民主党の代表が替わり、小沢一郎さんが退いた。 私も真剣に、小沢さんと政治行動を共にしたことがあった。 その小沢一郎さんのことは、虚実、幻想とり混ぜてこの十年間マスコミに登場している。 その背景には映画にもなった田中角栄氏以来の「自民党戦国史」的政治ドラマがあって、そのドラマから飛び出してきたような雰囲気を小沢さんがもっていたからだと思う。 とは言え、時代は移り、我が国を取り巻く内外の情勢はまことに厳しくなっている。 一つの時代の雰囲気に、けじめを付けるときだろう。従って、次に私から観た小沢一郎という人について述べておきたい。以下、思いつくままに。
1、平成十五年初夏、自由党の代表であった小沢さんが、自由党を解党して民主党と合併すると突然発表した。 それは、私が主催する自由党のパーティーが市ヶ谷で行われている最中だった。その報に接した会場では、自由党の私の政治姿勢に賛同して来てくれている人々にどうなっているんだとのつぶやきが広がった。 その後、私は、この時事通信で、いつか「自由党始末記」を書くことにすると述べた。 しかし、遂に今になっても「自由党始末記」は書けなかった。 その理由は、党の代表である小沢さんが、一体如何なる理念で自由党を率いていたのか、さっぱり分からなかったからである。 私は自分が、如何に考え如何に歩んだかは書ける。書いてきた。しかし、小沢さんが代表を務める自由党が如何に考え如何に歩んだかは書けない。
2、数日前の産経新聞朝刊に論説委員の皿木さんが「土曜に書く」という欄で、小沢さんの国防に関する考えが、国連中心主義などいささか危ういので「注視する必要がある」と書いていた。 その直後に電話で皿木さんと話す機会があったので私は次のように述べた。 「『土曜に書く』はいい論考です。小沢さんを国防の観点からとらえる視点は見事でした。しかし、一部に正確ではない部分があります。小沢さんの国防に関する考えを注視しなければならない、と書かれていましたが、彼に関しては注視できないですよ」 「何故?」 「考えが有れば注視できますが、彼には無いのですから無いものを注視できないでしょう」
3、我が党の政策を実行するために自由党は小渕内閣の自民党と連立を組むと小沢さんが決めた。各議員に意見を求められたので、私は、大賛成と言った。 この時、我が国の国防に関して周辺事態法案など「周辺事態に如何に対処するか」を決定する時期であった。私は、これを審議する衆議院の特別委員会に自由党からの理事として参加しており、度々委員長である山崎拓さんに、 「政府が、集団的自衛権を行使できないという見解を維持する限り、委員会の充実した審議を進めることができない。 委員長の特別声明を発して、集団的自衛権を行使すると政府見解を改めるように委員長として政府に要求すべきです」と何度も要請した。 山崎拓さんは、「そんなこと言ったら、政府がいくつも交代しなければならない」と言うのみであった。 また、自自連立前に、自民党の幹事長が飲み屋である人に語ったことが、ある人から私の耳に入ってきた。 彼は、自自連立に反対だと言って、その理由を、「だって、自由党には、尖閣に行ったあの西村という極右がいるんだよ」と説明したという。 このように、自自連立前の自由党は、国防政策において戦後政治の群を抜いた考えを自由に言えたのである(主に私が言っていたのだが)。 集団的自衛権は行使するのが当たり前であるというのが自由党であった。 だから私は、小渕内閣に入り我々のこの政策を実現するために自民党と連立を組むという小沢さんの提案に大賛成をした。 そして私は、防衛政務次官として、「我が国も核を持つかどうか議論しなければならない」と当然のことを発言し、世間に大いに議論を喚起するという役割を果たさせていただいた。 この機会を自自連立によって与えてくれた小沢さんに感謝している。
4、ところがある日、自民党には我々の政策を実現する意思はない、従って、連立を組む意義がなくなった、連立を解消する、と小沢さんが言い始めた。 私は、政策が実現できないのなら連立を組む意義はないというのも当たり前だと発言し、連立解消に同意した。しかし、この連立解消では多くの人と別れることとなった。
5、ところが、さらに、ところがである。 自由党の政策を実現する意思のない自民党との連立を解消した小沢執行部が、今度は週一回のわりで、土井たか子さんの社民党幹部と会食を重ねるようになった。社民党は自民党よりなお自由党の政策を実現する意思のない連中である。 すると国対委員長が「自由党は集団的自衛権を行使することに反対」と記者発表した。その記事を見た私が、党の常任幹事会で、「国対委員長が、党の政策について部会に諮らず記者発表するのは越権である。我が党は集団的自衛権を行使するという方向ではないか」と発言した。この時、小沢さんが強く私に反発した。明らかに、集団的自衛権を行使しないという記者発表を支持しているのである。 6、また、衆議院本会議場に国旗日の丸を掲げることになったとき、国対委員長がそれに反対してきた、と報告した。 「本会議場に国旗を掲げるのは当然ではないか、何故反対なのか」と私が反論すると、彼は「だって、野党ですから」と答えた。 私は二の句を継がず、なるほどなー、と思った。 自民党で育った小沢さんや国対委員長は、野党とは社会党になることだと思っていて、野党になったから社会党になったのだと得心した。そして、政策を実現するための自自連立と言っていたあの政策を、土井たか子さんらと会食を繰り返すうちに、棄てて顧みない情況に唖然とした。つまり、小沢さんは、自由党をいとも簡単に社民党化していたのだ。 この頃、小沢さんはプツンと私と口を利かなくなった。 7、そしてこのようなことが続いたある日、幹事長から党の常任幹事を辞めてくれとの丁寧な誠に丁寧な要請があり、それを請けた。今も「眞悟ちゃん、眞悟ちゃん、頼むよ」という声を思い出す。 また、私は党の代議士会の会長をしていたが、ある日、例の国対委員長が代議士会を廃止しましたという。そして、どうするのかというと、衆議院総会を新たに作って新会長を選任するという。こうなれば、もう「勝手にしろ」だった。 自由党をいつの間にか社民党化したのだから、私が常任幹事で代議士会長では都合が悪い。また、私と話してはいけない。全て合点がいく。 これが、小沢さんの党だった。 私が、「自由党始末記」が書けない理由を分かっていただけたと思う。従って、このような人のエピソードを連ねていても仕方がない。 しかし、小沢さんとの初めての会話と最後の会話は妙に覚えているので記しておくことにする。
8、下野してからの平成六年のこと。戦後五十年国会決議が「謝罪決議」となりそうな情況の時。私は、小沢さんに尋ねた。 「小沢先生は『普通の国』に日本がならねばならないと言われています。では、普通の国なら、戦後五十年も経てば、如何なる決議をすると思われますか」 「・・・」 「日本が、普通の国なら、戦後五十年目に仮に国会決議をするならば、戦争をしてごめんなさいとは決して言わないですよ。 普通の国なら、戦争に負けて敵軍に占領され憲法も替えられた、まことに悔しいことである、 従って、今度もし戦争をするなら決して負けてはならない、という決議をするのではありませんか」 これに対して、小沢さんは周りの人と笑うだけで答えなかった。その後、新進党の決議案は、村山富市談話とほぼ同じ内容に決まった(反対派の私がトイレに立った隙に決めた)。 では、小沢さんの「普通の国」の中身は何だろう。
9、最後の会話は、数年ぶりに交わされた。会食時に小沢さんと隣の席に坐ったとき、いやそうにしていた小沢さんが、まず私に問いかけた。 「尖閣諸島にはどうやって行くのかね」 「石垣や宮古から船では八時間、ヘリでは一時間で尖閣諸島魚釣島に着きます。興味がありますか。どうですか、今度一緒に行きませんか」 「いや、僕は行かない。国際紛争が有る限り僕は行かない」 「えぇ!国際紛争はありませんよ。あそこは、国内ですよ。僕は国内に行ってきたんですよ」 「いや、国際紛争はある。その証拠に中国は領有権を主張しているじゃないか。これは国際紛争である証拠だ。僕は、この国際紛争がなくなれば行く。それまでは、君のレベルで行きたまえ」
以上、マンガのような話。 ここ数年間の民主党の、国会審議拒否、社民・共産との共闘路線、「国連中心主義」、「生活第一」、「外国人参政権賛成」などのスローガンの出てくるところの馬鹿らしさを見抜く参考にはなりうるかもと記載しておく次第。
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