箱崎釜破故の世界(5) 大膳の忠之助命工作
○鵜来嶋うぐしま密談の事
かくて忠之公は御切腹にお決まりありて、両使を江戸へ帰させ、検使の下りを待ちたまえば、家中も門戸をさして物音もなし。しかるに栗山大膳は上原新左衛門・牧惣兵衛・梶原十郎兵衛、右三人の嫡子を浜の別業*1へ呼び、大膳子細を言い含めて、家臣竹中治郎兵衛と共に事を計らう。
さて黒田家にて五百石以上を大組と言う。*2しかるに大組の嫡子を、残らず翌日大膳下屋敷に招き、種々饗応の上小船に乗り、伊崎浦の沖、鵜来嶋という小嶋あり。ここに至りて、新次郎(新左衛門嫡子)誓紙せいしを拵こしらえて懐中せり。これ大膳の内意也。
さて各おのおの嶋に上りて、薄縁うすべり・毛氈もうせんを敷き*3、列座したり。時に大膳申されけるは、
今日何れも密談に及ぶ事、余の儀にあらず。忠之公御切腹のお願いあり。大殿よりお願いおゆるしある時は、拙者はお供に決定けつじょうせり。しかる所、其許方そこもとがた御心底、いかが思し召すや。承りたく存じ候、と申されければ、皆一同に、我々とても別心なくお供、と答えられければ、
その時、新次郎懐中より壱巻を取出して、
しからば定めに各名・判*4を居すえたまえ、と差し出す。各名・判をすえ終わりければ、新次郎、大膳が前へ差し出し、皆々心底かくのごとくに候、と申しければ、大膳取り上げて、
何いずれも心底一決の上は、明日早飛脚を差し立て、忠之公の御命乞おいのちごい致すべし、と申されければ、皆々勇み悦びける。もはや帰嶋すべし、と各退散しけり。
大膳は右の壱巻を忠之公の御覧に入れ、翌日早飛脚を差し立て、江戸へ昼夜を分かず急がせける。程なく飛脚江戸へ着きければ、小河おごう縫殿ぬい・桐山丹波両人より長政公へ差し出す。長政公御覧ありて、大組の子供よりの願い、お聞き届け、御満悦思し召されけり。
時枝主鈴・大塩勘左衛門帰り上りて、仰せ下されし三か条、武士もののふたる者の仮にも成すべきことならねば、一向切腹お免ゆるし下さるべく候。御検使を相待たれ候旨、お答えこれあり候段、申し上げければ、
長政公聞こし召し、彼にもそれ程の智恵あるか、とお答えありける所に、この飛脚。大組の子供共、忠之公*5を重んず上は、来月某それがし帰国の上、くれぐれ意見を加え、その後差し赦ゆるす趣もあるべし、と仰せ出だされければ、小河・桐山より国元家老中へ申し越しければ、大膳この段披露ありければ、忠之公も少し案堵したまい、家中の諸士しょざむらいも聞き伝え、喜びける。
【解説と要約】
鵜来島は博多湾に浮かぶ小島。福岡ドームや西公園のすぐ沖合に見えるが、埋め立てが進む前はもう少し沖合にあるという印象だっただろう。鵜来島に船が向かえば周囲から目立つから、密談に適していたかどうかはともかく、浜辺から顔を見分けることは難しかったかもしれない。
西公園の西側に位置する漁村が伊崎浦である。埋め立てによって元の場所から動いているが、海岸べりに今も伊崎漁港がある。栗山家でも多少の備えはあっただろうが、不足する船をチャーターするには伊崎しかなかったと考えられる。
先に出てきた小烏神社といい、この鵜来島といい、地元の人間でないとその存在すらわからない。鵜来島と伊崎浦の位置関係も正確に押さえて書かれている。「黒田家にて五百石以上を大組と言う」といった表現には、藩政の内情に通じている有様がうかがわれる。それが、この小説の作者を福岡藩士と推定する理由である。
鵜来島で密談をするのは、今もそうだが、そこが無人島であることを前提にしている。それは同時に、一蓮托生の場として選ばれたことも意味している。勝手に逃れることは許されないという意味で。
大膳は藩政の次代を担う大組の子弟を鵜来島に集めた。誓紙(牛王宝印ごおうほういんを押した起請文きしょうもん)が用意されていて、大膳にならい、忠之切腹の際は、一同御供(殉死)の決意を示した。これでは次代を担う人材を失うことになるし、長政に対しては、忠之が若い人たちに慕われていることを示して、忠之に立ち直るチャンスをもう一度与えて下さいというメッセージともなる。
ただ、大膳は急を要した。時枝・大塩が長政に報告し、長政が忠之切腹の検使を送り出したあとでは助命は手遅れになる。時枝・大塩に先んじるか、ほぼ同時でなくてはならなかったのである。それで早飛脚を立てた。もっとも時枝・大塩が大膳と気脈を通じていて、歩みを遅らせた可能性だって考えなくてはいけない。
案の定、長政は参勤交代で筑前に下ってから、直接忠之を尋問しよう、廃嫡はその上でのことだ、と先延ばしを決定する。栗山大膳の策は奏功した。ところが、このことが思わぬ方向へ事態をひきずることとなるのである。
かくて忠之公は御切腹にお決まりありて、両使を江戸へ帰させ、検使の下りを待ちたまえば、家中も門戸をさして物音もなし。しかるに栗山大膳は上原新左衛門・牧惣兵衛・梶原十郎兵衛、右三人の嫡子を浜の別業*1へ呼び、大膳子細を言い含めて、家臣竹中治郎兵衛と共に事を計らう。
さて黒田家にて五百石以上を大組と言う。*2しかるに大組の嫡子を、残らず翌日大膳下屋敷に招き、種々饗応の上小船に乗り、伊崎浦の沖、鵜来嶋という小嶋あり。ここに至りて、新次郎(新左衛門嫡子)誓紙せいしを拵こしらえて懐中せり。これ大膳の内意也。
さて各おのおの嶋に上りて、薄縁うすべり・毛氈もうせんを敷き*3、列座したり。時に大膳申されけるは、
今日何れも密談に及ぶ事、余の儀にあらず。忠之公御切腹のお願いあり。大殿よりお願いおゆるしある時は、拙者はお供に決定けつじょうせり。しかる所、其許方そこもとがた御心底、いかが思し召すや。承りたく存じ候、と申されければ、皆一同に、我々とても別心なくお供、と答えられければ、
その時、新次郎懐中より壱巻を取出して、
しからば定めに各名・判*4を居すえたまえ、と差し出す。各名・判をすえ終わりければ、新次郎、大膳が前へ差し出し、皆々心底かくのごとくに候、と申しければ、大膳取り上げて、
何いずれも心底一決の上は、明日早飛脚を差し立て、忠之公の御命乞おいのちごい致すべし、と申されければ、皆々勇み悦びける。もはや帰嶋すべし、と各退散しけり。
大膳は右の壱巻を忠之公の御覧に入れ、翌日早飛脚を差し立て、江戸へ昼夜を分かず急がせける。程なく飛脚江戸へ着きければ、小河おごう縫殿ぬい・桐山丹波両人より長政公へ差し出す。長政公御覧ありて、大組の子供よりの願い、お聞き届け、御満悦思し召されけり。
時枝主鈴・大塩勘左衛門帰り上りて、仰せ下されし三か条、武士もののふたる者の仮にも成すべきことならねば、一向切腹お免ゆるし下さるべく候。御検使を相待たれ候旨、お答えこれあり候段、申し上げければ、
長政公聞こし召し、彼にもそれ程の智恵あるか、とお答えありける所に、この飛脚。大組の子供共、忠之公*5を重んず上は、来月某それがし帰国の上、くれぐれ意見を加え、その後差し赦ゆるす趣もあるべし、と仰せ出だされければ、小河・桐山より国元家老中へ申し越しければ、大膳この段披露ありければ、忠之公も少し案堵したまい、家中の諸士しょざむらいも聞き伝え、喜びける。
【解説と要約】
鵜来島は博多湾に浮かぶ小島。福岡ドームや西公園のすぐ沖合に見えるが、埋め立てが進む前はもう少し沖合にあるという印象だっただろう。鵜来島に船が向かえば周囲から目立つから、密談に適していたかどうかはともかく、浜辺から顔を見分けることは難しかったかもしれない。
西公園の西側に位置する漁村が伊崎浦である。埋め立てによって元の場所から動いているが、海岸べりに今も伊崎漁港がある。栗山家でも多少の備えはあっただろうが、不足する船をチャーターするには伊崎しかなかったと考えられる。
先に出てきた小烏神社といい、この鵜来島といい、地元の人間でないとその存在すらわからない。鵜来島と伊崎浦の位置関係も正確に押さえて書かれている。「黒田家にて五百石以上を大組と言う」といった表現には、藩政の内情に通じている有様がうかがわれる。それが、この小説の作者を福岡藩士と推定する理由である。
鵜来島で密談をするのは、今もそうだが、そこが無人島であることを前提にしている。それは同時に、一蓮托生の場として選ばれたことも意味している。勝手に逃れることは許されないという意味で。
大膳は藩政の次代を担う大組の子弟を鵜来島に集めた。誓紙(牛王宝印ごおうほういんを押した起請文きしょうもん)が用意されていて、大膳にならい、忠之切腹の際は、一同御供(殉死)の決意を示した。これでは次代を担う人材を失うことになるし、長政に対しては、忠之が若い人たちに慕われていることを示して、忠之に立ち直るチャンスをもう一度与えて下さいというメッセージともなる。
ただ、大膳は急を要した。時枝・大塩が長政に報告し、長政が忠之切腹の検使を送り出したあとでは助命は手遅れになる。時枝・大塩に先んじるか、ほぼ同時でなくてはならなかったのである。それで早飛脚を立てた。もっとも時枝・大塩が大膳と気脈を通じていて、歩みを遅らせた可能性だって考えなくてはいけない。
案の定、長政は参勤交代で筑前に下ってから、直接忠之を尋問しよう、廃嫡はその上でのことだ、と先延ばしを決定する。栗山大膳の策は奏功した。ところが、このことが思わぬ方向へ事態をひきずることとなるのである。
- 注1 「浜」は浜町はまのまちのことだろう。町名は消えたが、「浜ノ町病院」にその名を残している。福岡城お堀端の北端から海岸線(それが長浜である)との間に唐津街道が通っていて、その一つの町名が浜町。浜町には家老クラスの武士達の別邸(本文では別業)が置かれていた。当時は、砂浜の向こうに、立花山、海の中道、能古島、玄界島、糸島半島をパノラマのように見通せたはずだ。
- 注2 残された分限帳を見た限りでは、五〇〇石台はまだ馬廻組で、六〇〇石以上が大組となっている。本文の記述との間に矛盾が生じるわけだが、石瀧蔵別本では「黒田家にて、以前は五百石以上大組也。今は六百石以上大組也。」との注記が加えられている。
このことから原本には「黒田家にて五百石以上を大組と言う。」とあるだけで、注記がなかったのだが、後に別本(またはその元になった写本)を写しとった人物が「今」の読者の不便を感じ、特に注記を加えたことがわかる。
写本が作られていく過程で、単なる誤写だけでなく、加削などの意図的な改変が加えられている可能性を考えなくてはならないわけである。
また、これらの記載を残した作者や写本作製者が黒田家の内情に通じていること、言い換えると、福岡藩の侍クラスの人間である蓋然性は一層高まるわけである。 - 注3 敷物を敷くのは土下座をしないという意味がある。今の若い人たちのジベタリアンというのは、歴史的には土下座になる。
- 注4 名前を書き、判を据えた。すなわち連判状である。この場合の判は手書きの署名。花押かおうとか書判かきはんと言われるものに当たる。
- 注5 長政の言葉として忠之「公」はおかしいが、原文の通り。
本日:1
今週:7
累計:4351(5/9 15:00より)
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