1. 「日本語は悪魔の言語である」――こういう言説が、一時期、ある程度流布していたようである。1859年にロンドンで出版されたA. スタインメッツ『日本とその住民たち』と題された書物には、かつてジェスイット派のオヤングレン神父が日本語の文法書の編纂を試みた折、その文字の表記法の複雑さに困り果て、この複雑さは福音の拡まるのを妨げるべく悪魔のなした業に相違ないと嘆いたという話が紹介されている。(1)
1970年代にアメリカの雑誌『タイム』で日本特集号が組まれた折、日本語について取り上げている箇所の見出しは「悪魔の言語」となっていた。ここの扱いでは、問題の発言をした主人公はもっと著名なフランシスコ・ザビエルということになっており、難しいとされる点も、人称代名詞が二十数個あるといった文法に関わる問題から、語法や話し手の振舞い方の特徴にまで至っており、よくあることであるが、伝説が誇張され、ステレオタイプとなって独り歩きを初めている様子が読み取れる。(2)
実は、この点については個人的な経験もある。1977年、南フランスのバイヨンヌという町にある「バスク民族博物館」を訪れた折のことであった。博物館の一番大きな展示室では、バスク民族の歴史が絵解きの形で壁に張りめぐらしてあったが、その最初のところには富士山を背景に悪魔サタンが描かれていて、添えられた説明には、かつてサタンは日本にいたが、それがバスクの土地へやって来たという趣旨のことが記されていた。思ってもみない内容の説明であったので、館員にどういうことか尋ねてみたが要領を得ず、そのままになっていたが、あとから考えると、上記のような伝説との関わりがあってのことではないかと思われる。同じ絵解きのずっと後の部分には、大航海時代にバスク民族が如何に船乗りとして活躍したかということが語られており、ザビエルが弁髪の姿に描かれた日本の大名にキリスト教を説いている図もあった。
2. ヨーロッパの言語の話し手が日本語と遭遇した際、相当な違和感を感じたであろうことは想像に難くない。かつての文化的な偏見が普通であった頃は、なおさらのことであったであろう。名詞における単数、複数の区別、形容詞における比較変化、動詞における人称変化などの欠如、文の主語の頻繁な省略――ヨーロッパの言語では当然とされる特徴の欠如がまず異質なこととして数え上げられる。同時にヨーロッパの言語に対応するもののない特徴――例えば、数多くの代名詞――の存在も同じように異質という扱いを受ける。(3)そして、文化的に興味ある現象として、こういう外からの指摘を受け、また自らもヨーロッパの言語を学習した日本語の話し手の中にも、日本語は異質な言語であるという思い込みが抱かれることも起こり、これがまた、<ユニークな日本人>という「神話」として時にはかなり揶揄的な批判を浴びせかけられることにもなる。(4)
3. 言語間の異同ということが一般言語学的なレベルで取り上げられる代表的な場合といえば、言語における<普遍性>と<相対性>の考察との関連においてであろう。19世紀のドイツの言語学者、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの主著の一つが『人間言語の構造の多様性について』と題されていたことは、よく知られている。フンボルトは発展し続けて止まない人間精神の豊かな可能性を、人間言語の多様性の中に見い出していたわけである。今世紀の前半から中頃にかけて、アメリカ構造言語学がその最盛期を迎えていた頃には、関心はやはり多様性の方にあった。<相対性>は当時の合言葉であった。アメリカ・インデrアンの言語という、ヨーロッパの言語とは異質な言語との出会いによってもたらされた新しい展望がどれ位刺激的であったかは、現在でも十分に想像できる。その頃よく聞かれた主張は、人間の言語なるものは「予想もできないようなやり方で」相互に異なり得るということであり、この主張は自信と、時には誇らしさすらを伴ってなされたものであった。この状況は、今世紀の中頃以降、チョムスキーの変形文法理論が登場し、言語学の主流的な地位を占めるようになると一変する。言語学の課題は表層的なレベルで見られる言語の多様性を記述することではなくて、人間にとって生得的な言語能力を説明することであるという立場に基づいて、視点の大きな転換が導入される。言語研究の関心は、人間に共通なものとして内在する言語能力の顕現としての<普遍性>であるという形で切り替えられ、<相対性>の問題は周縁的なものという扱いを受けることになる。
極端な<相対性>と極端な<普遍性>――この両極の間で、妥当な折り合いをつけることは可能であろうか。重要な再度の転機がもたらされたのは、認知言語学と呼ばれる新しいパラダイムの誕生によってである。その基本的な考え方は、人間の言語と認知の間には密接な関係があり、言語の在り方は人間の認知の営みによってさまざまな形で制約されているということである。この考え方は、人間の言語能力は自立的なモジュールをなしており、従ってそれ自体をそれ自体として出来うる限り一般化した、抽象度の高い規則の体系として形式的に記述すれば十分であるという、よく知られたチョムスキー的な立場と対立する。認知言語学の基本姿勢は、言語は決して「恣意的」なものではなくて、人間の認知的な営みによって十分に「動機づけられて」おり、従って、その在り方は人間の認知的営みの特性との関連で説明されうるはずというものである。
人間の言語の在り方と人間の認知的な活動との間に密接な関係を想定する――こういう立場から出てくるのは、人間の言語は無制限の<相対性>によっても、また絶対的な<普遍性>によっても特徴づけられるものではない、ということである。言語間にはもちろん相違はあるけれども、決して恣意的に異なり合っているというのではない。言語が人間の認知的な営みの最も重要な媒体として機能するものである以上、言語に見られる変動には人間の認知的な営みに由来する制約が課せられており、それを越えてはもはや「可能な人間言語」とは言えないような枠があるはずである。個別言語はその枠内でどの許された選択肢を選ぶかという点では異なりうるが、それは決して「予想不可能」といった形での変動ではないというのである。具体的な例で言うならば、<未来時>をどう表現するかは言語によってさまざまである。しかし、もともとどのような意味の表現が<未来時>の表現に転用されるかを見てみると、無限のばらつきが見出せるわけではない。基本的には、本来<義務>、<意志>、<推定>、<移動>、<所有>などといったごく限られた数の意味分野から転用された表現ということで、そのほぼすべての可能性が尽くされる。同じ状況は他の部門にも認められるものであり、そのような視点から、<可能な人間言語>というものの姿を人間言語としてはあり得ないものと区別して規定していくことが出来るはずということになる。
もし、個別言語の間の異同が限られた範囲内での異なる選択肢の選択の結果であり、しかも、それら選択肢の範囲は人間の認知的な営みの特性によって規定されているとすると、ある言語の話し手は、別の言語が自らのものとは異なる選択肢を選んでいる場合でも、その背後の動機づけを(その気になれば)十分に理解できるはずであるということになる。
4. しかし、そもそもある言語を全体として特徴づけることが出来るものなのか、つまり、ある言語について、その異なる部門に見られる特徴的な性格を統合するようなものを規定することが可能であるかどうか――こういう問題は残ったままである。特定の言語に対してということではあるが、それを特徴づける一つの型を認定しようとする試みであるという意味では、これも一種の言語類型論であるということは出来よう。
現代の言語類型論は、こういった方向での取り組みには積極的な姿勢を示さない。すでに触れた通り、現代の類型論の関心はさまざまな言語的カテゴリーについて、諸言語の間で変動の幅を確認するということ、そして究極的には<可能な人間言語>というものの姿を規定するということ、に向けられている。(5)
個別言語を対象にした全体論的な類型論とでも言うべきものに対してのためらいが持たれる理由の一つは、19世紀における初期の言語類型論での明らかに行き過ぎた試み――そこでは、言語の形態論的に規定された類型(例えば、孤立語、膠着語、屈折語)と社会、文化的類型(例えば、家族単位の農耕社会、種族レベルでの狩猟社会、国家形態での産業社会)の間に進化論的な意味での対応と段階を認めるというような考えが提出された――に対する反省もあるのかも知れない。
しかし、他方、外国語と意識的に取り組んだことのある人、あるいは、母語でもそれを客体化して改めて捉え直してみたことのある人ならば、それぞれの言語にはその言語化――つまり、表現の構成の仕方――に関して、何か好みの傾向といったものがあるという経験をするのではないであろうか。例えば、アメリカの言語学者のサピアがその著『言語』のなかで、主観的なことばではあるが‘ genuis’と呼んでいるようなものである。サピアは、このようなものはその言語についての個別的な特徴ではなく、それらを統合するような、もっと基本的な何かとして捉えられるべきものと考えている。(6)おそらく、これよりも先立ってフンボルトがある言語の‘ Geist’といったことを語ったときにも、同じようなものが直観的に捉えられていたのではないかと思える。このような概念は、現代の言語学の立場からもう少し確実な形で規定することは出来ないものであろうか。
5. 具体的にどのようにアプローチするかという点についての議論に入る前に、このような課題との取り組みにはそれと本質的に関わってくる難しい問題のあることを指摘しておく必要がある。
一つには、このような取り組みにおいては、問題となる言語の<構造>上の特徴に注目するだけでは不十分で、それら<構造>上の特徴がその言語の話し手によってどのように運用されるか――言いかえれば、話し手の<パフォーマンス>のレベルでの特徴――をも考慮に入れなければならないということである。(なぜなら、二つの言語の間で言語化する構造的な手段としては同じもの――例えば能動態と受動態――が用意されているという状況であっても、それらをどの程度利用するかという点で二つの言語の話し手の間に有意義な差が認められるということもありうるわけである。)
この点を一つの具体的な例について考えてみることにする。昔から<日本語らしい>言い廻しとしてよく問題になる「うなぎ文」と呼ばれるものがある。「ボクハウナギダ」といった類の表現で、しばしば日本が<非論理的>であるという主張との関連で取り上げられる。<非論理的>であるとされる根拠は、この表現は英語にすると‘ I am an eel’ということになり、この英語の文は(論理的に十分予想されるとおり)<同定>の関係、つまり、話し手がうなぎというものであるということを意味している。ところが同じ日本語の表現は、うなどんの注文といった場面でも使える。つまり、日本語の話し手は自らがうなぎであるという<同定>関係を主張することによって、うなどんを注文し、持って来させるという発話行為が出来る。これは如何にも不可解であるというのである。
しかし、問題を正確に把握するためには、少なくとも以下の二つの点についての考慮が欠かせない。一つは、この種の文が英語の話し手によっても、よく似た場面で使われることがあるという事実である。例えば注文の品が何であるかの確認の問いかけに対して、‘ I'm coffee’とか‘ I'm hamburger’といった文での返答がなされることは現実に起こることである。このような場合は、日本語の場合と基本的に同じ使われ方がなされていると考えることができる。
しかし、この事実を踏まえて、この点に関しては日本語と英語の間には差がないと結論するとしたら、これまた不十分である。考慮するべきもうひとつの点として、構造の上でも機能の上でも二つの言語の間で高度の類似性があるとしても、現実にそれがそれぞれの言語の話し手によってどのように用いられるか――つまり、話し手のパフォーマンスのレベル――に関しては著しい差があるからである。英語ではこの種の言い方が用いられるのは、もっぱら当事者の選択や好みが問題になっている場合に限られるようであるが、日本語ではもっと広い範囲の場合に用いられる。(例えば、金田一春彦氏の「私ノ娘ハ男デス」という表現――電車の中で中年の御婦人二人がそれぞれ結婚した自分の娘に生まれた子供の性をいっているという場面だったとの由――を参照。)一般化して言うと、日本語の「XハYデス」という表現は、<XとYのあいだにある特定の関係がある>といった程度の意味合いで用いられ、その際、その「特定の関係」がどういうものであるか(例えば、同定か、好みか、生まれた子の性、注文の品、描いた絵、等々)は、コンテクストに委ねられているわけである。使用の範囲が違うということも関連して、使用の頻度にも差がある。英語の話し手にはこの種の言い方はあまり正式のものではないと意識されるようで、‘ sloppy’な言い方であるという論評がなされることがある。日本語の話し手の場合も論理的な分析の対象にされると確かにそういう印象を抱かされるが、コンテクストからの支えが十分期待できる場合なら、別に改まった場面で使って失礼になるというようなものではない。つまり、構造的には両者の言語に共通に存在する選択肢ではあるが、その運用、話し手のそれをめぐってのパフォーマンスのレベルでは十分に有意義な差があると考えざるを得ない。「うなぎ文」についての正当な評価をするためには、これくらいのことは視野に入れて論じないと不十分なわけである。
言語そのものの構造的な特徴だけでなく、話し手の振舞い方までを考慮する必要があるということは、ある言語を特徴づけようとする場合には、究極的にはその言語の話し手の――多分、文化的に制約された――認知的傾向性を問うというところにまで遡らねばならないということであろう。そして、もしそのように考えてよいとすると、言語の運用において認められるのと同じような特徴が同じ話し手たちによる言語以外の文化的な営みにも認められることが期待されるわけであるし、逆にそれが確認されることによって言語の特徴についての捉え方の妥当性の支えが得られることになる。(7)
6. もう一つ注意しておかなくてはならないのは、次の問題である。ある言語を全体として特徴づけるということであれば、個々の指標を断片的に取り上げるということでは不十分なのはもちろんである。大切なのは、いくつもの――特にその言語の異なる側面に関わるような――指標が実は相互に関連し合うものであるということ、そして、それらが全体として同じ傾向性を指向しているということ、が確認されるということである。
しかし、このような確認を行なおうする過程においては、さまざまな形で主観的な判断が入ってくる危険が常に存在している。
一つの具体的な例として、日本語の話し手による主語の省略という現象を取りあげてみよう。現実の言語使用の場面で、日本語の話し手が文の主語を言語化して提示しないことが頻繁に起こるのは、誰しも知っている通り事実である。この点での日本語の話し手の振舞い方と前節で述べた「ボクハウナギダ」的な言い方をよくするという振舞い方の間には、共通する動機づけが十分認められよう。つまり、コンテクストから十分に分かることは必ずしも言語化しないですますという対処の仕方である。
しかし、ここからさらに一歩進めて、日本語の話し手が主語を言語化しないですますことがあるのは、その背後に、言わなくても分かることをいちいち言うのは野暮であるという<美意識>のようなものがあるからであるという主張をしたとすると、どうであろうか。興味あるのは、この点を取りあげて韓国のある学者がなしたコメントである。つまり、主語を省略するという振舞い方に関する限り韓国語の話し手にとってはそこに<美意識>といったものは全く感じられない、というのである。(8)コンテクストから分かることは必ずしも言語化しない――こういう機能的な動機づけに関しては、双方の言語の話し手は共通であるようである。しかし、そこにさらに美的な動機づけを読みとれるかどうかということになると、一般化は出来ないということである。一応は同じ振舞い方であっても、それにまつわる動機づけということになると、言語によって異なりうるという可能性を想定しておかねばならないわけである。
7. 予想されるさまざまな困難にも拘わらず、ある言語を全体として特徴づけようとする試みは、これまでも少数の例は見出せる。スイスの言語学者、シャルル・バイイは、1920年に「印象主義と文法」と題した論文を寄稿している。(9)余り注目されていない論文ではあるが、この中でバイイは、出来事が言語化される際の二つの類型的な傾向として、<印象志向的>なものと<因果志向的>なものという対立を想定できると指摘している。<印象志向的>というのは、現象を「自然発生的」なものとして捉えようとするやり方、<因果志向的>というのは、現象が何らかの「作用因」によってひき起こされたものとして捉えようとするやり方ということであり、前者は自動詞、ないしは非人称的な構文として、後者は他動詞、ないしは人称的な構文として言語化されるとする。バイイの議論の細部に立入る余裕はないが、特に興味ある事項として二点だけを指摘しておきたい。一つは、このような傾向は、問題となる言語の中で相互に関連する一連の文法的特徴として実現される――例えば、非人称動詞、自動詞、不定の代名詞の形式的な目的語としての使用、中間動詞、斜格の目的語、といった特徴は、いずれも<印象志向的>な傾向を実現するものとして相関性がある――という指摘、もう一つは、ある言語の特徴的な傾向は、文法的な側面ばかりでなく、むしろ文体的な言語使用のレベルでの方が明確に現れてくるという指摘である。後者は、パフォーマンスのレベルでの現象に注目する必要を強調したものとして興味深い。
バイイのものと殆んど同じ時期に、チェコの英語学者、ヴィレーム・マテジウスは<言語性格学>というものを提唱している。(10)<言語性格学>は通常の<記述言語学>と対比されるべきものと位置づけられ、後者が問題となる言語のすべての特徴をもらさず記録しようとするのに対し、前者は「重要な基本的特」のみに注目し、それらの間の関連性を確認することを志す。一つの具体例として、マテジウスは<主題>(この場合は、<既知>の情報を担う項)を<主語>として選ぶという言語化の仕方が英語においては総合的な特徴として働いており、‘ I have been told’, ‘ I had a lot of people coming to see me’, ‘ I found myself threatened’, ‘ I am sorry to hear’, ‘ I am sure to win’ といった一連の型の表現が好んでなされる背後にそれが認められると指摘している。
現代の言語学者の中で、こういった問題と積極的に取り組む態度を示しているのは、ドイツの言語学者、エウジェニオ・コセリウであると思われる。1980年の「言語類型学の意義」と題された論考の中で、コセリウは言語類型は単一の構造的な特徴によって規定できるのではなく、言語体系の中のさまざまな領域に認められる一連の関連する特徴に注目し、その背後にあってそれらの関連を動機づけている原理を確認することによって可能になると説いている。(11)そして、このような意味でのある言語を統合する「形成原理」こそ、フンボルトの「言語形式」という概念の真意であると強調する。コセリウの議論はもっぱら言語の構造的な特徴というレベルでなされているという印象を与えるが、一歩進めて、そのような構造的特徴を支えている認知的な傾向というところまで立入れば、われわれの関心とも一致することになる。
8. 以上のような考察を踏まえて、日本語のような言語を全体的に特徴づけるという方向へ向けて、どのように進めていけばよいかということの一端を示してみたい。その際に配慮すべき重要な点というのをもう一度繰り返しておくと、問題とする言語の異なる領域から相互に関連していると思われる一連の特徴を見出し、それらの背後にあってそれらを共通に動機づけていると考えられる認知的な傾向性を確認するということである。
このような観点から、まず日本語の名詞と動詞という二つの異なる領域を取りあげ、両者にまたがって共通した特徴と見做すことのできるものについて触れたい。名詞と動詞はどの言語においても、もっとも重要な品詞であることには異論の余地がないであろう。ところで、名詞の中でももっとも<典型性>の高いものは具体的なものを表わす<個体名詞>であろうが、日本語の場合、そのような<個体名詞>に関しても単数・複数の区別――つまり、指されている個体が一個か、二個以上かという区別――を明確に示さないということがある。一方、動詞の中でもっとも<典型性>の高いものは、人間による働きかけを表わす<行為動詞>であろうが、日本語の場合、そのような<行為動詞>に関して、行為が完結したかどうか――つまり、働きかけによって意図された目標が達成されたかどうか――を明確に示さないものが目立つ。(12)例えば、あるものを引火、燃焼させるということを目標としてなされる行為は、日本語でなら「燃ヤス」、英語なら‘ burn’という他動詞として言語化される。二つの動詞は意味が一致しているように思えるかも知れないが、実際にははっきりした違いが首尾一貫して現われてくる。英語の他動詞の‘ burn’は、働きかけの<目標の達成>――つまり、対象に火がつき燃え出すという状態にまで至るということ――を含意する。(従って、英語の表現としては、‘ I burned it, but it didn't burn’というのは、明らかに矛盾したことを言っている表現と受けとられる。)一方、日本語の「燃ヤス」は、働きかけの<目標の達成>を必ずしも含意しない。つまり、対象が燃え出したかどうかは不問のままである。(従って、日本語の表現としての「燃ヤシタケド、燃エナカッタ」には対応する英語の表現ほどの不自然さはなく、日常的な場面ではそのままの形で十分通じるであろう。)日本語と英語の一応意味的に対応すると思われる行為動詞の中には、<目標の達成/不達成>に関して平行した振舞い方をするものもある一方、かなりな数の違った振舞い方を示す場合があり、しかも重要なのは、食違いのある場合は必ず、英語の動詞は<目標の達成>を含意し(つまり、この点に関して<有徴>で)、日本語の動詞は必ずしも含意しない(つまり、この点に関して<無徴>)という形での違いで、その逆の場合はないという事実が認められるのである。
名詞において<単数>/<複数>の区別がなされる(あるいは、なされない)ということと、動詞において行為の<目標の達成/不達成>という区別がなされる(あるいは、なされない)ということとの間には、何か共通する要因を認めることが出来るであろうか。(13)目標指向的な行為は、目標が達成されることによって完結すると考えることが出来る。そうすると、<目標の達成/不達成>という対立は、アスペクトに関しての<完了>/<未完了>という対立として読み直すことが出来る。
名詞の<数>という文法範疇における<単数>/<複数>、動詞の<アスペクト>という文法範疇における<完了>/<未完了>――この両者をつき合わせてみれば、共通する要因の存在は容易に読み取れよう。認知言語学でいう意味での<スキーマ>――つまり、意味的な制約として働く高度に抽象的な図式――に関して言われる<有界>と<無界>という対立(すなわち、領域が限定されているか、無限定であるか、という区別)が関わっているわけである。(14)<単数>/<複数>の区別ができるのは、対象が<有界>性によって特徴づけられている場合のことであって、<無界>的な対象の場合は、数えられうるという条件が満たされていることにならず、<単数>/<複数>の対立は中和される。同様に、<完了>/<未完了>の区別ができるのは、過程が<有界>性によって特徴づけられている場合のことであって、<無界>的な過程の場合は、目標となる時点の認定ができないわけであるから、<完了>/<未完了>という対立は問題になり得ない。
<単数>/<複数>という区別と<完了>/<未完了>という区別は、次のように考えてもその間に整合性のあることが分かる。<目標>と<過程>という概念を組み合わせて、<目標指向的過程>というのを考えてみる。そして、このような状況で、<目標>が<有界的>な場合と<無界的>な場合とを考えてみる。もし<目標>が<有界的>であれば、問題の<過程>が<完了>したか、<未完了>であるかの判定は明確に出来る。つまり、<有界的な目標>は、<過程>を<有界的>にする。一方、<目標>が<無界的>であれば、<過程>が<完了>したか、<未完了>であるかの判定は明確に出来ない。つまり、<無界的な目標>は<過程>を<無界的>にしてしまうわけである。(15)(いま、言語のレベルで議論しているのであるが、すぐ気のつく通り、同じ状況は文化的にも平行して見出すことが出来る。伝統的な芸術上の概念としての<道>を考えてみるとよい。これはまさに、<目標>が<無界的>に先へ先へと延びて行く<無界的>な<過程>として捉えられるものである。) このように考えてくると<無界的>なスキーマというものは、日本語(そして、すぐ上で触れたように日本文化をも含めて)を特徴づける基本的な傾向性として重要な役割を果たしているのではないかと思える。他にもこのような傾向性を具現化している例を見出して行くことは十分可能なようであるが、一般的なレベルでの議論をもう少し加えておきたい。
人間の認知の発達の研究を通じてよく知られている通り、一定の輪郭を備えた存在物としての<モノ>の概念は発達のごく早い段階で形成される。一定の輪郭によって限定された対象として<モノ>は<図>としてその背景(つまり、<地>)と対立し、自らを浮かび上がらせる。このように本質的に<有界性>によって特徴づけられる<モノ>に対して、人間の認知は二通りのやり方で対処する。一つは、それを背景から積極的に浮かび上がらせようとする方向で、もう一つは、逆にそれを背景の中に融合させてしまう方向である。例えば、本が机の上に置かれているという状況があった場合、一つは本に認知的な焦点を当てて<机の上における本の存在>という形で、もう一つは本にそのような焦点を当てることなく、全体として<本が机の上にあるという状況>という形で捉えるというやり方である。あるいは、動きの含まれる場合で考えると、飛ぶ雁の群が雲の向こうに姿を隠そうとするという状況があった場合、一つは雁の群に焦点を当て<雁の群の雲の背後への移動>として捉えることも出来るし、もう一つはそのように焦点化することなく、全体の状況レベルで<雁の群と雲の位置関係が次第に変化して行く推移>として捉えることも出来る。静止的な状況の場合でも、ある対象に焦点を当て、<図>として背景から浮かび上がらせようとするのは、その対象の<有界性>を強調することであるし、逆に焦点化されうる対象でもそれを<地>の一部として背景に融合させてしまおうというのは、それを<無界的>なものとして捉えようとすることである。詳しい議論をする余裕はないが、日本語は後者のやり方で言語化しようとする志向性の強いことを示唆する証拠が多く見出せるようである。(16)
上の点と関連し、そのさらに延長上に位置する問題として、どの程度認知的に焦点化され易いかということについては、対象によって差があるということがある。さまざまな言語にほぼ共通して見られる基本的な傾向は、対象として<人間>は<人間以外>のものより、そして同じく<人間>であっても、<動作主としての人間>(つまり、自らの意志と力に基づいて行動するという様相の人間)は<非動作主としての人間>(例えば、眠り込んで反応しない人間)よりも、言語化の際に焦点化され易いということである。当然予想されることは、一般に対象を背景から際立たせる傾向性のある言語では、<人間以外>よりも<人間>、<非動作主としての人間>よりも<動作主としての人間>を際立たせて言語化する傾向になるはずであるし、逆の傾向の言語は、これらをむしろ際立たせない形で言語化するという傾向を示すであろう。日本語には後者の傾向性を示唆する言い廻しへの志向性が顕著であるように思える。さまざまなレベルにおいて、<無界的>なスキーマへの志向性は、日本の言語・文化を通じて総合的に働く動機づけとして無視できない存在であるように思える。
最後につけ加えておくべきことは、ここで日本語について論じている傾向性はもちろん日本語独自というようなものではないということである。それは人間の言語に見られる一つの可能な方向であり、他にもさまざまな程度で同様の方向を志向する言語は見出せるはずであるし、現にかなりな数の言語学者によってそのような趣旨の指摘がなされている。(17)逆に、他の言語にも見られるということによって、ここで日本語について想定されている傾向性が決して恣意的なものではないことが示唆されていると考えることもできよう。
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