何故かと問うことは許されない
我らはシリンクスの寺院の司祭
偉大なるコンピュータは聖堂にあり
我らはシリンクスの寺院の司祭
全ての命の恵みは、我らが城壁の内にあり
サードインパクト後の地球。
再び群体に戻った人類。
しかし、戦いは終わっていなかった。
とある山奥を縫うように走る国道を、みすぼらしい自家用車が走っている。運転席には、NERVの幹部、葛城三佐。パッセンジャーシートには赤木博士。ただし、服装は二人とも、極めてラフな服装であり、外見からは単なる旅行者のようにしか見えない。二人は道中、ずっと無言だった。
国道から、気付きにくい横道に逸れると、途中から道幅もあるしっかりとした道路に変わる。ただし、周囲はますます山深くなっていき、民家は目に付かない。10km以上も走っただろうか。車は、とある鉱山の入り口にたどりつく。
鉱山といっても、外見上はただの山にしか見えない。地上にはそれなりに建物が点在してはいるが、それほど大規模なわけではない。目を引くのは巨大なクーリングタワーと排水処理設備くらいで、この手の設備のことを良く知らない人なら、この区画を単なる下水処理場と言われても納得するだろう。
その控えめな設備に比べると、やけにものものしいゲートが行く手を遮る。車はそこで停止する。ミサトがIDカードを読み取り装置にかざす。警備詰所の警備員が敬礼するのがちらりと見えた。
二つのゲートを通り抜け、車を小さな事務所に横付けにする。応対に出たのは、松島、というネームプレートのついた作業服を着た社員だった。
「お疲れ様です。ご案内します」
30代半ば頃だろうか。ヘルメットにつけた徽章からすると、それなりの役職者ではあるようだ。
「お願いね」
案内用のバンが、松島の運転で事務所まで回ってきた。バンは2人を乗せると中央坑道の脇で待機する。坑内車両を優先通行させるのだ。坑道は急勾配だが、レールは敷かれておらず、普通の自動車で行き来することができる。トラックレスマイニングという奴だ。
中央坑道は、ここでしか見ることの出来ない光景の一つだ。ちょっとしたトンネルのような外観だが、そこから各種のパイプとともに、道路が地底めがけて一直線に沈み込んでいくのは圧巻だった。
信号が青になった。松島はアクセルを踏み込む。バンは中央坑道を下りはじめた。
「いつも、いきなり押しかけてごめんなさいね」
葛城三佐が、松島に声をかける。
「いえ、心得ております。機密保持はなにものにも優先しますから」
松島は、丁寧な口調の中に、ほのかな親しみを感じさせる声音を含ませて答えた。
そうなのだ。機密保持の観点から、NERVの幹部たる二人の行動は、直前になるまで連絡されないし、そのことについて松島の側で記録を残すことも許されない。突然、電話が鳴り、今から行くから、という葛城三佐の声が聞こえる。それから、1時間後に彼女達が現れる前に、大急ぎで、かつ密かに色々な手はずを整えるのが彼の仕事になっている。ただ、松島はその点に関してはしょうがないと考えているし、正直なところ、美人二人の来訪自体は迷惑ではない。仕事のやりくりだけは頭が痛いが。
松島は、中央坑道からそれて、車を側道に乗り入れる。側道をいくつか曲がった先に、更に地下深くに潜り込んでいく支道があった。様々なパイプが半円筒形をした坑道の壁面を走っている。この辺りまで来ると、地熱の影響を受け、暑い。
やっと車は停車した。そこは、かなり広いスペースで、更に先には何かものものしいゲートが設置してある。ネームプレートらしいものは一切設置されていない。松島たち秘密を知る何人かは、この場所を『神殿』という隠語で呼んでいる。
「どうぞ」
松島が車の扉を開ける。二人のNERV幹部は、憂鬱そうに、そのゲートに向かって歩を進める。
松島は、その後姿を見ながら、いつものように運命というものについて考えるのだった。
坑道の終着点にあるゲートにIDカードをかざす。圧搾空気がシリンダーを押す音が聞こえて、スムースに扉が開く。いくつかの扉をくぐって、部屋にたどり着いた。殺風景な部屋の中の中央は透明なアクリル板で仕切られている。面会室なのだ。その部屋の奥から、二人の看守に付き添われて、手錠をかけ、腰にロープを巻かれた少年が引き出されてきた。
「どうも、こんにちは。いつもすいません」
黒のズボンに白のシャツを着た少年、碇シンジが屈託なく2人のNERV幹部に声をかけた。
「どう、困ったことはない?」
意思の力で表情を緩めた、葛城三佐が優しく声をかける。
「いえ、特にないですよ。ミサトさん」
その屈託のない呼びかけに、葛城ミサトの心はきりきりと締め付けられるように痛む。かつての部下。かつての家族。ファーストネームで呼ぶように躾たのは、そう、ミサト本人だったのだ。本人は今もそれを守っている。
「ごめんなさい・・何もしてあげられなくて」
ミサトが耐え切れなくなって、下を向く。
「い、いいんですよ、ミサトさん。」
シンジがあわてて言う。
「まだまだ、僕は人と向き合うことが苦手なんです。こういう環境も、その点ではありがたいくらいですよ。こんなこと言ってちゃ、駄目なんですけど」
「勉強のほうはどう?捗ってる?」
「ええ、今のところは。ちょっと物理が難しいかな、ってところですね」
赤木リツコはわずかに微笑んだ。
「じゃあ、それ、今、持ってきなさい、教えてあげるわ」
「え、いいんですか?」
シンジが、腕を上げた。その手に課せられた手錠が、リツコの目に入る。
リツコの目が、一瞬暗い色に沈む。
「ああ、そうか、それじゃあ、無理よね。今度、いい参考書、差し入れてあげるわ」
「そうですね、待ってます」
沈黙。
いつのまにか、部屋に入ってきた松島が気を利かせて言った。
「そろそろお時間です。申し訳ありませんが規則でして」
ミサトは正直ほっとしたが、そう思う自分自身を認めるのが嫌で、つい声を荒げる。
「気が利かないわね!」
いつものことなので、松島は、首を竦めて見せるだけだった。
「すいません、ミサトさん、リツコさん。気をつかっていただくのはありがたいんですけど、僕は僕なりに前向きに生きていこうと決めました。どれだけの時間が残されているかは判りませんけれど」
「だから、もう、大丈夫です。これは僕がしでかしたことへの報いなんです。だから、気に病まないで下さい」
「よし、時間だ」
松島は看守に手を上げた。看守は、再びシンジを立たせ、面会室から退去させる。去り際、シンジは、ミサトに笑顔でうなずいて見せた。その表情が、ますますミサトを切なくさせる。
「シンジ君・・・ごめんなさい」
シンジは、サードインパクトへの引き金を引いた、危険人物ということになっている。
サードインパクト前後の混乱の中で、それぞれの組織は暗闘を演じた。国連、日本政府、戦略自衛隊、NERV、それぞれに錯誤を犯していた。また、サードインパクトは哲学的、宗教的にも大混乱を引き起こし、社会は極度に不安定になった。
元々、NERV司令である碇ゲンドウは、責めを負うべきは自分自身である、と、当初は国連への査問にさえ進んで応じる気配であった。しかし、ゲンドウは、MAGIの描き出す未来予測を精査した副司令の冬月に慰留された。MAGIの描き出した人類の未来は、暗澹たるものであり、それを軌道修正し得るのはNERVだけであるとする結論が、ゲンドウを動かした。
そして、サードインパクトを哲学的、宗教的修辞なしに説明できる可能性のあるのは、唯一NERVのみであったために、最終的にある種の取引が成立した。
サードインパクトは、弱い少年の心に付け込んだSEELEの手引きにより、NERVのリソースを最大限に利用した碇シンジにより引き起こされた、というのが公式な説明となった。
裁判は、シンジが未成年であったがために非公開とされたが、事件の重要性に鑑み、各組織の都合の良いように修正された詳細な報告書が流布された。最終的に、シンジは「人類に対する罪」により、無期限にわたり収監されることになった。
身内であったはずのシンジを売り渡すことについて、NERV内には忸怩たる思いがあったが、MAGIの描き出す未来予測は、まさに地獄そのものであったし、実際にその予兆は各所から報告されていた。NERVの要員は、このシナリオを受け入れざるを得なかった。NERVは、持てる力を総動員して、その歪んだシナリオを成立させるべくフル稼働した。情報操作はNERVの最も得意とするところであり、その力を遺憾なく発揮した。
こうしてシンジは、人類に対する敵となったのだった。
ただし、さすがにNERVといえども、その描いたシナリオ通りに進まない事柄も少なくなかった。シンジの身柄の確保についても、その一つである。
当初、NERVは、一度は地球を壊しかけたほどの力を発現した少年のことであるから、そのメカニズムの解明と再発防止のため、引き続きNERVが「管理」することを強く主張していた。しかし、さすがに、それではNERVの発言力が強くなりすぎるため、関係者はこぞって反対した。
他方、シンジの身の安全ということもある。もしも公の場所にシンジを収監する場合、戦争をも想定した備えが必要になる。
実際に、シンジの身柄をめぐって戦略自衛隊とNERVの間で戦われた戦闘は、戦争と呼んで差し支えのないものであった。シンジを、刑務所等、既知の公の場所に収監しておくということはリスクが大きすぎると判断された。一時は軍の基地に収監するという話もあったが、最終的にシンジは、その身の安全と機密保持の観点から、とある鉱山の奥深くに、密かに幽閉されることとなったのだった。
シンジは『模範囚』だった。それはこの地下の牢獄で、交替で看守を務める9人全員の共通の見解だった。
看守たちは、最初こそシンジを腫れ物を触るように扱ったが、そのうちに、この少々内気な少年が、どこにでも居る、普通の少年であることに気付かされた。彼が人類を滅ぼそうとした怪物であるなどとは到底信じられなくなった。また、度重なるNERV幹部との面会の内容から、この少年の扱いそのものに欺瞞の臭いを感じ取っていた。
ただの囚人にしても、この扱いはない。そもそも彼らが勤務していた刑務所でも、一日中、日の射さない地底に押し込めるなどという扱いはなかった。
もちろん、彼らは職務に忠実であったから、果たすべき義務もその方法も心得てはいたが、その範囲内であれば、進んでシンジに世話を焼いてやった。
松島もまた、そのような心持を共有していた。
ある晴れた日の午後、松島は窓から外を見た。風が、ゆるやかに木々を揺らしている。平和な光景。彼は仕事を切りのいいところで止めて、立ち上がるとヘルメットを引っ掛けて事務所を出た。
松島は管理棟から車を出し、坑道深く降りていった。シンジの独房区画に入ると、看守に告げた。
「今日は、この場所の環境測定を実施します。拘置者と看守の皆さんは、私について一時この場所を退避してください」
看守は、法務省から派遣されているため、松島には直接の命令権はない。ただ、施設管理者としての指示ができるだけである。
「拘置者をこの場所から移動するためには、法務大臣の許可が必要です」
こんな場所に派遣されてくるくらいだから、看守も一流の人物であり、松島の意図は判っているが、一応双方の立場は確認しなければならない。
「これは、法務省と当社で締結した覚書第26条、施設管理者としての指示です。責任は当方が取ります」
ここで打って変わって、松島はくだけた調子になり、
「いい日和ですよ、日光浴といきましょう」
看守とシンジを外に連れ出した。
さすがに構外まで出ることはしなかった。中央坑道を出てから、鉱山上部の草原に車を止めた。太陽は照っているが風があるので、気持ちがいい。松島は、看守の二人に、缶コーヒーを勧めた。看守はシンジと松島から、やや離れた場所に背中を向けて座った。さりげなく座ったように見えるが、その場所は、拘置者に何が起きてもフォローできるポジションになっている。松島はこうやって、月に一度くらいの割合で、シンジを地上に連れ出している。
松島はシンジにも缶をすすめた。シンジは素直にプルトップを空けて、久しぶりの甘味を舌に感じた。幸せだった。
「ずっと地下にいると、おかしくなっちゃうだろ」
「いえ、運動はさせてもらってますから。でも、この風は気持ちいいですね」
「なんだか、上手くなったよね、シンジ君」
「え、そんなつもりはないんですが」
はは、と松島は笑った。
遠くで山鳩の鳴き声が聞こえる。
「僕は今まで、ずっと、流されるままに生きてきました」
シンジが、ひとり言のように言う。松島は、顔の向きを変えずに聞いていた。
「でも、そのために、世界を滅ぼしかけました」
「・・・」
「だから、これからは、精一杯前向きに生きていきたい、そう思ったんです」
「僕にはそのいきさつはよくわからない。・・・だけど、君の人生だからね。それは多分、いいことだよ」
松島は、手についた草の葉を弄びながら答えた。
松島は想像した。地底の牢獄で、ただ独りで収監されることがどんなに過酷なことなのか。他人と喋る機会すら、たまにしか得られないのだ。だから、松島はこうして、なるべくシンジの話を聞いてやることにしている。最初はシンジの口は重かったが、次第に馴染んできたのか、今ではいろいろなことを話してくれるようになった。いい傾向だと思う。
飛び出した昆虫が、草を揺らせた。地球は生命に充ちている。シンジは改めて実感した。
「昔、同じようなことを言ってくれた人達がいたんです」
「へえ?」
「どうするかは君が決めろ、君の人生だから、って」
「当時は中学生だったのかな?そんな年頃の子に人生の選択を迫るのも、無茶だと思うけどね」
「その人は?」
「1人は、葛城三佐です。もう1人は・・多分、亡くなりました。あこがれていたんですけどね」
しばらく松島は、シンジと並んで、無言で遠くを見詰めていた。
「松島さんは」
「ん?」
「こんなことしてて、大丈夫なんですか?いえ、ご配慮は嬉しいんですけど」
「心配しなくていいよ。僕は僕自身で責任が取れる範囲のことしかしてないから」
「責任、ですか」
「あ、そんなに深く考える必要はないよ、結局、最善を尽くしたかどうか、だけさ」
「最善、ですか」
「君が病気にでもなったりしたら、寝覚めが悪い。そんなことで後悔するくらいなら、今できることをやろうってだけさ」
「すいません」
「すいません、じゃないだろ。前向きに生きるんだったら、ありがとう、でいいよ」
「ありがとうございます」
シンジと松山は、一瞬、くすりと笑った。
「ま、後悔を一杯重ねて初めて判ることもあるんだけどね」
言ってしまってから、松島は、しまった、と思った。この少年に、これからどこで人生経験を積む機会が与えられるというのだろう。改めて、この世の理不尽さを呪った。
束の間、外の風にあたったシンジは、再び独房に戻った。シンジの一日は、細かいタイムテーブルで管理されている。今日のように松島の気まぐれで変更になることはあったけれど、シンジが自由に新聞を読んだり読書をしたりすることができる時間は限られている。自習時間が終了して、夕食までの20分が、その貴重な自由時間だった。
シンジは1日遅れの新聞を読む。なんということのない日常が、いかに貴重なものか、シンジは痛切に感じる。ふと、国際面の片隅の小さなベタ記事に目が止まった。
『セカンドチルドレン、帰国:NERVのエヴァンゲリオンパイロット、セカンドチルドレンが、アフリカ訪問を終えて帰国した。同氏のアフリカ訪問は、先のコンゴにおける国境紛争に対するNERVの調停工作の一環として実施された』
シンジは胸の奥に、ちりちりとした痛みを感じる。
セカンドチルドレン、アスカは、シンジとは逆に、世界を使徒の脅威から守ったNERVの守護神として喧伝されていた。TVでも、使徒を撃退する赤いエヴァンゲリオンの記録映像、とりわけ、1機で9機を相手に奮戦したSEELEのエヴァシリーズとの戦いが繰り返し流された。
この戦いにおいて、オリジナルの弐号機は失われたが、アスカはNERVがエヴァシリーズベースの機体を元に再生したエヴァンゲリオン拾四号機に乗り換え、NERVの武力紛争調停における切り札として、世界を文字通り飛び回っていた。
「アスカ・・」
シンジは、言い知れぬ悲しみを感じる。
サードインパクトの直後。
意識を取り戻さないアスカ。
僕を拒否したままのアスカ。
僕のものにならないアスカ。
そして赤い海から戻ってきた人々たちが世界を再建するごたごたの中での別離。
「結局、僕は自分のことしか考えてなかったんだな・・」
空母の中で出会ったアスカ。
エントリープラグの中で重なった手。
ユニゾンの訓練。
初めてのキス。
記憶はあくまでも甘く、温かいものだったが、今となっては、そこには永遠に戻れないことを思い出す。がん、と、床を殴った。右手に痛みを感じるが、気持ちは収まらない。もう、二度とやり直しはきかないんだ。その想いをもてあましたまま、自由時間は過ぎた。
そしてシンジは、10時の消灯時間まで、再び収監者としての日課を再開するのだった。
第三新東京市のNERV本部。
かつてミサトが指揮していた作戦部は、使徒という敵を失った今、諜報と保安を担当していたセクションと統合されていた。今日も、諜報担当者からの情報を纏めた日向の報告を受けている。
「・・この団体の非公然組織の一部が、また地下に潜ってます」
「懲りない奴らね。この間のこと、まだ根に持ってるのかしら」
ミサトは、この団体の公然組織の中心メンバーを根こそぎ逮捕させていたが、その際の小競り合いで2名の死者を出していた。
「彼らは唯物論しか認めませんからね」
日向が、諧謔を滲ませて応える。
「シンジ君が一時的とはいえ、事実上神様になってしまったことが、そんなに都合悪いのかしら」
「彼らの信じる神は、一人だけですから」
「しょうがない、マークを強化しといて」
「あと、今度は、南米の異端系キリスト教の一派が、聖地奪回とか言って私兵を募ってます。日本に囚われた救世主を奪回するのだとか。」
「どの程度の勢力なの」
「まだ大した事はないんですが、コロンビアの麻薬カルテルと接近しているみたいで、今後急膨張する可能性もあります」
「早めにつぶしておく?」
「わかりました。あっちに依頼しておきます」
「シンジ君もモテモテよね。色々な奴の相手をしなきゃいけない」
青々とした山間ののどかな風景に似合わない、厳重なゲートがものものしい鉱山のゲートに、宅配業者の4tトラックがやってきた。
鉱山構内に入るには、小さな警備事務所の設置されたそのゲートを通るしかない。ドライバーは、ゲートで、通行許可証を差し出した。
「初めてなんですけど、どこに荷物、下ろしたらいいんですか?」
「荷物は何?」警備員が尋ねる。
「ええと・・機械の部品ですね」
伝票を繰りながらドライバーが答える。
「宛先は、工務課様、になってます」
「フォークリフトは要る?」
「いえ、ダンボール箱ばかりなんで、降ろせます」
「じゃあ、一応事務棟の」
警備員は指差しながら、建物を指差した。
「あそこの受付で確認してください」
事務棟を行き過ぎたトラックは、そのまま構内奥にある、「資材倉庫」のプレートが掲げられた建物の前で扉を開け、ダンボールを降ろす。なんら不自然さを感じさせない、いつもの光景。
のんびりと周囲を見回したドライバーは、周囲に人が居ないことを確認して、荷物に貼り付けられた伝票を剥がした。
堅く糊付けされたはずの伝票が、やけに綺麗に剥がれた。
「この間の例の組織なんですが、かなり大きな金が動いてますね」
日向がミサトに報告する。
「それも、直系のところだけじゃなくて、中東方面から、国レベルの支援を受けてる気配すらあります」
「偶像崇拝を認めない連中が、唯物論者とくっつくわけ?」
「敵の敵は味方、ってことなんでしょうけどね。」
国際情勢は複雑極まりない状況だった。宗教が国を統べる唯一の原理となっている国々にとって、シンジの存在そのものが危険であり、国体を大きく揺るがす火種になってしまっているのだ。ミサトは大きくため息をつく。
「鉱山の警戒状況は?」
「報告によると、最近、地元の人間でないのが、入り込んできているようですね」
「嗅ぎ付けられたかしら」
「可能性はあります」
シンジのこととなると、ミサトの内に焦燥感が募る。
「私は向こうに移動します。あなたも来て」
「すぐに手配します」
ミサトが発令所に戻ったところで、向こうから黒服を引き連れたアスカがやってきた。栗色の髪をなびかせている様子は以前と変わるところはない美しさだが、その青い目の印象は随分違って見える。特に左眼は、よく見えないのか心持ち細く絞られ、端的に言って健康的な美しさというよりは、屈折した、近寄り難い印象を与える。
「惚流・アスカ・ラングレー、ただいま帰任しました」
アスカが切り口上で言った。
「ああ、アスカ、お疲れ様」
「いえ、任務ですから」
今日のアスカはどうかしら。ミサトは考える。アスカは最近特に心理的に不安定で、向かい合う時にはよほど注意しなければならない。黒服が密着してボディガードしているのは、本来の意味だけではなく、アスカが暴走したときにそれを抑える役目をも負っているのだった。
「ゆっくり休んで。私はしばらくシンジ君の所に行ってくるから」
黒服が緊張する。アスカの前で、その名前は禁句なのだ。案の定、アスカの反応がおかしい。
「何よ!アタシを1人でアフリカくんだりまでやっておいて、アンタはシンジのお守り?はん!笑わせないで!」
「何でアイツがまだ生きてるのよ!」
「アスカ様」
黒服が進み出る。
「うるさい!」
アスカは黒服を振り払う。
「シンジ、シンジって、アンタら、まるでアイツの味方みたいに!アイツは犯罪者でしょ!」
「アスカ、まだそんなことを」
「見なさいよ!」
アスカは制服の右袖を捲り上げた。そこにはまだ生々しい傷跡が走っている。
「ここだけじゃないんだから!」
「アタシを傷物にしておいて、まだのうのうと生きているなんて!」
「アイツなんて、八つ裂きにされてしまえばいいのよ!アタシみたいに!」
「シンジなんて!アタシを裏切ったシンジなんて!」
口角から泡を飛ばさんばかりに呪詛の言葉をまくし立てるアスカの後方から忍び寄った黒服が、何かをアスカに押し当てた。鎮静剤の注射器だった。黒服はぐったりしたアスカを支える。
ミサトが電話でリツコを呼んだ。
鉱山のゲートが、陽炎に揺れている。
パネルにトレードマークを大書きした宅配業者のトラックがゲートで停車している。
「どうもお世話になります」
「ああ、こないだも来てた人だね。場所は判る?」
「ええ、ありがとうございます」
身軽に運転席から降りてきたドライバーは、伝票を警備員に差し出して、荷台の後部扉を開けた。
「検収印、いただけませんか?モノは、これと、これですね。」
「はいはい、ああ、これだね、いいよ」
荷台をざっと確認した警備担当者は、伝票に日付印を押した。
真っ直ぐ資材倉庫に向かったトラックは、また荷物を降ろしていった。
「アスカは落ち着いた?」
研究室に戻ってきたマヤに、リツコが尋ねた。
「ええ、何とか。今は眠っています」
「彼女も被害者なのよね、処遇はシンジ君とは正反対になっちゃったけど」
リツコはコーヒーメーカーから、マヤのマグカップにコーヒーを注いでやる。マヤは礼を言って、マグカップを受け取った。
「・・片や無敵のヒロイン、片や人類の敵。」
「今のアスカを支えているのは、エヴァのパイロットであるというその1点しかないですから」
「それがまたアスカのプライドを傷つけているわけよね」
「ダミーシステムといっても、アスカしか乗れないのは事実なんですから・・」
「たまたまアスカしか居なかった、ってだけ。それをアスカもよく判っているけれど、アスカ自身、それに縋るしかないから、いつまでたっても悪循環ね」
「でも、なんでシンジ君のこととなると、あんなに反応するんでしょうか」
「アスカは自分の精神汚染以降のシンジ君のこと、知らないわけだから、最後の最後でシンジ君が助けに来てくれなかったことで裏切られた、って気持ちなんでしょう」
「それでも異常すぎますよ」
「それだけ、業が深いということなのかしらね」
「その業を作り上げたのは、私達じゃないですか・・」
ぼそりとつぶやいたマヤの言葉に、リツコの眉間に、一瞬、深い影が刻まれる。何かに耐えるかのような表情。
リツコの表情に、はっとしたマヤがあわてて言った。
「済みませんでした。先輩を非難するつもりではなかったんです」
「いえ、あなたの言う通りよ」
VTOLと車を乗り継いで鉱山に移動したミサト達NERVのスタッフは、一度宿舎で休んだらどうか、という松島の申し出を断り、地下に用意されていた災害対策用の非常会議室に直行し、機材のセットに取り掛かった。
そして、その日の夕方には鉱山側の首脳を集めて、打ち合わせを行った。
概況説明の後、実務的な質疑応答に入った。
「・・考えられるのは、やはりライフラインに対するテロです」
松島が発言する。
「鉱山本体に侵入するには、何箇所ものチェックを受ける必要がありますし、そもそも私企業の施設ですから、よそ者が簡単に入り込める場所ではありません」
「送電系統を止められると困るわよね」
「送電停止に対しては、自家発電で数時間の維持は可能ですけれど、長くなると色々問題が」
これは設備の保全を担当する工務課長。
「送電系統の全周を守るのは不可能よね」
「結局、いかに短時間で復旧できるかが勝負でしょうね」
警備から回収した伝票と、端末のデータを照会していた作業服姿の社員が、不思議な荷物の前で、資材倉庫の管理担当者と相談をしている。
「伝票がついてないんだけど、多分不一致の分はこいつだよ」
「剥がれたのかな?」
「今度の工事の部材だろ」
「今週分の工務の発注資材は、全部来てるんだけどなあ」
「業者さんの勘違いかな」
「まあ、いいや。月末には請求が上がってくるだろ。その時に判るさ」
「急ぐ品物だったら?」
「その時は向こうから言ってくるだろうさ」
「開けてみる?」
「返す品物だったら、開けるのはまずいよな。いいよ。そのままで」
「奴らは来るかしら」
鉱山事務所の地下の保安司令部。ミサトが、夜になっても宿舎に帰らず、何やら作業を続けている日向に声をかけた。
「来ますね。間違いなく」
日向は断言した。
「確証はないんですが、個人的に信頼しているソースから、海外で実戦経験を積んだコマンドが複数、戻ってきているとの情報を得ています。別の情報ソースからは、傭兵らしい人間の影も見えます」
「としたら?」
「連中は、治安システムの整った日本で長逗留するつもりはないでしょうから、すぐでしょう。仕掛けてくるなら」
つづく