ごほん!ごほん!ごほん!
もう夜もだいぶ更けた頃、アスカの部屋から咳をする声が聞こえてきた。
アスカはベッドの上で口元を抑えながら、丸くなる。
今日、アスカは自分の部屋を掃除したのだが、戸棚の埃を払っていた時にまともにそれを吸い込んでしまい、それが気管支に入ったらしく、ずっと咳が止まらない状態になっていた。自分の部屋なんて掃除機をかけるくらいで棚や机の埃を払ったりとかいう掃除まではしていなかったのだが、今日改めてやってみてこの様だ。
そもそもアスカがドイツに居た頃は、義理の母が掃除をしたりして自分で何かをする事はほとんど無かったし、何より家に居ること自体が少なかったので頻繁に掃除するほど自分の部屋が散らかったり汚れたりする事自体が少なかった。
しかし、日本に来てからというもの、部屋の中が妙に埃っぽくなる。多分、ここの家主である葛城ミサトがガサツでズボラな性格の為か、自身の部屋を含めてこの家の中をまともに掃除をしたりする事は無く、逆に散らかしていくだけだった。その為、アスカが自分の部屋を散らかさなくても他の部屋…特にミサトの部屋から埃が入ってくるらしい。それがどんどん堆積していっているようだ。それもかなりの速さで。
そして、ここに来てから判った事なのだが、どうやら彼女はハウスダストに弱かったらしい。
自分の体質を身を以って知る事になるとは、想像すらしていなかった。
ミサトはあの腐海のような部屋でよく平然と寝ていられるわね…。
ミサトの害虫並みのタフさに半ば呆れつつも身体を丸くして咳に堪える。
昼間からずっとこの調子だ。何もしてなくても体力を消耗し、身体がだるくなっていく。
一瞬、ズボラなミサトとの同居を解消しようという考えが過ぎるが、向かいの部屋に気になる少年が寝ているのを即思い出し、思いとどまる。
あの女が掃除をすべきなのよ…。
絶対やらないと判っていても恨み言の一つでも言いたくなる。
アスカは唇を噛み締めながら、ミサトが帰ってきた後になじる言葉を幾通りも考えていた。
っていうか、バカシンジ…私がこれだけ咳をしてるのに気にならないわけ?!
アスカが向かいの部屋…部屋というよりも物置なのだが…で、寝ているであろう少年に怒りの矛先を変える。
こんな悲惨な状況下、同居を解消しないでいるのだから、苦しんでいる時くらい気付いて欲しい、というのが彼女の願いであったが、いくら咳をしようと、少年は気付く気配は無い。
あんの、鈍感~~!!!!
アスカの苛々が募った。
一方、気になる少年であるシンジはというと、物置部屋の中で身体中に出てきた蕁麻疹の為に痒がっていた。
どうやら彼もアレルギー体質のようだ。それも、ダニに弱いらしい。
何せ彼の部屋は元物置なだけに、いくら掃除してもダニやその死骸があるようなのだ。
彼はマメなので自分の部屋は頻繁に掃除していた。しかし、元々この部屋が物置だっただけに通気性が悪く、ダニは湧きやすいようだ。何よりも他の部屋…特にミサトの部屋あたりから侵入してくるらしく、彼がいくら掃除してもすぐにダニの巣窟と化すのだ。
…掻いちゃダメだ…掻いちゃダメだ…掻いちゃダメだ…!!
蕁麻疹は掻けば掻くほど痒くなる。しかし、掻かないと堪えられない。そして更なる痒みに再び掻く。この悪循環で彼の肌は既に真っ赤になっていた。
シンジは痒みに堪えながら、ふと自分の居る場所について考える。
…何故、僕はここに居るんだろう?
そう、この場所から逃げ出しさえすれば痒み地獄から解放されるのだ。
しかし、彼は人類の明日の明暗を分ける戦いに身を投じるエヴァンゲリオン初号機専属パイロット。立場上、何処にも行けない。そもそもパイロット自体は「乗るなら早くしろ。でなければ帰れ!」と、父親に言われているのでいつでも辞められるのだが、如何せん、彼は元居た親戚の家を半ば厄介祓いされるように、この第3新東京市までやって来たのだ。今さら昔の場所に帰れるわけもないし、ここに居る以外、彼に居場所はなかった。
…ミサトさん。せめてミサトさんさえ掃除してくれれば…。
咳をしているアスカ同様、彼も苦しんでいた。
次の日、体中を真っ赤にしたシンジと、喉をガラガラにしたアスカが、それぞれ自分の部屋から出てきた。
向かい合わせの部屋から同時に出てきた二人は、睡眠不足で目の下に立派な隈を作ってのご対面。しかし、互いの存在など既に忘却の彼方。肩を落とし、頭を項垂れ、ぐったりとした様子で二人揃ってとぼとぼと洗面所へ歩いて行く。二人の憔悴振りはさながら、徹夜明けの受験生のようだ。
洗面所でアスカは自分のコップの中に嗽薬を入れてうがい。シンジは濡らしたタオルで掻きむしった部分を冷やしていた。
そしてやっとそこで、ようやく互いの存在に気が付いた。
「なによ。アンダ、身体中がまっがじゃない?」
アスカがシンジの姿を見てガラガラ声で言った。
「そういうアスカだって、がらがら声…」
タオルで顔や腕を冷やしながらシンジは言った。
「ぎのヴざぁ~。あだじ、咳がどまんながったのよ?! アンダ、気が付かなかっだの?」
「だって、昨日はもう痒くて痒くて一晩中寝れなかったんだよっ!」
ぼろぼろの声であおろうとするアスカに、シンジが弁明をする。
「なんでよ?」
「僕の部屋はダニが多いんだよっ!」
「掃除ずりゃあいいじゃん」
「掃除はしてるよっ! だけど………」
そう言ってシンジは振り返り、アコーディオンカーテンが開け放たれた洗面所の入り口の方を見た。
洗面所の入り口から続く、ダイニングキッチン。テーブルの上には酒の空き缶空き瓶や、食べ残しがこびり付いたコンビニ弁当や冷凍食品の入っていた容器が山積みにされている。生ゴミ入れの中には鯖や鰯、ホタテなどの入っていた空のスチールやアルミの缶が溢れかえり、その横にはゴミの日の到来を待つ、"第3新東京市指定ゴミ袋"に詰め込まれた可燃ごみが幾つも重ねられていた。その惨状はさながら人の家であるのにここそのものがまるでゴミのようだ。
アスカはそれらをさめざめとした目で見つめながら、深いため息をつく。
「ミサドね…」
「ミサトさんだね…」
見事なユニゾンで二人は呼応する。
「アンダ、この前ゴミ捨でだんじゃながっだの?」
一応アスカはシンジに尋ねてみた。
「捨てたよ、全部。でも、三日も待たずにああなっちゃったんだ!」
「大体、なんであんなに溜まっぢゃうのよっ!」
「片付けても片付けてもああなっちゃうんだよっ!」
「なんどがなんないのっ?!」
「やれるだけやってるよっ!」
「はぁ~~」
アスカが「こりゃだめだ」と言わんばかりに深いため息をつく。
わざわざゴミ屋敷になった理由を質疑応答する必要など無いほどにミサトの生活破綻っぷりは二人にとって承知の事実だった。聞くだけ無駄なのを判っていながらこんなやり取りをしてしまう。
そもそも今、シンジを責めているアスカにしても、何もして無いわけではない。シンジほどの頻度ではないが、ゴミを溜め込まないように片付けをしているし、ゴミの日には当番さえ回って来ていればちゃんとゴミ出しをしていた。
しないのはミサトだ。やれ、仕事が徹夜だったの、今日は疲れているだの、残業があるからだの、理由を付けては当番を放り出す。当然ながらそのしわ寄せはシンジとアスカに回ってくる。
彼らとて、学業しながらのエヴァパイロット。普通の中学生より時間が枯渇しているのだ。食事はシンジが時々作る事があるが、時間が無い事には変わりない。アスカもシンジも、ネルフの食堂で食事を取る事もあれば、ファーストフードで済ませる日だってある。そういう日は確実にミサトはインスタントや冷凍食品を食い、食いカスや残った容器をその辺に放置するのだ。ミサトはそれらのゴミを分別しておこうという考えは無い。食ったら食ったまま。さすがにアスカもシンジも彼女の放置ゴミを見つければ注意してゴミをキチンと始末するように言うが、その場では適当に取り繕うだけで反省の色など微塵も無い。
おまけに変則的な生活を送るミサトは彼らの眠っている時間に帰宅して食う、飲む、そして放置。その後は自室でふて寝。こうしてゴミは蓄積し、そこからダニだのゴキブリだのが沸き、掃除する余裕も出来ないほど部屋の中を埋め尽くす。
普通の部屋の中がこうなのだから、ミサトの部屋に至っては、いわば魔境であった。きっと、人外のもののけが住まうに違いない。
二人は暫く押し黙っていたが、突然、アスカがコップを洗面台の棚にドン!と置いて吼えた。
「もういや!我慢出来ないっ!!」
「え?」
驚いたシンジがアスカの方を振り向く。
「除去よ。」
「は?」
「アレルゲンの除去よ…」
「アスカ?」
シンジは何のことだか判らなかった。
しかし、そんな彼の事などお構いなしにアスカは電光石火の勢いで勢いで洗面所を飛び出し、自室へと駆け戻っていく。部屋の戸を勢いよく開け、机の上に置いてあった携帯電話を手に取ると、まるで握りつぶすような力強さで短縮ダイヤルのボタンを押した。
「はい。こちら、特務機関ネルフです」
「ゴホン! セカンド・チルドレン、惣流・アスカ・ラングレーよ。技術部の赤木リツコ博士に繋いでくれるかしら?」
シンジがアスカの後を追うように、そろりそろりと彼女の部屋の前までやってくる。何をしているのかと様子を伺おうとして部屋を覗きこむと、ちょうどアスカが会話を終わらせようとしている所だった。
「……じゃ、お願いしますねっ!」
ピッ!
軽やかに電源ボタンを押して電話を切るアスカ。そんな彼女の様子に、シンジは首を傾げる。
「あの、何処に…電話かけてたの?」
恐る恐る尋ねるシンジに、アスカが口の端を歪めたいやぁ~な笑みを浮かべて言った。
「ダニ退治よ」
シンジは何の事だか、さっぱり分からず、やはり首を傾げた。
「たっだいまぁ~♪」
仕事も終わり、ミサトがノーテンキな声を上げながらマンションへと帰ってきた。
「仕事の後は、お風呂とビール♪ビール♪」
相変わらずノーテンキな事を言っているミサト。
しかし…。
「ネルフ作戦部作戦局、第一課長葛城三佐。お待ちしておりました」
ミサトはハッとして振り向く。そこには白い防護服にマスクをした、いかにも怪しげな格好をした男が数人立っていた。その出で立ちに、ミサトは身を構える。
「何よ、あんた達?」
「ネルフ総務部、衛生局清掃班及びネルフ技術課、整備部です」
衛生局清掃班…ネルフ本部内の清掃を担当する部署、そして技術課整備部はエヴァの整備及び機器点検を携わる部署である。簡単に言ってしまえば掃除屋と整備屋さん。華やかにエヴァを動かして活躍するネルフの裏舞台で地味に働く目立たない部署である。
「…で、そのあなた達が私の自宅に不法に侵入してきて何の用?」
作戦部作戦局の課長としてやや高圧的な態度に改めて問う。
「ネルフ医療部及び技術課長からの連絡で、チルドレン二名がアレルギー反応によるアナフィラキシーショック、及び呼吸困難の危険性があるとの報告で葛城三佐の自宅の点検、清掃、そして自宅内における葛城三佐に対する清掃整備のノウハウの指導を行なうようにとの連絡を受けて参りました」
「はぁ~????」
事情がさっぱり分からない。ミサトは強い語調に変えて彼らを再び問う。
「そんな命令、誰の許可を得てやってるのよ?!」
「チルドレン二名からの報告を元に、技術部技術課課長よりご連絡を受けた副司令からのご命令です」
シンジ君とアスカがリツコにチクって、更にリツコが副司令にチクったぁぁぁぁ?!
ミサトは瞬時に理解した。
「葛城三佐、ご同行を願います」
「って、ちょっと、ちょっと、ちょっと!!」
怪しげな白い防護服に身を固めた男達は強制的にミサトを連行しようとする。彼らの顔はマスクで半分隠れてどんな表情か完全には分からなかったが、目は意気揚々として笑っていた。
「ぷくくく……。くくく、あーーっははははははははは!!!」
物陰から様子を伺っていたアスカが連行されて行くミサトを見ながら馬鹿笑いをした。
「あははは!!!見た?見た?見た?ミサトのあの顔!おかしいったらありゃしない!!!」
「あ、アスカ…」
笑い転げるアスカの横で、シンジがオロオロする。
「あれでちったあマシになって帰ってくるわ!あーもー苦しい~!!!」
己が悪戯の大成功に、非常に悦に入っているアスカを尻目に、シンジはこの後にミサトが何かをしでかさないか不安で仕方なかった。
そうして一週間後…。
「シンジ君、玄関の戸棚に埃が付いていたわ」
下駄箱の上に指を走らせ、付いている埃をすーーーっと掬い取って呟くミサト。
「アスカ、それはアルミ缶なの。スチール缶とは一緒にしてはいけないのよ」
ゴミ箱の中にジュースを飲んだ後の空き缶を入れようとしたアスカにすかさず指導が入る。
ネルフで泊まりがけの"清掃指導"を受けたミサトは人が変わったかのようになっていた。
「生魚精肉の入っていたトレーは可燃ゴミと一緒にしてはいけない」とか、「ペットボトルは本体とキャップの部分は別々」とか「燃えるゴミの中に燃えないゴミを入れてはいけない」とか、細かいゴミの分類から絨毯の隅の埃の固まりにいたるまで事細かくミサトは指摘。
おまけにミサトはネルフ監査部の加持を抱き込んだらしく、ゴミの分別や清掃などが出来ていないようならば、チルドレンの護衛を担当するネルフ保安諜報部から報告が入り、ミサトの一言でネルフまでチルドレンを連行、そしてその後はミサトからのありがたぁ~いお説教とお掃除談義が待っているそうだ。
「だぁぁぁぁもう!あんの、三十路ばば~ああんぐう!!!!」
「だ、駄目だよ!ミサトさんに聞こえる~!!!!」
掃除をしながら、ついにはキレて大声を張り上げようとするアスカの口をシンジが慌てて抑える。
「はぁ~い♪お仲のいいトコロ。チョーッチ、ごめんねぇ~♪」
各部屋の壁に埋め込まれていた盗聴器から、ミサトの声が揚々と聞こえてきた。
「人の悪口なんて言ったら駄目よ~ん♪
そ・れ・と~♪気をつけないとシンちゃんとのあーんな事やこーんな事、バラすわよん♪」
見事な脅迫である。
さすがのアスカもバラされると困る事は多少なりともあるのでミサトの言う事を聞くしかない。
はたきを握りしめながら、アスカが吠える。
「こ、こ、こんちくしょぉぉぉぉぉぉ!!!!!覚えてやがれー!!!!!!!」
その後、アスカがリベンジしたかは定かではない。
おわり?