「産業技術史博物館」関係は廃棄終了(外部)、紙資料の整理中(外部)。
2009-05-17
こんばんは、神です
都会―田舎論のきっかけになったサイトに面妖なエントリが上がっていた。
そこで言っておきたい。
我こそが神である。
ミイラより我の方がよほど強い。
我を崇めよ。
2001年3月芸予地震
2003年9月十勝沖地震
2004年10月新潟県中越地震
2005年3月福岡県西方沖地震
2007年3月能登半島地震
これらは全て、我が訪って三年以内に発生している。
まだ足りないようなら風水害や列車事故を幾十と述べよう。
つまり、リョウメンスクナが災害を引き起こしたという話は、そういうこと。
じゃあ1918年のスペイン風邪の時は全国を飛び回っていたのか?
完全に無価値なホラ話だ。考察の対象とするに値しないし、してはならない。
リョウメンスクナの話はちょいと説明できない。人間が相手なら仮説の立てようもあるが、天災を引き起こすほどの呪い、となると現在の科学体系からは踏み外さざるを得ない。
無関係な事柄を繋ぎ合わせて創造したストーリー、都合のいいデータだけを並べて関係性を見出させるテクニックなのだ。現在の科学体系ではちょいと説明できないも何も、関係など存在しないのである。そこに何らかの関係性を幻視しようとする試みは、控えめに言ってオカルトだ。
ちなみに奇形のミイラは見世物として結構作られ、地方巡業していたんだよ。「しばらく前にミイラを持った男達が来ていた」という証言はいつでもどこでも拾えた。それを被災地でだけ拾って並べれば、呪いのミイラ伝説の裏付けさえ作り上げることが可能だ。
コトリバコにしても、2chで作られた怪談を元に
再現性があり
などと吹いている時点で
わりと科学的に説明可能
でもなんでもない、と言えば終わりだ。
今の科学で認められていないレセプターがあるかもしれない、というあたりは否定しきれないが、フィクションをソースに持ってくると荒唐無稽。
一方
「思い込んだ人」と「影響が現れる人」が別の個体でも効果が現れる現象
他者の思いを(言語による意思疎通を介さずに)受け取るという変異
呪いを心理学や社会学に落とし込まずに生化学で解くことができるのではないかというこのアプローチは、オカルトと斬って捨てられない発想だと思う。
呪われたと思うことで精神を病む(これを以て呪いが傷害罪に当たるとした判例もある)、呪った・呪われたものとして社会的な扱いが変わる、というのが呪いの基本形ではあるが。
神経パルスや何らかの分泌物を他人が受信してしまうことも、あり得ないとは言えない。植物は実際やっているわけだし。
こういう思索なら、眉を顰める向きはあるだろうが、どんどんやるべきだ。
この程度の初歩的な仕分けもせずに無防備にオカルトに踏み込んだら飲まれるよ。
科学的態度には科学に懐疑的であることも含まれる。存分に疑えばいい。ただし、論理的に。非論理的なオカルトは懐疑主義ではない。
初歩的な騙しの手法に魅かれ、批判に対し「盲信者」と剣呑な敵対姿勢を取る態度は、カルトに取り込まれていく学生の典型的な姿だわ。
大きなお世話だが、物凄く危ういものに思われる。