仮説昭和42年の阪神電車西大阪線延伸中断原因は地盤沈下であった!
昭和42年着工、同中断の図面と平成13年11月事業認可された際の図面との違いを分析
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since2006.03.29
@昭和42年着工、同中断の図面案の傾斜の説明
西九条駅レールレベルはOP+15.000m
安治川上(1k281m893:千鳥橋駅を起点とするキロ程)で35‰の傾斜開始、中央大通南側地点2k028m00で2‰に傾斜変更(旧地下九条駅北端駅≒新地下九条駅北端)この距離746.107m。
このときの高低差は746.107×35/1000=26.113745
安治川上はOP+15.000であったので水平距離746.107mの中央大通南側地点ではOP−11.113745m(地下駅のレールレベル)であるはず。
図面では18.194(縦曲線を考えない直線的な設計レールレベル/レールは緩やかな縦曲線でつながなければならないが、設計上は屈曲線で表示されているその屈曲部分の高さ)と表示されている、これは阪神独自の数値でこの数値から29.308を差し引いた数字がOP数字となると表示されている。
18.194−29.308=−11.114mであるので上記計算式の正当性は証明された。
※‰:パーミル:一〇〇〇分の幾つであるかを表す語。一〇〇〇分の一を一パーミルという。千分率。:三省堂提供「大辞林 第二版」
※35‰とは1000mの水平距離で35mの高低差を生じる
A平成13年11月事業認可された際の面案の傾斜の説明
西九条駅レールレベルはOP+14.767
安治川上(0k382m900:西九条駅を起点とするキロ程:千鳥橋起点は920m加算/西九条駅を起点とするキロ程を新と表示)で35‰の傾斜開始@とは傾斜開始位置が約20m南に設定されている。またレールレベルが0.233m沈下?しているにもかかわらず35‰で設定しているのは交差する都市計画道路西九条松島線において高架下を4.7mの道路基準に適合(0k629m600位置:西九条駅を起点とするキロ程)させるためでありこの位置以南は40‰に傾斜は変更されている。
ちなみに@の傾斜変更位置(35‰→2‰位置)旧2k028m(OP−11.113745上記@計算結果値)=新1k108m(千鳥橋と西九条間は920mであるので2028m−920m=1108mとする)では約OP−13.05m(図面明記位置;傾斜切り替え位置1k116m650位置40‰→5‰ではOP−13.350mと表示されていることから新1k108位置の基面高はOP−13.04725mである。1116m650−1108m00=8m65高低差は8.65×40/1000=0.346mが生じる。1116m65位置でOP−13.350なら1108m位置ではOP−13.350+0.346=−13.004になる)@にて計算した1k108位置の基面高OP−11.113745より2mほど深い。
○:安治川上のレールレベルが23センチも沈下?しているにもかかわらず傾斜開始位置が南にずれているのは基礎のしっかりしている高架基礎部以上に付近が沈下しているため都市計画道路西九条松島線との交差部において道路基準の高架下高さ4.7mを確保するためである。
西九条駅のRLは昭和42年図面ではOP+15m現在の計画図面ではOP+14.767m23センチも沈下?
(現計画図面711.760ポイントでは旧OP+14.66現OP+14.427(此花区此花会館付近)745.760ポイント旧OP+15.00現OP+14.767(西九条駅傾斜角0‰箇所)382.900ポイント旧OP+15.00現OP+14.767(安治川橋梁上傾斜開始地点)すべて23.3センチの差です。これは基礎が深い駅舎部分で、沈下ではなく基面を操作したかと思われます(九条へ延伸のため不要な高さを削った?)
阪神電気鉄道80年史には以下のようなことが書かれています(抜粋)
本線新淀川橋梁打上架設工事(P311からP312) 本線淀川橋梁は、明治38年2月竣工以来部分的な補修を加えながら半世紀の使用に耐え、戦後の輸送力増強にも構造上の強度は十分適応できた。創業期の設計が優れた先見性に支えられていた証左であった。本線新淀川橋梁架け替えは、昭和初期から始まった大阪南部の地盤沈下が動機であった。 この橋梁に対する地盤沈下の影響は、河床内の橋脚よりも、まず左右両岸の橋台の沈下となつて現れた。このため、2度にわたって両岸橋台を延約90cm打上してこれに対処していた。さらに昭和23年11月〜26年5月の間には、将来の車両大型化に備え、橋桁の強化工事を行うとともに、一部橋脚に鉄筋コンクリート被覆(厚み150cm施行した。 一方、橋梁付近の堤防は、ジェーン台風後の高潮対策事業としてOP+7.0mの打ち上げ工事が急速に進んでいた。この結果27年秋には、取り残された軌道部分が「恰も堤の内外に通ずる陸閘を設置した形態」(工事説明資料)となった。(編注:OP=Osaka Peilの略。大阪湾基準面、最低潮位面をOP=0とし、現在では、茨木市福井にある国土地理院の基準水準点標石の直下65mをOP=0と定めている。)。 当社は、すでに昭和25年6月、建設省近畿地方建設局に対し、淀川改修工事に伴い橋脚の不等沈下を生じている現況にかんがみ、同工事に関し「特別の留意」を求めた要望書を提出していた。27年7月には、さらに、河川管理者において橋梁改修を図られたい旨の陳情を行い、1年後にも、同様主旨で再度陳情した。 この頃から、戦後やや鎮静していた地盤沈下は再び激しくなり、昭和28年の調査では、建設当時と比べ右岸(神戸方)橋台は2.32m、左岸(大阪方)橋台は1.94mの累積沈下量を示した。橋脚の不等沈下も加わり、昭和30年には、橋脚上部に打上材を継ぎ足して補修を行った。昭和34年9月の伊勢湾台風、36年9月の第2室戸台風は近畿地方に大きな損害を与えた。特に第2室戸台風は、大阪市の地盤沈下地帯に甚大な高潮被害をもたらした。 |
この文面から駅舎の頑丈な基礎部分でも地盤沈下がありえるのかな???
地盤沈下については
大阪市の地盤沈下は昭和3年の水準測量の結果、その現象が指摘され、昭和9年の室戸台風による甚大な高潮被害によって注目されるようになった。それ以来水準測量及び観測井による実態把握が組織的に行われるようになった。昭和10年から昭和17年頃までは産業が発展し、地下水需要が増加した時期で、地盤沈下も激しく、年間沈下量の最大は20pを越えた。しかし、昭和18年から昭和24年頃の戦争末期と戦後の混乱期にかけては、東京の場合と同じく、ほとんど地盤沈下は停止している。ところが、昭和25年頃からは経済成長とともに再び沈下が激しくなり、昭和35年頃のピーク期には20p以上の年間沈下量を記録した。
その結果、昭和36年9月の第二室戸台風により、大きな浸水被害を出すことになった。大阪市では、すでに地下水の採取規制や工業用水道の建設などの対策を講じていたが、その結果が現れたのは、昭和38年以降のことで、その後、地盤沈下は急速に鈍化した。 http://www.env.go.jp/water/jiban/98/27-1.htm
とあるように38年以降は沈下は鈍化している。
このころ阪神は
昭和21年11月8日近鉄との共同発起野田桜川鶴橋間の高架複線計画案申請、
昭和21年11月20日西大阪線:千鳥橋西九条間申請、
昭和23年 9月25日西大阪線:西九条難波間申請、
昭和33年 3月28日西大阪線;難波乗り入れ近鉄相互乗り入れが都市交通審議会答申3号に盛り込まれる
昭和34年 2月23日西大阪線:千鳥橋難波間認可
昭和40年10月27日西大阪線:西九条九条間施工認可
昭和42年の設計と今回の設計の地盤高の平均差は56センチ(昭和40年10月26日の日付のある図面の平均地盤高はOP+90.4センチ、今回の計画図面平均地盤高はOP+34.0センチ)もあるのは設計が42年ごろの地盤高を反映したものではなく昭和33年の答申3号時もしくは昭和34年の千鳥橋難波間認可時の地盤高を基準に設計していた。
(大阪市環境保険局環境部:大阪市水準測量台帳西−45,九条公園基準の平成13年基準高はOP−11.32センチであり、56センチの差があるというのはOP+44.68センチでなければならない。OP+44.68センチというのは水準測量成果表の昭和32年値はOP+52.87センチ昭和33年値はOP+42.72センチこの数値は設計地盤高ではなく水準測量点高であるのであくまで推測ではあるが、昭和32年もしくは昭和33年の水準点を設計の基準値としたことが推測される)
ちなみに昭和42年の水準測量点高はOP−5.96センチ平成13年水準測量点高はOP−11.32センチ沈下量はわずか5.36センチであるので42年の地盤高を反映しているとは思えない。
昭和42年の設計図は当時の地盤沈下を反映していなく実際の地盤高と54センチの差があり(西―45地点付近の設計地盤高の差の54センチ高低差は当時の35‰傾斜なら水平距離15.428m(0.54×1000/35)必要であり中央大通までにもぐりこめないばかりか、下水配管にも影響し延伸できなかった。
つまり昭和42年の中断は地盤沈下が大きな原因であった。
(昭和32年もしくは昭和33年の水準点を設計の基準値としたことが原因であると推測される)