2009年5月14日 (木曜日)

法話はライブ(ナマモノ)

今朝も書きましたが、

今日は、登別大谷高校での「花まつり」に行って、ご法話をさせていただきました。20090514212046_2

先日5月1日に室蘭大谷高校での「花まつり」でもお話させていただいたばかりなので、今日のお話もほぼ同じ内容になるかなぁ・・・となんとなく「概略」は決めて学校に向かいました。

けど、

体育館で大勢の生徒さんの前に立って、その場の空気とか表情とか、そのとき・その瞬間の自分の気持ちとかが微妙に絡まり合って、「話」の流れというのは、どんどん変化します。

まさに、そう言う意味で、話は「ナマモノ」なので、人前でお話するという行為は、ギターで歌わなくたって「ライブ」であります。人前で話すという「ライブ感」を楽しむ余裕は僕にはまだありませんが、今日も50分を少しオーバーしながら、ノンストップで語りました。

生徒さんがどう受け止めてくれたかは分かりません。でも、50分間、話をすることに集中しながらも、アチコチの生徒さんの顔を見つめながら、どんな言葉を語れば、届くだろうか?? 言葉を選んだり、話すスピードに緩急をつけたり、キーワードを何度もリフレインしたり・・・、色んな事を自分なりに模索してました。

そういう意味で、人前での「法話」も、『ライブ』と同じだなぁ・・・と思ってました。

  

で、

ステージから生徒さんの顔を見て話しているうちに、自分が京都・大谷高校に通ってた20年以上前の頃を思いだしてしまい、

そして、あの頃から現在に至る日々の中で、自分が一番仏教を学びながらインパクトを与えられてきたこと、そして、自分のコンプレックスだらけの日々の経験の中で確かめて来たことが、

  

(1)「あ〜だこ〜だいっても、誰も自分の人生を代わってくれない!」

(2)「うだうだいっても、時間はあっという間に過ぎて、しまいにゃ死ぬ。」

以上の2点だったような気がしたのです。(もちろん、他にもたくさん学んできたのですけど、ふっとこの2点が浮かびました)

そして、

最近の日々のなかで読んでた本が、

五木寛之さんの『人間の覚悟』(新潮新書287)

であり、その中に

人間は一人で生まれ、生きていく中ではどんな悲しみも苦しみも痛みも他のだれかに代わってもらうことはできず、やがては老いて一人で死んでいくものなのだ----、そのことを若いうちからできるだけ早く、明らかに究(きわ)めておくべきだろうと思うのです。(前掲書82ページ)

  

だから、

今日のお話は内容的には堅苦しいお話になって、生徒さんはタイクツで、眠たかったかもしれないけど・・・、だいたいそんな話をしたのでした。

僕にとっての仏教とは、

自分の都合のいいように誤魔化すようなホンワカしたものではなく、

自分自身の持つ「枠組み」の問題点・矛盾点をあきらかにして、

誰にも代わってもらえない、必ず死ななきゃならない自分自身を発見し、自分自身を覚悟しなさい・・・と

呼びかけてくるものだったからです。

  

生徒さんに配布した資料(レジュメ)の中に以下の文章を引用しました。

「仏教はこころの教えではない。またどう生きるかを教えるものでもない。それを聞くことによって人間の質が向上するようなものでもない。人間のありのままの姿を知らせ、それを問うものである。仏教に出会うことによって見えてくるものに対し、どう生きてゆくかは、一人一人が決めることなのである。こうでなければならないということが一切ないのが仏教である。ただ一つ、あなたは仏になりたいのか、と問いかけてくるのである。仏教が私たちに要求するのは、ただそれだけなのである。 仏教は、人間がどうやって生きるのかを問題にするのではなく、人間が人間であることを問題にするのである。私が何者であるかを知らせる教えである。私に甘い夢を見せるものではない。」

竹橋太著『本願〜「わたし」の根源である仏の願い〜』 (『親鸞』真宗教団連合編 2009年 朝日新聞出版刊 253ページ参照)

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ぼちぼち・・・

さ、少しサボりましたが、

ぼちぼちブログを再開しようかなと思います・・・(苦笑)。

何人かの方から「ご心配メール」も頂戴しまして、ありがとうございます。

5月に入ってからまるで「お盆」の頃のような激しいスケジュールな日が続き、ヘトヘトに疲れ過ぎてしまうと、他のことは何もしたくない、なるべくシンプルになりたい!という心境になってしまい、ブログも休んでしまいました。

でも、日々の中には色んな発見や出逢いがありました。ブログはサボっても、日々の中では益々元気でした。

  

さて、

今日は、これから、高校へ招かれての「法話」第2弾!

登別大谷高校の「花まつり」に行ってきます。

今日も「歌なし」で、「お話」で50分間。

頑張ってきます。

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2009年5月 8日 (金曜日)

無題

ちょっと忙しいです。

すこし、

更新を休みます。

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2009年5月 4日 (月曜日)

袈裟を着ている「私」は・・・

「教え」から「私」が問われるとき。

例えば、

「人が死ぬ(果)のは、生まれてきた(因)からである。病気・事故などは、死へ導くキッカケ(縁)である。だから、いま若いからって油断してはならない。死は、もう赤ちゃんとして誕生したときから定まっている。 たまたま、まだ現在そのキッカケがないだけである。 死に至るキッカケ(縁)さえ整えば、若くても死ななくてはならないのが命である。 だから、いま生きている事が尊いし、それを忘れている私が教えから問われてくる・・・・」

以上を、カルチャー的に、教養として聞くことはできる。「理屈として、なるほどな!」と思う。

しかし、である。

自分の身内に、大切な人に、いや、この私自身がまだ若い(と思ってる)年齢なのに、そういう死という「現実」が突然に直面してきたら、どうなるか?以上の「教え」に頷けるか?

そして、

「現実に直面したら、そんな教えなど理想論だ!」

となってしまうのか。

確かに、

「教え」と真向かいになることは「自分自身との格闘」だ。

でも、教えは、キレイゴトでも理想論でもない。

「俺は、アイツの死を認めないっ!」

と言ってみても、

やっぱり現実は、私の「想い」をこえて「ここ」にあるのだ。

  

  

例えば、

「いかなる命も殺してはならない、殺さしめてはならない」

という釈尊の言葉もそうである。

「大切な人や家族を誰かに殺されたら、そいつを死刑にしてやりたいと思うのは当然だ!アンタは、直面してないからそんなキレイゴトを言えるんだ!」

・・・・私もそう思う。

実際にその立場になったら、この僕が何をしでかすか・・・まったく分からない。おまえはキレたら怖い。。。と兄貴が言ってた(苦笑)

  

しかしである。

「教え」は、キレイゴトでも、理想論でもない。

また、得意になって他者に「したり顔」で語るものでもない。

「私が私と向き合う」ところにあるものだ。

  

実際に直面していないから・・・、と遠慮するのではなく、

逆に、

実際に直面してしまったら、「教え」がキレイゴトや理想論に変わってしまう。。。のでもない。

  

実際に直面した現実の中で、確かめられてきたのが「教え」である。

「教え」は、キレイゴトでも、理想論でもない。そこを間違ってはならない。

  

「教え」がぶっ飛んでしまうくらいの「現実」に直面しても、

やっぱり、「教え」に問うのである。

特に、

袈裟を着ている「私」は。

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2009年5月 1日 (金曜日)

疲れるけど、元気。

室蘭市にある大谷高校での「花祭り」の法話、なんとか終了いたしました。

「開校記念日」の式典と合体して行われる「花祭り」という行事なので、生徒さんの他にも「来賓」の方もいらしゃって・・・・、さらに、近隣のお寺の「ご住職様」たちも来ていらっしゃって・・・。(やりずら~~い)

そんな緊張感が溢れる中、

私の出番が来て、約50分間、ノンストップで語りまくりました。

自分でも思うけど、よく喋るわ。。。俺(笑)。

 

ま、先月、この法話のご依頼をいただいてから、何について話すか、日々の中で考えたり、当日配布する資料(レジュメ)をパソコンで先週作成してたので、話したい内容の「骨子」はおおよそ決定していました。

ただ問題は、その話の流れの中で盛り込もうとした「実例」なんですわ。

今回は、自分自身の経験してきた中でのエピソードを紹介しようとしたのですが、実は、具体的にどのエピソードを話すか、最終的に決めないで、アドリブで本番に望んだので、

話の流れの中で、その「for example」の部分が弱かったかなぁ。。。自分についてのエピソードは、一歩間違うと「愚痴」に聞こえたり、「露悪的」に「自虐的」に受け止められかねないので、今日も気をつけながら語ったのだけれど、どうだったかな・・・。

眠たそうにしてる生徒さんも多かったけど、顔を真っ直ぐあげて、反応して聞いてくれる生徒さんもたくさんいて、嬉しかったです。

と言うわけで、

室蘭大谷高校の生徒の皆さん、ありがとうございました。

次のKONOの出番は、5月14日。登別大谷高校の「花祭り」の法話に行きます。今日と同じ内容を語るのか、それとも、全然違う話をするのかは、まだ未定。またこれからの日々の中で、考えてみます。

  

やっぱり、こういう「お寺」以外の場所に呼ばれ、何かを「表現」しなければならない機会は、自分にとって有り難いです。

当日を迎えるまで気が重いし、人前に出るのは疲れるけど、

でも、

その「つながり」の中で、

ものすご~~~く元気な自分になれる・・・。

そう、思います。

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あの日の自分が・・・

今日(5月1日)は、

近所の室蘭市にある大谷高校の宗教行事「花祭り」に、

“法話講師”としてお願いされたので、お話をしに行く。

「花祭り」とは、

お釈迦様のお誕生をお祝いする法要である。

  

前にも書いたけど、

今回は、【BOSANソングライターKONO】の「法話ライブ」としてではなく、

【住職KONO】として、「法話」を約50分、生徒さんの前でしなくてはならない。

歌なし、ギターなし、サングラスなしで、高校にお話に行くのは、実は初めてなのである( ̄○ ̄;)!

  

自分も、約20年以上前、

京都の大谷高校に通ってたのだが、

やはり、仏教系の学校なので、

他の授業を休みにして「講堂」に集められての「宗教行事」が年に数回あった。

お参りをし、その後、ゲストのお坊さんや大学の先生の「講演(法話)」を聞かなくてはならなかった。

正直、ダルかったし、眠かったし、つまんなかった・・・(苦笑)。

  

みのや師匠の歌に、

♪♪あの日の自分が客席にいるから・・・・♪♪

というフレーズがあるけど、

今日、僕が行く高校には、

あの日の自分が体育館に座っている・・・

・・・・という風に考えると、

なかなかコワイものがあるな( ̄◆ ̄;)

大丈夫かな、俺・・・・(汗)

  

  

※高校の頃に体験した「行事」の中で、ゲストのお坊さんとか先生からどんな「法話」を聞いたか、ほとんど記憶がない。

でもひとつだけ憶えている話がある。それは、大谷大学の寺川俊昭先生が昔、恩師からいただいた言葉として紹介された次のフレーズである。

「皆さん、南無阿弥陀仏という言葉を知っていますか?

 人は、必ず死ぬんですよ。

 死というものを考えていない人生観は、アテにならないものなのです・・・」

この言葉は、ダルくて、眠くて、つまんないと思ってた高校生だった自分に、かなりのインパクトがあった。

「死というものを考えていない人生観はアテにならない・・・」

というフレーズは、ずっとその後の自分の課題になったし、

前半の

「南無阿弥陀仏って言葉を知っていますか?」

という言葉は、当初、後半部分とつながる意味が全然分からなかったけど、やがて自分の「問い」になっっていった。

  

  

明日、

僕が生徒さんの前でどんな話をできるのか、また、どう生徒さんに受け止められるのか、分からない。

でも、

あの日の自分が体育館に座っている・・・

とするならば、

精一杯、自分に与えられた時間の中で、

お話をしてきたいと思う。

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2009年4月30日 (木曜日)

拝啓 12歳の僕へ

 
 
檀家サン宅の小学1年の男の子が話してくれた。
 
 
 
「僕ね、大きくなったら、
歯医者サンになりたいんだぁ。
でもねぇ、
歯医者サン行くのはイヤなんだぁ。」
 
 
「そうなのぉ?!歯医者サン行くのキライなのに、
なんで歯医者サンになりたいの?」
 
 
「だって、歯医者サン やさしいから…」
 
 
なんか
涙が出そうになった。
かわいいなぁ……
 
 
 
 
すると、その子は僕に言う。
 
「お坊さんはどうして、
お坊さんになったの?」
 
「え?うんとね…………」
 
突然の質問に一瞬ひるんでしまったけど、
カッチョよい【自分ヒストリー】など語れないが、
小学1年の男の子に僕は語り始めた。
 
 
「おじちゃんはね…、
実はお坊さんになりたくなかったんだよ…でもね、
(以下略)」
 
 
ものすごく快晴の祝日。
 
そんなちびっ子との対話はホントに楽しかった。
 
 
 
 
 
 
そういえば
僕が小学6年の頃。 
兄貴といっしょにラジカセにむかって
「将来の自分へ」
というメッセージを吹き込んだ事がある。
 
12歳の僕は、大人の僕にこう言ってた。
 
 
「おい!大人になった俺!
お前、まさか、坊さんになってないだろうな?」
 
 
「拝啓  12歳の僕へ
 
ハイ、
お坊さんになっちゃってます(笑)
 
高校3年生あたりで挫折?しちゃいました。
 
それから
外側の顔と内側の想いが一致しない二十代を過ごしました。
 
結構キツいよ。覚悟しな(笑)
 
 
でもね、
 
そんな長〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いトンネルを抜けて、
 
何になるか…じゃなく
どんな人生の景色を見ていくか?
そこで何を感じ表現していくか?
 
 
……という方向にチェンジしたんだ。
 
 
もうすぐ40歳、大人の僕も
未だに ウジウジしたり、愚痴を吐いたり、
カッチョ悪い、負けっぱなしな日もあるけど、
 
今をがんばって生きてるよ。」
 
 
 
 
 
 
アンジェラさんみたいな「歌」に ならないなぁ(笑)

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2009年4月28日 (火曜日)

脚立のプロフィール

脚立のプロフィール

 
ちょいとウチの中で作業をしていて、
高い場所に手が届かないので
「脚立(きゃたつ)」
を持ってきた。
木製で、昔からウチにあるものだ。
そういえば、
これって、俺が子供の頃からあるな。
 
テレビとか冷蔵庫などの電化製品とか、
着ている服とか靴とか…
そういうものは時代の流れの中で次々に新しいものに変化していったし、
僕自身も成長しオッサンになったし、
環境もかなり変わったんだけど、
 
でも
この「脚立くん」だけは ずーーっと変わらずにウチにあるよな………と
よくよく裏側を見たら、
なんと!!
 
 
《昭和16年6月7日新調》
 
との文字を発見。
 
なに?!
この「脚立くん」のプロフィールが明らかになった!
今から68年も前に“新調”され、
今も現役の「脚立くん」
いや、
「脚立ジィちゃん」だった。
 
 
ワタシの生まれるはるか前から色んな人がこれに乗っかって、
今、ワタシもお世話になって。
 
 
色んなウチのお寺の“歴史”を見てきたんだろうな……
 
 
「脚立ジィちゃん」の目線を定点にして、時代とお寺の移り変わりを見つめる“歴史ドラマ”ができそう?
思わず「脚立ジィちゃん」に尋ねてみる。
 
 
「現在、住職のワタシは、アナタにはどう見えてます?」
 
 

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2009年4月26日 (日曜日)

また冬に。

また冬に。
あれまぁ!

なんか寒いなって思ってたら
夕方に雨が雪に変わり、
あっと言う間に
冬に逆戻り。

重たい雪が積もってしまった。


夏タイヤで
明日の朝は運転大丈夫かな?


ホントに
桜があと少しで咲くのかな?

風邪に注意しましょう。

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2009年4月25日 (土曜日)

言えないありがとう

例えばである。

外出先で
友人がトイレに行くというので、
外で待っていたとする。

あまりに遅いのでイライラしているうちに、
乗りたいバスが行ってしまった…。

ようやくトイレから出てきた友人が、イラついてる私にむかって

「別に待っていてくれ、と頼んだ訳じゃないから、先に行ってくれたらよかったのに!」

と悪びれずに言ったとする。

私のホンネとしては
「ごめんなさい。待たせてしまって。」
とさりげなく言ってもらえるのではないかと期待していたのだ。

そこに
何とも言えない「険悪な空気」が流れる…

いや、友人の言うことは間違っていないのだ。
「待っていて」
と頼まれた訳ではないのだから。僕が勝手に待っていたんだから。
僕の意志なのだから。

だから、
ウダウダと不機嫌になる自分自身もカッチョ悪いのだ。
でもなぁ………

では
立場を逆にして
今度は、自分が相手を待たせた場合ならどうだろうか?

私を待ちくたびれて不機嫌になった相手にむかって
やはり私も
「別に待っていてくれ、と頼んだ訳じゃないから、先に行ってくれたらよかったのに!」
と言ってしまうのではないか?

【正解】がキッチリとあるのではなく、
どこまでも
【自分自身の都合】が根底にあるんだなぁ……

と気づいて苦笑い。

一言
《ありがとう、ごめんね》
と言えたらいいんだけどね。


例え話で“カモフラージュ”しながら
最近の私に起きた状況を語ってみた(*´▽`*)

さて
法事に行ってきますわ!

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