法話はライブ(ナマモノ)
今朝も書きましたが、
今日は、登別大谷高校での「花まつり」に行って、ご法話をさせていただきました。
先日5月1日に室蘭大谷高校での「花まつり」でもお話させていただいたばかりなので、今日のお話もほぼ同じ内容になるかなぁ・・・となんとなく「概略」は決めて学校に向かいました。
けど、
体育館で大勢の生徒さんの前に立って、その場の空気とか表情とか、そのとき・その瞬間の自分の気持ちとかが微妙に絡まり合って、「話」の流れというのは、どんどん変化します。
まさに、そう言う意味で、話は「ナマモノ」なので、人前でお話するという行為は、ギターで歌わなくたって「ライブ」であります。人前で話すという「ライブ感」を楽しむ余裕は僕にはまだありませんが、今日も50分を少しオーバーしながら、ノンストップで語りました。
生徒さんがどう受け止めてくれたかは分かりません。でも、50分間、話をすることに集中しながらも、アチコチの生徒さんの顔を見つめながら、どんな言葉を語れば、届くだろうか?? 言葉を選んだり、話すスピードに緩急をつけたり、キーワードを何度もリフレインしたり・・・、色んな事を自分なりに模索してました。
そういう意味で、人前での「法話」も、『ライブ』と同じだなぁ・・・と思ってました。
で、
ステージから生徒さんの顔を見て話しているうちに、自分が京都・大谷高校に通ってた20年以上前の頃を思いだしてしまい、
そして、あの頃から現在に至る日々の中で、自分が一番仏教を学びながらインパクトを与えられてきたこと、そして、自分のコンプレックスだらけの日々の経験の中で確かめて来たことが、
(1)「あ〜だこ〜だいっても、誰も自分の人生を代わってくれない!」
(2)「うだうだいっても、時間はあっという間に過ぎて、しまいにゃ死ぬ。」
以上の2点だったような気がしたのです。(もちろん、他にもたくさん学んできたのですけど、ふっとこの2点が浮かびました)
そして、
最近の日々のなかで読んでた本が、
五木寛之さんの『人間の覚悟』(新潮新書287)
であり、その中に
人間は一人で生まれ、生きていく中ではどんな悲しみも苦しみも痛みも他のだれかに代わってもらうことはできず、やがては老いて一人で死んでいくものなのだ----、そのことを若いうちからできるだけ早く、明らかに究(きわ)めておくべきだろうと思うのです。(前掲書82ページ)
だから、
今日のお話は内容的には堅苦しいお話になって、生徒さんはタイクツで、眠たかったかもしれないけど・・・、だいたいそんな話をしたのでした。
僕にとっての仏教とは、
自分の都合のいいように誤魔化すようなホンワカしたものではなく、
自分自身の持つ「枠組み」の問題点・矛盾点をあきらかにして、
誰にも代わってもらえない、必ず死ななきゃならない自分自身を発見し、自分自身を覚悟しなさい・・・と
呼びかけてくるものだったからです。
生徒さんに配布した資料(レジュメ)の中に以下の文章を引用しました。
「仏教はこころの教えではない。またどう生きるかを教えるものでもない。それを聞くことによって人間の質が向上するようなものでもない。人間のありのままの姿を知らせ、それを問うものである。仏教に出会うことによって見えてくるものに対し、どう生きてゆくかは、一人一人が決めることなのである。こうでなければならないということが一切ないのが仏教である。ただ一つ、あなたは仏になりたいのか、と問いかけてくるのである。仏教が私たちに要求するのは、ただそれだけなのである。 仏教は、人間がどうやって生きるのかを問題にするのではなく、人間が人間であることを問題にするのである。私が何者であるかを知らせる教えである。私に甘い夢を見せるものではない。」
竹橋太著『本願〜「わたし」の根源である仏の願い〜』 (『親鸞』真宗教団連合編 2009年 朝日新聞出版刊 253ページ参照)
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