どうして人は、無くすとわかってからそのことに気づくのだろう。

失うと知ってから、より愛しく思うのだろう。





































この醜くも美しい世界4




































夜半、妙に気持ち悪くなり、洗面所にいった。

夕食で食べたトンコツ味のカップラーメンが悪かったのかしら、などと思いながら不快さを堪えられず嘔吐した。

自分でも思いがけないほど激しく吐いた。

「…アスカ、どうしたの? 大丈夫!?」

目を覚ましたらしいシンジが駆け寄って来る。

口を拭って、大丈夫よ、と振り返り、あたしはシンジの驚愕した顔を見ることになる。

真っ青なシンジの顔と裏腹に、あたしの手は真っ赤に染まっていた。

白磁の洗面台も、すべて朱色に塗りつぶされていた。

























…あたしの記憶はそこでプッツリ途切れている。

次に目を開けたとき、あたしは布団に寝かされていた。

頭の中が熱く、舌の奥でまだ血の味がする。

滲んでいた視界が輪郭を取り戻すと、こちらを覗き込んでくるシンジと目が合った。

「アスカ…アスカ…」

バカみたいに繰り返しながら、なんか泣き笑いを浮かべている。

「なによ、そんな顔して…」

喋って身体を起こそうとして、力が入らない。

全身がひどく怠い。

いや、そもそも喋れたのだろうか?

なにか、とても曖昧だ。

自分の身体なのに…。

シンジの手があたしの首に廻ってきた気配。

視線がゆっくりと持ち上がる。

ぼんやりとシンジを見つめる。

喉がヒリヒリする。口の中も乾いている。

「ほら、アスカ、水だよ…」

口元に冷たい感触。

唇の先端から冷たさが喉の奥へと流れていく。

感触が身体の奥へと滑り込んで行く。

直後、激しくむせた。

違和感のあった身体から瞬間的に主導権を取り戻し、あたしは口元に手をあて、咳き込む。

苦しさに背を丸める。

涙が染みる。

目を開けた。

赤い感触。

震える声が出た。

「…シンジ…」

どう言葉を継げばいいのだろう。

どう言葉にすればいいんだろう。

…それに直面したとき、それを自覚したとき、言葉なんて無力なものだ。

やはり、ずっと前からあたしは知っていたのかも知れない。

泣き叫ぶように騒ぎ立て血にまみれた手を拭くシンジを眺めながら、あたしは脳裏でその事実を静かに、平然と受け止めていた。

















あたしはもうすぐ死ぬのだということを。































予感がなかった、といえば嘘になる。

今思えば、常に感じていた焦燥感。

まるで、バベルの塔が積み上げられていくような充足も。

あるいは、蝉が鳴き続けるのにも似て。

遠くない未来に確実な破滅が訪ずれることを悟りながら、それでも信じたくなくて。

ただ、幸せな時間を作りたかった。それに浸っていたかった。

ううん、やっぱりそれも少し違っていて…。

考えるのにも疲れたあたしは、背中の枕に体重を預けた。

相変わらず続く微熱。全身の倦怠感。

それでも今日はずいぶんと調子が良い。頭も少しはっきりしている。

でも、これ以上回復することはないだろう。

小康状態だ。

少しずつ、あたしの身体は衰弱していく。

まるで他人事のようにあたしはそう分析している。

お腹の上を右手で撫でた。

痛みも感覚はないけど、そこはとてつもないダメージを負った箇所。

外見からも判明しない傷は、知覚しなかった傷は、じわじわとあたしを痛めつけていたのだ。

少なくとも、あたしたちに治療できないことはだけは確か。

…こんな世界で理不尽だなんて、今更思わない。

あたしたちは無力だった。

やっぱりあたしたちは子供だった。

今更ながら、記念碑のようにあたしはそのことを意識していた。

いくら肌を重ねたところで、あたしたちはちっぽけな子供だったのだ。

誰も人類がいなくなっても、残された世界に生かされる矮小な存在。

人にすがらずには生きていけない悲しい二人。

…あるいはこれは敗北宣言?

あたしたちは、生きることに失敗したのだろうか?

…いや、負けちゃいない。

少なくとも、あたしは負けない。

負けてやらない。

そう心に決め、甲斐甲斐しく世話を焼き、あたしにスプーンを差し出してくるシンジに微笑む。

口の中に広がった温もりは、お粥なのかスープなのかすら判然としない。

吐きそうになるのを無理矢理飲み下す。

二口が限界だった。

後かたづけをしながらも、心配そうにこちらを振り返るシンジを見て、なにか悲しくなった。

あたしがいなくなった時、コイツはどうするのだろう?









不意に怒りが沸いてきた。

怒りの対象は、いまやシンジを通り越して、もっと目に見えないものへと向けられている。

一体あたしたちが何をしたの?

どうして一緒にいられないの?

せっかく世界が素敵なものに見えてきたのに。

これは罰なの?

じゃあ、何の罰?

あたしたちが肉欲に溺れた罰だとでもいうの?











食いしばる歯にすらもう力がない。

こぼす涙にも勢いがない。

決意は簡単に決壊した。

怒りの対象が繰り下がる。










シンジを怒鳴りつけた。





もう優しくしないで!

もう触らないで!

もう放っておいて!!





驚くシンジから視線を逸らした。

心の中で、悲鳴があがる。

あたしの心が悲鳴をあげる。

そんな目で見ないでそんな目でみないで。

頭に血が昇る。

違う回路が繋がる。

昔の怒りが再燃する。

燃えたぎった怒りがはじけ飛ぶ。

シンジを見つめ怒りを吐く。

ただ闇雲にぶつける。








全部、全部、アンタが悪いのよ!!

アンタが、こんなみょうちくりんな世界をつくって!!

アンタが、あたしを無理矢理犯して!!








唖然とするシンジに、更に言葉は止まらない。






アンタが、あたしを抱いたから!!

アンタが、あたしを女にしたから!!

アンタが、ご飯を探してくるから!!

アンタが、優しくしてくれるから!!

アンタが、アンタが、アンタが……!!!!






アンタはあたしを破壊した。

惣流・アスカ・ラングレーの甲冑を破壊した。

強い部分を破壊した。





だから、もうこれ以上、やめて、お願い!!

あたしはそんなに強くないのよ、本当は!!!

もう、恨んでいないから優しくしないで!!

許してあげるから触らないで!!

思いだしたくないの、楽しい時間は!!

でないと、あたしは、きっと…!!!















受け入れない。受け入れられない。

あたしが死ぬ?

どうして死ななきゃならないの!?

ねえ、なんとかいってよ、なんとかしてよ、誰か教えて!!

嫌だよ、

死にたくないよ…。

もっと一緒にいたいよ、

一人は嫌、

死ぬのは嫌、

一人だけ死ぬのはもっと嫌!!















喚きたい。

シンジにすがって泣き叫びたい。

そのまま抱きしめられたい。

全身を砕かれるほど抱きしめて










殺してもらっても構わない。




















なのに、身を投げ出す力すら残っちゃいない。

だから、シンジの手を強く握る。

強く握り返してくる気配。

もっと力を込めた。

手から伝わってきた力で心臓が握りつぶされることを願って。

優しく優しく握り返された。

言葉が、心が伝わって来た。

大丈夫、僕はここにいるよ、と。

震える言葉は泣いていた。






















あたしも泣き疲れ、眠りにつく。










































あたしの容態が急変して、どれくらいの日が過ぎたのだろう?

最近瞼を閉じるのが怖い。

そのまま、二度と目覚められないような気がして。

ひょっとしたら、あたしは既に死んでいるのかも知れない。

「アスカ、今日の具合はどう?」

疑う正気は、シンジの声で実体を取り戻す。

シンジがいるなら、これは現実。

紙のような思考の間にシンジの声を挟むように、ただ、日々を過ごしている。

薄く薄く、丹念に。

過ぎゆく日々は、ジュースをちょっとずつ水で割っていくのに近い。

やがてその比率は逆転し、薄い、かぎりなく水に近いものだけが残されるだろう。

でも、あたしの存在したことは、決して失われない。

コイツが覚えていてくれる限りは。

コイツが生きていてくれる限りは。

傍らで、あたしの手を握ったまま疲れ果て眠るシンジ。

この温もりの為だけに、残された全ての時間を使おうとあたしは決めていた。

あたしがいなくなった後も、シンジが生きてくれるように。

そう思える自分が、少しだけ可笑しく、照れくさかった。

実際にできないので、頭の中で肩をすくめる。

…そう、あの時、あたしは死んでいたのだ。

エヴァ弐号機と量産機との戦いで。

だから、今までの日々は、そう、お釣りみたいなもの。

死は、怖い。

でも、いずれ誰にでも訪れるもの。

感情を排さないと収拾がつかなくなるので、無理矢理そう決めて固定した。

揺らぐ意志を支えるのは、ちっぽけなあたしのプライド。

傲岸不遜で、意地っ張りな、でもあたしを支え続けてくれた源。

でも、こんなものでシンジが生き続けてくれるのなら、少しは価値があるのかも知れない。

もしかしたら、あたしは、少しだけ自分を好きになれるかも知れない。

きっと、最後の最後のその時に。


















































       ねえ、ママ

            そこにいるの?

そこで待っているの?




     じゃあ いいじゃない



あたしもそこへ行く

だって ママが待っているんだもの


だから いくね

いいよね…




























           …よくない!!

























瞼を開ける。

気持ち悪い夢を見たのに跳ね起きられないのは、もっと気持ち悪い。

不思議な発見と感覚も、たちまち全身を満たす怠さの波に飲まれて消えた。

後には、感覚すらままならないあたしだけが取り残されている。

まるで浜辺に打ち上げられた貝みたいだ。

全身に汗が滲んでいる感触を不快に思えるほど、あたしには体力が残されていなかった。

いや、夢から立ち返るのに、全力を使ってしまったといったほうが正確かも知れない。

ならば、あたしに残された時間はもう…。

あたしの気持ちを代弁するように、隣のシンジが跳ね起きる。

「アスカ、大丈夫、アスカ…?」

もし、心配するコイツの声で身体が癒えるとしたら、あたしはきっと100万回くらい生き返っていたことだろう。

右手に意識を集中する。

感覚が無くて全身が冷えたような気がする中、そこだけは確かに温かかった。

ずっと、握っていてくれた。

昼夜問わず、あたしの傍らで。

一時も手を離すことはなく。

この温もりが、まだ辛うじてあたしを肉体に繋ぎ留めているのだと思う。

でも、離れるのは時間の問題だ。

いくらシンジがあたしの掌を温めてくれたとしても、もうあたしには留まる力がない。

…いっそ、シンジも一緒に連れていってしまいたい。

でも、それはあたしの望むことではなくて。

相反する思考の奔流。

おそらく、最後の意志の迸り。残光と飛沫…。

そこまで廻る頭を面白がれる余裕があるのがその証拠。

だから…最後の機会だ。








「ずいぶん、うなされていたみたいだけど…」

口を開くのも辛いので、軽く頷き微笑んでみせた…と思う。

あたしの顔はどう見えているのだろう?

でも、シンジは泣き笑いの表情を浮かべるだけ。

ゆっくりと、ゴツゴツになった細い指が目前に映った。

シンジの指が、おそるおそるあたしの額に触れようとする。

ちょっとだけ離れて、結局震える感触があたしの前髪の生え際あたりをくすぐる。

どうやら四肢の感覚と引き替えに、頭の感覚だけは残っているよう。

血液が頭に行き渡っているから、思考もきっとクリアなんだ。

「ねえ、シンジ…?」

か細い声が出た。自分でも信じられないくらいガサガサの声。

これが今のあたし。悔やむ気持ちも名残を惜しむ気持ちもない。

あたしはあたし。

惣流・アスカ・ラングレーだ。

そうやって叱咤し、震い立たせないと、今にも意識は落ちていきそう。

暗い暗い、暖かい泥の中へ。

「…誰か、還ってきた?」

シンジはゆっくりと悲しそうに首を振った。

今更、他の人類が還ってきたって、あたしの身体が治るなんて楽観しちゃいない。

これは繰り返す儀式みたいなもの。

でも、そうあたしが願っているのは本当。

せめて、還ってきた人たちにシンジを託したかった。

だから。

「ねえ、約束して。あたしが死んでも、一人で生きるって。みんなが還ってくるまで一人で生き抜くって…」

これだけいうのにも時間がかかったと思う。

時間は貴重だという意識はあるんだけど、曖昧さが意味を駆逐していく。

一緒にあたしが貴重だと思うものまで。

それが悔しくて、あたしはシンジに更に訴える。

「でなきゃ、あたしはアンタのこと、一生許してやらないんだから…」

「…うん、分かったよ、アスカ。だから、死ぬなんていわないでよ…」

笑顔で答えたシンジの顔が、地滑りみたいに泣き顔に変わる。

何回繰り返したか分からない問い掛け。返答。




ねえ、アンタ、本当に分かっているの?

真剣なのに笑うあたし。



でも、ダメだ。コイツは連れて行かない。

寂しがり、叫ぶあたし。



もう、どうしようもないわね、コレは。好きにさせれば?

泣きじゃくり、醒めたあたし。




渦巻いた意識の中から、最後のあたしが唇を動かす。

残酷で、この上なく優しいあたしが。






そしてもう、この言葉を留める力は今のあたしに残っちゃいない。





…違う。

チガウ。

ちがうよ…。


これもあたしの言葉。

ううん、きっと、あたしが一番伝えたかった言葉。

涙がこぼれた。

嬉しくて、悲しくて涙がこぼれた。

決めたのに。

あたしのプライドに賭けて決めたのに。

きっと揺らがせてしまう。

分かっているのに、

知っているのに、

あたしは、

今、この上なく残酷なことを言おうとしている。

あまりにも醜い言葉を唇から紡ごうとしている。




一度目は、空気をうまく伝わらなかった。



あたしの様子に気づいたらしく、シンジは耳を近づけてくる。

二度目の言葉は伝わった。





「シンジ…あたしのことが好き?」




顔を近づけたまま、シンジは答えた。涙で頬を濡らしたまま。






「うん、僕もアスカのことが好きだよ…」




笑う。

『僕は』じゃなくて『僕も』

これがコイツの精一杯。

精一杯の誠意。格好の付け方。




知っていた。

知っていたから、あたしは次の言葉を紡ぐ。





「バカね、アンタは…。そんなこと分かってるんだから」






分かっていた。

アイツが困ったような顔になるのも。




分かっていた。

分かっていたから、あたしは呪いの言葉を紡ぐ。





精一杯微笑んで。

これがあたしの精一杯。

あまりに醜いあたしの心。

醜すぎるあたしの本心。

最後だから、

最後だから、

最後だから…


























「あたしは、アンタのことを愛している…」




















ああ、醜くて


醜くくて


あたしの心はこんなにも醜くて












残酷で


この上なく残酷に


あたしはシンジの心にくさびを打ち込んでいる


水晶のような色で


永遠に消えないような傷を


泣きながら


心を痛めながら





















なのに
















口から飛び出した響きは、信じられないほど美しくて


















愛してる


ずっと側にいてくれて




思い出す。まだ平和だった日々。

互いの感情すらままならず、それでも一緒に暮らして学校に通った季節。






愛してる


ずっとあたしを守ってくれて



思い出す。二人だけの壊れた世界での日々。

一生懸命あたしだけを見ていてくれた、子犬みたいなシンジの目。






愛してる


いつからだろう?



愛してる


口にすることなんか、一生ないと思った



愛してる


好きより上でしょ?



恥ずかしくなんかないわよ


恥ずかしがらずに


もっといっておけばよかった


ありがとうなんてありふれたものより


ねえ


こっちのほうがいいわよね?



なんとかいいなさいよバカシンジ














微笑んで



あたしはお願いじゃなくて命令する














「ねえ、キスしてよ…」


















泣きながら、シンジはキスをしてくれた。

塩辛い味。

冷たい頬があたしの顔に擦りつけられる。

震える指が、激しくあたしの頭を撫でてくる。

乱暴で、とろけそうなほど優しい愛撫。

「アスカアスカアスカアスカ…!!」

幾度となく顔を流れていく温もり。

流れては消えていく温もり。

そして遠ざかる言葉。

沈んでいくような感覚の中、悲しく笑う。

本当に、あたしは、この温もりだけは失いたくなかったのだ…。





































































ただ、すべてが暗かった。

ぼんやりと、あたしは浮かんでいる。

どこに。

どこへ?

細い吐息が、頭の奥を、

ああ、

あたしはまだ生きているん…だあ…

あの丸いヒカリは、

ヒカリはきっとお月さまで、

シンジは、

どこ? どこに?






ねえ、シンジ

ねえ、シンジ

ねえってば…










静かだ、なにも聞こえない。








シンジったら どこへいったんだろ

最後の最後に側にいてくれないなんて

やっぱりアンタって ばかよね…







悲しい

くやしい







きっとアイツも自分の死に場所を探しにいったにちがいない


あんなにやくそくしたのに


あんなにおねがいしたのに



かなしい

かなしい

















そばにいてやれない

もういっしょにいられない

ごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめん…ね…










もう 











あたしも   もう   つかれたの





だ か  ら










もう ねむる  ね
























        さよなら シンジ









さ よ な      ら




























さよ           な                ら…






















































2005/2/2



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