ベランダのプランターに植わっていたハーブが枯れた。
水は与えていた。
ただ、日差しが強くて、その陽光の強さに耐え切れずに枯れた。
真夏の暑さに、負けたのだ。
このハーブを育てていたのはそのベランダの部屋に住んでいた少女。
少女はもう、部屋には居ない。
いつも照り返す日差しから来る暑さ。
常時夏のこの国ではマンションのベランダは砂漠地域と同じようなものだった。
たまに部屋の中に入れてやらないと植物は干上がって枯れてしまう。
そして水を上げてもすぐに夏の強い日差しで土に吸い込まれた水は沸騰したように熱くなり、根を煮やして腐らせる。
このハーブを育てていた少女は枯れないようにマメに部屋の中に入れたり、色々世話をしていた。
ハーブは、彼女がプレゼントの為に育てていた物。
高価な物でなく、彼女が自分の力で育てた物。
彼女はそれを"彼"に贈りたかった。
「何かを育てるというのはいいことだ。」
彼女が尊敬し、敬愛していた人がそう言って自分の育てたスイカを彼女に食べさせた。
この時、彼女はこのスイカがいつも食べるものよりもずっとおいしく感じた。
彼女はハーブの種とプランター、そしてそれに入れる為の土を買ってきた。
ハーブの種の入っていた袋に書かれていた通りにそっと土の上に種を撒く。
そして水浸しにならない程度に水をやる。
自分の敬愛していた人が食べさせてくれたスイカを思い浮かべながら、
彼がこれを受け取った時の事を思い浮かべながら、
彼女はまだ芽も出ないハーブに水をあげた。
しかし彼女は、そのハーブの世話をしなくなった。
もう、育てる必要がなくなったから。
彼女はいつも彼や他の人前では強気でいた。
あざけり笑うように小馬鹿にしたり、ずっとそんな事ばかり。
他にどうしようも無かった。
自分の気持ちや思っている事を素直に伝える。
これは彼女にとってはかなり過酷な事だった。
何よりも自分がどんな風に他の人の事を思っているのか分からない。
親友の少女ですらうんざり思う事がある。
この親友は余計なお節介を焼く。そういう辺りが好めない。
気心の知れた同居人であり保護者である女性も同様だった。
この女(ヒト)はわざとらしい。そういう所でどうしても不審と疑惑の目で見てしまう。
さすがにそういう思いを当人達に知られるわけにもいかない。
それに、彼女はいつも暗く重苦しい思いを抱いている。
どうしようもないほどの寂しさ。
そういう思いを人に見られたくなかった。
そして他の人の、"自分に対する気持ち"を知るのは怖かった。
誰も、彼女の事は何とも思ってないかもしれない。
すぐ側にいるはずの"彼"も、彼女の事を何とも想ってないかもしれない。
他の誰かと比べて、自分はさして重要な存在でも無いかもしれない。
そう想うと人の気持ちを確かめるのが怖くなった。
自分を知られない為にも。
人の自分に対する本当の思いを見ない為にも。
彼女は自分を偽り続けた。
そんな思いが交錯する中、彼女はこのハーブを育てていた。
伝える事の出来ない自分の思い。確かめる事が出来ない人の気持ち。
自分の力で育てたハーブ。
高価なプレゼントよりもずっとまごころを込めたもの。
もしかしたらほんの少しでも自分の想いの欠片を伝える事が出来るかもしれない。
彼女は無意識にそう思いながら水をあげていた。
しかし、ある日彼女が耳にした事。
それは彼とその友人との何てことも無い世間話だった。
たまたま側を通りがかった時に聞こえた。
「…アスカは夏の太陽みたいにギラギラしててさ、ついていけないよ。」
「……側にいると落ち着かないんだ。」
「…――は、側にいると気持ちが安らぐんだ。」
「…でも、アスカは側にいると疲れるよ…」
この言葉を耳にしたとき、彼女の中にどうしようもないほど悔しさと、そして寂しさが込み上げてきた。
その日から彼女はハーブの世話をろくにしなくなった。
水はあげていた。
ただあげていただけ。
夏の日差しにやられないように部屋の中に入れたりしない。
ハーブに気を遣う事はなくなった。
ただ、水をあげる。それだけ。
彼とも用が無ければろくに口をきかなくなったし、側に寄る事も無くなった。
落ち着かなければ側に寄らなければいい。
そんな短絡的な考えが彼女の中に過ぎっていた。
ハーブは夏の日差しの強さと暑さで次第にしおれていった。
ある日、ベランダでしおれかけたハーブを見て彼が言った。
「…ちゃんと世話したら?」
リビングでテレビを流し見していた彼女がめんどくさそうに彼を見上げる。
「…なんで?」
彼女は眉間に皺を寄せながら嫌々問い返す。
「このままじゃ枯れちゃうじゃないか。」
しんなりと葉を垂れ下げているハーブを見ながらそれに対して哀れみを込めて彼が言う。
ハーブを哀れんでいる彼に、彼女は眉間にますます深い皺を寄せる。
「…アンタが世話すれば?」
そう冷たく言い放ち、彼女は彼から顔を逸らして再びテレビの方を見る。
テレビはお笑い番組がやっている。
何がおかしいのか分からないが、テレビの中の人は笑っている。
笑いを取ろうとしているコメディアンが彼女には面白くも何ともなかった。
「…何だよ、それ。」
ひたすらテレビの方を見る彼女を見て、彼が非難めいた様子で言う。
そんな彼のいい口調に、無関心を装って彼女はさり気に言った。
「…めんどくさくなったもん。」
そんな彼女の様子に今度は彼の方が眉間に皺を寄せる。
「…じゃあ、最初からやめておけば良かったのに…。」
テレビの中の人達の笑い声は聞こえないのに、彼のこの声だけは彼女の耳に響いた。
この日から彼女はハーブに水すらあげなくなった。
水をあげなくなった彼女の代わりに彼がハーブに水をあげるようになった。
しかし、ただ水を与えていただけで枯れないように世話をしているわけではない。
彼女が放棄した事に、彼が手を貸す事は無かった。
彼女がハーブに水をあげなくなって、ほとんど彼と接触を持たなくなった。
そして彼女は学校へ行く事がなくなった。
彼女にとって、しても意味が無いと思える事は一切しなくなった。
しばらくして、彼女は自分にスイカをくれた人が何処にも居なくなっているのに気が付いた。
電話や人伝に連絡をつけようとしても繋がらない。
そんな彼女の目に映ったのは、楽しげに無表情な少女と話をしている"彼"の姿。
そんな情景に、彼女の表情が曇った。
それからまもなく、彼女は戦いに駆り出された。
出た先で見たのは、彼女の黒い想いと心。
そして思い出したくない過去そのもの。
他人への思いと彼女の心の片隅でくすぶり続けている想い。
助けを求めて手を伸ばしても、誰一人手を差し伸べてくれない。
そうしている内に彼女の心の目にあるものが映った。
敬愛していた人の後ろ姿と"彼"の笑顔。
敬愛していた人は彼女を置いて、何処かに去って行く。
すぐ側にいたはずの"彼"は、彼女の存在に気が付かない。
彼女は悲鳴にも似た叫びを上げた。
声にならない叫び。
誰にも聞こえない、彼女自身の心の中で。
彼女の心が枯れていく。
誰にも気が付かれることなく。
ある晴れた日、
その日は家の中で少年と少女の言い争いが絶え間なく響いていた。
唐突に少年の言い捨てるような声が部屋中に響いた。
「…だからっ!加持さんはもう居ないんだよっ!!」
それを聞いた少女は愕然とした表情をした。
「―ウソ。」
少女の脳裏に、かつてスイカに水をやっていた、敬愛していた人の姿が浮かぶ。
そして今、その目に映るのは彼女の心を枯らした少年。
その日から少女はその場所から居なくなった。
彼女が居なくなった部屋のベランダにはひっくり返されたプランターと中に入っていた土くれ、
そして枯れたハーブが散らばっていた。
それが彼女の心そのものだと知っている者は、誰一人居なかった。
Fin.