…ファースト、アンタは全部知ってたんでしょ?

もしくは全部アンタの仕業よね?

あたしたち二人だけと思った世界は、全部作りものか何かだったんでしょ?

…本当は、あたしもシンジももしかしたら死んじゃってたりしてたんでしょ、ねえ?

考えてみれば変な世界だったもの。電気も水道も止まってなくてさ。

…ううん、ありがとう、ファースト。

お礼をいうわ。

だって…色々あったけど、それなりに…嬉しかったしさ。恥ずかしくて照れくさい方が多かったけど。

だから、そんな悲しそうな顔しないでよ。




…え? 


違うの?


だって、


じゃあ、




何泣いているのよ、ファースト…?





































この醜くも美しい世界5





























うっすらと瞼を開けた。

白い天井が眩しい。

思わず目を細めていると、仄かな臭いが鼻をつく。

…消毒薬の臭い…?

頭が酷く重い。

息を吸う。吐く。

痛くない。苦しくない。

…え?

ここはどこ…?

重い両手を目前に持ってくる。

まるで鉛が入ったように重い両手は、右手から腕に白い疵痕が残っていて…。

……ない!?

傷が、ない!?

……



まさか、左目も…?

そういえば、視界も滲んでいなくて。

おそるおそる上体を起こす。

右手をついて身体を持ち上げても、全然痛みはなかった。

あたしは、なんか前開きの検査着みたいなのを着せられていて。

薄い布越しにお腹に触れてみた。

やっぱり、痛みも何もない。

ゆっくりと周囲を見回して、エアコンの室外機の稼働音と共に、あたしは蝉の鳴き声に気づいた。

白い部屋。

何かの機械まで規則正しい電子音を立てていた。

病院…病室…。

染み一つない清潔そうなシーツ。

壁の無個性な時計はもうすぐ12時をさそうとしている。

あれ…、今日は何日で…?

穏やかだった胸がざわつく。

ざわつきはどんどん大きくなる。

なんだろう。

思いださなきゃ。



まずあたしの名前…惣流・アスカ・ラングレー。

これはよし。



ここはどこ…?

分からない。



今日は何月何日?

分からない。



あたしは一体何をやってる?

分かるわけがない。



「ねえ、どうなっているの? 教えてよ、バカシン…」

…ジ! と言葉を継ぎそうになり、あたしは息を止める。

ああ、アイツは一体どこに…!!

それにあたしは、

あたしは生きている…?

両頬に触れた。

ひやりとした感触とともに、仄かに温かさが伝わってきた。

なのに動悸が少しづつ速くなる。

胸を押さえつけ、細く息をつく。

冷静になれ、と落ち着かせようとする自分。

動き出せと急き立てる自分。

埋めようと、あたしの中の何かが叫んでいる。

何を埋めるというの?

現実を?

夢を?

今見ているものは?

前に見てきたものは?

あたし自身が加速する。

過去に向かって加速した。











それは、強烈すぎるフラッシュバック。























白い悪魔が 

           あたしを 

       シンジが 

                 無理矢理

     優しく 

           壊して 

  楽しく

                     悲しく 

 

さよなら

     さよなら




















            愛してる…









































悲鳴が迸る。

奥歯を食いしばる。

飲み込む。

吐き出す。

叫ぶ、

叫ぶ、

叫ぶ!!












「シンジっ!?」















周囲を見回す。

ベッドから転げ落ちた。

痛みで、一瞬だけ頭が冷えて、更に加熱した。

「シンジっ!! どこ行ったの!?」

冷たい床を這う。

大声で叫ぶ。

だって、

アイツは、

あたしが生きているんだから、

アイツも生きて…っ!!


窓枠に寄りかかる。

足腰に力が入らない。

それでも震える足で立つ。

立ちながら、叫び続ける。






人の気配におののく。

しかも複数の人の気配が迫ってくる。

身構える。

病室のドアが開く。








「アスカぁっ!!」





期待した声は、別人のもので。

でも、その別人はよく知っていて。

…どうして、ここにいるの?

驚きとともに、呟きが口を出る。



「…ミサト…?」



涙で顔をグシャグシャにしながら、ミサトはあたしを抱きしめた。

温もり、匂い。

懐かしい。

とても懐かしく感じる。

ミサトの肩越しに人の群れを見た。

知っている顔もあれば、見たこともない顔も多い。

必死で探す。

でも、いない。

あたしが、一番欲しい顔が、いない。

「ねえっ、ミサト! シンジは、シンジはどこにいるのっ!?」

抱きしめられたまま、叫ぶ。

精一杯、訊ねる。

なのに、ミサトは答えない。人の群れも答えない。

みなが薄ら笑いを浮かべている。


…不意に、気味が悪くなった。

まるで、造りものみたいだ。

造りもの…偽物?



ミサトらしきものから身体をもぎ離す。

「アンタたち…誰よっ…!?」

声が震える。

世界には、あたしとシンジしかいなくて。

シンジとあたしだけの世界で。

だったら、この人間は偽物だ。

夢に出てくる人形だ。




「落ち着いて、アスカっ!」

ミサトの声。

違う、ミサトに似た声。

ミサトと違う声。



「うるさいっ!! シンジはどこよっ!!」

なにか涙がにじむ。

…ほら、答えが返ってこない。

偽物よ。

みんな偽物。

じゃなかったら、夢よ。

夢。

早くを目を覚まさなきゃ。

シンジにおはようっていわなきゃ。

…え?

でも、あたしは死んで…?

生きてる、今が夢だったら?

夢から覚めたら…死ぬ?



手近にあった椅子を掴む。

振り回す。

重い。

よろめきながら窓ガラスにぶち当てる。

耳が裂けるような音に、手応え。

遠巻きにする人形の群れの前で、あたしはガラスの破片へと手を伸ばす。

痛みを。

夢から覚めるような痛みと、今を切り裂く力を欲して。

ほっぺたが弾けた。

ミサトによく似た人形が、すぐ近くまで来てあたしのほっぺたを打ち据えている。

反対側ももう一度。

痛い。でも、全然心に響かない痛み。

やっぱり、これは夢だ。

ずいぶんと深い眠り。

嗤う。

声に出して嗤う。

ミサトもどきが泣いている。

それもまた可笑しくて、嗤う。

だって、夢なんだもの。

シンジがいないから、夢。

そうでしょ?

隣で寝てるんなら、早く起こしてよ、バカシンジ!!




胸倉を掴んでも、いくらそんな怖い顔してもダメよ、偽ミサト。

あたしが目を覚ませば、アンタたちはみんな消えるのよ、ねえ?

現実は、あたしとシンジの二人きり。

寂しくて、それでもちょっとは楽しいのよ、羨ましいでしょ?





「アスカ…みんな還ってきたのよ、赤い海から」







悲しそうな声。

でも心に響かない。

夢だから。

そう望んでいたのは事実。

早くみんな還ってくればいいって。

だけど、間に合わなかったのよ。








「あなたの身体はね、衰弱しきってたわ。すぐに病院に運び込んでから、一週間眠りっぱなしだったのよ…」






何を言ってるんだか。

今も夢を見ているんだから、眠りっぱなしなのは当たり前よ。

前髪をかき上げ、あたしはクスクスと笑う。






「外傷も内臓にも特に損傷はないわ」





ほら、夢だっていう証拠が出たわよ。

だって、あたしの疵痕がなくなっているもの。

現実のあたしは血を吐いたのに。

今はどこも痛くも苦しくもない。

そんなハズないのに。

ねえ。

だから夢なんでしょ?

あたしは泣きながら笑う。






























「喜んで。お腹の子どもも無事よ…?」





























………子供?

無意識で、あたしはお腹に両手を当てている。

子供?

あたしの中に子供?

笑う。

じゃあ、相手はシンジしかいないじゃない。

可笑しいね、シンジ。

あたしたち、子供だと思ってたのに、子供作っちゃったのよ?

ねえ、可笑しいわよね、シンジ?

可笑しいわよね……


…シンジ?

シンジ!?

どこにいるのよ!!

早く目を覚まさせてよ!!

一人じゃ嫌なの、側にいてよ!!

ほら、子供も出来て、あんたは父親で、可笑しいでしょ!?

笑って、

笑って、

でも夢で、

だったら子供もいなくて、

悲しくて、

嫌、嫌、嫌、嫌、

どれが夢でどれが本当で、

教えてよ、あたしには分からない

教えてよ、シンジぃ……!!


















腰が砕けた。

身体が地面に引かれていく。

迫る床は、キラキラしていて、とても綺麗だった。








































「…アスカ、落ち着いた?」

隣から声。

久しぶりに聞く、シンジ以外の人の声。

あたしは答えずぼんやりと天井を見上げている。

薄暗い天井にはオレンジ色の小さな電球。

ベッドに備え付けの蛍光灯の光がそれをかき消すように明るい。

「ごめんね。もう少しゆっくり時間をおいて説明するべきだったんだけど…」

右手に温もり。

シンジと違う手触り。

振り払おうと思ったけど、好きにさせておいた。

ますます強く握ってくる手応えに、少しだけ気持ちが良くなる。

それでも、気分の不快さは、とても言葉にできない。

舌の奥がずっと苦い。

目を覚まして、ついさっきまで吐き続けていたのだから、当然といえば当然だけど。

「シンジはどこ…?」

苦みと声を吐き出す。

もう、何回同じ質問をしただろう?

返答は、やっぱりない。

首だけ動かした。

背中に影を背負って、心配そうに見ているミサトがいる。

…このミサトは、本物だ。

意識が戻ってから幾日も経て、ようやくあたしも認める気になっていた。

この世界は、つまりは全人類が還ってきた世界。

どういうわけか、あたしの傷は癒えていて。

左手は気がつくとお腹に当てていた。

ここに子供がいるなんて、実感は全然ないのに。

「シンジはどこ…?」

ミサトの目を見つめ、もう一度訊く。

「…アスカ、本当にシンジくんのこと好きになったのね…」

微笑みながら、あたしの期待した答えじゃない言葉を返してくるミサト。

「好きなんかじゃないわよ、あんなヤツ…」

反射的に口をついていた。

だってそうよ。

あたしがここにいるのに。

いっつも、肝心なところで側にいてくれなくて。

そのくせに、嫌になるくらい優しくしてくれてさ…。

とても、好きなんて言葉じゃ足りないくらいにあたしの心を捕らえていたバカ。

ハンカチを握ったミサトの手が近づいてきた。

「泣かないで、アスカ…」

自分でもいつ流したか分からない涙を勝手に拭かせながら、あたしはまた質問する。

「シンジはどこ…?」

同じことばかりでバカみたいだ。

でも、答えてくれないミサトはもっとバカだ…!

「シンジくんとの子供なんでしょ?」

また、あたしの知りたい返答じゃない。しかも質問で切り返してきた。

「…そうよ」

それでも、すぐに答えたと思う。

あの世界とこの世界が繋がっていなければ、そもそも子供が出来るはずはない。

あたしにとってシンジは、その、初めての相手だ。そしてシンジしか知らない。

しかし、それはそれで、決定的な矛盾が生じる。

傷みきったあたしの身体が受胎していたという事実。

あたしの傷が癒えているという現実。

未だ非現実感がつきまとう。

左手を伸ばし、ミサトのほっぺたを引っ張る。

「アスカ…?」

首を捻るミサトに構わず、思い切り引っ張って、離した。

「イッタイわよ…!!」

涙目で訴えてくるミサトを見つめる。

「…やっぱり本物のミサトだぁ…」

「…当ったり前でしょ!?」

ほっぺたをさするミサトを横目に、あたしは仰向けになる。

少しだけ可笑しくなった。

「ねえ、ミサト。教えて。どうやって還ってきたの?」

仰向けのまま訊ねる。

隣で息を呑む気配がしたけれど、ずっと天井を見上げていた。

返事がないので、もう一度訊ねる。

「いいから教えて。もう暴れたりしないから。約束する」

全然自信はなかったけど、そういってやった。

隣で、ミサトが微かに動く気配。

しばらくワサワサと動く気配がして、あたしがいい加減飽きてきたころ、ポツリとミサトはいった。

「気がついたら、浜辺に寝ていたわ。…素っ裸でね」

声に少し笑いが混じる。

「でね、辺りを見回すと、他にも一緒に浜辺に寝ている人たちがいてね…」

あたしも想像する。俯瞰で眺めたりしたら、あまり気持ちの良い光景ではないかも知れない。

馬鹿な考えを振り払っていると、次にミサトが口にしたのは質問だった。

「その時、あたしは何のことを考えていたと思う?」

…まさか、あたしと同じことを考えていたのだろうか?

ミサトならありえるかも…と言いよどんでいると、ミサトはあっりと答えをいった。

「あなたのことよ、アスカ」

「……え?」

「あたしだけじゃない。たぶん、あの時、浜辺にいた全員が、アスカのことを考えていたわよ」

「……」

意味が分からない。ある意味、気持ち悪い。

なんで、還ってきたみんなが、あたしのことを考えるの…?

「…どうしてなの、ミサト?」

たっぷり一分くらい考え込んで、ミサトの方を向いてそう訊いた。

ミサトはやはり微笑んでいるだけで。

夜の静かさも相まって、錯覚に襲われる。

話し相手がミサトじゃなくてシンジであるかの錯覚に。

世界に、二人だけしかいなかった頃の幻影。

幻のシンジが動いた。

「あたしも、巧く説明できる自信はないから…」

声はミサトのもので、差し出された手もやはりミサトのものだった。

手の上には、束ねられた紙。

なにこれ、レポート用紙…?

首を捻りながら受け取るあたし。

そうしてから、ミサトに手伝ってもらって、ベッドに上体を起こす。

蛍光灯の明かりを調整してもらい、ページをめくる。

「還ってきた学生の一人がこれを書いたの。アスカに読んで貰いたいって置いていったわ」

途端にあたしは脱力した。そんなラブレターなんか、読みたくない。

めくる手を止めている間も、ミサトの声は続いていた。

「これを読んでもらえば、分かると思う。シンジくんがどこへ行ったのかもね…」

反射的に手元から顔上げ、ミサトの顔を見てしまう。

思わず睨むと、ミサトは苦笑する。

「本当は、もっとあなたが落ち着いてからのほうがいいと思ったのよ…」

それ以上耳を貸さず、あたしは貪るようにレポート用紙を読み進めていた。


























































僕は幸せだった。

可愛くて、気だての良い彼女。

成績は優秀で、スポーツも陸上なら誰にも負けない。

父さんも出世して、新車を買った。

母さんも、新しくて広い家で嬉しそう。

僕は満ち足りていた。

学校生活も充実していた。

みな親切で、僕のことを悪くいう人もいない。

むしろ僕は注目の的だった。

誰もがあこがれる存在だった。

僕は毎日が楽しかった。








なのに。

ある日気づく。

僕の完璧な生活への闖入者。

僕の生活をひっかくように。

目障りな存在。

学生服を着た少年。

僕より年下の痩せぎすの少年。

年齢からして中学生だろうか?

僕の行く先々に、彼が姿を見せるようになった。

無視していた。

だって、僕は幸せなのだから。

完璧な幸せの中にいるのだから。

だけど。

まるで目の中のゴミみたいに気に障る。

彼はいつも僕の見る先にいるのだ。

勉強している時は校庭の隅から。

デートしているときはビルの壁の影。

部屋でくつろいでいるときは家の前の道路から。





ある日、僕はとうとうその少年に近づいた。



“何をやっているんだ、キミは? 目障りなんだよ、ストーカーか何かか!?”


少年は、驚くべき事に微笑んだ。



“良かった、気づいてくれて。僕のほうからはこれ以上近づけなくて…”



彼は、それはもう、心の底から喜んでいるように見えた。

だけど、その時の僕は、それに気づくことがなかった。

ただ怒鳴りつけた。



“何わけわかんないこといってるんだよ!? これ以上つきまとわないでくれ、気持ちが悪い!!”



やおら少年は表情を変えた。



“お願いします! 彼女を、アスカを助けてください!”



“彼女? アスカ? 何いってるんだ、キミは!?”


 
“…時間がないので、率直にいいます。いま、あなたのいる世界は夢みたいなものなんです”



“…はあ?”



訝しがる僕に、少年は怯まない。



“この世界は、えーと、一つになった人類のそれぞれが勝手に見ている理想の夢みたいなものなんです。

 人類が一つになったことについては、ちょっと色々長くて説明できないんですけど…。
 
 でも、これは夢なんです。現実の世界はまだ続いていて、そこにはアスカが…”



意味が分からない。この世界が夢だって?

この幸せな世界が夢だって? ふざけるな!!



“これは、現実だよ。キミは頭がおかしいんじゃないか?”



はっきりと言ってやった。



“…はい。きっと、あなたにとっては現実だと思うし、ずっと夢を見続けることもできる…でしょう。

 でも、お願いします。どうか目を覚ましてください。現実に戻ってアスカを助けてください。

 お願いします…!!”



頭を下げる少年に背を向けた。

バカバカしい、付き合ってはいられない。

この幸せが偽物だって?



“お願いします、お願いします、お願いします…!!”


なのに、少年は足下に縋り付いてきた。

邪魔だよ、とばかりに蹴飛ばす。

どうして僕の邪魔をする?

僕は、誰からも好かれる学校一の優等生なんだぞ?



その時、僕は、何かにピシリと亀裂の入る音を聞いた。

否定された。

僕の世界を。

どうして邪魔をする?

誰も僕の邪魔をしないのに。

この少年は他人だ。

他の、人間だ。



途端に世界は音を立てて崩壊した。



崩れていく背景の中、僕は少年に殴りかかる。




“おまえが来たから!

 おまえが余計なこというから!

 他人のおまえが割り込んできたから!

 夢が、僕の理想郷が壊れちまったじゃないか!!”




怒鳴りながら殴りつける。

泣きながら殴りつける。

オモチャを取り上げられた子供のように暴れた。

その間、彼は、ひたすら謝罪を繰り返し、僕に殴られていた。





“これから僕は、どうすればいいんだよ…?”




何もない白い空間の中で、僕はぼやく。

浮かぶように少年が横たわっていた。

血まみれの少年が身体を起こす。

唇から血を流しながら、それでも少年は薄く笑った。なお謝罪の言葉をのせて。



“…あなたはきっともうすぐ現実の世界で目覚めると思います。

勝手にあなたの夢を壊しておいて、本当に申し訳ないんですけど、お願いを聞いて貰えませんか…?”



息をするのも辛そうな声に、僕は渋々頷くしか出来なかった。



“しようがないよ。目覚めてしまったものはしようがない…”



“そういって貰えると、助かります…”



少年は痛々しく笑った。



“あなたが目を覚ました場所から山を下った街の高台の家に、女の子がいます。

彼女は昔の怪我がもとで、今にも死にそうなんです。

どうか、彼女を助けてください。僕には治療もなにもできないから…”




“…その子の名前が、アスカっていうのかい?”



“はい。僕の一番大切な人です。でも、僕一人では守りきれなかった…”



少年は泣いた。それはとても純粋な涙に見えて、今更ながら僕の心は痛む。



“わかった。引き受けたよ”



僕は医者でもなんでもない。治療なんて出来るわけもない。

でも、気がついたら、力強く頷いていた。



“あ、ありがとうございます…!”



そう答えて笑い、少年はまた泣く。



“そ、その悪かったな。そんなに一方的に殴り付けたりして…”



弱々しく立ち上がった少年に、どういうわけか謝る気になった。



“いいんです。もともとは全部僕が悪いんですから…”




白い世界が光る。

全てがホワイトアウトしていく。

ああ、これが目覚める前兆か。

なのに、少年の周囲は切り取られたように黒く落ち込んでいく。



“なあ、どうしたんだよ? 一緒に現実世界に還ろう?”



少年は悲しく微笑む。



“僕は、他の人も起こしにいかなきゃいけないんです。

 それが、きっと僕のしなきゃならないことです。 僕にしかできない贖罪なんです。
 
 そして、そうしないと、アスカが助けられません…”



その答えに、僕は絶句する。




“また、殴られるかも知れないよ?

 もしかしたら、殺されるかも知れない。

 いくら夢のなかでも、殴られれば痛いんじゃないのか?”



少年は頷いた。

なのに、どうして彼は行くというのだろう?

微笑みながら、辛い道を行けるといえるのだろう?



“アスカを、アスカをよろしくお願いします―――”



それが、僕の聞いた、少年の最後の言葉だった。





























気がつくと、僕は浜辺にいた。

見覚えのない場所だった。

見回すと、周囲に同じように人が横たわっていて、みんなが上体を起こすところだった。

まるで、たったいま目を覚ましたみたいに。




僕は裸だったけど、構わず立ち上がる。

フラフラと砂浜を歩いて辿り着いたのは、砂地に半ば埋もれるようにして停車した一台のスクーターの前だった。

ごく自然に、僕はそのハンドルに触れた。

きっと、そこには強い想いが込められていたからに違いない。

案の定、頭に映像が浮かんだ。





―――虫の息の少女を前に、決意を固める少年。

高台の家を飛び出し、スクーターのキーを捻る。

血がでるほど唇を噛みしめ、涙をまき散らしながら少年は疾駆する。

彼は自分の無力さを痛感していた。

安らかな日々すら少女に与えることが出来なかった。

最後まで、自分のことを心配して少女は死のうとしている。

無力な自分が許せなかった。

彼女のいない世界が耐えがたかった。

この世界で少女を愛していた。

きっと世界が変わらなくても少女を愛せたと思う。

それは、愛するという表現すら生ぬるい温度をもって、少年を駆り立てる。

街を抜け、山を登る。

息をするのすら忘れ、少年がひた走り目指すのは、命の海。

少年の原罪の場所。

くねった道を曲がりきれず転んでも立ち上がる。

血を流しても、ハンドルを握り続ける。

骨を砕かれるより、心が痛いから。

明星が輝く頃、少年は命の海へと着く。

海へ向かって叫ぶ。

あらん限りの力で叫ぶ。

みんな還ってきて。

お願い、アスカを助けて。

海は、答えない。

ただ寄せては返すだけ。

少年は涙を流して懇願する。

お願いです。なんでもしますから。

やはり海は答えない。

少年は、涙を拭う。

そして、命の海に深く分け入る。

願う。

僕の身はどうなってもいいから、アスカを助けてください。

そう祈り、少年は海の中に身を投じる。

きっと、アスカは怒るだろうな…。

その頬には、微笑が浮かんでいる―――。











僕は、勢いよく瞼を開けた。

一緒に、砂地からスクーターを引き起こす。

ついたままのキーを捻る。

エンジンが吼える。

またがり、アクセルをふかした。

まるで呼応するように、浜辺の人たちも立ち上がる。

そして、走り出す。

先を争うように走り出す。

目指すは、山の麓の街。

高台の家。

走りながらぼろキレをまとう。

走りながら、役に立ちそうなものを探す。

瓦礫の街を抜けるころ、一台のトラックが横転していた。

皆が示し合わせるように、力を合わせて引き起こす。

ごく自然に運転手が乗り込む。

優先的に荷台に載せられたのは、きっと医者だ。

車がないものは走る。

車を見つけて乗り込む。

バイクにも乗る。

自転車も漕ぐ。

みんな、その場所を目指す。

少年との約束の場所を。

進む。

みなが迷わず進む。

街へと降りて、高台の家へ。

見つける。

少女を見つける。

月光の丸い光に守られるように、少女はいた。

生きてるぞ!!

歓声が爆発する。

運び出せ。ゆっくりとだ。

気がつけば、少女を厳重に搬送するものと、病院に先行するものに分かれている。

少女は、まるで壊れ物のように大事に大事に運ばれる。

遅れてきたものに、少女が無事だったことを告げてやる。

喜び、安堵の表情を浮かべる人々。

少年との約束は完全に果たされたわけではない。

少女を守らねば。

誰もが、誇らしげな自分を抱えて、街に散っていく。

彼女を守るため、街が、世界がよみがえっていく。

それが、少年の、たった一つの望み―――。





























































…読み終えたあたしは、ゆっくりと顔上げた。

読んでいた決して短くもない間、ミサトは身じろぎもせずこっちを見つめていた。

頭を一つ振り、ぼやく。

「まったく、あのバカらしいわね。自分の身と引き替えに、あたしを救おうなんてさ…」









ホントにシンジは馬鹿だ。

あたしだけ残ってもしようがないじゃない。

誰が、世界を元に戻して欲しいってお願いしたのよ?

アンタのちっぽけな身体と引き替えにする価値なんかないのに。

まったく、単純な計算もできないんだから。

あたしが喜ぶわけないでしょ。

そもそも、世界が元に戻っても、アンタがいなきゃ、誰があたしのご飯作ってくれるのよ?

アンタがいなきゃ、あたしは……!











そこまでが限界だった。

唇を噛む。

レポート用紙に、ポツポツと染みができる。

喉の奥から、頭の奥から、全力でせり上がってくるものがある。こみ上げてくるものがある。

それを押しとどめる術は、今のあたしには存在しない。

「シンジシンジシンジシンジ……!!!」

泣きじゃくるあたしを、ミサトは抱きしめてくれた。

涙が止まるまで、ずっと。











































「…もう、大丈夫よ」

ミサトから身体を離して、あたしは鼻をかむ。

目は真っ赤だろう、きっと。

「ねえ、アスカ。今から出かけない?」

涙で濡れた胸元を拭こうともせず、ミサトはそう提案してきた。

「…どこに?」

「始まりの場所に」

真剣な瞳に、悟る。

「今も、人が還ってきているのね?」

「そう。今、この瞬間もね」

それは望むところだった。

病院着にミサトのジャケットを借りて羽織って、あたしたちは病室を出た。

もう夜遅いはずなのに、病院の中は多くの人が行き交っていた。

すれ違うたびに、みんなが足を止め大げさに喜ぶのも、先ほどの手紙のおかげで納得できた。

恥ずかしいので、なるべく顔を伏せて歩く。

でも、足にまだまだ力が入りにくくてミサトに支えてもらいながらだけどね。

病院の駐車場にあった赤いランドクルーザーに乗り込んだ。

「前の車は、全部吹っ飛んじゃったからね…」

そういって車を発進させてから、後は無言だった。

あたしは窓によりかかり、外の景色を眺める。

夜で街の様相は変わってみえるけど、幾つか見覚えのある景色があった。

何台もの車と行き交う。道を歩いている人もいる。

灯りも結構ついていて、近くに高台が見えた。

後ろの病院をチラリと見て、それほど距離がなかったことを知る。

街を抜け、車のヘッドライトが山へと登る道路を照らす。

来たときは気づかなかったけど、かなり曲がりくねった道だ。

ろくに灯りもないなか、この中をシンジが駆け上っていったのだろうか?

なにか、切ない。

窓ガラスにコツンと額を打ち付け、唇を噛む。

またわき上がってくる涙をすすり込む。

震えながら細く息を吐き、じっと堪えた。

月がやたらと眩しい。



























その場所は、真夜中だというのにやたら明るかった。

元の第三新東京市の中心部。

命の水がたたえられた、母なる海。

いつのまにか巨大なファーストの頭はなくなっていて、かわりに広大な水平線が見えた。

そのほとりに、トレーラーが幾つも横付けされている。

強力なライトがたくさん設置されていて、まるで昼間のようだ。

広場の中を何十、いや何百人という人が行き交っている。

空間は膨大な想いで守られているよう。

優しさ? 善意?

そのあまりに圧倒的で純粋な空気の前で、あたしはたたずむ事しかできなかった。

たくさんの人の気配に少し気分が悪くなる。

今更ながら人類が還ってきたことを強烈に意識した。

でも。

「一体、どういう風に人間が還ってくるの…?」

「いいから、見てなさい」

ミサトに促され、ちょっとした丘から海を見つめる。

黄金の水面が揺れている。

緩やかなリズムを刻む波。




…それは、感動的な光景だった。

優しく打ち寄せる波。

波が引いた後、その場に横たわる裸の人々。

それを見つけると、浜辺にいた人たちが先を争うように一斉に駆け寄ってくる。

手に持った毛布で茫然としている帰還者を抱え、次々とトレーラーの方まで戻っていくのだ。

そしてトレーラーには幾つもの服が用意され、温かい飲み物が振る舞われる。

落ち着いた帰還者は、待ち受けていた身内や友人の歓待を受ける。

いや、そんなことに関係なく、誰もが抱き合い喜び合っていた。

ただ無邪気に。純粋に。

世界に復帰したことを喜んでいるのか。

他人との再会を喜んでいるのか。

それは、あたしには分からなかったけど。



…これが、シンジの望んだ結末なの?

ジャケットの前を寄り合わせ、あたしはただその光景に見入っていた。

風に乗って響いてくる歓声は、まるであたしを包むよう。

ひたすら押し寄せてくる喜びの輪唱。命の賛歌。

「これが、シンジくんがあなたに贈るラブソングよ…」

背後から、そっとミサトが肩に手をのせてきた。

その手にあたしも手を重ねながら、震える声を出す。

「なによ、また泣かせる気…?」

…そんなラブソングなんか、いらないのに。

アンタが側にいてくれれば、それだけでいいのに。

ばか、

ばか、

ばか…。




あたしの前に回ってきたミサトは、背を向けたまま言った。

「ふと、あたしも思うのよ。もしかしたら、シンジくんはとてつもない罪を犯したんじゃないか、って」

「…どういう意味?」

涙を拭いながら、あたしは考える。

確かに、人類補完計画を発動させてしまったシンジは大罪人と言われるかも知れない。

誰よりそれはあたしが承知している。

でも、今、ミサトが口にしたニュアンスのとは違う気がする。

振り返ってくるミサト。表情は逆行で見えなくなった。

「きっと、シンジくんが身を投じて訴えなくても、いずれ人類は還ってきたはず。

 問題は、人類が還ってくる時期よ。

 もしかしたら、人類はもっと遙か未来、文明が滅びて消えてしまった頃に還ってきたかも知れない。

 回復した地球で、人類は、新しくて優しい文明の発展を模索できたかも知れない…」

「それは仮定の理想論よ」

即座にあたしは反論していた。

「分かっているわ」

ミサトは肩をすくめて、

「でもね、アスカ。これだけは覚えておいて。シンジくんは、それだけのことをしたの。

 人類の可能性を摘み取ってまで。

 ―――あなたのためだけにね」

胸に響く。

全身が共振する。

砕けそうな身体を繋ぎ止めるように、あたしは胸に手をあてる。

あたしのためだけに。

大きすぎるアイツの想い。

忘れられるわけがない。

涙を飲み込み叫ぼうとして―――角度を変えたミサトの顔は泣いていた。

「ミサト…」

戸惑い、近づこうとしたら、手で制された。

「ごめん、アスカ。あんたが一番辛いのにね…」

またミサトはあたしに背を向けた。

全く、先に泣かれちゃしようがないじゃない…。

あたしが声をかけあぐねていると、ミサトは明るいトーンの声を出す。

そのギャップにあたしが対応出来ないでいるうちに、また背後に廻ってきた。

「シンジくんはね、海に溶けて世界中に散らばったんだと思う。

 そして今も、たくさんの人を起こしているんだと思う…」

ミサトの呟きから、あたしはイメージする。

広大な世界をそぞろ歩くシンジ。

蹴られ殴られ疎まれながらも、人々に目覚めの鐘を突きつける旅人。

同時に思い出すのは、二人きりの世界。

死んでいたペットを埋めていたシンジの姿。

…結局、中途半端にして還ってきやしないだろう。

あたしはここにいるのに。

アイツは優しすぎるから。

「待てるアスカ? 全世界の人が戻ってくるまで、待てる?」

ミサトの優しい問い掛け。

その裏に隠された意味に気づかないほど、あたしも愚鈍じゃない。

全世界の人類が、一人残らず還ってくる保証はない。

アイツが還ってくる保証も、また存在しないのだ。

それでも、あたしの返事は一つしかない。

「待つわよ。いつまでも」

お腹に手をあてる。

少なくとも、これの責任はとってもらうんだから。

還ってこないと許してやらないんだから…。








































―――そして一年の月日が流れた。

















(2005/2/9)

続きを読む


戻る