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おねしょすることを、布団に地図を描くという。詩人の阪田寛夫に「世界地図」という作があって、その一節。〈セイロンの地図の時は 紅茶のお代りをした ぼくはセイロンは知らないのに おしっこの方がちゃんと 生まれた島を知っていた〉。坊やは紅茶を飲んだ夜、「島の形」に粗相をしたのである▼セイロンは37年前、スリランカと国名を変えた。坊やでなくても、インド洋に浮かぶ島国をよく知る人は多くあるまい。報道も限られていた。忘れられたようなその島でいま、多くの命が危機にさらされている▼20年以上も内戦が続いてきた。分離独立を求めるタミル人武装組織と政府軍の戦いである。ついに敗北寸前に追い込まれた武装組織が、許されぬ暴挙に出た。推定5万人という一般住民を「人間の盾」にして立てこもっている▼いわば「弾(たま)よけ」である。籠城(ろうじょう)している地域はごく狭い。戦闘が起きればおびただしい犠牲は避けられない。幼い子らもいるだろう。冒頭の詩が書かれたころの、「インド洋の真珠」のイメージから遠い惨状に胸が痛む▼同時に無力感も募る。自分に何ができるのか。先ごろの小紙声欄に、30代の女性が「遠い地の虐殺1面で伝えて」と寄せていたのを思い出す。「私たち一人ひとりの心が世界の良心の一部であるなら、まず知ることから始めないと」とあった▼惨事を止めうる国際世論も、つきつめれば一人ひとりの良心となろう。そして無関心こそが大きな理不尽を許してしまう。何億分の1を担う気構えは、ささやかだけれど重い。