3法則氏が、遂に解雇権濫用法理と整理解雇4要件の違いに目覚めた!
これは率直に慶賀したいと思います。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ff86cfa0ac298e764adacc2d32d8fee2
自分のことが素材になると、アメリカ以外の先進国共通の不当解雇規制の問題と、雇用システムによって差が生じる整理解雇の問題が違うということがおわかりになったようです。
今まで本ブログで繰り返しそのことを述べてきながら、なにかというと「解雇権濫用法理が諸悪の根源」というような議論に苛立ってきたわたくしとしては、まことに慶賀すべきことであります。
このあたりの経緯については、とりわけ大竹文雄先生の文章についてのやりとりでご承知のところでありますが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/wedge-2092.html(WEDGE大竹論文の問題点)
>申し訳ありませんが、法学部でこういう答案を書いたら叱られます。解雇権濫用法理と整理解雇4要件がぐちゃぐちゃで頭を整理し直せ、といわれるでしょう。
ところが、労働経済学者は往々にして、意識的にか無意識的にか、この両者をごっちゃにした議論をしたがるんですね。大竹先生だけの話ではありません。
柳川氏にも同様の傾向がありました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2595.html(終身雇用という幻想を捨てよ)
>解雇権濫用法理それ自体に、「そもそも終身で雇用すべきだ」などというスタンスはありません。こういう勘違いは、経済学者には非常によく見られますが、困ったものです。これでは、アメリカ以外のすべての国、北欧諸国も含めて、不当な解雇を制限している国はすべて終身雇用を法律で強制していることになります。そんな馬鹿な話はありません。
文中、大竹文雄先生の例の『WEDGE』論文を引いて、
・・・・・・・・・
と述べているのは象徴的です。
このもとの大竹論文については、本ブログで
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/wedge-2092.html(WEDGE大竹論文の問題点)
と説明し、大竹先生も
http://ohtake.cocolog-nifty.com/ohtake/2009/01/wedge-228c.html(WEDGE論説の解雇規制に関する説明)
と説明しているのですが、それを見ないと、50年代に確立した解雇権濫用法理自体と、70年代に石油ショックの中で確立した整理解雇法理がごっちゃになってしまうでしょうね。
こうして一生懸命説明をしてきたにもかかわらず、
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/50e90cb328228d6a735a7313338ea227(解雇規制のゲーム理論)
>したがって労働基準法を改正して、あらためて解雇自由の原則を明確にし、その適用除外条件を具体的に明記すべきだ。
などと書かれると疲れるわけです。
(ちなみに、英米法をご存じの方にとってはいうまでもないことですが、コモンローの解雇自由というのは、不当な解雇も自由ということです。アメリカはそうですね。イギリスは、制定法によって「不公正解雇」を規制しています。)
ところが、3法則氏、自分がようやく気がついたからといって、いままでの自分の迷妄をなんと法律の専門家になすりつける作戦に出たようです。
>両者を混同して、私が「正当な理由があろうがなかろうが、およそ解雇は自由でなければならないと主張している」などとばかげた主張を行なうのは、小倉弁護士と天下り学者に共通の特徴である。このような虚偽にもとづいて、まともな議論をすることはできない。彼らは、まず私がそういう主張をしたことを具体的な引用で示してみよ。
困ったおじさんですね。
「解雇自由」という言葉は、不当な解雇も自由であるという意味でしかあり得ません。解雇規制とは、ヨーロッパ諸国のように「正当な理由がなければ解雇できない」と規定するか、日本のように「解雇は客観的に合理的な理由がなければ無効」というかは様々ですが、要するに、不当な解雇は駄目、正当な解雇はいい、といってるだけのことです。
世界中どこでも、解雇規制とは「不当な解雇の規制」という以外の意味ではないのですから。
それとも、「正当であろうが不当であろうがいかなる解雇も禁止」というような規制がどこかに存在しているとでもお考えなのでしょうか。
(追記)
もし、池田氏が「正当な解雇はOKだが、不当な解雇は駄目」という規制を「解雇自由」と呼ぶのだと定義するというのであれば、それは法律家には通用しませんが、自分の独自の世界で使う分にはまあ文句を言う筋合いはないかもしれません。ただし、その場合、日本も含めて世界中すべての国は定義上「解雇自由」といわなくてはいけません。
(再追記)
しつこいようですが、念のため、
正当な解雇はOKだが不当な解雇は駄目、という解雇権濫用法理に照らして、個別案件がどのように判断されるかは、当該個別案件の具体的な態様によります。GLOCOM v. 池田氏事件については、裁判上の和解で決着したようなので、判決が出されればどのような結論になったかについては何も言えません。
現時点で入手可能な池田氏の言い分と会津泉氏の証言を照らし合わせると、事実関係自体についても確定できることはほとんどないようであり、ここでそれ以上論ずることは不可能でしょう。
ただ、整理解雇には厳格だが、労働者個人の行為言動に基づく解雇(協調性がない等)に対してはかなり緩やかである日本の判例の傾向からすると、池田氏が考えているのとは異なる判断が下された可能性もないとはいえないでしょう。
いずれにせよ、この点については、私自身日本の判例法理の問題点と考えている点でもあります。
日本の解雇規制の問題点は、ヨーロッパ諸国のそれに比べて、正社員の整理解雇に対してはより厳しく、労働者個人の職業能力以外の問題を理由とする解雇に対して過度に緩やかであるという点にあります。
この点を指摘しているが、経済産業研究所の山田正人氏です。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/10_723c.html(日本をダメにした10の裁判)
>もう一つは、にもかかわらず、解雇権濫用法理、あるいは何らかの解雇からの保護は必要であると云うこと。もしアメリカのようなエンプロイメント・アット・ウィルであれば、転勤拒否した莫迦野郎をクビにしようが、残業拒否したド阿呆をクビにしようが、なんの問題もないわけですから、そもそも第2章の議論自体が成り立たない。最低限の解雇規制がなければ、他のすべての労働者の権利は空中楼閣となります。
まあ、そこのところは判っているからこそ、第1章は東洋酸素事件なのです。どこぞのケーザイ学者のように、一切の解雇規制を無くせば労働者はハッピーになるなどと云ってるわけではありません。読者諸氏も、「経産省が解雇規制を攻撃してきた」などと莫迦を露呈するような勇み足的批判をしないこと。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_de2a.html(可哀想な山田正人氏)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-e6fc.html(経済産業研究所の研究会で)
また、わたくし自身のこの問題に関する論考としては、まず一昨年に日本労働弁護団の機関誌に書いた「解雇規制とフレクシキュリティ」と、
http://homepage3.nifty.com/hamachan/roubenflexicurity.html
>(3) 整理解雇法理の見直しの必要性
最後に、現行の整理解雇法理については労働法制全体の観点から抜本的な見直しが求められているように思われる。それは福井・大竹編著が言うように「経営判断、解雇の必然性、解雇者選定などは、企業固有の経営的、技術的判断事項であって、裁判所がよりよく判断できる事柄とは言えない」からではない。むしろ逆であって、この法理が形成された1970年代という時代の刻印を強く受けているために、専業主婦を有する男性正社員の働き方を過度に優遇するものになってしまっているからである。
解雇回避努力義務の中に時間外労働の削減が含まれていることが、恒常的な時間外労働の存在を正当化している面があるし*16、配転等による雇用維持を要求することが、家庭責任を負う男女労働者特に女性労働者への差別を正当化している面がある。そして、何よりも非正規労働者の雇止めを「解雇回避努力」として評価するような法理は、それ自体が雇用形態による差別を奨励しているといってもいいくらいである。
もちろん1970年代の感覚であれば、妻が専業主婦であることを前提にすれば長時間残業や遠距離配転は十分対応可能な事態であったし、非正社員が家計補助的なパート主婦やアルバイト学生であることを前提とすれば、そんな者は切り捨てて家計を支える正社員の雇用確保に集中することはなんら問題ではなかったのかも知れない。
しかし、今やそのようなモデルは通用しがたい。共働き夫婦にとっては、雇用の安定の代償として長時間残業や遠距離配転を受け入れることは難しい。特に幼い子供がいれば不可能に近いであろう。そこで生活と両立するために、妻はやむを得ずパートタイムで働かざるを得なくなる。正社員の雇用保護の裏側で切り捨てられるのが、パートで働くその妻たちであったり、フリーターとして働くその子供たちであったりするような在り方が本当にいいモデルなのかという疑問である。
近年ワーク・ライフ・バランスという言葉が流行しているが、すべての労働者に生活と両立できる仕事を保障するということは、その反面として、非正社員をバッファーとした正社員の過度の雇用保護を緩和するという決断をも同時に意味するはずである。「正当な理由がなければ解雇されない」という保障は、雇用形態を超えて平等に適用されるべき法理であるべきなのではなかろうか。この点は、労働法に関わるすべての者が改めて真剣に検討し直す必要があるように思われる。
昨年、「エコノミスト」誌に書いた「日本の解雇規制は「二重構造」これが正規・非正規の差別を生む」をお読みください。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/economistkaiko.html
>日本の解雇規制は二重構造になっている。第一段の「解雇権濫用法理」は解雇に正当な理由を求めるもので、ほとんどすべての先進国と共通する。これがなければ、労働者は使用者に何を言われても我慢するか辞める以外に道はない。労働者に「退出」だけでなく「発言」という選択肢を与えるのであれば、最低限第一段の解雇規制は必要なのである。
>経済学者が解雇規制を語るとき、往々にして基本となる解雇権濫用法理を無視して、第二段の「整理解雇法理」のみを論じていることがよくある。これは石油ショック後確立したもので、企業の経済的事情による解雇が①人員整理の必要性、②解雇回避努力、③解雇者選定基準、④労使協議という4要件を満たすことを求めている。このうち②では、時間外労働の削減、配転による雇用維持、非正規労働者の雇止めが、正規労働者の解雇を回避するためにとるべき努力義務として要求されている。このことが、恒常的な時間外労働の存在を正当化している面があるし、家庭責任を負うため配転に応じられない女性労働者への差別を正当化している面がある。そして何よりも非正規労働者の雇止めを「解雇回避努力」として評価するような法理は、それ自体が雇用形態による差別を奨励している。
ちなみに、この論文ではOECDの対日審査報告書についても、妙な誤解があるため、
>報告書をよく読めば、OECDが懸念しているのは解雇規制の絶対水準ではなく、正規と非正規の間の雇用保護水準の格差であることが判る。提言の文言はいささか誤解を招きかねないものだが、誤解に基づいて「解雇規制はことごとく撤廃せよ」と叫ぶのも「解雇規制には一切手をつけるな」と叫ぶのも適切な反応とはいえない。
と述べておりました。こういう認識が、3法則氏にもようやく浸透してきたとすれば、ここ数年来同じことを言い続けてきたわたくしとしても、まことに慶賀すべきことなのです。
(ちなみに)
労務屋さんも意外の念を禁じ得ないようです。
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20090515#p1(今日の池田先生)
>そもそも、あれだけ「解雇自由」を連呼しておいて今さら「あれは整理解雇のことでした」というのもないだろう、とも思うわけですが、いずれにしても池田先生としては「整理解雇の規制緩和(自由化?)」を主張しておられるのであって、「一般的な不当解雇をすべて自由にせよというものではない」と、スタンスを明確にされたということでしょう。これまではそこが不明確だったわけですから、「私の過去の記事も同じである」とか「私がそういう主張をしたことを具体的な引用で示してみよ」とかいうのはあまり誠実な態度とは思えませんが…。
まあ、3法則氏に「誠実な態度」を求めるなどとあまりにも高望みが過ぎるというものです。悔し紛れに今までの自分の無知蒙昧をとっさに相手になすりつけながらもなんとか正しい認識に到達したことを褒めてあげなければいけません。
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コメント
>労働者個人の職業能力以外の問題を理由とする解雇に対して過度に緩やかである
ジョブ派は「何なのだろう」と思う傾向ですね。解雇云々よりも定年制が気になるけど…
「雇用期限が来たら、当然、自由に解雇して良い」という感覚が浸透する一方で、その雇用期限は二極化をしているという構造を押し進めることになっているんじゃないですか
投稿: まあ | 2009年5月15日 (金) 18時38分
いや、今回の件では、正直「おぐりんグッジョブ!」というところです。あやうく踏み外しかけたと見せて3法則氏の逆上を誘い、激情のあまり日頃いってる(別に経営危機でなくても)「解雇自由にしてノンワーキングリッチをクビ切れ!」とはロジカルに矛盾するはずの台詞をうまうまと引きずり出し、そこを突かれていまさら引っ込みもならず、実は憎き「天下り教授」の年来の持論であったはずの「不当解雇規制は必要。整理解雇法理は見直せ」と(苦し紛れのなすりつけをしながら)同じことを言ってるんだといわせてしまった、という意味において、勲一等に値する功績といえるかもしれません。
それが意図した結果なのか、意図せざる結果だったのかは、何とも判断がつきかねるところですが。
ま、わたくしとしては、罵られながらとはいえ、3法則氏が正しい解雇規制の認識に到達されたことを素直に慶賀しているんですよ。
いままで文化大革命のときの紅衛兵よろしく、ノンワーキングリッチに三角帽かぶせて引きずり回せと叫んでいたイナゴさんたちが、御大の毛主席が態度を翻すと、見事に「不当解雇けしからん」と一斉に唱和する姿も、まことに心なごむものがありますね。
投稿: hamachan | 2009年5月15日 (金) 23時41分
>いままで文化大革命のときの紅衛兵よろしく、...
周囲から「池田先生どうされたのですか?」と疑問の声が上がってもおかしくないのに、コメント欄を見る限り、そのような疑問が上がってきていませんね。コメント欄で議論が起きてもおかしくないのに、現状は要領をえないコメントのみです。
コメント欄にて前記疑問が投稿されているとするならば、それらは池田氏に削除されているということですし、そもそもそのような疑問が書かれていないとするならば、周囲は池田氏の主張の変化に気づいていない、もしくは、気づいていないふりをしているということになります。いずれにしても、健全な状態ではありません。
さて、池田氏ですがコメント欄にて以下の記述があります。
>需要が変動するかぎり、解雇を行なわなければならない状況は必ず起こる
確かに、需給のミスマッチが長期にわたればそのような局面が来るでしょう。問題は、「ミスマッチが生じたごく早い段階で解雇する」べきなのか、「他に手を尽くして、それでもうまくいかなくて、最後の手段として解雇する」べきなのかです。これまでの池田氏の主張からすれば明らかに前者の立場だったと思うのですが、それでは、「需給のミスマッチ」が「正当な解雇理由」となりえるのかが気になるところです。例えば、ある企業にて経営判断で「これから我が社はA事業に選択と集中をするから、A事業以外の部門の従業員は全員クビ!」といったことが許されるかです。これについて池田氏の見解は気になるところです。同じく、hamachan様もこれをどのように考えられるか見解を聞かせていただけると幸いです。
投稿: 匿名希望 | 2009年5月16日 (土) 06時56分
経営状況の悪化でジョブの絶対数が減少することは、そもそも解雇の正当理由です。実は整理解雇法理もその前提の上に立っています。ただ、その際のやり方について、あまりにも細かくまた一定方向のやり方を押しつけている嫌いがあるということです。
私は、基本的には、その際にどういうやり方をするべきかは、労働者全体の意思を反映した労使協議によって決められることが望ましく、「最後の手段」であることを(労働者の意思にもかかわらず)上から押しつけるべきではないと考えていますが、ただ、特定の労働者にツケを回すやり方は駄目だとしておかなければならないという風に考えています。
いわゆる先制的な「選択と集中」によるリストラを認めるか否かも、基本的にはそれで労使合意するのであれば、あえて否定する必要はないと考えています。ただ、経営状況がそれほど厳しくないのに、あえてそうするというのであれば、それで退職する労働者には相当額の補償がなされることになるでしょう。そういう集団的合意がないのに強行すれば、当然解雇に正当性はないということになるでしょう。
問題が発生するのは、集団的合意は成立して、大部分の労働者はそれで高額の補償金を受け取って辞めていって、一部の労働者がそれに反対して、不当解雇だと主張しているというケースです。実は、日本の紛争の多くはそういうパターンが多いんですね。
わたしは、整理解雇は集団的現象である以上、それ自体の合理性は集団的合意の有無で判断されるべきで、個別労働者がいやだといっていることを過度に取り上げるべきではないと考えています。
ただし、問題が複雑なのは、リストラをアリバイに使って、「こいつをクビにしたい」という労働者を狙い打ちにして解雇するというやり方が、これまた日本の場合結構あったりするので、そこは厳格に、つまり整理解雇に名を借りた不当解雇が行われていないかどうかはチェックする仕組みは必要でしょう。
いままでの日本では個別解雇の方が簡単で、整理解雇の方が難しいという異常な逆転現象のため、そういう問題意識はあまりなかったのですが、本来の姿からすれば、ひっくり返っていると言えます。
投稿: hamachan | 2009年5月16日 (土) 09時20分
> 「こいつをクビにしたい」という労働者を狙い打ち
経営者の個人的論理
それに対して、整理解雇(リストラ)というのは資本の論理ですね。資本の論理は尊重したほうがいいのに対して問題は、資本の論理に個人が直接向き合う形態だけでは不充分ではないか、ということか。企業外の労働組合が労務供給したりする場合はこれに近いか。
投稿: そお | 2009年5月16日 (土) 17時04分