知る カルチャー創作現場などを訪れ歴史を学ぶ
寺院が集中「忍たま」の源――尼子騒兵衛さんと行く尼崎・寺町2009/04/16配信
中世に京の都と西国を結ぶ港湾都市として発達した尼崎。江戸時代に入ると、徳川幕府は大坂の西の守りを固めようと、譜代大名の戸田氏鉄に4層の天守がある尼崎城を築かせた。城の西に寺院を集めて管理するとともに、城下町防衛の役割も課した。 その寺町界隈は戦災で一部が焼けたものの、今も市街地中心部の約4ヘクタールに11カ寺が集中する地域。尼崎に4代以上前から住んでいる尼子さんの菩提寺、法園寺も寺町にある。「乳母車のころから来ています」。墓参りでは「江戸時代にちょんまげを結った人がここにいたんだ」などと想像しては楽しんでいたという。 中学生のころには寺町周辺の骨董(こっとう)店や仏壇店をのぞくなど歴史好きになっていた。「昔の人を知ったり考えたりして、友とするのが楽しいんです」。身の回りに自然な形で歴史があったことが「尼子ワールド」の源なのかもしれない。京都や奈良にも足を運び、鎧(よろい)などを模写したスケッチ帳は今も役に立っている。
法園寺には豊臣秀吉に切腹を命じられた悲運の武将、佐々成政の墓碑がある。貴田亘輝住職が成政公を描いた秘蔵の掛け軸を見せてくれた。「有能だが、気の毒な人。冬の北アルプス越えをするなど、私には日本のハンニバル(ローマ時代のカルタゴの武将)のイメージです」と、尼子さんは想像力をかき立てる。 全昌寺は甲賀忍者と親しかったといわれる戸田氏鉄の菩提寺。広徳寺には、秀吉を巡る異聞も伝わる。本能寺の変の後、伏兵に追われて単身、寺に逃げ込んだ秀吉が、台所で味噌(みそ)をする僧に紛れて追っ手をかわしたと伝わるすり鉢とすりこぎが残っている。多宝塔と本堂が国の重要文化財になっている長遠寺、珍しいレンガ塀の善通寺、平清盛の嫡男、平重盛の菩提寺の専念寺など、どの寺にも由緒がある。 寺町の東にある尼崎城跡。当時の建物はないが、「掘ればいろいろ出てくるんです」と尼子さん。通っていた城内小学校(現明城小)には「地下に城の抜け穴がある」という学校伝説があった。中庭から戦国時代の鎧が掘り出された際には「顔を覆う面頬(めんぼお)をつけた悪ガキが『取れんようになったー』とふざけてましたね」と当時を思い出して笑う。校庭には戦前に児童らが造った尼崎城天守閣の模型が残っている。 再び、寺町へ。「昔はだんじりのお囃子(はやし)をまねて、お寺の壁を箸(はし)でたたいてまわる子らが遊んでいたもんだが」。法園寺の前のたこ焼き屋のおばちゃんがぽつり。確かに街角にそれらしい影はない。 と思っていたら、善通寺の近くの空き地で、現代の「忍たま」たちが泥団子をこねていた。合戦の準備だったのだろうか? (神戸支局長 宮内禎一) あまこ・そうべえ 兵庫県尼崎市生まれ。仏教大史学科卒。学生時代から漫画を描き始め、1986年から朝日小学生新聞に「落第忍者乱太郎」を執筆。93年にNHKで「忍たま乱太郎」としてアニメ化された。ペンネームは尼崎出身で騒々しいことに由来する。時代考証にこだわり、刀剣や火縄銃などを収集。
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