
蝉が、鳴いている。
ある日気づいた。
全身を包むような鳴き声に、あたしは唐突に立ちすくむ。
「…どうしたの、アスカ?」
振り返ってくるシンジに、大丈夫だと手を振り返す。
なんとなく傍らまで走り寄る。
シンジから汗と太陽と土の匂いがする。シンジの匂いだ。
鼻を鳴らすあたしを見て、
「やめてよ、アスカ、恥ずかしいよ…」
相変わらずの物言いが可笑しくてしょうがない
「誰も見ている人いないのに、何を恥ずかしがるのよ?」
「……」
黙り込むシンジの額には汗が滲んでいた。
あたしはかぶった麦わら帽子のつばをつまみながら顔を上げる。
太陽は真上だ。
「ちょっと、休憩しようか?」
シンジはそういってコンビニへと消えた。
軒下のベンチにあたしが座っていると、目の前に差し出されるアイスティー。
「…これ、飲めるの?」
「たぶん、大丈夫。あ、アイスも食べられると思うけど…」
「…遠慮しておくわ」
誰もいない世界。
あたしたち二人しかいない街。
まだ、かろうじて電気も水道も止まってはいないけど。
ああ、この街はまだ生きている。
冷たい液体が喉を滑り落ちた。
軽く瞼を閉じ、耳を澄ます。
風の音。
蝉の声。
微かな機械の駆動音。
そして世界は、まだ死んじゃいない…。
この醜くも美しい世界3
シンジにくっついてあたしも街に降りるようになり、もう幾度目だろうか。
人っ子一人いない街で物を漁るのは、誰も手をつけていないクリスマスケーキを食べ荒らすのに似ている。
服も靴も本も電化製品もなんでもとり放題だ。
誰も咎めず、誰も気にしない。…あたりまえだけど。
スーパーの探索も、食料品エリアだけは避けた。
干涸らびた生鮮食品、一ヶ月以上放置されっぱなしの惣菜品など見たくもない。
クーラーの効きすぎたフロアをそぞろ歩き、くたびれてあたしはベンチに腰を下ろす。
鳥肌が立っていたので、剥きだしの肩の上に、手近にあったカーディガンを羽織る。
軽く呼吸が乱れていた。まだ体力は充実していないらしい。
白々しい照明に、エアコンの風に服が微かに揺れている。
ところどころ切れた電灯。
機械の匂いのする空気に、寒くすら思える光景。
なんだか不意に心細くなった。
「シンジ!!」
それほど大きな声で叫んだつもりはない。なのに、
「アスカ、呼んだ?」
背後のエスカレーターからひょっこり顔を出す日焼けしたバカ。
「…アンタね、心臓に悪いわよ」
「え? えーと、ごめん」
両手一杯に袋を抱えたまま、シンジは首をすくめた。
「あと何か持っていくもの、ある?」
あたしは首を振る。
何も好きなだけ持って行く必要もないと思う。欲しければ、また取りに来ればいいんだし。
横目で服の大群を眺め、少し気分が悪くなった。
だからベンチから立ち上がった途端、立ちくらみ。
「あ、アスカ…!!」
よろめいた途端、シンジに抱き留められた。
シンジの腕は温かかった。あたしの身体が冷えすぎていたのかも知れないけど。
N極とS極のように身体を離す。
このままくっついていたら溺れそうだから。
コイツのぬるま湯のような雰囲気に。
溺れそうと思う自分にが少しだけ可笑しく、照れくさく、腹立たしかった。
蒸し上がるアスファルト。
ゆらゆらと歪む大気は、まるでどこかの砂漠のよう。
麦わら帽子をかぶっていても、暑い。
先ほどまで涼しすぎる場所にいたから尚更だ。
間違いなく身体に悪いだろう。
「ごめん、ちょっと休むわ…」
スーパーを出て10分と経っていないのに、同じ通りの喫茶店にあたしは避難する。
エンドレスで流されていたらしいクラシックがあたしを出迎えた。
ここもクーラーは利いているのに、なにか空気が澱んでいるような気がする。
益々気分が悪くなりそう。
後を追っかけてきたシンジが手慣れた感じで埃っぽいカウンターの中に入った。
すかさずあたしは言ってやる。
「チョコパフェ!」
「ちょっと待ってね」
シンジのヤツ、律儀に冷蔵庫をごそごそ漁ってから、
「うーん、生クリーム抜きなら出来るけど…」
「冗談よ…」
つっけんどんにいい、頬杖をついて窓の外へ視線を向ける。
汚れたガラス越しに見える、誰一人、車一つ通らない光景も、それなりにオツなものだ。
あたしの機嫌を損ねたと思ったらしく、シンジは黙ってソーダの入ったグラスを二つもってきた。
違うのに。あたしはシンジの従順さが気にくわないだけだ。
…つくづく勝手なものだ、あたしは。
奉仕され、庇護され、傅かれている現状を不満に思っている。
身体が不満を許さないのに。状況が不平を肯んじないのに。
なぜかため息が洩れた。
また当て付けてると思われるのもシャクだ。そっぽを向いてシンジの方を見れば、あたしと同じく窓の外の景色を眺めている。
「…アスカ、ちょっとここで待っていてもらえる?」
別に訊ねなくていいのに。いい捨てて出てってもいいのに。
どうせ、アンタがいなきゃ、あたしは街も歩けないんだからさ。
口に出すのはいかにも情けない気がしたので止めた。
代わりにストローをくわえたまま頷く。
軽く微笑んで、シンジは喫茶店を出て行く。
あたしはソーダ水を啜り、クラシックに耳を傾け続けた。
ちょうど良い温度の空気に、少しだけ眠気を催す。
持ってきた袋の中からカーディガンを羽織り、あたしはぼんやりとした。
気づけば、グラスの中の氷は全て溶けていた。
シンジは戻ってこない。
うたた寝する前、時計を見るのを忘れていたのを後悔する。
どれくらい時間が経ったのだろうか?
机に突っ伏した身体を起こすと、メリメリと嫌な音がした。
足下が覚束ないまま、店の外にでる。
相変わらず暑い。
それでも、太陽はだいぶ傾いていた。それなりに時間が過ぎたよう。
「シンジー!?」
返事は、ない。
蝉の声。うるさい。
「シンジーぃ!?」
もう一度、叫ぶ。
やはり返事はない。
たちまちあたしの頭の奥が冷たくなる。
脳裏に浮かぶのは、この間の光景。
熱中症で倒れたシンジの姿。
アイツ、もしかして、また…?
動悸が速くなる。
探さなきゃ。見つけなきゃ。
胸が騒ぐ。背筋がざわつく。
闇雲に探しちゃダメ、と考えているのに、ふらつく足を必死で動かす。
耳を澄まし、目をこらす。滲む視界が憎たらしい。
数メートルほど進んだペットショップの前まで来たときだった。
なにか、打ち付ける音が聞こえた。
そう、まるで地面を掘っているような…。
まだ鼓動が早いまま、音のする方に駆け出す。
八割方の希望と二割の不安を抱えて。
アイツの姿を認めて、残り二割が吹き飛んだ。
シンジが、スコップで穴を掘っている。
声をかけようとして、シンジの足下に包み紙を見つける。
結構大きく、熱い風に漂う嫌な匂いがあたしの足を止めた。
これは…腐臭だ。
「…アンタ、なにやってんの?」
鼻を押さえながら声をかければ、シンジはスコップを振るう手を止めてこちらを見た。
「あ、アスカ、ごめん…」
額の汗を拭いながら謝ってくる姿に、少しムカっとする。
全く、なんでも謝ればいいのかと思っているのだろうか、コイツは?
見回せば、裏路地に狭い土のエリアに、いくつも包み紙が転がっていた。
大小様々なその袋から、腐臭が漂ってきているみたい。
「なによ、これ…」
手近にあった包みを開けようとしたら、シンジが飛んできた。
包み紙を掴んだ手を叩かれる。
「何すんのよ!?」
思わず怒鳴れば、珍しく真剣な表情。
「見ない方が、いいよ…」
曖昧な表情と答え。
あたしが手を押さえて睨むと、シンジは視線を逸らした。
違う。視線はあたしの背後を見ていた。
振り返り、そこはペットショップ。
「まさか…」
シンジは頷いた。
「助けることは出来なかったんだよ…」
つまり。
包み紙の中身は、動物の死体なの…?
気づけば、シンジは無言でスコップを振るっている。
そして、掘った穴へ、次々と包み紙を降ろしている。
全て降ろし終えてから、シンジは土をかけた。
不思議と、汚いとか臭いとか、嫌悪の意識はなかった。
なにか崇高な事をしているように見えたのだ。
もちろんそれは錯覚で、シンジの言葉にあたしの意識は通常に戻る。
「これも、僕の責任みたいなものだから…」
「……もしかして、アンタ、今まで街に降りるたびにやってたの?」
「うん…目についた範囲内ではね」
「………」
「偽善だと思うけど、やらなきゃいけないとも思ったんだ…」
土まみれのシンジは、そういって少し笑う。
半分共感し、半分醒めたあたしがいた。
醒めたあたしが呟く。
バカみたい。
こんなことしても、なんの償いにもならないのに。
自己満足の極みよ。
もう半分が反論する。
そうかしら?
この行動、自己満足なのは確かだとしても。
その行動に他の意味を持たせられるのは、つまりは観察者、他人の視点。
あたしがどう思うか次第じゃないの?
…この世界で、他人はあたし一人だけ。
結局、あたしには、その光景は悲しいものに映った。
気づいたときには、あたりは夕暮れで橙色に染まっていた。
これもあながち無関係ではないと思う。
日が沈みきる前に食事を終え、シャワーを浴び、自室へと戻る。
食後の団欒なんか、特に意識したことはない。
寝るのが早いので、必然的に朝も早く目覚める。
まだ涼しいうちに目を覚ますのは、極めて健康的な生活かもしれない。
真っ暗い部屋の中で布団にくるまっていると、時々無性に寂しくなる。
窓の外から響く音に、怖くなるときがある。
そういうときは、無断でシンジの布団に潜り込むことにしている。
その逆も当然あった。
互いに抱きしめあったまま、クーラーを効かせた布団の中で一緒に眠る。
そのまま素肌を重ねることも希じゃない。
シンジの寝息が穏やかになったのに、あたしは電気を消した部屋で目を凝らしていた。
月明かりで、胸にピッタリと寄り添ったシンジのバカ面まではっきり見える。
ふん、なによ、自分だけすっきりした顔しちゃって。
だいたいアンタだけ気持ちよくても不公平だっての。
…まあ、あたしも少しは気持ち良かったけどさ…。
無防備な笑顔が、奇妙に憎らしくなった。
だから、鼻をつまんでやった。
フガフガいって眉毛をしかめるシンジだったけど、目を覚まさない。どうやらかなり疲れている様子。
飽きたので鼻から指を離し、代わりに頭を撫でてみた。
少し伸びた髪はボサボサで、土の匂いがした。
連想するのは昼間の光景。
派生するのは、コイツへの想い。
…シンジは、あたしにどうして欲しいのだろう?
窓の隙間から忍び込んだ夜風に、レースのカーテンがフワリと揺れる。
まとわりつきそうなそれを眺めながら、あたしはシンジの髪を撫で続ける。
こんな世界を作った上に、無理矢理あたしを犯した男。
もう男の子じゃないだろう、コイツは。あたしが女の子でなくなったのと同様に。
献身的な行動。
全てあたしを念頭に置いた対応。
アイツにとって、あらゆるもの優先する存在。それがあたし。
そうやって大事にされるのは嫌じゃない。むしろ嬉しいくらい。
ただし。
庇護の対象だけのあたしを、シンジが望んでいるとしたなら。
でも、アイツは、そんなことを口にはしない。
態度に、表情に、行動の端々に滲ませるだけなのだ。
それが不満といえば不満。
贖罪なんてもうまっぴらごめん。
あたしたちは互いを貪りあうケダモノじゃない。
無邪気なアダムとエヴァでもない。
知恵の実を食べた人間なのだから。
だから言葉でいってくれなきゃ、と望むあたしは、贅沢なのだろうか。
そう指摘してやるほど、あたしはお人好しでもないのだ。
「まったく、どういう関係なのかしらね、あたしたちは?」
気がついたら呟いていた。
全く、適切な関係を表現する言葉が見つからない。
多分、あたしは、シンジに…。
ちょっとだけホッペタが熱くなる。
だからといって恋人なんて甘ったるい表現がこの世界では許されない。
運命共同体ってのはより正確かもしれないけど、なんか殺伐としているし。
…シンジが望むなら、コイツにとってのファムファタールになってやってもいいのに。
つまりは、あたしも何かしたかった。
一方的になにかしてもらうのは、はっきり言えば性に合わない。
互いに互いを益することこそが対等の関係。
気持ちを切り替えたにしても、未だ忸怩たる思いがぬぐえない。
シンジに負ぶさってばかりいる不甲斐なさ。
ボサボサの頭を抱きしめて、あたしは目を閉じた。
コイツは、あたしを、お荷物扱いしてるわけはないと確信してるけど…。
それなら。
どうして。
一体、あたしは、何を焦っているのだろう…?
軒下の木陰で、ブロックアイスで満たされたタライに両足を突っ込んで、あたしはぼーっとする。
ちょっとまってて、見せたいものがあるんだ、というシンジの言葉にしたがって。
今日も空は抜けるように青い。
風はなく、うるさいくらいの蝉の声。
ひどく怠い。何もする気がおきない。
全身から汗が滲む。
足下の氷に合わせて、身体も溶けていくような感じ。
その時、不意に耳に飛び込んできた異音に、あたしは目を見開く。
言葉であえて表記するなら、ペペペペペペペ、といった感じだろうか。
これは…機械の駆動音?
しかも、こっちに近づいてくるみたい。
思わずタライの中で立ち上がってしまい、よろめく。
そんなあたしの目の前に、土埃をあげて音を発していた物体が停止した。
スクーターに乗ったシンジだった。
「どう、アスカ?」
なんか自慢げにシンジはいう。
「これが、アンタが見せたいっていってたもの?」
あたしは睨む。そして、慌てて表情の険を取る。
期待はずれというより予想外だった。
「…そうだけど…」
あたしの険しい表情に気づいてたらしい。シンジおそるおそるいってくる。
「…もっと、なんか劇的なものを期待してたんだけどね」
正直にあたしは答えた。
「そうかなあ…?」
シンジは首を捻って、
「これなら、アスカも一人で乗れるかなあ、なんて思ったんだけど」
と、笑った。
情けないことに、ちょっとだけあたしの頭はフリーズした。
即座に解凍したけど、生煮えの頭はどうしても思考がスムーズに行かなく困る。
…確かに、今、街へ行くのは、シンジの運転する自転車の後ろに乗るか、歩いていくしかない。
それはそれで、まだ身体に辛い。
でも、このスクーターなら。
あたし一人でも、楽に移動できるかもしれない。
「…そうね」
今まで気づかなかった迂闊さを追いやるように、そっけなく答える。
「どう? 今すぐ乗ってみる?」
スクーターを降りて、押しながらシンジ。
ちょっとだけ戸惑ってしまった自分に腹を立て、あたしはタライから冷たくなった素足を引っ張り出す。
即決即断があたしの信条なのに、鈍ったものだ。
黄色いサンダルを引っかけ、受け取ったスクーターにまたがる。
「キーはコレで、こっちがアクセルでこっちがブレーキ…」
一応、神妙にシンジの説明に耳を傾ける。そんな操作系統くらい、すぐに把握できたけどさ。
勢いよくキーを回してみた。
一際大きく機械の吼えるような音が響いて、微細な振動があたしの全身を揺らした。
この感覚、なんて形容すればいいのだろう。
嬉しいような、懐かしいような。
でも、気分が高揚していくのだけは間違いない。
アクセルをゆっくり捻る。
スクーターが身体が進み始める。
最初はちょっとふらついたけど、そのまま家の前の広場をぐるぐる回ってみた。
「うん、アスカ、巧いよ」
シンジがパチパチ手を鳴らしていた。嫌に子供じみて小馬鹿にしたような仕草なのに、不思議と腹は立たない。
今のあたしは、自分の乗り込んだ機械に夢中だったのだ。
「シンジ!! ちょっとそこいら辺を一回りしてくるわ!!」
「え?! 大丈夫!?」
驚くシンジに言う。自分でも驚くくらい大きな声が出た。
「大丈夫よ! すぐ戻るわ!!」
「…わかった。じゃあ、僕、お昼ご飯の用意しておくよ」
返事を聞き終えるまでもなく、あたしはアクセルを回していた。
スクーターは、勢いよく走り出す。
坂道をくだり、カーブを曲がる。
見慣れてきた光景が凄い勢いで後ろに流れていく。
見慣れない光景があたしを出迎えて、次々と追い越していく。
それはなにかひどく新鮮なものに見えて。
そう。
まるで世界が変わって見えているよう。
髪が風になびく。
頬が、額が、鼻が熱い空気をかき分けていく。
更にアクセルを捻る。
世界が割れた。
空が止まる。
風が止まる。
なのに、新しい感覚があたしの中を満たす。
…いいや、違う。
スクーターを止めて、あたしは気づく。
新しいこと知覚したんじゃない。本来、あたしが持っていた物を再発見しただけだ。
空は高く、青く。
全身を包む蝉時雨。
視覚、聴覚は依然と変わらない。
じゃあ、あたしが取り戻した新しい感覚って…?
言葉にしようとして、うまくできない。
すっきりして、それでいてまた釈然としないまま、あたしは家へと帰る。
…帰れる場所があることに、初めて気づいた。
家に帰れば、シンジが昼食を準備してくれていた。
冷たいソーメンだった。
結構あたしは麺類が好きだったし、こんな暑い日にはうってつけだ。
「すごく美味しそうね」
お世辞ではなくそういった。盛りつけも綺麗だったし。
割り箸と小鉢を持ってきたシンジは、笑っていた。
それも、凄く嬉しそうな表情で。
この世界に放り出されてから、コイツがこんな嬉しそうな顔をしたのは初めてじゃないかしら?
「よかった…」
「……うん?」
何がいいのだろう?
意味を計りかね、曖昧な顔をしてしまうあたしに、シンジは素直な口調でいった。
「僕は、そ、その、アスカの笑顔が見たかったんだ…」
…あたしは多分、照れたようにそっぽを向いたバカの横顔を、穴が空くくらい見つめていたと思う。
どれくらいそうしていたことだろう。おそるおそる自分の頬に触れてみた。
柔らかく、歪んでいた。
なんのことはない。
あたしは笑っていたのだ。
シンジの後ろに乗って、一緒に街まで降りる。
あたし専用のスクーターも欲しい、といったのに、シンジは決して首を縦に振らなかった。
一緒に移動するのは非効率だと主張したんだけど、あたしの具合が急に悪くなったときが不安なんだってさ。
そんなに心配はいらない…と思う。
このごろ、すごく体調は良いみたいだし。
でも、結局黙ってシンジの腰に引っ付いているわけ。
街へ降り、シンジの後について、いつもは行かない場所までくっついて行った。
このバカがまたペットの死体を片づけ始めたりしないよう監視の意味もあったけどね。
知らない風景が新鮮で、少しだけ嬉しい。
ほとんど無傷の街の、物資の山に圧倒された。
こじ開けた大型デパートの倉庫には、うずたかく積まれた食料品の山。
保存の利くモノだけをより分けても、相当な量になる。
二人で食べるにしても、当分困ることはないだろう。
本日の戦利品は、インスタントラーメンのトンコツ味に白桃の缶詰。
なんか楽しかった。
なにより、楽しいと思える自分に驚いた。
そんなあたしに反して、どういうわけかシンジは不安顔。
「一体、何を心配しているのよ、アンタは?」
スクーターの後ろから、耳元へ怒鳴る。
「うん…。食べ物は十分あるんだけど、いつみんなが還ってくるのかなあって」
その主張は共感できた。
でも、何もそんな風に悲壮な口調で言わなくてもいいんじゃないの?
どういうわけか、今日のあたしは自分でいうのも何だけど、ハイだった。
先日、スクーターに乗ってから何かが吹っ切れた感じ。
何でコイツ、こんなにマイナス思考なんだろう?
でも、そういえば昔からシンジはそうだった。
すると、元に戻ったのかしら?
少し可笑しい。
余裕のある自分にも少しだけ驚きながら、あたしは考える。
ちょっとだけ考え方を変えてみればいいのに。
マイナスをプラスに。
悲観を楽観に…。
そしてあたしの世界はまた変わった。
大量の物資。
二人では消費しきれないくらいの食料の山は、みんなが帰ってくるまで十分すぎるほどだと思う。
…じゃあ何も心配する必要はないじゃない。
気持ちを一つ入れ替えただけで、あたしはとても楽天的な気分になっていた。
こういうのをコロンブスの卵っていうんじゃないの?
明日になっても、他の人類は戻ってこないかも知れない、
じゃなくて。
明日になれば、誰かが戻って来るかも知れない。
否定と希望。
前向きと後ろ向き。
入れ替えるだけで、こんなにも世界が変わって見えて。
あたしは声に出して笑っていた。
何事かとシンジは振り返ってきたので、頭を叩いてやる。
「ほら、アンタも笑いなさいよ!!」
アンタが切望していたんでしょ、こんなあたしを?
「え? え、え?」
シンジのビックリした顔がまた可笑しい。
ぎこちないシンジの笑い声が、あたしの声と混じる。
あたしたち二人の笑い声が、風にのって流れていく。
なびいた声は、世界中を廻るといい。
そして、目覚めの声になれば嬉しい。
みんな早く帰ってくればいいのに。
だって、世界はきっと楽しいものなのだから。
明日はもっと楽しいに違いない。
明後日はもっともっと楽しくなるに違いない…。
それが錯覚ではないことを、これから先も永遠に続くってことを、その時のあたしは疑っていなかった。
尖っていた石を打ち合わせ、表面を滑らかにする作業。
突起の無くなった石は、互いピッタリと重なるようになる。
伴い、あたしがあたしで無くなっていくよう。
昔のあたしに未練がないわけではないけれど、それはとても気持ちがいいもので。
ううん、やっぱりあたしはあたしなのだ。
夜、シンジと抱き合いながら、そう考えた。
相変わらず、泥のように眠るシンジに少し不満を感じる。
あたしが眠るまで見守ってくれるくらいの甲斐性を見せてくれてもいいだろうに。
でも、まあ、いいか。
二人だけの時間はまだいくらでもあるのだから。
…そんなことを考える自分に赤面を禁じ得ない。
まったく、あたしもずいぶんと感化されてしまったようだ。
なんか気分どころか脳みそまで弛んでしまったような気がする。
初めてのアレを思い出す。
初めての時を思い出す。
傍らで眠るシンジを見下ろした。
あれほど殺気だって殺伐としていたのが嘘みたいだ。
でも、思い返せば、まだ少し腹立たしい。
帳消しにするつもりはない。
一生許してやるつもりもない。
無理矢理から始まる恋もある、なんて世迷い言をいうつもりだってない。
いずれ、修正してやらなければならないだろう。
でも、それはこの二人きりの世界では意味のないこと。
いや、意味はなくもないけど、希薄だと思う。
…まあ、それらの清算は、いずれ。きっとね。
それにしても、本当に、あたしはコイツのことを…?
言葉に出してしまいそうになり、慌てて飲み込む、
馬鹿馬鹿しい。寝顔にささやいてどうする?
明日でいいや。
ううん、それこそそのうちでいい。
いつか言えれば、それでいい…。
だって、コイツはどこにもいかないもの。
絶対、あたしの側から離れないもの。
代わりに。
おやすみと、頬に軽く唇で触れてやる。
醒めた、皮肉っぽいあたしは、いつの間にか姿を消していた。
―――その夜、あたしは血を吐いた。
2005/1/27
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