雑踏の中、碇ゲンコは一人立ちすくんだ。
ふと空を見上げると、ひとひらの雪が彼女の頭に舞い降りてきた。道理で寒いわけだ。
初雪だ。
この冬初めての雪。
だが、行き交う人々の足が止まることはない。
それどころか、一人立ち止まるゲンコを邪魔だとばかりに睨みつける者もいるくらいだ。
この小さな感動を誰とも共有できない事実に少しだけ落胆した彼女は、再び歩き出そうと前を向き、目を見開いた。
遠く離れた場所で、一人の若い男が同じように立ち止まっていたのだ。
初雪が珍しいのか、手を差し出し舞い落ちる淡い粉雪を受け止めようとまでしている。
嬉しそうに細める瞳には知性が宿り、優しげな顔立ちからは隠しようのない気品が滲んでいた。
彼が自分を見つめるゲンコに気付いた。
ゲンコが同じように初雪に足を止めているのだとわかり、彼は小さく微笑んだ。
その笑みは、まぎれもなくゲンコの知る「彼」だった。
驚き、戸惑い、懐かしさ。そして何より彼に会えた奇跡に、ゲンコは瞳を潤ませ叫んだ。
「ユイサン・・・!」
それが彼の名だった。
その呼び声に、彼がますます微笑む。この世の女性のほとんどを虜にするような、素晴らしい笑みだった。そして彼が手を振って応えた。
「やっと逢えたね、ゲンコ」
この間違った世界の真ん中で
悪夢、みたび
「・・・なに、今の」
たっぷり寝ていたはずなのに、妙な疲労感を感じながらシンジは呟いた。
やけに肌寒いなと思ったら、それは自分の汗でTシャツがびっしょり濡れているせいだと気付くまで結構な時間がかかった。
「父さ・・・いや、母さんの若い頃・・・?何で雪なんか降ってたんだろう・・・。しかも、アレ、アレが・・・母さんじゃなく、父さん?」
先ほどまで見ていた妙な映像がリアルに甦り、シンジは背中に冷たい汗がすっと下りるのを感じた。
あの映像の中のゲンコは若かった。まだ二十代だったのではないだろうか。今のようなパーマではなく、肩にまでは届かないストレートの髪は清楚かつ上品だった。身につけている服装も地味だがセンスのいい、かわいらしい印象を与えるものだった。
だがしかし、顔はやはりあの碇ゲンコなのだ・・・。
「いや・・・あれは夢だ・・・夢に決まってる・・・」
再び若かりし日のゲンコの顔が脳裏に浮かび、シンジは慌てて首を振った。
「駄目だ!思い出しちゃ駄目だ思い出しちゃ駄目だ思い出しちゃ駄目だ・・・ッ!」
顔を両手で覆い、体を丸めて呪文のように繰り返す。そうすることで、あの悪夢のような映像を頭から完全に追い払えると、シンジは信じていた。
ズゴゴゴゴー!ズピー!ギリギリギリ・・・
ミサオの部屋から聞こえてくる騒音にも等しい迷惑な鼾が、やけに心地よく感じられる早朝の出来事だった。
その日の晩、葛城家には来客があった。
ミサオの親友である赤木リツオだ。
「ようリツオ!まあま、まずは一杯やれよ」
ミサオは機嫌よくビールの缶を開けた。ミサオが機嫌がいいのは何も親友のリツオが来たからではなく、ただ単にビールをいつもより多く飲む口実が出来たからである。
「がっはっは。しかもシンジ君が夕飯からつまみまで作ってくれたんだ。いやあ、シンジ君はいいお嫁さんになるぞぉ〜」
豪快に笑うミサオがもう一本ビールを冷蔵庫から取り出した。
「ミサオ、ペースが速いな・・・」
リツオは呆れ顔で眺めているが、ミサオにつがれたビールにはしっかりと手を伸ばしている。
「赤木さん、おつまみです」
シンジが小鉢を置くと、リツオの顔が少しだけ強張った。以前ケージで自分が碇ゲンコ、つまりはシンジの母親の愛人をやっていることがバレているので気まずいのだ。
「あ、ありがとうシンジ君・・・」
必死で目を合わせまいとするリツオだったが、シンジの方はリツオに対して思う事は何もない。むしろあの「母親」と付き合えるというだけでも尊敬に値すると思っている。つまり物好きということだ。
「はっはっは。それにしても、酒と美味いつまみがあるといいな。となるとあとは綺麗どころが何人かいれば最高なんだがな。この際マコトちゃんやシゲコちゃんでも呼べばよかったかな」
「ははは。おっさん臭いなミサオは。でもそうだな・・・」
おっさん臭いなどと言いながらも同意するあたり、リツオもどうやら酔いが回ってきたようだ。よく見るとその頬は少し赤い。屋内にいることが圧倒的に多いせいか、色白なリツオは酔うとすぐ顔に出るタイプなのだ。
(以前は一応あなた方がその立場だったんですよ・・・)
胸に去来する悲しみを抑えながら、シンジはこっそりと呟いた。心の中で。
「そうだ、シンジ君。悪いんだがこれをレイに渡してくれないかな」
リツオがそう言って差し出したのは、シンジのクラスメートであり同僚でもある綾波レイのIDカードだった。
「ああ・・・これですか・・・」
受け取って、よせばいいのにカードの写真の部分を見たシンジは、かつての美少女の儚げな姿を思い出して深い深いため息をついた。
「なんだシンジ君。レイの写真見てため息なんかついて。はっは〜ん、さてはレイが本当は女の子じゃないかなと思ったんだな?俺も最初会った時はどっちかな?なあんて思ったけどさ。でもしっかり男の子なんだよなあ」
「・・・そうですか」
やはりレイの性別も変わっていたのだ。
「そうそう!この前偶然シャワー室でバッタリ出くわしたんだけどさあ、タマげちゃったよ。レイのヤツ、まだ中学生のくせに、しかもあんな細っこい身体のくせに実はかなりご立派な・・・」
「聞きたくないです!」
なまじレイが線の細い美少年だったから、もしや・・・と思ったが、その一縷の望みもバッサリと断たれた。この上もなく残酷な言葉で。
両手で耳を塞ぎ叫ぶシンジを見、リツオがさすがに眉を顰めつつミサオを咎めた。
「おいミサオ。シンジ君はまだ14歳なんだから、もう少し控えろよ」
「あっそうだった。いや〜ワリィワリィ。シンジ君って妙に大人っぽいトコあるから、つい・・・」
そりゃあんな経験をすれば一気に老け込むさ。
シンジはそう思った。
しかもあの経験をもう一度やらなくてはいけないハメになったのだ。その上今度はもっと過酷な状況、いわば難易度が上がったような世界で。
目の前にいる酔っ払い二人を諦めの混じった悲しげな表情で見やり、シンジは本日何度目かわからなくなったため息をついた。
「なあなあ碇ぃ。今日これからウチとゲーセン行かへん?新しいゲームが入ったそうやで」
「行かない」
この世界に来てよかったことの一つは、はっきりと「NO」と言えるようになったことだ。
鈴原トウコにこうも毎日熱烈に、トウコ曰く「ラブアタック」されると、はっきりと断らなかった日には、自分の身にどんなことが起きるか恐ろしすぎて想像すらできない。
それにしても、第4の使徒との戦いの後、こってりとしぼられたはずなのに、シンジもきっぱりと付き合う意思はないと伝えたというのに、鈴原トウコはタフだった。
「あんな程度でウチの愛の炎は消えへんで!」
後々トウコがそう語るのを聞いたシンジは生きた心地がしなかったという。
「じゃあお好み焼きでも食べに行かへん?ウチ、ごっつぅ美味い店知ってるねん。あんたも気に入るわ」
「行かない」
鞄に教科書類を入れると、シンジはスタスタ歩き出した。
「もう、いけずなんやから。なんでそんなに急いでるんよ?」
「用事があるんだよ。綾波の家に」
「ええ!?何々、綾波君の家に碇君が!?きゃー!一体ナニをするつもりなの!?美少年と美少年が一つ屋根の下・・・はあはあ、ままままさか、どっちが押し倒・・・」
「違うから」
いきなりトウコを押しのけ興奮気味にしゃべる相田ケンコにシンジは一際冷たい声で答えた。とりあえず鼻息を荒げながら近寄るのをやめて欲しい。ついでに垂れてきた鼻血がつくと困るからもう少し離れて欲しい。
「ほんなら、ウチも一緒に行ってええ?ほら、碇転校したばかりでこの辺のことよう知らへんやろ?よければウチが・・・」
「いらない。道はよく知ってるから」
なにしろあの使徒戦の間、第三新東京市から離れることなんか数えるほどしかなかったのだ。学校周辺なんかいわばシンジの庭だ。ついでにさっきトウコが言った「新しいゲーム」もお好み焼き屋も知っている。
「じゃ、そういうことで」
そこまで言って、シンジは駆け出した。これ以上会話したらこの二人はシンジが何を言おうとついて来そうだ。
「もう!ウチの乙女心をちっともわかってくれへんやなんて碇のアホ!でも・・・そのツンデレなところもええわぁ・・・」
「碇君、綾波君の家をよく知ってるってどういうこと!?まさか二人はもう・・・きゃあ!萌えるわ!激萌えよ!」」
相田ケンコは頭の中でシンジとレイのあらぬ姿を妄想するのに必死で、トウコに「どの辺にデレがあったのよ」とツッコむことを忘れた。
「鈴原・・・君は碇君のことが本当に好きなんだね・・・くっ」
遠くから2−Aの真面目な委員長、洞木ヒカルが目に涙を浮かべてトウコの背中を寂しげに見つめていることには、誰も気付かなかった。
綾波レイのマンションは以前と変わらない、薄暗く質素な建物だった。
住人がレイ以外いないせいか、味気ないほど静かだ。そしてそれが一層この建物をそっけなくさせている。
シンジは「綾波」と書かれた表札を見上げ、ドアのチャイムを押した。
「そういえば綾波の家のチャイムは壊れてたっけ・・・。父さ、いや、母さんももうちょっといい家に住まわせてあげればいいのに・・・」
シンジはそう言いながら綾波家のドアを軽くノックした。
「綾波、いる?碇シンジだけど」
思えば綾波レイに接するのは初めてだ。何度か学校で会ったり、軽く言葉をかわしたことはあったが、ちゃんとレイを前にして話すのはきっと戻ってきてから初めてだった。
シンジは意識的に綾波レイを避けていた。
その理由はシンジが一番よくわかっている。
レイの性別が変わったからではない。それももちろんあるが、それだけじゃない。
本当言うとシンジは、ミサトもトウジも、性別が変わってしまったことに対して思う事は(たっぷり)あるものの、それでも生きて再び目の前に現れてくれたこと、もう一度逢えたことには感謝している。
今となっては遠い昔となった出来事かもしれないが、二人が命を落とした日のことを、シンジは今でも鮮明に思い出すことができる。そして、その原因の一つは他ならぬシンジだ。
だが、レイは。
レイもまた、あの日シンジを守って命を落とした。だが、レイは再び戻ってきた。「三人目」という言葉と共に。
そして、シンジを助けてくれた。あの日、アスカの乗る弐号機が蹂躙されているのを見たシンジの心の叫びに駆けつけてくれた。あれほど妄信していたゲンドウを振り払ってまで。
あの、全ての人々が紅い海になってしまった出来事は、レイなりのやり方だった。レイはシンジの願いを叶えただけだ。結果がシンジの望んでいない世界になっただけで。
そこまで考えたところで、シンジは考えるのをやめた。
自分がこの世界に来てしまったことは、きっとレイのせいではないのだろう。何かが間違っていただけだ。そう、何かが。
悶々と考えながらも、シンジは再びドアをノックした。返事はない。業を煮やしたシンジはノブに手をかけた。綾波家のドアに鍵がかかることは稀なのだと、シンジはよく知っている。
「どうせいるんだろうな」
しかも相手は同じ男だ。別に遠慮する必要はなくなっている。
しかし、シンジはかつて体験したこの日の出来事の、非常に大事な一部分を忘れていた。
「お〜い、綾波。赤木さんに頼まれて、綾波のカー・・・ド・・・」
その瞬間、玄関の横にあるシャワー室がバアンと開いた。
中から出てきたのは、この部屋の住人だった。・・・全裸の。
「ぎゃああああああ〜!!」
綾波レイが男という性を持っていることは知っていた。知ってはいたが、理解はしていなかった。
だがこの時シンジは綾波レイが自分と同じ立派な男であることを痛いほど理解した。せざるを得なかった。
突然の悲鳴にも、レイは驚くことすらしなかった。ただ叫びながら自分のある部分一点に視線を集中させているシンジをちらりと見た後、悠然と部屋にまで向かう。
「何か用かい?」
着替えをしながら、静かにレイが口を開いた。弾かれたようにシンジが顔を上げる。
「あ・・・ご、ごめ・・・本当・・・見るつもりは全然・・・」
紛れもない本心だった。
「何か用があって来たんじゃないの?」
レイの問いは簡潔だった。裸を見られたことはちっとも気にしてはいないらしい。少女だった時も大して気にとめていなかったのだ。相手が同性ならなおのことだろう。
「あっそうだった。赤木さんから新しいネルフのカードを預かってて・・・」
「じゃあそこに置いておいてくれ」
レイはそう言って制服のシャツを着込んだ。
「用はそれだけかい?」
濃紺のズボンに足を通したレイはそう言って鞄の中に文庫本を入れた。半分ほど読んだのか、ページの真ん中辺りにしおりが挟まっているのが見える。
「あ、ああ・・・そう・・・」
「じゃあもう出ないかい?ネルフに行く時間だから」
そう言ってレイはさっさと玄関に向かった。その態度は、以前の綾波レイとほとんど変わらないものだった。
「あ、あのさ。綾波って今日確か零号機の起動実験だよね?」
「そうだけど」
「そ、その、怪我してたみたいだけど大丈夫?」
「問題ない」
「そ、その・・・怪我ってどれくらいひどかったの?」
「少し静かにしていてくれないかい」
シンジのレイとの会話の試みは30秒ほどで満たず終了した。
これ以上喋る必要はないという事実に少しほっとしたが、同時にほんの少し寂しく思った。以前のレイはもっと優しかった、最初の頃こそ冷たい態度だったが、それはどうやって他人と接したらいいのかわからなかっただけで、慣れた頃には、色んな表情を見せてくれた。
(今思えば綾波って癒し系だったな・・・。そういえば、以前綾波とよく話すようになったのって、きっかけはあの四角い使徒・・・って!あの使徒来るの今日じゃん!)
度重なる衝撃ですっかり忘れていたが、今日はかなり手ごわい使徒が来る日なのだ。
(やだなあ・・・僕あの時一回死に掛けたんだよね・・・。今度同じ目にあって、また助かるとは限らないよね・・・痛かったし)
「碇君」
(それに、あの作戦、もう一度同じことをやれと言われてもなあ・・・。成功するかどうかは運だもんね・・・。それに、終わっても綾波の笑顔が男だと思うと、どうもテンション上がらないというか・・・)
「碇君」
「へ!?」
いきなり腕を掴まれ、シンジの思考は停止した。
「ネルフについたけど。僕はあっちだから」
レイはそれだけ言うと更衣室に向かっていった。
「あ・・・そうか。綾波は起動実験だったね」
「うん」
レイは足を止めず、だが確かに頷いた。その瞳には強い決意が込められている。
(絆だから。みんなとの)
あの日、レイはエヴァに乗る理由をそう答えた。
(あなたは死なないわ。私が守るもの)
その言葉通り、命を挺して守ってくれた。
「あ、綾波!」
シンジは思わず声をかけた。レイが立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「・・・何?」
「あ・・・え、え・・・と・・・そ、その、頑張ろうね!」
レイが少しだけ目を見開いた。シンジの言葉の意味がわからずきょとんとしているのだ。
「そ、その、今のは、使徒が来たら頑張ろうねって話で・・・」
シンジがしどろもどろに言うと、レイがゆっくりと頷いた。
「もちろんだ。僕の任務はエヴァに乗って使徒を倒すことだから」
(とは言ったものの・・・)
シンジは繰り広げられる零号機起動実験を見やりながら今後の、というより数時間後の自分の人生について考えた。
(あの時なんだってあんな目にあったんだっけ・・・。確か使徒が来たって言われて、それで乗るようにしたんだよね。大体さあ・・・いきなりあんな攻撃してくるのってずるいよ。今までの使徒は大体の攻撃とか手の内を見せてくれたのに。KYだよ)
「絶対境界線まで、あと2.5」
「1.7」
「1.2」
オペレーターの伊吹マヤオのカウントダウンが聞こえてくる。
(マヤさん・・・思えばかわいくて綺麗な声だったな・・・。今はこんなに低い声になっちゃって・・・。やっぱり色んな意味でテンション下がるなぁ・・・)
シンジの集中力が途切れ始めている。
隣ではミサオが難しそうな顔をしてモニターを睨みつけているし、リツオの顔には緊張感が漂っている。
その隣にいる碇ゲンコは・・・しかめっ面をしていたが、それは今も昔もあまり変わらない。
でもあの濃い口紅だけは正直勘弁して欲しかった。
「ボーダーライン、クリア!エヴァ零号機、起動しました!引き続き、連動実験に入ります」
どうやら今回も零号機は無事に動いたらしい。
その瞬間だった。
壁にかけている非常電話がけたたましい音を打ち鳴らした。即座に取ったのは副司令の冬月コウコだった。
「碇!」
コウコが鋭く叫ぶ。
「未確認飛行物体が接近中。おそらくは・・・第5の使徒よ」
ゲンコの眼鏡がキラリと光った。
「テスト中止。総員、第一種警戒態勢」
ミサオの顔が一気に変わる。シンジからは背中しか見えないが、その後姿からは、はっきりとわかるほどの闘志がみなぎっていた。
「零号機は使わないの?」
「まだ戦闘には耐えられないわ」
コウコと短くやり取りした後、ゲンコはリツオに目を向けた。
「初号機は?」
「380秒で準備できます」
「出撃よ」
そう言ってゲンコはシンジに視線を送った。その目からは母親らしき感情は見当たらない。あってもシンジからしたら嫌だが。
「どうしたの?早くお行きなさい」
「・・・はい」
シンジは、ふと先日見た夢を思い出した。そして思い出したことを深く後悔した。
「よし!エヴァ初号機、はっし・・・」
「待ってください!葛城さん、敵の攻撃を見極めるまで待った方がよくないですか!?」
ミサオの号令に割り込み、シンジは叫んだ。必死だった。地上では地獄が待っているのだ。
「シンジ君の言いたい事はわかる。だが、奴さんは既に芦ノ湖上空まで来ているとの情報が入ったんだ!もう一刻の猶予もないんだ!初号機、発進!」
「うわあああああ!」
(やっぱり地獄行き〜!?)
シンジは覚悟を決めた。せめてATフィールドでも張っておこうと最大限の対策をしておく。
「!?目標から高エネルギー反応!」
「何だって!?」
モニターから青葉シゲコの切羽詰った声が聞こえて来た。
(ほ〜ら来た!恨みますよ、葛城さん!)
シンジは目をぎゅっと瞑った。エヴァ初号機が地上に出たのがわかった。
「だめだ、避けろシンジ君!」
無茶言うな!
シンジはそう心でツッコみながらもATフィールドを張った。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・あれ?」
衝撃はまだ来ない。
恐る恐る目を開けると・・・目の前には信じられないものがあった。
「な、なんじゃこりゃあ〜!?」
そこにいたのは、かつてシンジやレイを苦しめた正八面体の使徒ではなかった。
代わりに、真っ赤に輝く巨大なハート型がぽっかりと浮かんでいたのだ。
「か、葛城さん・・・。こ、これって・・・何ですか・・・?」
思わず訊いた。
「使徒に決まっているだろう!」
「まさか使徒!?これが使徒!?どう見たってクリスマスとかバレンタインコーナーのアレじゃないですか!?」
シンジの脳裏に浮かんだのは、クリスマスやバレンタインコーナーの飾りによくある赤いハート型の風船だった。イベントによる商業効果を少しでも上げるために客の気分を盛り上げるための小道具。
「使徒に常識は通用しないんだ!敵から高エネルギー反応が出ている!先手をとられないよう攻撃開始だ!」
一体何をどう間違えてあの青く輝く美しい使徒が、こんなバレンタインギフトになっているのだろう。
(そういえば、あのイカみたいな使徒もヘンだったよな。攻撃方法がくすぐるとか・・・。まさか、色んな人達が性別を間違えたように、使徒も何かを間違えているのかな・・・)
「シンジ君!パレットガンで一斉射撃!」
ミサオの鋭い命令に、シンジは我にかえった。
(そ、そうだ!今は戦闘に集中しなくちゃ!せっかく死に掛けないで済んだんだ。さっさと終わらせるぞ!)
初号機がパレットガンを構えた。
その時だった。
「らー♪らー♪」
「・・・へ?」
ずっと浮かんでいるだけだった赤いハート型の使徒が、ゆっくりと近づいてきたのだ。
「らー♪らー♪」
その時、赤い使徒ラミエル(仮名)の身体がピンクの光を放った。ピンクの光は真っ直ぐに初号機へと向かう。
「なんだ、あの光は!?まさか・・・敵の指向性兵器!?」
「いえ!熱エネルギー反応はありません!」
「う・・・うわああああ・・あ?」
それは前回のような痛みを伴う衝撃ではなかった。というよりむしろ心地よいものだった。
「シンジ君!どうしたシンジ君!?大丈夫か!?」
「だ、大丈夫です、葛城さん・・・。だいじょ・・・ヒック・・・」
「シンジ君!?シンジ君!本当に大丈夫なのか!?」
ミサオはモニターに映るシンジがいきなり口元を押さえて俯いたので、何事かと身を乗り出した。
「リツオ!今の使徒の攻撃は!?」
「まさか・・・使徒の心理攻撃!?」
リツオも予想外の事態に慌てているのか、マヤオを始めとするオペレーターたちにひっきりなしに指示を飛ばしている。
「ら、らーいじょーびだって言ったらないれすか・・・まったくミサトしゃんは・・・あんたもしつこいねぇ・・・」
シンジの方は、何だか急に気分がよくなり、その事実に戸惑うどころか、妙に気が大きくなっていた。呂律が回っていないことすら気付いてはいない。
「ミサトしゃんが・・・ミサオしゃん。それって・・・まんまやないかい!ぶっはっはっはー!リツコしゃんがリツオしゃん!トウジはトウコ!ケンスケはケンコ!ぎゃーっはっはっは!ベタベタだよバカバカしいにも程があるよヒーヒーヒー!」
「リツオ!シンジ君が苦しんでいる!インダクションレバーを叩きまわっているし、激しく足踏みまでしているぞ!おまけに上の空で何かブツブツ言っている!」
「心理グラフも乱れています!」
「まさか・・・使徒は人間の心を探るつもりなのか!?」
「らー♪らー♪」
発令所の面々が戸惑っている間、ハート型の使徒ラミエル(仮名)はのんびり歌いながら第三新東京市上を優雅に旋回していた。
「父しゃんが母しゃんだって!ゲンコだって!ぶっはっはっは〜!ぶっさいく〜!」
「シ、シンジ・・・!」
公衆の面前で息子に「ぶさいく」呼ばわりされたことで、ゲンコは怒りで身を震わせた。これでも夫のほかに若い愛人を持つだけの甲斐性はあるのだ。
「ああ、もう!こんなのやってられるか〜い!・・・ウッ!」
突然シンジは猛烈な吐き気に襲われた。
「まさか・・・精神汚染!?」
リツオが身を乗り出した。
「うおえっぷ。・・・うう〜ぎぼちわるい・・・それに頭痛い・・・ズキズキするよ・・・」
シンジが頭を抱えたところで、リツオが叫んだ。
「心理グラフが限界だ!これ以上の過負荷は危険すぎる!」
「シンジ君撤退だ!戻れ!」
「戻る・・・ひゃ、ひゃい〜おっとっとっと」
初号機が千鳥足で何とか出口に向かおうとするが、フラフラしてなかなか動かない。あげくはビルに寄りかかる始末だ。
「シンジ君!命令だ、戻れ!」
「もう・・・うるしゃいなあ・・・。眠い・・・の、に・・・」
さっきからやたら強烈な睡魔に襲われているのだ。もう喋るというより口を開くことすら億劫だ。瞼が重い。
「シンジ君!?」
遠くで聞こえてくるミサオの声を最後に、シンジは意識を手離した。
意識が戻ると同時に、まずやってきたのは激しい頭痛とどうしようもないほどの不快感だった。
「・・・」
重いまぶたを開けると、目の前には綾波レイの無表情な顔があった。
「綾波・・・」
「食事」
レイは無愛想にそう言いながらシンジのためにコップに牛乳を注いだ。
(そうか、僕使徒から攻撃されて・・・。あれ?でもあんまり痛かった記憶が・・・)
「使徒は?」
食欲はなかったが、喉はひどく渇いていたので、シンジはすぐさま牛乳の入ったコップをあおった。
「まだいる」
レイはそれだけ言って、シンジのコップに牛乳を注ぎ足した。その表情は、いつもと同じだが、どこか浮かない様子だ。
「あ、ありがとう・・・」
シンジはもう一杯牛乳を流し込みながら、ちらりとレイを見た。
「じゃあもうすぐ作戦か・・・」
「いや、作戦はない」
「んん?」
シンジは牛乳を口に含んだまま、レイの顔をまじまじと見た。慌てて飲み込み、もう一度口を開く。
「作戦は・・・ない?」
「赤木博士の見解ではあの使徒は敵意も攻撃方法も持っていないそうだ。ただし、恐ろしく強力なATフィールドを持っていて、今のネルフ、いや、国連軍や戦自と力を合わせても倒す事は不可能らしい」
「つまり、あの使徒は防御力だけはすごいけど、何も出来ない無害なヤツってこと?」
レイは神妙な顔付きでこくりと頷いた。
「そうだ。ただし、危害を加えられそうになったら、さっき碇君にぶつけた特殊攻撃を仕掛けてくる。あの攻撃の解明はまだだけど、精神崩壊、意識喪失、吐き気や頭痛など人体に悪影響を及ぼす。だがそれは一時的なもので、持続力はないということだ」
「へえ。そこまでよくわかったね」
シンジが何気なく言うと、レイは少しだけ目を逸らした。
「僕もあの攻撃を受けたんだ。君が意識を失っている間、あの使徒がジオフロント内に侵入しようとしていたから、それを阻止するためにね。そしてあの攻撃を受けた」
「ええ!?」
自分の知らないところで、レイが攻撃を受けたのだという事実に、シンジはショックを受けた。拳を握り、唇を噛み締める。いつだって、自分は肝心な時に何も出来ないのだ。
「その結果、しばらく意識が途切れた。赤木博士が言うには個人差があって、僕の方が君より耐性が強かったらしい。君は僕よりかなり長いことあの攻撃を受けたし・・・」
「ちょっと待って。じゃあ、僕、一体どれくらい気を失っていたんだろう・・・?」
シンジは愕然とした。眠っている間にレイは出撃したというし、思っていたより長い時間が流れていたようだ。
「君が攻撃を受けたのは昼の2時頃。今は・・・もう12時だ」
そう言ってレイが腕時計を見せた。レイの言う通り、時計は12時を指している。
「うわ・・・」
シンジは思わず頭を抱えた。
「父さ・・・いや、母さんに馬鹿にされるよ、こんなみっともないこと・・・」
前回は苦戦したり死にかけたりしながらも、あの作戦を見事遂行して見せたというのに。
しかしシンジは知らなかった。意識がはっきりしていない時、自分が母親のことを「ぶさいく」と貶めたことを。そして母がそのことを非常に根に持っていることを。
「そういえば碇君。実は一つ大変なことが」
レイの顔が少しだけ強張った。どうやら、「大変なこと」は、レイにとってはあまりいいことではないらしい。
「やっと逢えたね、ゲンコ」
「ユイサン・・・本当にユイサンなのね・・・」
その頃、別の病室では、一組のカップルが再会を喜び合っていた。
シンジが意識を失ったことで、初号機の中にいた碇ユイがシンジを守ろうと父性本能が働いたのと、ラミエル(仮名)からの精神攻撃が相乗効果となったのか、初号機に溶け込んでいた碇ユイがサルベージされてしまったのだ。
「碇司令・・・」
「ユイ君・・・」
その光景をドアの外からそっと窺うリツオとコウコの瞳には、諦めにも似たやりきれなさが宿っている。
一方その頃とある場所では。
「ちょっと聞いたキーラ!?ユイ様情報よ!ユイ様何と今日本にいるんですって!」
「何ですって!?いや〜ん、ユイ様なんて久しぶり!」
「こうしちゃいられないわ!日本ね!今から日本へ行っちゃうわよ!そういえば日本って暑い国なのよね?あ〜あ、せっかく今年買ったこのマフラーでユイ様巻きをしようと思ってたのにぃ」
「ずるいわ!いいわよ、あたしだって行ってやるから!」
「あら、あなたのところ、今旦那さん帰ってきてるんでしょ〜?食事の支度とかしなくていいのぉ?」
「レトルトのカレーでも置いておくからいいのよ〜。それよりもユイ様よ!」
「あんたたち、はしゃいでるヒマはないのよ!もうすぐドイツからセカンドを送ることになったわ。まだまだ使徒は来るのよ」
姦しく盛り上がる面々を抑えようと、キーラは普段より3割り増しで声を荒げた。
「あら。じゃあキーラは行かないのね?『ユイ様ツアー』。お土産はご当地ストラップでいいかしら?キーラ日本のはまだ持ってなかったわよね」
「・・・ゴホン!い、行かないとは・・・言っていないでしょう・・・」
咳払いをしながら憮然と言うキーラに、モノリスが一斉に光った。
「じゃあ決まりね!楽しみだわぁ日本は初めてなのよ」
「まずはキンカクジでゲイシャとスシーを食べなくちゃね!」
「マウントフジでオンセン入ってテンプラもね!」
「やあだ、目的はあくまでユイ様に会うこと忘れないでよぉ」
「あら、あたしったら色気より食い気になっちゃってたわ。アハハハハ・・・」
「ねえねえ、日本ってどれくらい暑いの?コートはいらないにしてもカーディガンくらいはいるかしら・・・」
「そうねぇ。クーラーがきいているといるかもね。あたしも冷え性だから・・・」
「あたしは腹巻を持っていくわよ。冷え性にはこれが意外といいのよ」
「やあだ、腹巻なんて、もしユイ様にバレたらあたし生きていけない〜」
「まあ図々しいわね。バレるようなことをユイ様がするわけないじゃない」
「あんたたち!解散よ!」
一向に終わりが見えない井戸端会議を締めたのは、やはりキーラその人だった。
「らー♪らー♪」
「あの使徒また歌ってる・・・。ジオフロントで一体何してるんだろ・・・」
窓の外から見える赤いハートはゆっくりとジオフロントの地底湖の上を旋回している。侵入したジオフロントが気に入ったのか、歌いながら優雅な空中散歩を楽しんでいるようだ。
「さあわからない。ネルフのみんなも複雑そうな顔をしていた。ちょうど今の君みたいな。碇君、こんな時僕はどんな顔をしたらいいのかわからないんだ」
「・・・笑うしか・・・ないんじゃないかな・・・」
レイはしばらく考え込んでいたが、やがて納得したのか頷いた。
「そうか。・・・ははは」
レイは何とか笑い声を出した。だがそれは、笑い声という台詞を棒読みしただけに過ぎなかった。
口の端を何とか持ち上げ、目尻を下げてみた。それは、百歩譲って愛想笑いとならなんとか呼べるシロモノだった。
それが、この世界の綾波レイが生まれて初めて作った笑顔だった。
手紙を書こうと思っていたのにこっちを先に書いちゃいました。次回いつになるかわかりませんがアスカ来日で最終回です。