
ベランダから屋根に降りて、その縁に腰を下ろす。
前髪を揺らす風。
雲に翳る太陽。
ねっとりとした大気。
全てが身体にまとわりつく。
瞼を閉じ、S−DATのスイッチを入れた。
アニーローリーの歌が、あたしのはつられたチーズみたいな周囲を満たす。
ゆっくりと瞼を開けた。
左片方が滲む世界。
たなびく灰色の煙が幾筋も伸びた町並み。
眼下に広がる、人っ子一人見えない、動くもののいない閑散とした風景。
それなのに、空は無邪気なまでに青くて。
あたしは疲れてきた視覚を休めながら思う。
ああ、地獄ってのは結構こんな景色なのかも知れない。
この醜くも美しい世界2
あたしたちがあの海のほとりから旅立って、一ヶ月以上経とうとしている。
当初はシンジが見つけてきた半分壊れたシェルターの中で生活していたけど、一週間ほどでそこも引き払った。
最初のバラックより快適ではあったけど、比較論に過ぎない。
この場所を離れれば、無傷でもっと文化的生活を送れるところがあるんじゃないの?
二人とも異存はなかった。
交通機関が稼働していない今、車の運転も出来ないあたしたちの移動手段は、至極原始的なものになる。
シンジの漕ぐ自転車のリヤカーに横になったあたしは、ボロボロの第三新東京市に別れを告げた。
長い山道を下り、麓の街までの小旅行。
対向車もこない道を進むそれは、何かのTVゲームに酷似していたんだけど、思い出せない。
リヤカーの上や、近くの民家を借りて眠りながら辿り着いた大きな街の光景は、出発点よりはマシだったけど、酷いものだった。
シンジの話を聞いて、予想してしかるべきだった。
全世界の人間が、命の水に還元されたのだ。
その瞬間、全員が大人しく座って、祈りでも捧げていたわけは絶対にない。
地球のあちこちでは戦争をしている国もあっただろうけど、多くは日常的な生活が営まれていたはずだ。
そんな中で、なんの前兆すらなく起きたサードインパクトは、天災といえるのだろうか?
人的被害の出ない災害は、対象のない災害は、単なる自然現象と定義されるのかも知れない。
あたしたちの目前に広がる街の風景。
無人の車の先頭がビルにつっこんでいて、その後ろにも数台の車がぐしゃぐしゃになって連なっている。
焦げ臭いにおいが鼻を突く。
コンビニの軒先の黒い固まりは、車だったものの残骸だろうか。
ただただシンジは茫然としていたけれど、あたしは恐ろしさに身震いしていた。
電車だって走っていた。飛行機だって飛んでいた。
それらの操縦者が一斉に水に還元された。
乗客もそれに準ずるから気にする人はいなかったろうけど、無人の乗り物はどうなる?
制御されて自然に止まる類のものもあるだろうが、世界中に似たような状況が存在したのだ。
もし、仮に、ジャンボジェット機が制御不能で、原発にでも墜落でもしたら…?
大型客船が猛スピードで沿岸都市に突っ込んだりしたら…?
無いとは言い切れない。
少なくとも、今この瞬間も、世界のどこかで、もしかしたらごく近所で、未曾有の大事故が発生しているのかも知れない。
管理者のいなくなった実験設備とかだって…。
………。
……。
それ以上、あたしは考えないことにした。
馬鹿馬鹿しい、何様のつもりなのだろう、あたしは。
そこまで責任を負う義理もなければ、世界を維持する義務もないのに。
今こうやって生きているのが不思議なくらいなのに。
「とりあえず、ここじゃなくて、少し離れた場所に住むことにしようよ…?」
シンジが言ってきた。
あたしの顔色を窺うような、答えに自信のない生徒がおそるおそる教師に答え確認するような素振りがむかつく。
でも、状況を判断して自主的に発言してきたことを評価すべきだろう。
「そうね。それしかなさそうね」
当座の不安は、電気や水などのライフラインがいつ止まるかだった。
そう遠くないことだけは断言できる。
ならば蓄えも必要だろう。
笑えるほど将来設計の立たない未来に思いを馳せ、あたしは乾いた唇を噛んだ。
…未来?
そもそもその言葉に、辞書に載っているほどの意味も価値もあるのだろうか?
誰もいない世界をたった二人で生き抜くことが出来るのだろうか?
街を見下ろせる、ちょっとした高台にできたモデルハウス。
あたしたちはそこを住処に定めた。
他人の生活臭がある家で暮らすのなんかごめんだった。
シンジは、「もっと商店街に近い方が…」などと言っていたけど、それは浅はかというものだ。
街で物理的なトラブルが発生するとしたら、建物が集中している所の危険性が増すのは自明の理。
正確な状況把握、避難をするためには、密集地域にいるのは避けるべきだ。
それともう一つ。
『人が望めば、自分の姿を取り戻すことが出来る』
シンジから聞いた、シンジが聞いた台詞だ。
つまり、あの海から、人間が還ってくるかもしれない、ということ。
どんなプロセスで人間が再構成されるか、どんな格好で戻ってくるのか、少し興味がなくもないけど。
問題は、還ってきた人間があたしたちに好意的だとは限らない、ということだ。
善良な人間だけが優先的に還ってくるわけはないし。
そもそも、いつ還ってくるのか、本当に還ってくるのかもわからないのだ。
それでも、海が見える場所にいた方がいいのかも知れない。
だけど、あの海だけから世界中の人類が還ってくるとも思えない。
だから街を見下ろせるこの場所だ。
何か変化が起きれば、少なくとも平地より分かり易いハズ。
そこから毎日シンジは自転車で街まで降りていく。
街で色々日常品や食料品を探しては持ち帰ってくる。
その間、あたしが義務的にすることは掃除くらい。
窓を開け、空気を入れ換え、掃除機をかける。
それでおしまい。
洗濯なんかしなくていい。新品の服がいくらでもあるし。
食事は、朝と昼は大抵インスタントで済ます。
夕食のみ、シンジが何か作ってくれるけど、あたしがリクエストしたことは一度もない。
自然と時間を持て余す。
目の焦点が合わせづらいので本を読むと疲れる。
TVをつけても砂嵐。
なのに、シンジもあたしもなぜか映像ディスクとか見る気になれなかった。
だからあたしの時間の過ごし方は、屋根にのぼってS−DATから流れる音楽を聴くこと。
聴覚を封鎖し、何も考えないように努め、身体の痛みも遠ざけやがて無機質と同化することを願う。
束の間の一体感も、喉を焼くような暑さやシンジの声で破られるのが常だ。
吐き気を催す不快感を経て、あたしは有機物へと復帰する。
たぶんこの気持ち悪さが生きている証なのだろう。
「精肉店の倉庫を見つけたから、もうしばらく肉は食べられるかも知れない…」
ガスコンロからフライパンを下ろしながらシンジは呟く。
「そう…」
あたしは適当に相槌を打ちながら、お皿の上にのったステーキをフォークで口に運ぶ。
久しぶりに豪勢な夕食だ。
なのに、食欲が沸かない。
ほとんど事務的に口に放り込み、奥歯ですりつぶし咀嚼。それを繰り返している。
味覚が変わったわけではないのだろうけど、鈍化したのだろうか。
美味しさより脂の多さに辟易しているあたしの対面で、シンジの食事のペースも遅い。
日焼けした顔は、逞しくなっていたけれど、すごく疲れたように見えた。
「…あんた、大丈夫なの? 疲れてるんじゃない?」
訊ねる。
弾かれたように顔を上げ、シンジは二、三回目を瞬かせた。
「う、うん! 大丈夫だよ!!」
そういって、慌てたように肉を口いっぱい頬張っている。
…相変わらず嘘が死ぬほどヘタだ。
「まあ、せいぜい健康には気をつけなさい。…重い病気とか罹ったら、治せないんだから」
「アスカ…」
真剣な黒い瞳があたしを見ていた。
「な、なによ…」
「アスカの方こそ、身体は大丈夫なの?」
シンジの視線があたしの左目と右腕をなぞるのを感じる。
「…大丈夫よ」
思わず、あたしは腕を抱え込んでしまう。
不意に寒気がしてきた。
そんなあたしを、シンジはそっと抱きしめてくれた。
腕が触れる。
料理の匂いを圧して、シンジの汗の匂いが鼻を突く。
顔を上げ、見下ろしてくるその顔に、ぶつけるように唇を重ねた。脂まみれでもかまうものか。
互いに飽きるまで唇をむさぼり、どちらともなく離す。
倍に腫れあがってしまったかのような唇を、名残惜しげにもう一度軽く合わせ、それでおしまい。
あたしは、都合三度、シンジと肌を重ねている。
だから、シンジがあたしを抱きたいのはよくわかる。
あたしだって抱かれてもいいと思う。
だけど、この世界で生きていくと決めた時点で、欲望のままに性交渉をもつのはリスクが大きすぎた。
三回もの前歴の中で、あたしたちは一度も避妊をしていない。
そんな中で妊娠しなかったのは、幸運というしかない。
こんな不確定な世界で子供を産むのはもとより、あたしの傷んだ身体が妊娠という現象に耐えられるかどうか。
抱き合いたいと思うのは、突き詰めれば一種の生存本能だ。
だけど、感情的にあたしはシンジに間違いなく惹かれている…と思う。
この世界で二人きりだから、という理由じゃない。
あの海から旅立ったとき、たしかに決めた。
一緒に行くことを。
悲しそうなシンジの瞳が、辛い。あたしだって、背筋のあたりが苦しい。
…なのに。
唇の温度がまだ消えてないのに。
この生活を倦み始めている自分がいる…?
翌朝、シンジが出かけた後。
インスタントの食事を終えたあたしは、ゴミをまとめて袋に突っ込むと、家の後ろに運んだ。
ゴミなんかそこらにまき散らしてもいいんだろうに、きちんと分別しているシンジは律儀というかなんというか。
未だアイツの価値観は、サードインパクト前のそれと同じなのだろう。むしろ回帰したとでもいうべきか。
言い換えれば、まだシンジは開き直りも出来ていないということ。
いずれ、あたしと同じ価値観に染まるだろうか。
誰もいない世界でポニー&クライドをしても、きっとつまらない。
綺麗だけど、どこかプラスチックをイメージさせる家の中へと戻る。
静かだ。
椅子に座り頬杖をつく。
そして退屈。
また屋根の上にのぼろうと、S−DAT片手に二階へ上がって、ふとシンジの部屋のドアが少し開いてるのが気になった。
躊躇無く開け放ち、中に籠もった匂いに顔をしかめる。
カーテンの降りた薄暗い中を縦断し、窓を開ける。
部屋を明るくしてみれば、最低限のものしか置いてない。
くしゃくしゃのままの薄い寝具、ゴミ箱、それと―――グラビア雑誌が数冊無造作に放置されていた。
自分でも不可思議な気持ちがゴミ箱をのぞかせる。
当たり前のように丸まったティッシュが詰まっていた。
なぜかため息が洩れた。
同時に仕方ないのかな、と思う自分もいる。
アイツは夜な夜なこれで欲望を処理しているのだろう。
あたしの部屋から数歩離れたこの場所で。
気がついたら、あたしは窓を全開し、グラビア雑誌を外に投げ捨てていた。
少しすっきりして、少し後悔する。
そもそもあたしは何に腹を立て、何を可哀想に思っているのか。
答えは出ている。至ってシンプルだ。
…今更ながら、街から持ち帰ってきたものの中に避妊具を見つけ、反射的にシンジを怒鳴りつけてしまったことが悔やまれる。
これだって、万全じゃないのよ!? アンタそこまでしてしたいの!?
つい前日、セックスのリスクが高すぎることを話し合ったばかりだったから。
傷ついたように見てくるシンジの目を思い出さないようにして、逃げるようにあたしは屋根へと向かった。
屋根の一角にビーチパラソルがたてられ、下には厚手のクッション。
そのままでいいと言ったのに、シンジが無理矢理設えたものだ。
使わないとシンジが怒るので、渋々あたしはそこに横になる。
適度な日陰の下で、喉の乾きを無視しながら、ひたすらゴスペルに耳を傾けるあたしはきっと救われない。
どれくらい、そうしていたことだろう。
喉の渇きではなく、シンジに起こされるわけでもなく、不意にあたしが有機物へと戻ったのは、S−DATが音を奏でるのを止めたからだ。
片目を開けて見れば、電池切れのマーク。
先日、交換したばかりだと思ったのに。
全身の感覚が再接続されていくのを感じながら、仕方なく上体を持ち上げる。
軽い眩暈を覚え、ただぼんやりと視界が輪郭を確保するのを待つ。
直後、視界の下の動くものに焦点を合わせてしまったのは、極めて正常な反射反応だ。
シンジだろう。
この世界で動くものは極めて少ない。
推測は正しく、すぐ証明された。
シンジのヤツが、自転車に乗って、緩い坂道を上ってくるところ。
フラフラと揺れる身体を眺め、相変わらずの貧弱さを軽く嘆く。
それにしても、帰ってくるの早いわね、まだ夕方じゃないのに…?
乾き粘つく口内を、すっかり温くなったペットボトルの水でゆすいでいるときだった。
シンジが派手に転倒した。
乾いた土が舞い上がり、横倒しになった自転車の前輪がくるくる回っている。
まったく鈍くさいヤツ、などとしばらく眺めていたあたしは、すぐ違和感に襲われる。
「……?」
シンジが倒れ伏したまま、起きあがらない。起きあがろうとしない。
まさか。
冗談でしょ。
ふざけてんじゃないわよ。
そう考えたと思った瞬間、あたしは裸足でシンジのすぐ側に立っていた。
慌ててうつぶせの身体を揺する。
「ほら、起きなさいよ! 何やってんのよ!?」
反応が、ない。
無理矢理身体をひっくり返す。
シンジは荒い呼吸を繰り返していた。苦しそうに閉じられた目はピクリともしない。
「こらっ!! シンジ!!」
ほっぺたを張る。
力を込めてもう一往復。
返事がないので、額に手をあててみた。
とんでもなく熱かった。
…おそらく、熱中症かなにかだろう。
シンジのヤツ、畑を作らなきゃとかいってたし。
きっとそうだ。
そうに決まっている。
薄汚れたシンジのシャツの襟首をつかみ、家まで引きずっていく。
それだけでえらく骨が折れた。我ながら体力のなさが恨めしい。
涼しいリビングの、フローリングの上までとりあえず運ぶ。
息をつく間もなく濡れたタオルを額にあててやり、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを引っ張り出す。
全然握力の無くなった手が、キャップすら回せず表面を撫でる。
いらついたので腕に抱え込んで噛みつき、噛筋力でこじ開けた。
ボトルの先端をシンジの唇に押し当てる。
こぼれた流れは、床の木目に小さな水たまりを作った。
愕然としたのも束の間、次にあたしが取るべき行動は決まっていた。
中身を自分の口に含み、唇をシンジのそれに押し当てる。
舌先で歯をこじ開け流し込む。シンジの味がした。
垢じみた喉が動くのを確認し、それを何回も繰り返す。
幾分、激しかった呼吸が穏やかになったように思える。
そうしてから、急いで救急箱を探した。なんか顎がガクガクする、くそ。
どうにか見つけ出した体温計をシンジの脇下に挟み込み、もどかしく待つこと数分。
高い数字がデジタル画面に示されていた。
とりあえず、脇下と背中にアイスノンをあて、シンジをタオルケットでくるむ。
それから「家庭の医学」という本を読んだけど、字が細かくて読むのが辛かった。
それでなくても漢字が多すぎてよくわからない。
なんとか熱中症の項目を読み終える。
やはり、電解質を含む水での水分補給が必要だとのこと。
そして、重度化していれば死に至る、というくだりが頭の中で冷たくリフレインしている。
重度化していないことを祈りつつ、あたしは更に冷蔵庫を開ける。
困ったことにスポーツドリンクのストックがなかった。
仕方ないのでキッチンの調味料を漁り、塩を見つけ出した。
ミネラルウォーターのキャップも開け、口にあらかじめ塩を含んでいるところに、更に水も含む。
吐き気がするぐらい口の中が不味くなった。
それでも、またシンジの口をこじ開け、即席の電解質水を送り込んでやる。
味覚が馬鹿になるくらいそれを繰り返す。
繰り返しながらも、本当に熱中症なのだろうか? という疑問が、胸をかき回す。
もし、熱中症じゃなかったら?
改めてシンジの症状を観察する。
高熱は言うにおよばず、意識障害も…あるようだ。
チカチカする目で、また家庭の医学を読む。
だけどやっぱりあまり専門的なことが書いていない。
仮に熱中症だとしても、酷ければ口腔内からの水分摂取で間に合うのだろうか。
ここには、当然点滴もなにもない。
そのうち、シンジの全身が震え始めたのに、驚く。
…いや、震えているのはあたし自身だった。
知らぬ間に奥歯がガチガチいっている。
口の端からこぼれた塩水が、喉を伝って胸元へ入ってきているのが異様に冷たく感じる。
思わず両腕で自分を抱きしめた。
気温と体温が一気に下がったような感覚に襲われる。
頭の後ろ奥から首筋にかけて、冷たい感覚が頻繁に流れ落ちている。
これは――――恐怖だ。
シンジに襲われたときの恐怖と違う。
心を覗かれるときの恐怖とも違う。
ただ、怖い。奥歯を打ち鳴らす。
怖い、
怖い、
怖い、
何で怖い?
シンジが死んでしまう?
シンジが死んでしまう?
シンジが死んでしまったら、
あたしは、
シンジの胸ぐらをつかんで揺さぶる。
ねえ、起きなさいよ
目ぇ開けなさいよ
好きなだけ抱かせてあげるからさあっ!!
額を、むかつくくらい真っ白な壁に打ち付けた。
目の奥で火花が散る。
視界が滲んでいるのは、額を打ち付けたから出た涙のせいだ。
冷静になれ、あたし。
まだシンジは死ぬなんて決まったわけじゃない。
死ぬわけがない。
コイツは、あたしより先に死んじゃ駄目だ。
決めたから。
罪を償わせるまで死なせてやるものか。
あなた、何を怖がっているの?
本当は、何を怖がっているの?
あたしは耳を塞いでいる。
知らない知らない知らない!
いいえ、あなたは気づいてる
認めて
受け入れて
信じてあげて
彼は、決してあなたを荷物だなんて思わない。
あなたが彼の生きる理由
だからあなたも
あたしは叫ぶ
無理よ!
こんな身体、そんなに保たない!
じきに、あたしは死んじゃうのよ!
でも、
だから、
シンジに先に死んでも欲しくないの…
大丈夫、あなたは死なないわ
わたしが――――
勢いよく瞼をあけていた。
夢を見た。
最後に瞼に残った像は、誰の姿だったのだろう?
…思い出せない。
膝に埋めた顔を上げれば、部屋は明かりに満ちていた。
どうやら夜が明けたらしい。
ほぼ同時にあたしは腰を浮かしている。
タオルケットにくるまれたシンジの顔を、半ば飛び込むようにのぞき込む。
顔色も呼吸も落ち着いているように見える。
回復してくれていてばいいんだけど…。
タオルケットの中に手を突っ込み、アイスノンに触れた。
まだ、冷たい。どうやら最後に交換してから、それほど長く眠ってはいなかったようだ。
のろのろと塩を口に含む。
塩辛さで、目が覚める刺激というより、吐きそう。
そうして例によって、ペットボトルの水を口に含み、よく溶け合わせる。
気持ち悪くなってきたけど仕方ない。
スポーツドリンクを街に取りに行くのは論外だ。
シンジを放っていけないし、遠すぎる。
もし、あたしが目を離していする隙に…なんて思えば、これくらいの気持ち悪さはなんだというのだ。
ぼさぼさの髪をすき上げ、顔を近づける。
シャワー浴びたいな、などとちょっと考えながら、半開きのシンジの唇に重ねた。
「……?」
ごくごくと勢いよく飲み込まれていく様子に、違和感を覚える。
密着状態で目だけを動かせば、シンジの瞳もこちらを見ていた。
唇を離し、まじまじとシンジの顔を見つめてしまう。
目をぱっちり開け、なんか困ったような顔をしている。
ついでに、不味いものでも口にした表情も浮かべている。
「…そ、その、おはよう…?」
間の抜けた返事を、間抜けな返事だとも思わなかった。怒りも沸いてこなかった。
ただ、あたしは、全身でシンジを抱きしめていた。
猛烈に汗くさいけど、全然気にならない。
シンジのざらつく頭をかき抱き、ちょっと長くなった髪の毛をかき回す。土の匂いがする。
「うるさい、しゃべるな、ばか…」
そう答えたつもりだけど、言葉になっていた自信はない。
ただ、シンジの温もりと、あたしの腕の中でもがいている振動が、この上なく気持ち良かった。
それから、シンジがシャワーを浴びられるくらいまで回復するのに、三日ほどかかった。
どうやら、重度手前の熱中症に加え、相当な疲労が蓄積されていたのも原因の様子。
適当に体力がつきそうなものを食べさせながら、みっちりあたしは説教した。
医者もいないのに、無理するな。
何もそんなに頑張る必要もない。
いずれ、人が戻ってくるはずなんだから、それまで保たせればいい。
などなど。
最後に小声で、
アンタがいなくなったら、あたしはどうすりゃいいのよ…
と付け加えてやった。
ひたすら「ごめん」だけを繰り返すシンジを、芸がないヤツだわね、などと眺めながら、あたしは内心でとても安堵していたのだ。
シンジが無事に回復してくれて、嬉しさすらある。
だから、その晩、たっぷりシャワーを浴びてから、実に久しぶりにシンジに抱かれた。
…その、ちゃんと、避妊具は使ってね。
肉体的な感覚がどうより、心がすごく満たされた気がしたのは、きっとシンジも同じだと思う。
カーテンから差し込む月明かりに目が覚めたので、そっと布団からはい出す。
そのまま窓を開け、ベランダへと出た。
綺麗な満月に目を細め、手すりを乗り越え屋根に降り立つ。
鼻の奥が切なくなるような夜風は肌に優しく、満点の星空。
昼間は地獄に思えた風景が、こんなに美しく見えるのはどうしてだろう?
いつもの指定席へと赴き、街を見下ろした。
一定間隔で点る街灯の他に、コンビニからこぼれる明かりが見えた。
誰もいないのに、街は生きているような気がした。
でも、人が帰ってこなければ、きっと死に絶えるだろう。
エデンの園も、きっとそうやって枯死したに違いない。
膝を抱え、焦点をぼやかせたまま空を見上げる。
淡い月光が周囲を踊っているみたいで、まるで夢のようだ。
こんな叙情的な気分になったのは久しぶりだ。そして悪くない。
太陽の光の下では鬱積する感情が、漂白されていくような気がした。
だから人間には夜が必要なのかも。
哲学的な文章をひねり出しながら、あたしは自分の感情にも想いを馳せている。
幻想的な風景は、たやすく夢を想起させる。
シンジを看病しながら見た夢。
全ての答えと方法はそこにある。
いつ死ぬかわからず、いつ死んでもおかしくないあたしの身体。
あからさまに足手まといだ。
シンジを満たせないあたしは、果たしてアイツに必要なのだろうか?
生きる目的なんか、この世界では意味がない。
生きることこそが目的であるはず。
だから、あたしはシンボルとしての力すら持ち合わせちゃいない。
じゃあ、助けあえないあたしはいったいどんな意味を持つ?
娼婦としてアイツを慰めるのすら拒否したのに。
傷んだ身体に託けての忸怩たる毎日。
生きているのではない。死ぬのを待っていたのだ、あたしは。
それも、なるべくシンジにショックの少ない方法で。
これを思いやりなどと強弁するつもりはなくなった。
結局、あたしが一番現実から逃げていたのだから。
シンジについて行く、一緒に生きていくと決意したあたしが、一番先に絶望していたのだから。
「…アスカ?」
ベランダから声。
「こっちよ。いい月だから、アンタも屋根に来たら?」
「う、うん…」
手すりを乗り越える気配に、背後を振り向いたあたしは眉をしかめる。
「なんでパンツなんか履いてくるのよ?」
「そんなことを言われても…」
口ごもりながら、それでもシンジの視線は、あたしの素っ裸のお尻あたりを見てるのがわかる。
「ったく、アンタ以外見るヤツはいないってのに。…まあ、いいわ」
隣まで来たシンジの手をつかみ、強引に座らせる。
そしてその肩に頭を預けた。
…ただ、シンジが先に死ぬのを見たくなかった。
一人きりになるのが嫌だった。
自分が死ぬときは、誰かに側にいて欲しかった。
シンジだって、死ぬときは誰かに側にいて欲しいだろうに。
この世界には、あたしとシンジしかいないのに。
最後に残るのは一人だけ。
自分が死んだら、あとは丸投げして知ったこっちゃない。
寂しさを誰かに預けて、看取られながら死ぬ幸福。
ようはトランプのババ抜きのジョーカーと同じだ。
ものすごいエゴ。
「綺麗だよね、アスカ…」
指を絡めながらシンジが言ってくる。声がうわずっているのが可笑しい。
「そうね。きっと昔の人たちは、これだけで満足していたんでしょうね…」
「うん、本当にそう思うよ。すごく綺麗な星空だ…」
そんなに奇をてらったつもりはないんだけど、案の定シンジは誤解していたように思う。
あたしがいった昔の人たちってのは、あたしたちに対比させている。
つまり昔の恋人たちってことなのに。
映画を見にいったり、流行のポップミュージックを聴いたり、美味しい料理を食べたりしなくても。
こんな月を一緒に見上げるだけで、きっと幸せだったに違いない。
その瞬間、間違いなく世界は二人のためだけに…ってのはちょっと恥ずかしすぎる。
ネガティブな考えを捨てよう。
価値観を切り替えよう。
生きるために生きて行こう。
絶望するのは一人きりになってからでも遅くない。
そう思い、シンジの手を握ると、強く握り返してくる手応え。
誰もいない世界を、たった二人で生き抜くことが出来るはずはない。
その命題を覆すほど、この温もりには価値があるのかも知れない。
2004/11/24
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