シンジが研究棟の廊下を歩いて居たら、研究室の出入り口の近くで女性達が集まってヒソヒソと噂話をしていのを耳にした。
「ねぇ、第一研究室の碇君ってさ…」
「…そうよね、やっぱりそう思う?」
「…てゆーかさぁアレは…ねぇ?」
はっきりと聞き取れなかったが、自分の事であるのは分かった。
シンジが廊下の真ん中でじっと見ているのに気づいた彼女達は、ハッと驚いて、一斉に蜘蛛の子を散らすように足早に去って行く。
アスカと結婚してからというもの、ずっとこんな調子だ。
特に最近酷くなっている。
シンジは女性的な顔つきと言われたり、甘いマスクだと言われたりはしたが、特に奇抜な性格というわけでもなかったし、割と大人しい方だったので、言うほど目立つタイプではなかった。
しかし、元エヴァのパイロットであっただけに、そのネームバリューはかなりのもので、時々噂をされさたりしていた。さらに同じパイロットだったアスカと付き合いだした頃は渦中の人もいいところで、噂話のネタにされるわ、あちこち追い回されるわで、なかなか思うように行動が出来ずにいた。
でも、大学を出て、そのままアスカと結婚し、今勤めている研究施設へ就職して、最初の数日間はそんなに目立っていなかった。
しかし、結婚して数日経ってから妙にヒソヒソと女性に陰口を言われる。
シンジは最初の1.2ヶ月は、今の仕事に慣れない為か、気にしないでいたが、仕事に慣れて、余裕が出てきてからは、頓に気になり始めた。大体、それほど酷い仕事ぶりはしているつもりはないし、研究施設の上司にはそんなに悪い評価はされていない。
なのに、この陰口のようなヒソヒソ話。
一体なんなのか、シンジは疑問に思って仕方が無かった。
他の男性職員や同僚に、何故なのか、何を噂されているのか、シンジは尋ねたことがあったのだが、何故だか、「死なない程度にがんばれよ」とか、「まぁ、これも宿命みたいなもんだ。諦めろ。」とか、「若いからな…。そのくらいは我慢しろ。」とか、わけのわからない返答をしてきた。
シンジにはこの言葉の意味がさっぱり理解出来なかった。
「碇君…。」
同じ研究所に勤めるレイがシンジに声をかける。
「あ、綾波。」
「…どうしたの?元気、無いみたいだから…。」
レイが表情は少ないが、心配気に声をかける。
「ああ、いや、何でもないんだ。気にしないで…。」
シンジが慌てて両方の手を振り、なんでもないと言わんばかりのしぐさをしてレイに答える。
「…そう。」
レイはいつもながらの味気の無い返事をする。
「あ、僕、まだ残っている仕事があるから…。
綾波、ありがとう。じゃあ。」
そう言ってシンジは慌てて回れ右をして、その場から急ぎ足で歩き出した。
レイはそんなシンジの姿を見ながら、ボソリと呟いた。
「…碇君の匂いがする…。」
レイのこの声はシンジの耳に入った。
…匂い?僕の匂い??
何か、奇妙なモノにとり憑かれたような、そんな恐怖感がシンジの背に走った。
シンジは逃げ出すようにかなりの早足でその場を後にした。
「ただいま…。」
シンジが気のない声を出しながら自宅マンションの玄関のドアを開ける。
「あっ!!おっかえりーシンジ♪」
アスカが元気な声で返事をする。
「ああ、ただいま…アスカ…。」
シンジはアスカへ疲れきった様子で返事をする。
アスカはシンジと同じ研究施設で働いている。ただ、アスカはシンジと違って非常勤だった。研究所は彼女を最初、常勤にするつもりで雇ったのだが、結婚を理由にアスカは、常勤の研究員になることを拒んだ。研究施設の人事の長や研究施設の上役などは彼女の有能さから彼女をかなり説得したりしたのだが、アスカは頑として聞き入れなかった。
アスカ曰く、「結婚生活の方が優先よっっ!!」らしい。
シンジはいかにも疲れきった様子で、首のネクタイを緩めて、着換えようと寝室の方に向かう。
「…なーんか、シンジってば、お疲れモードねぇ。」
寝室まで、足を引きずるように歩くシンジに、アスカが心配気に声をかける。
「うん…。ちょっと…ね。」
シンジが憂いのある顔をして答えた。
「もう!辛気臭いわね!!
私たち、一緒に暮らしてるんだからさ、何があったのか、正直に答えなさいよっ!!」
アスカが強気に言う。
「…うん、実は…。」
シンジは今日あった出来事をアスカに洗いざらい言った。
「やーねー、仲のいい私らに対するやっかみかしら?
ファーストも気味が悪いわよねぇ。 まぁ、そんなの、気にしちゃダメよ。
さ、今日はアスカ特製のカレーよっっ!これでも食べて、元気出しなさいよっ!!」
アスカが皿に大盛りのカレーを注いでシンジに渡す。
アスカは料理を作り始めた最初の頃は、とてもじゃないが食べられるような物を作れなかった。しかし、しばらく経ってから彼女はすっかり腕を上げて、シンジの舌を巻かせていた。中学の頃などはほとんどシンジが料理をしていたが、最近ではアスカが台所をしっかり取り仕切りっていて、シンジに料理を作らせない。しかし、手料理を作るアスカにシンジは、「ああ、これが幸せっていうのかな…?」などと、すっかりのぼせあがっていたので、自分が作れなくても特に気にもとめていなかった。
「じゃ、いただきます。」
シンジがカレーをスプーンですくって口に運ぶ。
この時、アスカが"ニヤリ"と笑ったのを、彼は気がつかなかった。
「よぉ!!相変わらず夫婦仲ええのぉ。」
休日、トウジが久しぶりにヒカリを連れて碇家に遊びに来た。
「あら~、お久しぶりねぇ。」
「やあ、久しぶり。上がってよ。」
「お邪魔します。」
四人は久しぶりに和気藹々と話をしていたが、そのうちアスカとヒカリが二人して出かけたいと言って出かけたので、家の中にシンジとトウジの二人だけになった。家の中に二人きりなったシンジとトウジは、最初昔話に花を咲かせていたが、そのうち、トウジがシンジに顔をしかめながら言った。
「よぉ、碇。おまえ、匂うぞ。」
シンジは「はぁ?」という顔をしたが、トウジがそのまま、
「夕べ、ニンニクでも食うたんちゃうかぁ?」
と、言ったのでハッとした。
この前、レイが「…碇君の匂いがする…。」と、言っていたのを思い出した。つまり、シンジは今までニンニク臭さを振りまいていたのではないかと。よく考えたらここのところずっとアスカの手料理を食べている。アスカが夕飯の材料とかにニンニクを頻繁に使っていたのではないかと、思い至った。
シンジは、アスカとヒカリが戻ってきて、トウジ達が帰っていったのを見計らってアスカに聞いた。
「ねぇ、ここのところずっとヒソヒソ囁かれたりしてたのってさ。
アスカが夕飯とかにニンニク使って、僕がそれを匂わせてたからじゃないかな?」
「何よ、料理にニンニク使って悪いの?」
アスカが眉間に眉を寄せて言う。
「…だってさ、なんか臭いのってイヤじゃないか?
ねぇ、ちょっとニンニク使うのさ、控えてくれない…かな?」
シンジが眉をひそめるアスカに何気ないようにそう言った。
しかし、アスカはこれを聞いて両手で肩を抱いて、哀しそうな表情をして、俯いた。
「え?え?ど、どうしたの…?」
アスカのそんな様子にシンジは焦った。
「…シンジ、私達、結婚してどのくらい経つ?」
「えっ…えっと…半年…かな?」
唐突の質問に、シンジは戸惑ったが、なんとか答えた。
「…子供、出来ないわよね…。」
アスカが哀しげに呟く。シンジはこの言葉にハッとした。
確かに自分たちは結婚して半年。しかし、アスカが月モノの日以外は、毎晩一緒に過ごしている。なのに、そんな予兆も何も、微塵もなかった。
「…わかってるの、シンジががんばってるってことくらい。
でも、私、シンジの子供が欲しいの…。
だから、シンジがいつも元気でいられるようにって…」
アスカが切なげな目をしてシンジに囁いた。
「ア…アスカ!!」
シンジが感極まって、アスカに抱きついた。
「ゴメン!ゴメンね、アスカ!!僕が至らなかったばかりに…!!」
「うん、うん。」
「僕も、二人の子供が出来るように、がんばるから…!!」
「うん、うん。」
二人はひしと抱きしめあった。
しかし、シンジの胸に抱かれるアスカがこの時、"ニヤリ"と笑ったのを、シンジは気がつかなかった…。
夜、夫婦の営みも終わり、疲れ果てて静かにベッドで寝息を立てているシンジを尻目に、アスカが明日の為の計画を立てていた。
「バレちゃったけど、とりあえず上手くチョロまかせたわね。
っていうか、単純バカよねぇ~」
アスカは安らかに眠るシンジをじっと見て、口の端をゆがめて笑う。
「…避妊薬使ってんだから、そう簡単に出来るわきゃないじゃん。
ほんっっとう、バカよねぇ。ま、あと半年くらいは楽しみたいしぃ~。」
そう、アスカは避妊薬を使っていたのだ。
子供が出来たら、当分は夫婦の営みなるものが出来ないのは必然である。さらに生まれた後も世話に追われてそれどころではなくなるのは明白。若いアスカはまだまだ色々と"したい"年頃なので、そう簡単に出来てしまっても困るのだ。
何よりも彼女は、"採取出来るものは採取していた"ので、たとえ、シンジが不能になろうとなんだろうと、まったく心配はしてなかった。そう、"シンジから無断で採取したモノ"と"自分から採取したモノ"があるので明日にでも人工授精でもなんでも、やろうと思えば出来たりするのだ。一応、これらは何らかの事故などに遭って子供が出来なくなった時や、本気で子供を作ろうとして出来なかった時の備えでもある。
彼女に抜け目はなかった。
さらに言えば、たとえ避妊薬が上手く効かなくて自然に出来てしまっても、まったく気にしない。というよりも、彼女にとって望むところだった。
しかし、シンジの周りにうろつく"敵"(つまり女性達)を、しっかりと撃退しなくては、アスカは気がすまなかったし、安心出来なかった。
大体にして、"出来ちゃった"日には、シンジもしばらくアスカとはなーんにも出来ないので、その間に彼に浮気されかねない。作るにしても「しっかりと下準備をして安心出来うる状態」にしないと、彼女は枕を高くして眠れない。
大体アスカが研究施設で仕事が出来るのにも関わらず、非常勤になったのも、"シンジの監視"をする為なのだ。常勤では余計な仕事を押し付けられて彼の監視をする暇がなくなるし、専業主婦では彼の職場で監視が出来ない。
そして、シンジと同じものを食べているアスカ自身は匂うかというと…。
そうではない。彼女は食後の匂い消しなどのアフターケアを欠かせていないのだ。
考えうる限り、あらゆることを想定した上での計画的犯行である。
アスカはあれこれと策略を練る。
「とりあえず、大多数の女はいいとして、問題はファーストよね。
あの匂いをヘとも思ってないみたいだわ。
あの女をどう撃退するかが今後の課題よね。」
レイは元々ニンニクは嫌いではなかった。というよりも、むしろ好物だった。最近ではシンジから漂うニンニクの匂いを、「碇君の匂い」とすら思い始めているようである。非常に危険だ。
「アスカぁ…。」
アスカの横に寝ていたシンジが、寝返りをうって彼女の名を呼ぶ。彼女との幸せな夢でも見ているのだろう。
そんなシンジを見ながらアスカはふと思う。
「…腎虚になってその気も失せるほど搾り取るというのも、アリかもしれないわねぇ。」
アスカが"ニヤリ"と笑った。
この後、シンジが天国(それとも地獄?)を見たかどうかは、定かではない。
END?