WEDGE大竹論文の問題点
昨日のWEDGE大竹論文についてのエントリについて、お前は大竹先生の考え方にまったく賛成なのか?とさる方から質問されたこともあり、今まで私が書いてきたものをお読みの方にはすでにご理解されているところと思っておりましたが、念のためコメントしておきます。
大竹先生に限らないのですが、とかく経済学系の方々が解雇問題を論ずるときには、ややもすると、あるいは場合によっては、意識的に、別に企業経営上解雇をする必要が生じていないにもかかわらず、使用者の特定の労働者に対する何らかの感情や意図に基づく不当な解雇は許されないという解雇権濫用法理の問題と、企業経営上労働投入量を削減せざるを得ず、そのために誰かに辞めてもらわなければならない、という場合の整理解雇の問題を、混同して議論する傾向が見られます。
このWEDGE大竹論文にもまさにその悪しき傾向が濃厚に見られています。
>日本の労働法は、元々契約自由の原則で書かれていたため、法律の文面では、解雇は自由となっていた。そのため、解雇規制は、権利濫用法理として司法の場で形作られてきた。60年代から徐々に判例が積み上げられ、70年代のオイルショックで整理解雇事例が多発し、解雇のための条件が明確化されていった。いわゆる「整理解雇の4要件」である。
申し訳ありませんが、法学部でこういう答案を書いたら叱られます。解雇権濫用法理と整理解雇4要件がぐちゃぐちゃで頭を整理し直せ、といわれるでしょう。
ところが、労働経済学者は往々にして、意識的にか無意識的にか、この両者をごっちゃにした議論をしたがるんですね。大竹先生だけの話ではありません。
思うに、この法理混同の原因は、この世で発生する解雇という現象を、経済学者にとって経済理論で容易に理解可能な、つまり通常の合理的意思決定に基づく合理的行動である整理解雇の概念枠組みでもって理解しようという成功に由来するものではないかと思われます。
ところが、現実に行われる解雇のかなりの部分は、そういう合理性で説明可能というよりは、人間ってこういうばかげた理由で人を首にできるんだなあ、とあきれるような話が多いんですね。現実世界は経済学者が想定するより遙かに不合理に満ちています。
ある人が、経済学者は生理学者であり、法学者が病理学者であるといいましたが、整理解雇は生理現象であり、ちゃんと働いているのに「お前は生意気だから首だ!」ってのは病理現象であって、後者は、人間は合理的に行動する者であるという経済学者の想定からすると、なかなかすっと入らないのではないかと思われます。
病理学者である法学者にとっては、異常性の表れである一般解雇の規制がまず第一義的なもので、合理性の表れである整理解雇はその応用問題に過ぎないのですが、生理学者である経済学者にとっては全く逆なのでしょう。
ごちゃごちゃ書きましたが、要するに、経済学者が解雇権濫用法理と整理解雇法理をごっちゃにするのは必ずしも悪意からというよりは、そのディシプリンからくるところという面があるのではないかということです。
しかし、だからといって、ごっちゃにしてはいけないものをごっちゃにすると、話がぐちゃぐちゃになってしまいます。
この論文で大竹先生が言っていることで私が納得できると思っているのは、あくまでも企業の生理現象である整理解雇における正規労働者と非正規労働者の格差を整理解雇法理が強制していることへの批判であり、それ以上ではありません。
一般的な解雇に対する規制は、およそまともな労働契約関係秩序を維持しようと思えば、絶対的に不可欠なものであって、使用者による恣意的な解雇という病理現象をやり放題にして良いなどと言うばかげた話は許されるものではありません。
そういう腑分けを、こうやっていちいちやらなければならないというところがなかなか悲しいところではありますが、これだけ丁寧に説明しましたので、ある程度ご理解いただけるものと思います。
(参考)
http://homepage3.nifty.com/hamachan/economistkaiko.html(『エコノミスト』7月1日号「日本の解雇規制は「二重構造」これが正規・非正規の差別を生む」)
>日本の解雇規制は二重構造になっている。第一段の「解雇権濫用法理」は解雇に正当な理由を求めるもので、ほとんどすべての先進国と共通する。これがなければ、労働者は使用者に何を言われても我慢するか辞める以外に道はない。労働者に「退出」だけでなく「発言」という選択肢を与えるのであれば、最低限第一段の解雇規制は必要なのである。ただし、現在の判例では解雇無効の場合金銭補償の途がなく復職しかない。一方で、有期契約の雇止めに解雇権濫用法理を類推適用することは判例法理上は可能だが現実には難しい。このため、復職が認められる正規労働者と金銭補償すら認められない非正規労働者の格差が極端に拡大してしまう。不当な解雇を規制する必要はあるが、その解決方法は原則として金銭補償とすることによって、非正規労働者の不当な雇止めに対しても正規労働者の解雇と同様の保護を与えることができるのではなかろうか。
経済学者が解雇規制を語るとき、往々にして基本となる解雇権濫用法理を無視して、第二段の「整理解雇法理」のみを論じていることがよくある。これは石油ショック後確立したもので、企業の経済的事情による解雇が①人員整理の必要性、②解雇回避努力、③解雇者選定基準、④労使協議という4要件を満たすことを求めている。このうち②では、時間外労働の削減、配転による雇用維持、非正規労働者の雇止めが、正規労働者の解雇を回避するためにとるべき努力義務として要求されている。このことが、恒常的な時間外労働の存在を正当化している面があるし、家庭責任を負うため配転に応じられない女性労働者への差別を正当化している面がある。そして何よりも非正規労働者の雇止めを「解雇回避努力」として評価するような法理は、それ自体が雇用形態による差別を奨励している。
かつて妻が専業主婦であることを前提とすれば、長時間残業や遠距離配転は十分対応可能であったし、非正規労働者がパート主婦やアルバイト学生であることを前提とすれば、そんな者は切り捨てて家計を支える正社員の雇用確保に集中することは当然であったのかも知れない。しかし、共働き夫婦にとっては、雇用維持の代償として長時間残業や遠距離配転を受け入れることは難しいし、幼い子供がいれば不可能だ。そこで生活と両立するために妻はやむなくパートとして働かざるを得なくなる。そんな彼女らを切り捨てるべしと命ずるような差別的な解雇規制の在り方を見直すことは、労働者の利益にとっても重要な課題のはずである。
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