僕は幸せだった。 可愛くて、気だての良い彼女。 成績は優秀で、スポーツも陸上なら誰にも負けない。 父さんも出世して、新車を買った。 母さんも、新しくて広い家で嬉しそう。 僕は満ち足りていた。 学校生活も充実していた。 みな親切で、僕のことを悪くいう人もいない。 むしろ僕は注目の的だった。 誰もがあこがれる存在だった。 僕は毎日が楽しかった。 なのに。 ある日気づく。 僕の完璧な生活への闖入者。 僕の生活をひっかくように。 目障りな存在。 学生服を着た少年。 僕より年下の痩せぎすの少年。 年齢からして中学生だろうか? 僕の行く先々に、彼が姿を見せるようになった。 無視していた。 だって、僕は幸せなのだから。 完璧な幸せの中にいるのだから。 だけど。 まるで目の中のゴミみたいに気に障る。 彼はいつも僕の見る先にいるのだ。 勉強している時は校庭の隅から。 デートしているときはビルの壁の影。 部屋でくつろいでいるときは家の前の道路から。 ある日、僕はとうとうその少年に近づいた。 “何をやっているんだ、キミは? 目障りなんだよ、ストーカーか何かか!?” 少年は、驚くべき事に微笑んだ。 “良かった、気づいてくれて。僕のほうからはこれ以上近づけなくて…” 彼は、それはもう、心の底から喜んでいるように見えた。 だけど、その時の僕は、それに気づくことがなかった。 ただ怒鳴りつけた。 “何わけわかんないこといってるんだよ!? これ以上つきまとわないでくれ、気持ちが悪い!!” やおら少年は表情を変えた。 “お願いします! 彼女を、アスカを助けてください!” “彼女? アスカ? 何いってるんだ、キミは!?” “…時間がないので、率直にいいます。いま、あなたのいる世界は夢みたいなものなんです” “…はあ?” 訝しがる僕に、少年は怯まない。 “この世界は、えーと、一つになった人類のそれぞれが勝手に見ている理想の夢みたいなものなんです。 人類が一つになったことについては、ちょっと色々長くて説明できないんですけど…。 でも、これは夢なんです。現実の世界はまだ続いていて、そこにはアスカが…” 意味が分からない。この世界が夢だって? この幸せな世界が夢だって? ふざけるな!! “これは、現実だよ。キミは頭がおかしいんじゃないか?” はっきりと言ってやった。 “…はい。きっと、あなたにとっては現実だと思うし、ずっと夢を見続けることもできる…でしょう。 でも、お願いします。どうか目を覚ましてください。現実に戻ってアスカを助けてください。 お願いします…!!” 頭を下げる少年に背を向けた。 バカバカしい、付き合ってはいられない。 この幸せが偽物だって? “お願いします、お願いします、お願いします…!!” なのに、少年は足下に縋り付いてきた。 邪魔だよ、とばかりに蹴飛ばす。 どうして僕の邪魔をする? 僕は、誰からも好かれる学校一の優等生なんだぞ? その時、僕は、何かにピシリと亀裂の入る音を聞いた。 否定された。 僕の世界を。 どうして邪魔をする? 誰も僕の邪魔をしないのに。 この少年は他人だ。 他の、人間だ。 途端に世界は音を立てて崩壊した。 崩れていく背景の中、僕は少年に殴りかかる。 “おまえが来たから! おまえが余計なこというから! 他人のおまえが割り込んできたから! 夢が、僕の理想郷が壊れちまったじゃないか!!” 怒鳴りながら殴りつける。 泣きながら殴りつける。 オモチャを取り上げられた子供のように暴れた。 その間、彼は、ひたすら謝罪を繰り返し、僕に殴られていた。 “これから僕は、どうすればいいんだよ…?” 何もない白い空間の中で、僕はぼやく。 浮かぶように少年が横たわっていた。 血まみれの少年が身体を起こす。 唇から血を流しながら、それでも少年は薄く笑った。なお謝罪の言葉をのせて。 “…あなたはきっともうすぐ現実の世界で目覚めると思います。 勝手にあなたの夢を壊しておいて、本当に申し訳ないんですけど、お願いを聞いて貰えませんか…?” 息をするのも辛そうな声に、僕は渋々頷くしか出来なかった。 “しようがないよ。目覚めてしまったものはしようがない…” “そういって貰えると、助かります…” 少年は痛々しく笑った。 “あなたが目を覚ました場所から山を下った街の高台の家に、女の子がいます。 彼女は昔の怪我がもとで、今にも死にそうなんです。 どうか、彼女を助けてください。僕には治療もなにもできないから…” “…その子の名前が、アスカっていうのかい?” “はい。僕の一番大切な人です。でも、僕一人では守りきれなかった…” 少年は泣いた。それはとても純粋な涙に見えて、今更ながら僕の心は痛む。 “わかった。引き受けたよ” 僕は医者でもなんでもない。治療なんて出来るわけもない。 でも、気がついたら、力強く頷いていた。 “あ、ありがとうございます…!” そう答えて笑い、少年はまた泣く。 “そ、その悪かったな。そんなに一方的に殴り付けたりして…” 弱々しく立ち上がった少年に、どういうわけか謝る気になった。 “いいんです。もともとは全部僕が悪いんですから…” 白い世界が光る。 全てがホワイトアウトしていく。 ああ、これが目覚める前兆か。 なのに、少年の周囲は切り取られたように黒く落ち込んでいく。 “なあ、どうしたんだよ? 一緒に現実世界に還ろう?” 少年は悲しく微笑む。 “僕は、他の人も起こしにいかなきゃいけないんです。 それが、きっと僕のしなきゃならないことです。 僕にしかできない贖罪なんです。 そして、そうしないと、アスカが助けられません…” その答えに、僕は絶句する。 “また、殴られるかも知れないよ? もしかしたら、殺されるかも知れない。 いくら夢のなかでも、殴られれば痛いんじゃないのか?” 少年は頷いた。 なのに、どうして彼は行くというのだろう? 微笑みながら、辛い道を行けるといえるのだろう? “アスカを、アスカをよろしくお願いします―――” それが、僕の聞いた、少年の最後の言葉だった。 気がつくと、僕は浜辺にいた。 見覚えのない場所だった。 見回すと、周囲に同じように人が横たわっていて、みんなが上体を起こすところだった。 まるで、たったいま目を覚ましたみたいに。 僕は裸だったけど、構わず立ち上がる。 フラフラと砂浜を歩いて辿り着いたのは、砂地に半ば埋もれるようにして停車した一台のスクーターの前だった。 ごく自然に、僕はそのハンドルに触れた。 きっと、そこには強い想いが込められていたからに違いない。 案の定、頭に映像が浮かんだ。 ―――虫の息の少女を前に、決意を固める少年。 高台の家を飛び出し、スクーターのキーを捻る。 血がでるほど唇を噛みしめ、涙をまき散らしながら少年は疾駆する。 彼は自分の無力さを痛感していた。 安らかな日々すら少女に与えることが出来なかった。 最後まで、自分のことを心配して少女は死のうとしている。 無力な自分が許せなかった。 彼女のいない世界が耐えがたかった。 この世界で少女を愛していた。 きっと世界が変わらなくても少女を愛せたと思う。 それは、愛するという表現すら生ぬるい温度をもって、少年を駆り立てる。 街を抜け、山を登る。 息をするのすら忘れ、少年がひた走り目指すのは、命の海。 少年の原罪の場所。 くねった道を曲がりきれず転んでも立ち上がる。 血を流しても、ハンドルを握り続ける。 骨を砕かれるより、心が痛いから。 明星が輝く頃、少年は命の海へと着く。 海へ向かって叫ぶ。 あらん限りの力で叫ぶ。 みんな還ってきて。 お願い、アスカを助けて。 海は、答えない。 ただ寄せては返すだけ。 少年は涙を流して懇願する。 お願いです。なんでもしますから。 やはり海は答えない。 少年は、涙を拭う。 そして、命の海に深く分け入る。 願う。 僕の身はどうなってもいいから、アスカを助けてください。 そう祈り、少年は海の中に身を投じる。 きっと、アスカは怒るだろうな…。 その頬には、微笑が浮かんでいる―――。 僕は、勢いよく瞼を開けた。 一緒に、砂地からスクーターを引き起こす。 ついたままのキーを捻る。 エンジンが吼える。 またがり、アクセルをふかした。 まるで呼応するように、浜辺の人たちも立ち上がる。 そして、走り出す。 先を争うように走り出す。 目指すは、山の麓の街。 高台の家。 走りながらぼろキレをまとう。 走りながら、役に立ちそうなものを探す。 瓦礫の街を抜けるころ、一台のトラックが横転していた。 皆が示し合わせるように、力を合わせて引き起こす。 ごく自然に運転手が乗り込む。 優先的に荷台に載せられたのは、きっと医者だ。 車がないものは走る。 車を見つけて乗り込む。 バイクにも乗る。 自転車も漕ぐ。 みんな、その場所を目指す。 少年との約束の場所を。 進む。 みなが迷わず進む。 街へと降りて、高台の家へ。 見つける。 少女を見つける。 月光の丸い光に守られるように、少女はいた。 生きてるぞ!! 歓声が爆発する。 運び出せ。ゆっくりとだ。 気がつけば、少女を厳重に搬送するものと、病院に先行するものに分かれている。 少女は、まるで壊れ物のように大事に大事に運ばれる。 遅れてきたものに、少女が無事だったことを告げてやる。 喜び、安堵の表情を浮かべる人々。 少年との約束は完全に果たされたわけではない。 少女を守らねば。 誰もが、誇らしげな自分を抱えて、街に散っていく。 彼女を守るため、街が、世界がよみがえっていく。 それが、少年の、たった一つの望み―――。 |