったように立ち尽くした。

 部屋の中から伝わって来る気配は静かなものだが、それだけに余計に怖い。

 もじもじと足踏みしながら、何とか適当な言い訳は無いものかと考える様は、まるで親に謝りに行くにはどうすれば良いか迷っている幼子みたいである。

 だが、そんな都合の良いものが出て来てくれるはずも無く、いつまでも立っている訳にもいかない。

 もう一度だけ溜息を吐くと、覚悟を決めるべく、シンジは板戸の前に向き直る。



「ちゃんと話せば、マユミも分かってくれるよね……。きっと、そうだよ。そうだよね? ……多分、そうだとも」

 言ってる傍から、自信が無くなっている。

「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ。逃げちゃ駄目だぞ、碇シンジ」

 覚悟が決まらないのか、口の中で何度も自分に言い聞かせている。

 ほとんど、嫌な事に向かわされる子供みたいな姿だ。

 その上、自分に言い聞かせる度に、声が少し大きくなっている事に気付いていない。

 はっきり言って、中にいる筈のマユミにも丸聞こえになってしまっていたが、必死な本人には分からない。

 既に自分の言動が全て把握されている事など、全く気付いていないシンジは板戸を少し開け、恐る恐る中を覗き込む。

 中では、行燈の側に座ったマユミが、繕い物の針仕事をしていた。

 下を向いて表情が分からないため、怖くて勇気が萎えかけるが、必死で自分を叱咤して踏み止まる。

 意を決したシンジは板戸を開けて中に入ると、刀を部屋の隅に立てかけ、廊下に置いてあった膳を持ってマユミの前に置く。

 まるで、彼女を怖がるかのような目で、シンジは下目遣いで様子を伺うが、妻は縫い物から目を上げようともしてくれない。

 言うまでもなく、妻の尻に敷かれているシンジには、とても怖い状況だった。

 もじもじしながら、シンジはマユミの前に膳を、さらにそっと押し出すと、きちんと正座してお辞儀をする。

「ごめんなさい」

 結局、言い訳より先に、完璧な謝罪が口から出てしまった。

 殆ど条件反射である。

「………………」

 その言葉に、初めてマユミは顔を上げた。

 表情は穏やかだが、メガネの奥に見える眼が完全に怒っている。

 瞬間、シンジは蛇に睨まれた蛙のようになってしまった。

「………………賭け試合をなさったんですね」

 静かな口調で、妻は呟いた。

 普段が穏やかだけに、声を荒げなくても、マユミの怒る様は本当に怖い。

 詰問するような口ぶりではないが、シンジには、下手な役人に取り調べられるより怖い気がする。

「うん………。正直に言うけど、賭け試合をしたんだ………………」

 妻の真っ直ぐな視線を受けながら、シンジは告白した。

 今も続いている宴会に用いられた食物や酒を買うための資金は、マユミが察していた通り、賭け試合だったのである。

 平たく言えば、手近な武術の道場に行って試合を持ちかけ、勝って金銭をせしめて来たのだった。

 細い見かけとは裏腹に、腕に覚えのあるシンジならではの金の稼ぎ方である。

 だが、当然の話ではあるが、食い詰めた浪人者とは言えど、やって許される事ではない。

 名誉を重んじ、武術はあくまで忠孝のためにあると説く武士の考え方でいくと、軽蔑の眼で見られ、誹りを受けても仕方のない行為なのである。

 だが、そうは言っても、シンジにも言い分はあった。

「駄目なのは、分かってるんだ。でも……どうにも、やりきれなかったんだ……。あんな事があって、みんなも困ってたし……。みんな、今どんな気持ちかと思って……その……」

「……賭け試合は、もう決してなさらないと約束してくれた筈ですよね?」

 しどろもどろに言い訳するシンジの言葉を、マユミはあっさりと遮る。

 彼女は、賭け試合をした事だけで怒っているのではないのだ。

 皆のためとは言え、約束を破って賭け試合をした。

 その事自体にも怒ってはいるが、それが全てではない。

 何よりも夫の身を心配して、ここまで怒っているのだった。



 現代に住む者からすれば想像し難い面があるが、当時の武士達の名誉を重んじるという風潮は、凄まじいものがある。

 正々堂々と言う言葉は、しばしば軽んじられるが、それも致し方ないと言えるだろう。

 当時の立ち合いや試合は、負ければ名誉を損なうだけでなく、重傷の末に不具となったり、命すら失う事もあったのだ。

 さらに、敗北して名誉を損なえば職を解かれたり、経営している道場が潰れたりするなど、惨めな破滅が大きな口を開けて歓迎してくれるのである。

 負けないために、もしくは負けても、その事が他者に漏れないように徹底的な手段が講じられるのは当然とも言えよう。

 浪人風情の道場破りともなれば、道場の者達全員で嬲り殺しにする事だって珍しくない。

 勝った相手を引き止めて宴を催し、酒や食物に毒や痺れ薬を盛って毒殺するか、無力化してから殺害するなんて事もある。

 そんな時代、腕に覚えがあろうとも、他流試合とは軽々しく行うには危険過ぎる行為であった。

 まして、金を賭けた試合である。

 ばれたら、下手をしなくてもやばい。

 この手の事にうるさい役人に嗅ぎ付けられたら、その時点で終わりである。

 今度も上手くいったから良いようなものの、勝っても負けても、死んでいた可能性は大きいのだ。

 マユミが怒るのも、当然の事と言えよう。

 もっとも、彼女が怒っている理由の大半が、武士の名誉を損なうような行いをしたからと言うより、怪我や死の危険のある行為をしたからだというのは、お似合いの夫婦と言うべきだろうか。



「あ……あのね、実は賭け試合をするつもりはなかったんだ」

「………………」

 下手な言い訳は、絶対に聞き入れてくれなさそうな妻の視線を前にして、シンジは顔中を冷や汗で濡らしながら続ける。

「実は、その……この刀を……」

 妻の言いたい事は、嫌と言うほど身に染みているシンジは、立てかけてある刀に目をやりながら言った。

「刀を質に入れて……と思ったんだ。それなら、マユミも怒らないだろうと思って。でも……生憎……街の質屋がみんな、店を閉めていて……。いや、勿論、開けてくれるように頼んだんだけど、駄目で……」

 まるで夫の浮気を見抜こうとでもするかのような妻の視線を受けながら、ぽつぽつと話を続ける。。

 実際は言った通りで、最初は賭け試合をしようかと思ったものの、妻の悲しむ顔を見たくないと言う思いが募り、質屋に行って刀を質入れする事を考えたのだった。
 
 だが、長雨でどこの質屋も早々に店を閉めていたため、シンジは当初の予定通り、賭け試合をして金を稼ぐ事になったのである。

 そう言うのだが、それでマユミが納得してくれる訳ではない。

 あくまでも視線を向けてくる彼女に、遂にシンジは進退が窮まるのを自覚した。

「その………………ごめん!!」

 最早、恥も外聞も無いとばかりに土下座までして謝る。

 畳に顔を擦り付けんばかりに妻へ土下座している姿は、はっきり言って恐ろしく情けない光景なのだが、彼にとっては必死の問題である。

 マユミに許してもらえないなど、悪夢でしかないのだ。

「ごめん。この通りだから。………お願いだから、許してよ……。もう、二度と決してしないから……。本当にしないから……。だから、どうかこれを……」

 そう言って、頭を下げたままの姿勢で、持って来ていた膳を妻の目の前まで押し出す。

「お願いだから、食べてほしいんだ。お願いだから……許してくれる証拠に……」

 もう、これ以上いくと泣きそうなほどの懇願の声だった。

 そこまで言われたら大概は許しそうなものだが、マユミがシンジに向ける視線は、未だに怒っている。

 約束しては破られているため、そう簡単に許す気は無いとでも言いたげだった。

 しかし、それも長くは続かないのが、やはり夫婦である。

 惚れた弱みには勝てない。

 土下座した格好のままで、こちらをちらちらと見上げてくるシンジの顔が、目を潤ませて許しを請う子犬のようで、もう暫くは許さないと頑張っていたマユミだったが、見ていて思わず吹き出してしまう。

「………………マユミぃ……」

 泣きそうな顔で、こちらを見上げて来る夫の姿に、これ以上苛めるのも可哀想になって来た。

 これだけ反省しているようなら、もう許しても良いだろう。

 そんな風に、自分で自分を納得させる。

 ここら辺、まだまだシンジに甘いマユミだ。

「もう、そんなに頭を下げなくて良いですよ。怒ってませんから」

 自分の甘さを自覚しつつ、小さな声で許しの言葉を口にすると、マユミは夫を安心させるかのように、持って来てくれた料理を口に運び始めた。





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