1900年代の初め、アメリカのマザーズデイという田舎町に、一組の夫婦が住んでいた。
夫の名前は新聞記者を務めるジョージ、妻は絵描きのマリアで、ジョージとマリアとの仲のよさは、他の夫婦からもうらやましがられるほどであった。
 しかし、はるか遠くにそびえる、ホーリーローリーマウンテンの山頂に、巨大な黒雲が覆われてから、その周辺は不吉な事件が続発した。
家にあるものが、生きてるがごとく飛びまわったり、突然行方不明になった人が、翌日記憶をなくして戻ってきたりなど…。
好奇心旺盛なジョージは、それらの事件を調べるも、これといって有力な手がかりが得られず、しばらく後今度はジョージとマリアが行方不明になるという騒ぎが起こった。
町の人々の衝撃と悲しみは、他に例えようのないほど深く、無事に2人が帰ってくるよう神に祈るだけであった。
 その祈りが通じたのか、2年後にジョージがマザーズデイに戻ってきたが、髪の色が真っ白に変わってしまい、ほとんど別人になってしまった。
町の人に、行方不明になったときの事を聞かれても、何一つ話そうとせず、マリアのことになると不機嫌そうな顔になり、人々を追い払った。
そして、自宅に閉じこもったまま、超能力の研究に没頭するようになった、新聞記者に復帰することなく…。
月日が経つにつれて、町の人々はジョージの噂をすることがなくなった。
だが、人々は妻のマリアが、とうとう帰ってこなかったということを忘れてはいなかったのだ。
 時は流れ、ジョージが住んでいた家は既に取り壊され、新たにジョージのひ孫にあたる少年とその妹2人、母親の4人で暮らしていた。
父親は出張中だったが、少年は父親代わりとして、妹達や母を助け平和に暮らしていた。
 ところが、1988年のある日、ホーリーローリーマウンテンの山頂に、再び巨大な黒雲に覆われてから、平和な暮らしは一変した。
かつての惨劇が、ホーリーローリーマウンテンの周辺に、またしても起こっていたのだ。
少年の家でも例外でなく、電気スタンドなどが激しく飛び回ったが、少年は力でこれをねじ伏せる。
その後、父親からポルターガイスト現象の事を聞いた少年は、母親や妹達に「自分の家や、他の所で起こっている不吉な現象を突き止めて、みんなを守ってみせる!」と言い、家を飛び出した。
かくて、ジョージのひ孫は、昔の惨劇を防ぐために、その元凶を断つために冒険の旅に出ることとなったのである…。

MOTHER

現実的な、でも現実的ではない物語

発売日:1989年7月27日   発売元:任天堂   ジャンル:RPG
値段:6500円   おすすめ度:4(本編周りのネタがナイス)

 コピーライター糸井重里氏による、MOTHERシリーズの第1弾。
職柄的に無縁な糸井氏が、RPGを制作したのは、『ドラゴンクエスト』をやりだしたことにある。
この時糸井氏は、ドラクエをやりだして、映画的な作り方に似ていると感じた。
同時にRPGは、シナリオライターとプログラマーの手によって作られることも思い始めていた。
 そこで、様々な小説を読み漁り、様々な映画を鑑賞したりしながら、糸井氏の思い描いたRPGが世に出ることになった。
それが『MOTHER』であり、任天堂初の本格RPGとなった。
 任天堂のRPGといえば、主に『ゼルダの伝説』が挙げられるが、ゼルダはアクション要素を取り入れたRPGであるのに対し、MOTHERはドラクエ風の絵と文字による本格RPGであった。
当然、発売前における各ゲーム雑誌の扱いは大きく、レビューについても高評価を下している。
また、ドラクエなどとは一味違ったRPGとしても注目されていた。

 では、MOTHERにおける一味違ったRPGとは、いったいどういうものなのか。
MOTHERが目指した要素、それは現実さであった。
『ドラゴンクエスト』にしろ『ファイナルファンタジー』にしろ、内容やシステムが違うとはいえ、剣と魔法のファンタジーRPGについては共通していた。
 だがMOTHERは、あえてそれを外して現代風にアレンジした。
アイテムは、『〜の剣』とか『〜の盾』といったものは登場せず、バットやフライパンといった身近にあるものが登場している。
敵についても、スライムやゴブリンなどではなく、おじさんや野良犬といった身近にあるものを題材にしている。
 つまり戦闘では、襲い掛かるおじさんや野良犬を、バットやフライパンで殴りつけるのである。
現実に考えれば、まさに凄惨以外何者でもないが、これもリアリティに即したものといえる。
しかし、おじさんやおばさんといった人は『我に返った』となり、野良犬やカラスといった動物は『元に戻った』となるなど、このゲームでは敵に対して『死』の概念がない。
もちろん、宇宙人や機械に対しては『倒した』とか『破壊された』といった死の概念が存在するが。
 味方についても同様で、死亡ではなく『意識不明』と表記される。
生き返らせるのも、蘇生ではなく『カムバック』となっているのだ。
このゲームにおいて、意識不明者をカムバックさせるには、病院で『治療』することになっており、生死についても現実的な解釈がなされている。
 RPGに必須な魔法も、ここではPSIと解釈されている。
すなわち超能力のことであり、火を放ったり防御力を上げるものなども、この世界では超能力として存在している。
これを、よく表しているのがテレパシーであり、所々のイベントでは重要な役目を持っている。
例えば、主人公の家の前にいる愛犬ミックに使ってみると、重要アイテムが手に入るヒントが得られたりする。
よって、RPGでのMPは、『PP(サイコパワー)』に変更された。
 ちなみに、超能力の1つであるテレポーテーションは、ドラクエのルーラ同様今まで行った場所なら一瞬でワープできるのだが、そのためには『大いなる助走』、すなわち長い距離を走らなければならないのだが、その間は障害物にぶつかってはならない。
ワープするときに、わざわざ走らなければならないことも、PSI自体一種のリアリティを物語っているのかもしれない。

 ゲームシステムも、より現実に近い処置が施されている。
コマンド名において、『しらべる』は『チェック』に、『道具(アイテム)』は『グッズ』に変更された。
 金の入手において一般のRPGでは、敵を倒すと経験値と金が手に入るが、ここでは金は手に入らない。
金は、敵を倒すごとに、出張中の父親が銀行に振り込んでくれるのだ。
それを、主人公が持つキャッシュカードを使いながら、デパート内にあるキャッシュディスペンサーで金を引き出すのだ。
やはり現実的に、敵を倒した際に敵が持っている所持金を、巻き上げるという形ではダメだと考えたのだろう。
だから、どんどん敵を倒すごとに、親が振り込んでくれる金も比例的に増えていくことは、励まされているんだという感じにさせてくれる。
 セーブもまた、父親に電話することでしてくれるのだが、振り込みも合わせて、小難しいことは全て親に任せればいいという、糸井氏ならではの理論というべきだろう。
長時間冒険(ゲームをプレイ)すると、どこへいても突然父親から電話がかかってくることも、親は子を心配していることにほんのりとした温かみがある。
無事に家に戻れば、母親がおいしい食べ物を作ってくれる。
どんなことがあっても、親は必ず見守ってくれている、だから一生懸命がんばって来いという気持ちが主人公(プレイヤー)にこめられているのかもしれない。
 ところで、プレイ前にキャラネーミング設定があるのだが、その中に好きな食べ物の名前を入れることになっている。
『カレーライス』と入力する人もいれば、『ステーキ』と入力する人もいて、まさにプレイヤーの性格を見抜ける要素といえるだろう。
ゲーム序盤は、好きな食べ物にお世話になった人がほとんどであった。
 フィールドの概念がないのも、リアリティの1つといえる。
一般のRPGでは、フィールドに町や村などが配置されているが、そこに入ると同時にその場面へと切り替わる。
MOTHERは、それらを全て一体化し、あたかも自分が自宅から町に移動している感覚にさせてくれると同時に、敵がどのあたりで出るのかといった緊張感も生まれた。
また、斜め移動ができることも、当時としては非常に珍しがられた。
 ただ、戦闘後でのお金の振込みやフィールドの概念の廃止の2つは、既に他のRPGで再現されている。
にもかかわらず、MOTHERでその2つが注目を浴びているのは、現実を求めるRPGに対してそれらの要素が最大限に生かされるためであった。
だから、普通のRPGをプレイした後にこれをプレイすると、新鮮に感じられるのだ。
 とはいえ、その舞台の場所を日本ではなくアメリカにしたのは、糸井氏が描いているシナリオにそぐわなかったのではないだろうか。
糸井氏が見た映画や小説の舞台は、アメリカののどかな場所を舞台としているのが大部分で、少年少女が冒険する場所において、アメリカが適しているのではないかと考えたのかもしれない。
MOTHERの通貨単位も、ドルとなっている。
それと、異世界のマジカントは、ファンタジーの要素が強いが、物語の終盤によりこれも現実的な世界の1つとして成り立っている。

 しかし、ゲームバランスとしての面白さはというと、これは大いに疑問を思わざるを得ない。
まず第1として、何の目的で冒険するのかということ。
一般のRPGは、魔王を倒したり親玉を倒したりと、しっかりと目的が出ているが、MOTHERは周辺に起こっている怪事件の謎を解き明かすために旅をするということになっている。
ただ、その目的がいつの間にか捨て置かれる上に、それに隠された真の目的がプレイするだけではわからないものになってしまった。
その真の目的は、メロディを8つ集めることだが、ゲーム本編とは関係ないところに存在しているものがあり、必要以上の冒険を課せられた。
 また、中途半端に強い敵が出ることも問題となった。
このゲームは、仲間を集めずともクリアは可能ではある(ロイドだけは別)。
物語前半は、動物園の戒厳令や鉄道の線路をふさいでいる岩などが関所ポイントだが、後半になるとそういうものがなくなり、メロディを全て集めるまでは自由に行動することができる。
だがそれゆえに、敵の配置がいい加減で、うっかり強い敵のいるエリアへ足を踏もうなら、即座に袋叩きに遭うのが関の山だった。
 ラスボスの倒し方も、プレイヤーの不評を買う一因となった。
ボスが強かろうが弱かろうが、結局は攻撃することで倒すことができるが、MOTHERのラスボスは、それでは倒すことができない。
あるコマンドを、何度も選択することで倒すことができるのだが、それまでには数ターンかかる上に倒し方のヒントすらなかった。
ほとんどのプレイヤーは、ラスボスに攻撃し続けて、そして敗れ去るパターンにはまり、結局クリアできなかった人もいた。
 グッズの使い方も、『つかう』と『たべる』の2種類があり、いったい何を意味するのかわからないプレイヤーが多くいた。
それを表しているのが、パンの使い道で、それぞれのコマンドにおける使い道がある。
『たべる』を選ぶと、そのまま食べて体力を回復させるが、『つかう』を選ぶとパ『ンくず』なるグッズに変わる。
これは、別の場所でもう一度使うと、最初にパンくずにしたところへ一瞬して戻ることができる。
つまり、非常に便利なアイテムだったが、パンで体力を回復しようとしたプレイヤーにとっては、むしろ疑問に思う要素でもあった。

 ゲーム本編こそは、評判が悪いものの、それを固める脇のところは素晴らしいものがあった。
戦闘において、オートシステムが採用されているが、ピンチになったときに回復PSIをかけることがあるなど、ドラクエWのAIより先んじている。
 人物やアイテムにおいては、関係ないけれどどこか忘れがたいものがあるという、糸井氏ならではのセンスが光っている。
人物においては、忘れられた男や別名人間盾のフライングマン(回復もできず攻撃も貧弱なため、ただただプレイヤーのために死ぬという存在)など、グッズではものさしや最終兵器といった、ゲームの役に立つのか不明なものなど、色々登場する。
そのグッズは、食べられないものを『たべる』として選ぶと、「やめてください」というメッセージが出るが、これも糸井氏のセンスが光るものといえるだろう。
 乗り物については、アメリカらしく列車や飛行機などが登場するが、自由に使えるのは列車のみで、他は自由に操作できないものかイベント限定。
その列車は、走るルートが限られているもののBGMがよく、わざわざ始発のサンクスギビングから終点のスノーマンまで、そのBGMを聴くために利用した人とがいたほどである。
 このゲームのBGMの制作者は、テクノ界の熟年貴公子バンド、ムーンライダーズのリーダー鈴木慶一氏で、鈴木氏の作り出すポップなBGMとMOTHERの世界観は、見事に合致している。
抽象的かつ、和みのあるキャラをデザインしたのは、イラストレーターの南伸坊氏で、その南氏の描いたキャラを人形(紙粘土製)にしたのは、鳥取県出身のトットリ氏。
彼は、3歳でゴジラの人形を作ったほどの腕前で、説明書などに載っている人形は、たった1人で10ヶ月で作り出した。
 これらの制作陣と、ナンセンスなグッズや人物の評価が次第に認められ、発売当初は前評判に反して売り上げが伸び悩んだものの、時が経つごとに上昇していき、任天堂の人気ゲームシリーズの1つになるための礎を築いた。
同時期に、2つのキャッチコピーも話題となった。
それは、『エンディングまで泣くんじゃない』と『名作保証』だった。
 どちらも話題には事欠かなく、前者はゲーム容量の都合により、ラスボスを倒すやいきなりスタッフロールが流れる始末で、プレイヤーは別の意味での泣きをすることとなった。
後者は、糸井氏が作ったものではなく(前者は糸井氏)別のコピーライターによるもの。
その人物とは、サントリーモルツの『わたしはドライではありません』などといった、様々なメーカーや商品のキャッチコピーで有名な一倉宏氏。
なぜ、コピーライターの糸井氏が、わざわざキャッチコピーを別の人にも頼むのか。
それは、ゲーム発売前年における、糸井氏のスランプが原因であると思われる。
 糸井氏は、バップの『スーパーリアルベースボール』のキャッチコピーを担当していたが、その宣伝文句は『ファミスタを越えた』というものだったが、肝心のゲーム内容はというと、BGMがうるさくデータもいい加減という、まさにクソゲーの要素が詰まった作品であった。
このため、MOTHERのキャッチコピーが、全て糸井氏が考えたものではないのも、スーパーリアルベースボールで糸井氏のキャッチコピーに釣られて、散々な目に遭ったプレイヤーの気持ちにも考慮してのことだったのかもしれない。
事実、糸井氏はこの時期、小説をも書いていたが、その小説もネタに行き詰ることが多くなった。
 そんな、糸井氏の危機を救ったのは、スピルバーグ監督の映画だった。
糸井氏を襲ったスランプを、スピルバーグ作品といった何かほっとするような作品を打ち破ったとでもいうべきか。
 MOTHERにも、スピルバーグ作品のネタが、随所にちりばめられている。
テレポーテーションの際に、障害物に激突して黒焦げになるシーンは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムスリップシーンだし、ゲーム冒頭における電気スタンドが襲ってくるシーンは『ポルターガイスト』など、ファンならば思わずにやりとする場面が多い。
 糸井氏はゲーム制作前に、今までスピルバーグ監督が手がけた映画全て鑑賞したが、それは誰でも作れるけど、それ以降は様々な人によって解釈されたストーリで進んでいき、ありふれたものの中にちょっとした目新しいものがあるという、B級映画風を目指してみようと考えていた。
スピルバーグ作品以外にも、様々な映画のネタ(例えば敵ロボットジェーンは、『メトロポリス』のマリア)が登場するが、それは各個人で調べてほしい。

 MOTHERにおいては、私の人生やゲーム歴に大きな影響を与えたといってもいい。
このゲームを購入したのは、発売から一年近く後であったが、ファミマガで攻略や特集を毎回読んでいたために、このゲームに対する期待感や興味が一気にわいてきた。
 一年近く後の購入だったために、攻略本がいくつも出回っていたので、攻略自体は簡単に進むことができた、終盤までは。
しかし、ラスボスのほうで行き詰ってしまい、結局クリアすることができなかった。
それでも、電車賃を節約して、スノーマンまで線路を歩いたり、フライングマンの助けを借りなかったりといった変則プレイを、既にやっていた。
その中で、ヒーラーの治療法(『きをいれる』がPP回復で、『やわらかくする』が石状態を回復)も、ある程度理解できた。
 それから、続編を購入した翌年、再び初代をプレイしたくなって電源を入れたら、せっかく終盤まで進んだデータが全て消えていた。
どうも、バッテリーバックアップ内の電池の寿命が切れていたらしく、それを知った私はラスボスの謎を残したままあきらめざるを得なかった。
 再び、初代をプレイすることになったのは、それから数年後のGBAの『MOTHER1+2』において。
初代と2のカップリング版だが、初代についてはFC版と比べて大幅なシステム改編が行われていた。
ティンクル小学校での売り物が変わっていたり、クイーンマリーの泉にいるお助けじいさんの内容が、ヒーラーからキャッシュディスペンサーに変わっていたりと、一般のRPGのシステムに近いものになっている。
 購入したのは、発売前日(偶然店にあったので即座に購入したが、店員が複雑な顔をしていた)なので、ラスボスを倒せなかった私は、攻略本が発売されるまでは2を先にプレイすることにした。
攻略本発売と同時に、即座に初代プレイと切り替えた私は、攻略本を見ながらラスボスまでたどり着いた。
幸運にも、私が買った攻略本は、ラスボスに対する攻略が載っていたので、それを実行したら勝つことができた。
 そしてエンディングに入ったが、そのあとの後日談があって、とても心和むものであった。
実はこれ、アメリカ版を日本に再輸入されたものだが、元々難しいゲームを好むアメリカが、ゲームバランスを安定させて発売させたのは、異例ともいえる措置ともいえる。
 それから、さらに数年後の現在、レビューがてらFC版をプレイすることにしたのだが(もちろんバックアップ電池が切れていたので、新たに購入)、変則プレイということでテディを仲間にしないで(専用アイテムは一応集めた)ゲームをクリアした。
ネットの情報で、自由な冒険ができることを知ったわけだが、同時にGBA版は所々にFC版を再現していないところが多いという。
だが私は、あえてGBA版を選びたい。理由は、真のエンディングが見られるため。
初めて、FC版のエンディングを見ることができた私であったが、突然スタッフロールが流れてくるのを見て、思わず苦笑した。
 ところで、FC版購入と同時に購入したマザー百科という本は、このゲームの世界観を旅行書風に仕立て上げたもので、私のお気に入りの本の1つとなっている。
それと、FC版を再びプレイする際に決めていたことが1つあるが、それはアドベント砂漠にある地雷を踏むことであった。
当時のファミマガで、そのことが載っていたのだが、昔の記憶がかすれてわからなかった私は、砂漠の隅々まで調べ上げた。
だが、結局地雷は見つからず、私の意気込みも空振りに終わることとなってしまった。

本日のまとめ

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