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ショッピングセンターに立てこもって商品をイタダキ放題、外ヅラは人間そのものの“怪物”を殺しまくる…。ジョージ・A・ロメロ監督によるホラー・アクションの名作『ゾンビ』は、男の秘めたる思いを臆面もなく視覚化した「夢の叶う映画」である。ヴァイオレンスと欲望が渾然一体となって溜飲を下げるこの傑作ホラー、いったいどのようなメイキング・プロセスを辿ったのだろうか。
●はじめにマシスンありき死人が甦り、生者を喰う……『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』('68)の誕生は、働くデク人形でしかなかったゾンビを[モダン・ホラーの革命児]として台頭させた。
監督のジョージ・A・ロメロはそんな『ナイト〜』の世界観を拡大しようと、リチャード・マシスンの侵略SF小説「吸血鬼」(『地球最後の男』('64)『オメガマン』('71)として映画化)を元ネタにした「アヌビス」(古代エジプトの死神の名前)という全3部のゾンビ・ストーリーを構想する。
第1部は田舎の農家でゾンビと闘う主人公のエピソード。
第2部は他の登場人物による死人再生の原因究明と、さらなるゾンビとの攻防を描いたエピソード。
そして最終部は第1部から数年後。ゾンビが地球上に蔓延、さらには知性が芽生え、一人農家にろう城して闘い続ける主人公こそが人間という名の“怪物”となる、まさにマシスンの名作を換骨奪胎させた恐怖のサーガだ。これは『ゾンビ』『死霊のえじき』('85)を含めた【ゾンビ3部作】にまんま当てはまるが、まだロメロ自身にその意識は芽生えていなかった。●ショッピング・センターを舞台に…
『ナイト〜』公開から6年後の1974年。ロメロは自作の出資者に会うため、オフィスのあるピッツバーグの郊外のモンロービル・モールを訪れる。そう、『ゾンビ』の舞台となるショッピングセンターだ。
ここのオーナーでもある出資者からロメロは、
「客を買い物に集中させるために窓をいっさい廃して、要塞のような設計にした」
という“経営戦略”の土産話をもらい、帰り際にひとりでモールを見物してまわった。すると、あるアイディアが脳裏をかすめる。「ここなら災害時に生き残ることも可能だ。もしゾンビが襲ってきても…」
ロメロは急遽「アヌビス」第2部の舞台を、田舎町の一軒家から巨大なショッピングセンターに変更。友人達のサジェスチョンを受け、主人公の男と妊婦がモールにこもってゾンビと闘う…というストーリーの脚本に着手することとなった。
死者の物語が、夜明けを迎えたのだ。●地元がダメなら外国に頼め!
『ゾンビ』の脚本に着手したロメロだったが、途中でバンパイア青年の悲哀を描いた『マーティン 呪われた吸血少年』('78)を監督する。
だが完成した『マーティン』は評論家の高い評価にも関わらず大コケ。ロメロはピッツバーグの出資者から見放され、『ゾンビ』は脚本完成を待たずに製作のメドが立たなくなってしまった。
「こりゃ、外国に頼むしかない!」
ロメロが所属する製作会社[ローレル・グループ・エンターテイメント]の海外交渉担当であるアーヴィン・シャピロは、国外に資金調達の射程を定め、世界中の映画製作者に『ゾンビ』の未完成脚本のコピーを送りつけた。数撃てばとりあえず当たるもので、イタリアの映画製作会社チタヌスのプロデューサー、アルフレッド・クオモがイタリア語に翻訳された脚本に目を通し、この『ゾンビ』に注目した。●ダリオ・アルジェント参入!
そしてクオモは『ゾンビ』の未完成稿を、『サスペリア』(78')の成功で一躍ホラーの帝王として君臨し、プロデュース業にも着手しようとしていたダリオ・アルジェントに渡したのだ。
アルジェントは死者が生き返って人を喰うというプロットを気に入り、しかもそれが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の生みの親によるものと知るや、『ゾンビ』の映画化を支持。ロメロと会い、自らの意向も反映させつつ脚本を完成へと導く。
一方、ロメロの片腕であるローレル・グループのプロデューサー、リチャード・P・ルービンスタインは、クオモと、そしてプロデューサーであるアルジェントの弟・クラウディオを交えて『ゾンビ』の製作に関する契約交渉を図り、英語圏外の配給権と引き換えに150万ドルの製作費を半分出してもらう約束を交わした。後にこの契約が、たびたびファンの話題をさらう『ゾンビ』のバージョン違いを生むことになる。
ロメロとルービンスタインはそれぞれが2万5千ドルずつ自腹を切り、不足分はプロジェクトに共感した友人や親類たちから投資を募り、『ゾンビ』はまさしくリビングデッドのごとく甦ったのである。
●失業者救済のキャスティング
製作費150万ドルはホラー映画としてはビッグ・バジェッドだが、作品の規模を考えると思いっきり心細い額。そこで主要キャストは有名俳優を起用せず、オーディョンで集めることにした。
SWATの黒人隊員ピーター役のケン・フォリーは、当時ニューヨークのWPAシアターで活動する演劇オタク青年。ホラーにまったく興味はなく、ロメロの名前も知らなかったが、同じ劇団に所属する役者仲間のひとりが「君にぴったりの役がある」と耳打ちしたのが運命を決めた。同じくSWAT隊員ロジャー役のスコット・M・ライニガーも舞台俳優で、ロメロの奥さんであるクリスティーンとカレッジの同級生だったことからオーディションの機会を得る。
またちょうどその頃、ピッツバーグはおりしの鉄鋼不況の煽りをくらい、失業者が町にあふれかえっていた。そんな彼らを大挙してゾンビ役として雇いまくったのである。退廃的で終末感に覆われた物語とは裏腹に、『ゾンビ』は多くの失業者を救った建設的な映画だったのだ。●不夜城と化したモール
撮影は1977年の11月、ロメロのイメージを喚起させたモンロービル・モールで開始された。
一日の撮影時間はモール閉店から開店までの深夜帯。午後10時から朝7時までの間だ。モール内のストアは「開店までに店内を清掃、営業に支障のないようにする」という念書と最低限の使用料を支払う条件で、143店舗のうち約130店舗が撮影を承諾した。各店のオーナーとも撮影には協力的だったし、またロメロや撮影スタッフも極力多くの店舗がフレーム・インするよう配慮した。モール内部の丹念な描写も、実は宣伝サービスの必然だったのだ。
ストアの多くは比較的自由に出入りをして撮影することができたものの、さすがに銀行や宝石店など貴金属を扱う店はオーナーが現場に立ち会った。スティーブンとピーターが銀行から現金を札束をくすねるシーンや、略奪団が札ビラをぶちまけるシーンは、ルービンスタインが実際に2万ドルの小切手を現金に換え、それを小道具として使用した。欲望に忠実な映画だけあって、とりあえず本物指向が貫かれている。
4人が隠れ家とするショッピングセンターの屋上倉庫はモールの敷地内にはなく、不況の影響で空になった丘陵地の倉庫を使用して撮影された。またピーターが“ゾンビ狩り武装”のために侵入する銃砲店も、実はモール内に実際に存在するものではなく、ピッツバーグの下町にある店舗を借り、編集で見事に構成したものだ。
12月はクリスマスバーゲンにあたり、モール全体がこれでもかとデコレートされて使えない。やむをえず、その期間中は地元のローカル局を借りてオープニングのTVシーンを撮影し、それまで撮りためたフィルムを編集したりした。そして新年明けて、再びモールでの撮影が開始された。
●ゾンビもビビる老人軍団
モールでの夜間撮影も順調に進んだものの、スタッフにはひとつの悩みがあった。
このショッピングモールは朝の6時頃になると、付近に住む爺さんや婆さんがゾロゾロと早朝散歩にやってくるのだ。その風情はさながらリアル・ゾンビ!! しかし……。
「メイクを施したゾンビのエキストラを見て、マジで死ぬ年寄りが出たらどうしよう!」
という事態の予想へと発展し、そのためルービンスタインはわざわざ生命保険の手続きまで行なうハメになった。
そんな心配も無事クリアし、『ゾンビ』の撮影は1878年の2月にクランクアップとなった。
●複数のバージョンを生んだ編集CM監督時代からスピーディーなカット構成を好むロメロは、編集も自分で担当した(『ゾンビ』が古びた印象を受けないのは、小刻みな編集の巧技によるものである)。
まずは約3時間の粗編集を施し、それを2時間19分に縮めた。このバージョンがコンベンションやカレッジで上映され、後に日本でも劇場公開された【ディレクーズ・カット版】である。
だが、さらにフィルムは127分に縮められた。あまりにも残酷に徹しすぎたたため、子供が撃たれる倫理上いかがなシーンや、肉片食い散らしや血痕がフレームを占める生理的不快シーンのカットを余儀なくされたのだ。
一方、粗編集版は1978年3月にチタヌス側にも送られ、アルジェントはこれを118分にリカットした。それにゴブリンの音楽を挿入したのが、非英語圏で公開された【アルジェント版】である。ロメロはゴブリンの音楽がイメージの妨げにしかならなかったため、音楽ライブラリーからショッピングセンターのBGMや音源を借りてアルジェント版とは全く異なるサウンド・アプローチにした。アルジェント版に流れるゴブリンの勇壮なスコアにシビれた連中は、このロメロ版の淡泊さに思いっきり拍子抜けする結果となる。●レイテッドXを回避せよ!!
編集作業と同時に、ロメロとルービンスタインは『ゾンビ』のアメリカ公開に協力してくれる配給会社を探していた。結果、ワーナー・ブラザース、ユナイテッド・フィルム、AIPの3社が『ゾンビ』の配給に興味を示したものの、各社ともカニバリズムというテーマと酸鼻を極めたビジュアルにネガティヴな思いを抱いていた。そして案の定、MPAA(アメリカ映画協会)が「カットに応じなければ、作品をX指定(18歳未満は入場不可)にする」
と勧告してきたのである。
「ヴァイオレンスをカットしてしまっては、この映画の暴力に対するアンチテーゼが崩れてしまうぞ!」
とロメロは憤慨した。それでなくとも、彼はかねてからX指定=ハードコア・ポルノの象徴になってることに不快感を感じていたのだ。
そこでロメロとルービンスタインは、《この映画はセックスムービーではないが、ショッキングで暴力的な描写が含まれている。18歳以下の方は観ることをお薦めしない》
という自主警告を劇場予告編やTVスポットに挿入することで、MPAAのカット要請を回避する手段にでたのである。
だがワーナーとAIPは『ゾンビ』がMPAAのカットに応じて「R指定」となるのを要求した。広告展開やTVスポットが限定されることを恐れたのだ。しかしカットを拒むロメロは2社を蹴り、R指定を要請しなかったユナイテッド・フィルムに配給を委ねた。
●上映と反響
レイティングと配給のゴタゴタによって、『ゾンビ』は製作から丸1年を経た1979年4月10日に、ようやくアメリカ国内で公開された。
評論家はこぞって、アンモラルで血と暴力に満ちたこの映画に対し「俗悪」「モラルのかけらもない」と牙をむき、ロメロはプロモーションでTVや雑誌媒体での取材に応じるたび「なぜこんな作品を?」となじられ、良識派のえじきにされた。
しかし、今やアメリカ映画評論の大家となったロジャー・エバートのレビューが唯一「究極的に人を不快にさせ、ムカつかせる優れたホラー映画」と、その真価を的確に伝え、観客はこのただならぬ映画に共鳴し、ボックスオフィスは公開から最初の4週間で510万ドルを稼ぎだした。既に日本やイタリアではアルジェント版がヒットしており、『ゾンビ』は世界中に多くのフリークを生みだすこととなった。●余波、そして…
同時に『ゾンビ』は、クリエイターにも強烈なインプレッションを与えた。
ジョン・ランディスは『ブルース・ブラザース』('80)で、ショッピングモール内でのクラッシュシーンで『ゾンビ』の喧騒を再現。その後マイケル・ジャクソンのミュージック・クリップ『スリラー』('83)を監督し、ロメロ型モダン・ゾンビを世界一ポピュラーなキャラクターに押し上げたのである。
ジョナサン・デミは『羊たちの沈黙』('91)のロケ撮影でピッツバーグに赴いたとき、ロメロにFBIのエージェント役でカメオ出演を依頼した。デミは言う。
「ピッツバーグに来たのなら、ロメロに敬意を払わなきゃいけないのさ。『ゾンビ』の偉大な監督だぜ」クエンティン・タランティーノは、
「『ゾンビ』のハーレーにまたがる略奪団のひとりで、オレも出演している」
とうそぶき、製作・脚本を手掛けた『フロム・ダスク・ティル・ドーン』('96)に、特殊メイク&出演を担当したトム・サビーニを役者としてオファーした。サビーニの演じたセックス・マシーンは、『ゾンビ』の略奪団のリーダーそのものであった。ロメロは『ゾンビ』から7年後、夜明けから死者の日へと繋がる続編、「アヌビス」の第3部にあたる『死霊のえじき』を完成させたが、既に地上はゾンビに支配され、秩序の混乱に乗じて人間が好き勝手にふるまえる「夢の世界」は、もうそこには存在しなかった。
(初出誌 洋泉社『映画秘宝』2000年11月号に補筆改訂)
【参考文献・資料】
"DAWN OF THE DEAD" SPECIAL CAV COLLECTOR`S EDITION LASERDISC
"THE ZOMBIES THAT ATE PITTSBURGH" THE FILMS OF GRORGE A ROMERO
"DAWN OF THE DEAD"POSTERBOOK
"GRANDE ILLUSIONS" TOM SAVINI 他
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