尋常小学修身書 巻五
教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹
ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心
ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精
華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝
ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ
徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ
重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天
壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良
ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰ス
ルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ
倶二遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外
ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳
ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
尋常小学修身書巻五 児童用
第一課 我が国
昔天照大神は御孫瓊瓊杵尊をお降しになつて、此の国を治めさせられました。尊の御曾孫が神武天皇であらせられます。天皇以来御子孫がひきつゞいて皇位におつきになりました。神武天皇の御即位の年から今日まで二千五百八十余年になります。此の間、我が国は皇室を中心として、全国が一つの大きな家族のやうになつて栄えて来ました。御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は祖先以来、天皇を親のやうにしたひ奉つて、忠君愛国の道に尽しました。世界に国は多うございますが、我が大日本帝国のやうに、万世一系の天皇をいたゞき、皇室と国民が一体になつてゐる国は外にはございません。』我等はかやうなありがたい国に生まれ、かやうな尊い皇室をいたゞいてゐて、又かやうな美風をのこした臣民の子孫でございますから、あつぱれよい日本人となつて我が帝国のために尽さなければなりません。
第二課 皇太后陛下
皇太后陛下は御幼少の頃から御しつそにあらせられ、御服装などもぜいたくなものは決してお用ひにならず、学校にはたいてい御徒歩でお通ひになりまLた。又大そうおいつくしみ深くあらせられ、人々をおあはれみになりました。
皇后におなりあそばしてからは、我が国の産業に御心をお用ひになり、宮中で御みづから蚕をおかひになり、博覧会や共進会などにも、たび/\行啓になりました。又諸種の学校に行啓になつて、教育が進歩するやうにおはげましになりました。
陛下は博愛慈善の事業に深く御心をお用ひになり、日本赤十字社組合には毎回行啓あらせられて、赤十字社事業が発達するやうにおのぞみになりました。』大正十二年九月関東地方に大地震があつた時、陛下は日光の御用邸に御滞在中でございましたが、罹災者の身の上を大そう御心配あそばされ、間もなく東京に還啓あらせられ、三日にわたつて、市内の病院や救護所などを御見舞になつて、罹災者をあつくお慰めになりました。
御歌
おほとのをたゝく霰の音にしも
かりやのよるの寒さをぞおもふ
第三課 忠義
後醍醐天皇の御代に、鎌倉の北條高時が天皇の仰に従ひませんので、天皇は高時を討たうとなさいました。高時は早くもそれを知つて、大軍を京都にのぼらせました。そこで天皇は山城の笠置山に行幸になりましたが、地方の豪族も賊軍の勢に恐れてお味方申し上げる者がありませんので、大そう御心配になりました。
楠木正成は河内の金剛山の麓に住んでゐましたが、天皇の御召をうけ、此の上もない武士の名誉と、勇んで笠置の行在所へまゐりました。天皇は大そう御喜びになり、「高時を討つて天下を太平にせよ。」と仰せつけられました。正戌ほ詔をありがたくおうけして、「賊軍が強くても、謀を用ひて討てば、勝てないことはございません。しかし勝負は戦の習でございますから、たまに負けるやうなことがありましても、御心配には及びません、正成さへ生きて居りましたら、御運はきつと開けるものと思し召せ。」と、たのもしく申し上げて御前をさがりました。
正成は河内へ帰つて赤坂城をきづき、僅か五百ばかりの兵で、まつ先に勤王の旗をあげました。さうして天皇をお迎へ申し上げようとしてゐるうちに、賊軍は笠置を攻落し、更に赤坂城におしよせて来ました。正成は度度それを打破つたが、兵糧がつきたので、城を焼いて、身をかくしました。間もなく、金剛山に千早城をかまへて、千人足らずの兵で立てこもり、おしよせて来た賊の大軍をさん/゛\に苦しめました。その間に正成の旗あげを聞いて、お味方申し上げる者が次第に多くなつて、高時はとう/\打滅されました。
天皇が隠岐から京都へおかへりになる時、正成は兵を引きつれて兵庫までお出迎へ申し上げました。天皇は正成を御側近くお召しになつて、その忠義をおほめになりました。正成は、「強敵を破ることが出来ましたのは、全く陛下の御徳によることと存じます。」とお答へ申しました。それから天皇は正成に前駆をさせて、めでたく京都へおかへりになりました。
第四課 挙国一致
明治三十七八年戦役は、我が大日本帝国が国家の安全と東洋の平和のためにロシヤと戦つて、国威を世界にかゞやかした大戦争であります。明治三十七年二月十日に宣戦の詔が下ると、国民は皆一すぢに大御心を奉体して、国の為に尽さうとかたく決心しました。
出征軍人の元気は盛なもので、忠勇の美談はあげつくされない程ありました。病をおし、傷をかくして召集に応じた在郷軍人もあり、三人の兄が皆戦死して残つた末の弟が志願兵になつた家もありました。戦地では雨霰と飛来る弾丸の中で、落ちつきはらつて自分の務を尽す者もあれば、敵弾のために負傷しても、内地へ送りかへされることを拒んで、「ぜひ今一度戦線に立たせて下さい。」と願ふ者もありました。
戦場に出ない国民も皆一致して忠君愛国の誠を尽しました。働きざかりの壮丁が出征した後は、老人も婦人も少年も皆大決心で、家業につとめ、倹約を守つたので、全国の貯金の高は却つて戦前よりも増しました。戦費のために租税は平時よりも大そう多くなつたが、国民は喜んで負担して納税を怠る者などはありませんでした。軍人が出征する時には、各地の人々はまごころをこめて迭り迎へをしました。戦地へは慰問袋や手紙を送り、軍人の家族・遺族にはいろ/\と行届いた世話をしました。出征者の妻は心を引きしめて、家事をとゝのへ、子供を育てて、戦地の夫に心配をかけないやうにしました。又身分の高い婦人は自分で繃帯を造つて、負傷者に送り、或は進んで篤志看護婦となつて、親切に傷病者の世話をしました。
明治天皇御製
国を思ふ道に二つはなかりけり
軍のにはに立つも立たぬも
第五課 公民の務
郷里を愛するのは人の情であります。我等が朝夕見なれてゐる山や川は、どこへ行つても忘れることが出来ません。我等は他日市町村の公民となつて、我が愛する郷里を一そう楽しいよい所にしませう。
どの市町村も市役所又は町村役場を置き、学校を建て、道路を造り、橋を架けなどして、そこに住む人々の便益をはかつてゐます。
かやうに公共の便益をはかるためには、たくさんの費用が入ります。其の費用は市町村民が分担するのが当然です。市町村税を納めるのはその為です。税は進んで納むべきものであつて、もし納税の期限におくれると市町村の仕事の妨になります。
市町村の規則を作つたり、予算をきめたり、教育・勧業・土木・衛生等の仕事をしたりするについて、いろ/\評議するために、市町村民は自分等の中から、市町村会議員を選挙します。市町村会議員はかやうに公共の事をきめる大切な役でありますから、これを選挙する人ほよく考へて、よい人を選び、又選ばれて議員となつた人は、熱心に公共の幸福を増すことにつとめなければなりません。
又市町村の代表者となつて公共の事務をとり行ふ者は市町村長です。市長は市会で、町村長は町村会で選挙します。選ばれて此の地位につく人は、それを名誉と思つて、忠実に市町村のために尽す心掛が大切であります。
我等は将来、公民となり、我が市町村のことは我がことと心得て、納税・選挙の務をはたし、進んで産業を盛にし、風俗をよくするなど、協同一致して公共のために尽し、我が郷里をりつぱな市町村にしませう。
第六課 公益
古橋源六郎は三河の稲橋村の人で、家は代々酒造を業としてゐました。我が国に始めて市制・町村制が実施された時、村長に選挙されました。
後に稲橋村が武節村と組合になつてからも組合長に選挙され、死ぬまで引きつゞいて、この職をつとめ、公益のために力を尽しました。
源六郎は三河の土地が馬を飼ふに適してゐることを知つて、奥羽産や外国産の良い馬を数十頭飼ひ、馬の改良をはかりました。ところが、「改良馬は大きいばかりで、女や子供が使ふにも困るし、其の上にのろくて役に立たない。」と悪口を言ひふらす者がありました。しかし源六郎は馬の市場を開きなどして、改良馬が大きくて力も強い上に、おとなしくて、使ひやすいことを世間に知らせたので、悪口を言ふ者がなくなりました。其の後、組合をつくつてだん/\事業をひろげて行くうちに、一時に馬のねだんが下つて大損をしました。源六郎は長い間、昼夜苦心してその回復をはかつたので、とう/\損をとりかへすことが出来ました。三河に良い馬をたくさん産するやうになつたのは源六郎の力であります。
源六郎は又父の志をついで、此の地方の人々に養蚕を勧めて、繭の産額が村の内だけでも、年々八九万円以上になるまでにしました。又自分で多くの費用を出して山に木を植ゑさせました。それが今ではりつぱな森林になつてゐます。源六郎は農事の改良をはかる為に、まだよそにないうちに村内に農会を設けて、その発達に力を尽しました。農会はそれからだん/\全国にいきわたりました。
源六郎は又村に勤倹貯蓄の風を興さうとつとめました。或時、村の人々と申し合はせて毎日一厘づつ積立てる一厘貯金といふことを始めました。それを賛成する者が多く、後には全村で二万円以上の貯金となりました。又村に悪い風がはいつて来て、仕事を嫌つて遊ぶ者や借金に苦しむ者が出来ました。源六郎はそれを心配して、村の人々と規約を設け力をあはせて、この悪い風をなほすことに骨折つたので、村の風儀もよくなりました。
第七課 衛生
伝染病の流布するのは、多くは人々の衛生に関する注意が足らないところから起るものです。伝染病については、国家も取締をしてゐるけれども、人々が公衆のためを思つて、自分々々で気をつけなければ、とても十分に其の流行を防ぐことは出来ません。
伝染病にはコレラ・チフスなどのやうに急性のものがあり、結核・トラホームなどのやうに慢性のものもあります。伝染病の外に寄生虫病といつて、虫が体内に宿つて起る病気もあります。いづれも病毒が外から体内にはいつて、病気を起すものです。例へば飲食物と一しよにはいつたり、呼吸の時にはいつたり、又不潔なものに触れた時にはいつたりします。
伝染病にかゝらないやうにするには、常に身体を強壮にしておくこと、が弟一です。又飲食物に注意し、身体・衣服・住居などを清潔にすることにつとめなければなりません。伝染病の流行する時は、医師や衛生係の注意を守ることが大切です。万一、伝染病にかゝつた時は、すぐに医師の治療を受け、他人にうつさないやうに、十分に気をつけなければなりません。隠して届出をしなかつたり、迷信から医師の診察を受けなかつたり、又全快しないうちに人中へ出たりするのは、大そう危険です。
衛生に関する注意が足らないところから、伝染病にかかることがあると、それは自分の禍であるばかりでなく、公衆に大そう迷惑をかけます。まして自分の不注意から病毒を他人にうつし、大ぜいの人の命をそこなひ、産業を衰へさせるやうになつては、公衆に対して其の罪ほ決して軽くはありません。
第八課 倹約
上杉鷹山は十歳の時に、秋月家から上杉家へ養子に来て、十七歳で米沢藩主となり、よい政治をして評判の高かつた人であります。
鷹山が藩主となつた頃は、上杉家には借財が大そう多く、其の上、領内には不作がつゞいて、人民も難儀をしてゐました。鷹山は此のまゝにLておいてはならないと思ひ、倹約をもととして家を立直し、人民の難儀を救はうと決心して、まづ江戸にゐる藩士に其の志を告げました。しかし、藩士の中には鷹山に従はないで、「殿様は小藩にお育ちになつたから、大藩のふりあひを御存じない。」などと言ふ者がありました。鷹山は、少しも志を動かさず、領内に倹約の命令を出し、まづ自分のくらしむきをずつとつゞめて、大名でありながら食事は一汁一菜、着物は木綿ものばかりときめて、実行の手本を示しました。
鷹山の側役の者の父が、或日、在方に行つて、知合の人の家に泊つたことがありました。其の人がふろにはいらうとして着物をぬいだ時、粗末な木綿の襦袢だけは、ていねいに屏風にかけて置きました。主人はふしぎに思つてたづねますと、「此の襦袢は殿様がお召しになつてゐたもので、それを忰がいたゞいて帰つたのを、私がもらつたのです。」と答へました。主人はそれを聞いて、大そう鷹山の倹約に感心し、其の襦袢を家内の人たちにも見せて、いましめました。
第九課 産業を興せ
鷹山は人民の難儀を救ふために、倹約を勧めた上に、なほ産業を興して領内を富まさうとほかりました。荒地を開いて農業をいとなまうとする者には農具料・種籾などを与へ、三年の間、租税を免じました。又命令を出して村々に馬を飼はせたり、馬の市場を開かせたりなどして農業を盛にするたすけとしました。
鷹山は又養蚕を勧めました。領内には、貪しくて桑を植ゑることの出来ない者が多かつたので、自分の衣食の費用の中から、年々五十両づつを出して、桑の苗木を買上げて分けてやり、又は桑を植ゑる者に貸付けてやつて、其の業を励ましました。
なほ鷹山は奥向で蚕をかはせ、その糸で絹や紬を織らせました。又領内の女子に職業を授けるために、越後から機織の上手な者をやとひ入れて、其の方法を教へさせました。これが世に名高い米沢織のはじめであります。
なせばなるなさねばならぬ何事も
ならぬは人のなさぬなりけり
第十課 孝行
昔山城の川島村に儀兵衛といふ人がありました。生まれは京都でしたが、生まれるとすぐこの村の貪しい家にもらはれて来ました。十歳の時、養父に死別れ、それから三十九年の間、身体の弱い養母に事へて、一心に孝行を尽しました。
家には少しの田地もないので、儀兵衛は人に雇はれて、農業の手伝などして、やつとくらしを立てました。毎朝早く起きて、母の食物やつかひ水などをそれ/゛\用意して、仕事に出て行きました。仕事がすむと急いで帰つて来て母に安心させ、毎夜湯をつかはせ、又身体をなでさするなど、何事にもよく気をつけていたはりました。』
儀兵衛は貪しい中にも、母だけには着物や食物に少しも不自由させないやうに心がけ、母のたべたいといふ物はすぐにとゝのへ、母のこゝろよくたべるのを見て喜びました。又母の気づかひさうなことは、なるたけ聞かせないやうにし、母の喜ぶことは骨身を惜しまず何でもしました。
人に雇はれて京都や伏見に行き、用事がひまどつて帰りがおそくなることもありました。そんな時には、母は待ちかねて、歩行も不自由なのに、杖をついて半町ばかりも迎へに出て待つてゐます。やがて帰つて来た儀兵衛の顔を見ると、母は大そう喜んで涙を流し、儀兵衛も母の迎をありがたがつて涙をこぼし、二人ともものも言へないで立つてゐます。しばらくして儀兵衛は買つて来た土産を母に渡し、手を引いて家に帰つて行きます。近所の人はこのやうすを見て、誰でも感心しない者はありませんでした。
この孝行のことが時の天皇の御耳にはいつて、儀兵衛は御褒美をいたゞきました。
第十一課 兄弟
伊藤小左衛門は伊勢の室山村の人で、味噌・醤油の製造を業としてゐました。小左衛門に三人の弟があつて、兄弟互に心をあはせて家業に励んだので、室山味噌の評判が世間にひろまりました。
或年、大地震があつて、その倉はたいていつぶれました。その上、雨が長く降続いた為に、味噌・醤油はおほかた腐つてしまつて、さしも繁昌してゐた伊藤の家もにはかに衰へました。世間の人は誰も、「いくら室山の味噌屋でも、もとの身代になることはむづかしからう。」と言つてゐました。小左衛門は三人の弟に、「今から兄弟心をあはせて、少しも他人の力にたよらないで、一生けんめいに家業に励み、三年の後には、きつともとの身代にして見せようではないか。」と相談しますと、弟たちも皆進んで賛成しました。それから兄弟は仕事を手わけして、大ぜいの人をつかひ、一人ほつぶれた倉のとりかたづけにかゝり、一人は味噌醤油の仕込を始め、一人は又遠くへ行つて材木を買集め、小左衛門は全体のさしづをしました。かやうにして四人の兄弟は日夜働いて家業に励んだので、三年たゝないうちに前よりもりつぱな倉が出来、身代ももとの通りになりました。
其の後、小左衛門は製茶・製糸等の業を始めましたが、兄弟はいつも力をあはせて助け合ひ、仕事に励んだので、家は益、繁昌して来ました。
第十二課 進取の気象
小左衛門が製茶・製糸の業を始めたのは、横浜の港が開けた頃で、外国では茶や生糸がたくさんいることに目をつけたからであります。
小左衛門は先づ茶の実を蒔いて、培養のしかたを研究し、製茶の法にも工夫を積んだので、数年の後には、たくさんの茶が出来るやうになりまLた。又其の地方の人人にも茶の木を植ゑることを勧めました。
小左衛門は又桑を植ゑて蚕をかひ、製糸の業を興しました。初は僅か二人の工女を雇ひ、手ぐりで糸をとらせてゐましたが、次第に人数を増して仕事を大きくしました。しかし、手ぐりではどうしてもよい品が出来ないので、機械で糸をとることを思ひ立ちました。そこで機械の使用に熟練した人を雇ひ入れようと思つて、あちこちとさがしたがなか/\ありませんでした。其の上、製糸にけいけんある人たちは、「新しい機械で糸をとるのは、利益が少いから、始めない方がよい。」と言つたが、小左衛門は、「これまでのしかたでは、とても外国にむく品は出来ない。」と言つて、新しい機械をすゑて、生糸を製することを始めました。しかし慣れないので、よい品が出来なくて損をしました。そこで小左衛門は上野の富岡に行つて、製糸法をしらべて帰り、また機械を改め其の数を増して、熱心に仕事に励んだが、やはりよい品が出来ず、また損をしました。小左衛門は進取の気象に富んでゐるから、少しもそれに屈せず、新しい蒸気機械をそなへ、又親類の者を富岡にやつて製糸法を習はせ、一生けんめいに改良をはかりました。かやうに苦心に苦心を重ねた末、とうとう外国人等もほめる程の、よい品が出来るやうになりました。又その為にこの地方の製糸の業もだんだん盛になりました。
第十三課 勤労
伊予の筒井村の農家に作兵衛といふ人がありました。祖先からの借金がたくさんあつたので、その日/\のくらしもなか/\難儀でした。作兵衛は幼い時から、何とかして家の借金を返したいと思つて、一生けんめいに働きました。
十五歳の時に、母は病気でなくなりました。その後作兵衛は朝夕食事の世話をし、昼は父と一しよに田畑を耕しました。又夜おそくまで草鞋を作り、それを軒下につり下げて置いて、往来の人に売りました。その草鞋の丈夫なのと、はき工合のよいのが評判になつて、いつもすぐに売切れました。作兵衛はかやうに夜昼一心に働いたので、村の人は皆、若い者の手本だといつて、ほめない者はありませんでした。
そのうちに家のくらしも次第に楽になり、長い間の借金も残らず返してしまひ、其の上に少しばかりの田地を買ふことが出来ました。其の時の親子の喜はたとへやうもありませんでした。作兵衛は勇んで村役人の所へ行つて、買つた田地を公に自分のものとする手続をしました。村役人たちは作兵衛の買つた田地が悪くて収穫が少いのに、税を納めさせることを気の毒に思ひました。しかし、作兵衛は、「どんな田地でも骨折つて作つたならば、決してよくならないことはありますまい。此の村に荒れた田地の多いのは、私どもの骨折がまだ足らない為だと思ひます。私は出来るだけ働いて、悪い田地をよい田地に仕上げ、村の為になるやうにしたいと思ひます。」と言ひましたので、村役人たちは、作兵衛の心掛に感心しました。
其の後、作兵衛は、はたして其の田地をよい田地に仕上げました。なほ其の上に、よい田地をたくさん買ふことが出来ました。
第十四課 勉学
勝安芳は若い時、西洋の良い兵書を読みたいと思つて、しきりにさがしてゐましたが、其の頃、舶来の書物は少くて、なか/\手に入りませんでした。或日、本屋でふとオランダから新着の兵書を見つけました。見ればなかなか良い本で、ほしくてたまりません。価をたづねると五十両とのことです。安芳は其の頃大そう貧乏で、とてもそんな大金は払へまゼん。家に帰つていろ/\考へた末、あちこちと親類などに相談して、十日あまりもかかつて、やつと其の金をこしらへました。すぐにさきの本屋にかけつけますと、本はもう売れてしまつてゐたので、がつかりしました。しかし、どうしてもそのまゝ思ひ切ることが出来ません。そこで買つた人の名を聞いて、やつと其の家をたづね出し、わけをくはしく話して、「ぜひあの本をおゆづり下さい。」と頼んだが、持主はなかなか聞入れません。「それでは、しばらくお貸し下さい。」と言ふと、「それも出来ません。」とことわられました。安芳はしばらく考へて、「あなたが夜おやすみになつてから後でなりと、どうかお貸し下さいませんか。」と折入つて頼むと、「それ程に御熱心ならば、見せて上げませう。しかし、外へ持出されては困ります。」と言ふので、安芳は次の夜から持主の宅で写させてもらふことにしました。それから毎夜一里半もあるところを通つて、雨が降つても風が吹いても、約束の時刻におくれたことがなく、半年もかゝつて、とうとう八冊の本を写し終りました。其の時、意味の分らないところを持主に問ひますと、持主は、「お恥づかしいことには、私はまだ読終らないので、お答へが出来ません。それにあなたはこれを写して、其の上そんなにくはしくおしらべになつたのは感心です。私のやうな者が此の本を持つてゐても、益のないことですから、あなたに差上げます。」と言ひました。安芳は、「私は写させてもらつたのでたくさんです。二通りは入りません。」とことわつたが、無理にすゝめられるので、とう/\もらひました。安芳はかやうに学問に励んだので、後にはりつぱな人になりました。
第十五課 勇気
安芳は幕府の命を受けて長崎に行き、オランダ人について航海術を学びました。修業がすんでからもつゞいて長崎に留つて、血気盛りの海軍練習生を教へ、九州の近海で、あちこちと航海を試みました。
間もなく、幕府は使をアメリカ合衆国へやることになりました。其の時、使は合衆国の軍艦にのせ、別に日本の軍艦を一そうやるといふうはさがありました。安芳はそれを聞いて、我が航海術の進歩を見せるには、この上もないよい機会だと思つたので、自分の教へた部下をさしづして日本人の力だけで航海をしたいと願ひ出ました。
何分我が軍艦を外国へやるのは始めてのことであり、まだ練習も十分に積まない日本人だけではあぶないと思つたので、幕府は容易に許しませんでした。しかし、安芳があくまで願つてやまないので幕府も遂に其の熱心と勇気に感じて、咸臨丸といふ小さい軍艦で安芳等をやることにきめました。
航海中は毎日のやうに南風が続いて、海が大そう荒れました。嵐がはげしい時には、船体がひどくゆれて、ねぢ折られさうになつたことが幾度もありました。しかし、安芳等は少しも恐れず、元気よく航海をつゞけ、日本を出てから三十人日目にサンフランシスコに着きました。アメリカ人は、日本人が航海術を学んでからまだ間もないのに、少しも外国人の助を受けずに、小さい軍艦で、よくも太平洋を無事に越えて来たものだと、大そう感心しました。
第十六課 忍耐
アメリカ発見で名高いコロンブスは、イタリアの海岸に生まれ、海が好きで、十四の年から船乗になりました。其の頃はまだ地理の学問が開けず、又さま/゛\な迷信などがあつて、遠くに航海する者はありませんでした。』
コロンブスはいろ/\の記録や報告を深く研究して、大地は水と陸とで出来てゐて、其の形は球のやうなものに違ひないから、ヨーロッパから・西に向つて、どこまでも進んで行けば、きつとアジヤの東に達することが出来ると言出しました。しかし、其の頃の人は大地は平たいものとばかり思つてゐたので、コロンブスの言ふことを誰一人として信じる者がなく、あざけり笑ふばかりでした。
コロンブスはそれに少しも屈しないで、熱心に研究を積んで、いよ/\自分の考へてゐることに間違がないと信じました。そこでどうかしてそれを実行しようとしたが、自分にはとても航海の費用を出す力がなく、さりとて事業を助けてくれる人もありません。いろ/\苦心したけれども、久しい間、其の志を遂げることが出来ませんでした。後にイスパニヤの皇后イサベラに知られ、其の助を受けて、やつと年来の志を実行する時節が来ました。そこでコロンブスは喜び勇んで、三ぞうの船に百二十人の水夫をのせ、イスパニヤを出帆することになりました。
それから大西洋を西へ/\トと進んで行つたが、日数がたつても、陸地の影さへ見えません。水夫等は、このさきどうなることかと、次第に恐しくなつて、このまゝ引返さうとコロンブスにせまつたが、コロンブスは落ちついて、いろ/\水夫等をさとしました。かやうにして進んで行くうちに、陸地が見えたと喜んでゐると、それは雲であつたことが度々でありました。水夫等は失望して、もうとても辛抱しきれず、コロンブスがどうしても引返すことをきかないなら、海の中に投げこまうとたくらんだ者さへありました。けれども、コロンブスは忍耐の心の強い人であつたから、さわいでゐる水夫等を慰めたり、おどしたりして、なほさきへ/\と進んで行きました。出帆後七十日たつて、遂に新しい島を発見しました。これが今のサンサルバドル島です。それからコロンブスは一たんイスパニヤへ帰つて、このことを皇后に報告し、其の後、何べんも航海して、とう/\アメリカ大陸を発見することが出来ました。
第十七課 自信
吉田松陰は長門の人であります。十一歳の時、始めて藩主に召出されて兵書の講釈をいひつけられました。家の人たちはいろ/\と気づかつたが、松陰は藩主の前に進み出て大ぜいの家来の列んでゐる中で、少しも臆せず、自分の知つてゐる通りはつきりと講釈したので、藩主をはじめ皆大そう感心しました。
松陰は外国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないやうにするには、全国の人に尊王愛国の精神を強く吹込まなければならないと、かたく信じて、一身をさゝげて此の事に尽さうと決心しました。二十七歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて、弟子たちに内外の事情を説き、一生けんめいに尊王愛国の精紳を養ふことにつとめました。松陰は至誠を以て人を教へれば、どんな人でも動かされない者はないと、深く信じて、「松本村ほ片田舎ではあるが、此の塾からきつと御国の柱となるやうな人が出る。」と言つて、弟子たちを励ましました。
松陰が松下村塾を開いてゐたのは、僅かに二年半であつたが、はたして其の弟子の中からりつぱな人物が出て、御国の為に大功をたてました。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし大和魂
第十八課 主婦の務
滝子は吉田松陰の母であります。松陰の父杉百合之助は松陰が少年の頃までは、家禄ばかりでは、くらしを立てることが出来ませんでした。そこで、滝子はよく夫を助けて、野に出て田畑を耕したり、山に行つて薪をとつたりして、仕事に骨折りました。又よく姑に事へ、子供の養育につとめ、裁縫・洗濯のことから家事一切をひとりで引受けて、かひ/゛\しく立働き、馬を飼ふ世話まで自分でしました。
滝子は姑を大事にしました。三度の食事には暖いものをすゝめ、衣服は柔いものを着せなどしていたはり、裁縫する時は、喜ばれるやうな話をして聞かせて、慰めました。又姑の妹が上の家に世話になつてゐたが、或時、重い病気にかゝりました。滝子は久しい間、夜もろく/\寝ずに心から介抱したので、姑は、「忙しくて暇のないのに、親類の世話まで親切にしてくれて、誠に有難い。」と言つて、涙を流して喜びました。
後、百合之助は藩の役人に取立てられて、城内にうつりましたが、滝子は家に留つて、よく家政をとゝのへ、松陰等の養育につとめました。かやうに滝子は夫を助けて勤倹力行したので、家も次第に豊になり、又教育の仕方がよかつたため、子供は皆心掛のよい人になりました。中にも松陰は国の為に尽し、たび/\難儀に出会つたが、いつも滝子は我が子を励まして尊王愛国の道に尽させました。松陰が松下村塾を開いてゐた間も、滝子はよく弟子たちをいたはり、又松陰をたづねて来る同志の人々を親切にもてなしました。
第十九課 朋友
新井白石は九歳の時から、日課を立てて、少しの暇でもむだにせず、一生けんめいに、学業に励みました。後、木下順庵といふ名高い学者の弟子となつてからも、貧苦をこらへて、益、勉強したので、日に/\学問が深くなりました。
或時、順庵は白石を加賀侯に推薦しようと思つて、そのことを白石に告げました。其の頃、やはり順庵の弟子で岡島石梁といふ人がありましたが、その事を聞いて、白石に、「加賀は私の郷里で、家には年よつた母がたつた一人で、私の帰るのを待つてゐる。もし先生の御推薦で、私が加賀侯に仕へることが出来たら、母もどんなに喜ぶだらう。」と言ひました。白石はそれを聞くとすぐに、順庵のところへ行き、其のわけを話して、「私の仕へますのは、どこでもよろしうございます。どうか私の代りに、岡島を加賀へ御推薦下さい。」と願ひました。順庵は白石が友情に厚いのに感心して、その通りにしました。二年程たつて、白石は順庵の推薦で、甲斐侯に仕へることになりました。侯が後に将軍となつてから、重く用ひられました。
第二十課 礼儀
我等が世間の人と共々に生活するには、知つてゐる人にも知らない人にも礼儀を守ることが大切です。礼儀を守らないと、人に不快の念を起させ、また自分の品位をおとすことになります。
人の前に出る時には、頭髪や手足を清潔にし、着物のきかたにも気をつけて、身なりをとゝのへなければ失礼です。人と食事をする時には、音を立てたり、食器をらんざつにしたりしないで、行儀をよくして、愉快な心持でたべるやうにしなければなりません。又室の出はいりには、戸・障子のあけたてを静かにするものです。
汽車・汽船・電車などに乗つた時には、互に気をつけて人に迷惑をかけないやうにすることが必要です。自分だけ席を広くとつたり、不行儀ななりをしたり、いやしい言葉づかひをしたりしてはなりません。集会場・停車場其の他、人がこみあつて順番を守らなければならない場所で、人をおしのけて、われさきにと行つてはなりません。又人の顔かたちやなりふりを笑ひ、悪口を言ふのはよくないことです。
外国人に対して礼儀に気をつけ、親切にするのは、文明国の人の美風です。
第二十一課 度量
西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んで居た頃、或日友人やカ士を集めて、庭で相撲をとつてゐると、取次の者が来て、福井藩士で橋本左内といふ人が見えて、ぜひお目にかゝりたいと申されます。」と言ひました。一室に案内させ、着物をきかへて会つて見ると、左内は二十歳あまりの、色の白い、女のやうなやさしい若者でした。隆盛は心の中で、これではさほどの人物ではあるまいと見くびつて、あまりていねいにあしらひませんでした。左内は軽蔑されてゐることをさとりましたが、少しも気にかけず、「あなたがこれまで国家の事にいろ/\お骨折りになつてゐると聞いて、したはしく思つてゐました。私もあなたの教を受けて、及ばずながら、国家の為に尽したいと思ひます。」と言ひました。隆盛はそしらぬ顔で、「いや、それは大へんなお間違です。私のやうな馬鹿者が国家の為をはかるなどとは、思ひもよらぬことです。たゞ相撲が好きで、ごらんの通り、若者どもと一しよに、毎日相撲をとつてゐるばかりです。」と言つて、相手にしませんでした。それでも左内は落ちついて、「あなたの御精神はよく承知してゐます。そんなにお隠しなさらずに、どうぞうちあけていたゞきたい。」と言ひ、真心をこめて、自分の意見を述べました。隆盛はぢつとそれを聞いてゐたが、左内の考が如何にもしつかりしてゐるので、すつかり感心してしまひました。
隆盛は左内が帰つてから、友人に向ひ、「橋本はまだ年は若いが、意見は実にりつぱなものだ。みかけがあまりやさしいので、はじめ取りあはなかつたのは、自分の大きな過であつた。」と言つて、深く恥ぢました。
隆盛は翌朝すぐに左内をたづねて行つて、「昨日はまことに失礼を致しました。どうかおとがめなく、これからはお心安く願ひたい。」と言つてわびました。それから二人は親しく交り、心をあはせて国家の為に尽しました。左内が死んだ後まで、隆盛は、「学問も人物も自分がとても及ばないと思つた者が二人ある。一人は先輩の藤田東湖で、一人は友人の橋本左内だ。」と言つてほめました。
第二十二課 信義
加藤清正は信義の心の強い人でありました。豊臣秀吉が明国を討つために、兵を朝鮮に出した時、浅野幸長が蔚山の城を守つてゐたところへ、明国の大兵が攻めよせて来ました。其の時、城中の兵が少い上に、敵がはげしく攻めるので、城は日にましあやふくなりました。そこで、幸長は使を清正のところへやつて救を求めました。清正はそれを聞いて、「自分が本国をたつ時、幸長の父の長政がくれ/゛\も幸長の事を自分に頼み、自分もまた其の頼を引受けた。今もし幸長のあやふいのを見て救はなかつたら、自分は長政に対して面目が立たない。」と言つて、すぐに部下の者を引きつれて出発しました。清正は手向つて来る敵を僅かの兵で追散らして、蔚山の城にはいり、幸長と力を合はせ、明国の大兵を引受けてこゝにたてこもり、大そう難儀をしたが、とう/\敵を打破りました。
格言 義ヲ見テ為ザルハ勇ナキナリ
第二十三課 誠実
清正は嘗て、石田三成等のざんげんで、秀吉の怒を受けて、伏見の屋敷に謹慎してゐたことがありました。ところが、或夜大地震があつて、多くの家が倒れました。清正は秀吉の身の上を気づかつて、部下の者を引きつれてまつ先に城にかけつけ、夜があけるまで、其の門を守つてゐました。秀吉はそのやうすを見て、清正の誠実に感心して、怒もおのづととけました。あくる日、清正を召出して、ざんげんのことを自分できゝたゞしLたが、清正に罪のないことが明らかになつたので、却つて前よりも厚く信用するやうになりました。
秀吉がなくなつた後、其の子の秀頼はまだ幼くて大阪城にゐました。其の頃、徳川家康の勢が大そう盛になり、豊臣氏の恩を受けた者も次第に家康について、秀頼をかへりみる者が少くなりました。しかし、清正は相変らず秀頼の為に心を尽し、大阪を通るたびに、きつと秀頼の安否をたづねました。家康はそれをきらつて、そつと人にいひふくめて、やめさせようとしました。清正は「大阪を通りながら、秀頼公のごきげんを伺はないのは武士の道でない、又太閤の御恩を忘れてはすまない。」と言つて、聞きませんでした。
或時、秀穎が家康から京都まで面会に来るやうにと言つて、招かれたことがありました。秀頼の母は家康に敵意のあることを気づかつて、秀頼の京都に行くことに同意しませんでした。けれども清正は、この事で両家の仲が悪くなつてはならないと考へて、「私が命にかけてお護り申しますから、ぜひお出を願ひます。」と言つてすすめました。それで秀穎は清正と一しよに京都へ行くことになりました。清正は秀頼が家康と対面する間はもちろん、往復の途中でも少しも側を離れずに、秀頼の身を護つて、無事に大阪に帰りつきました。其の時、清正は、「今日はいさゝか太閤の御恩に報いることが出来た。」と言つて、涙をこぼして喜びました。
第二十四課 謝恩
豊臣秀吉の夫人は織田信長の足軽の娘であります。信長の家来に伊藤右近といふ人があつて、夫人の生まれた時から引取つて親切に養育し、大きくなると世話をして奉公に出しました。其の頃、秀吉は木下藤吉郎といつてまだ低い身分であつたが、夫人を妻にもらはうと思つて、其のことを申し入れました。夫人はまづ右近の所へ行つて相談すると、右近は、「藤吉郎はちゑのすぐれた人だから、末の為によろしからう。」と言つて、いろ/\支度をとゝのへて、藤吉郎と結婚させました。
其の後、藤吉郎は次第に立身して、とう/\太閤秀吉といつて、日本国中の人から尊ばれる身となつたが、昔世話になつた右近のことを忘れず、方々をさがさせて、やつとたづね出し、其の妻と一しよに大阪城につれて来させました。秀吉夫婦は大そうねんごろに右近等をいたはり、昔のことなどを言出し、涙を流して世話になつた礼を言ひ、夫人自らたくさんの物を持出して与へました。此の時、夫人は右近等の側により、「お身等の綿入は汚れてゐるから、私が洗濯してあげませう。」と言つて、別に着物を出して着かへさせました。それから十日程たつて、右近夫婦を招いて、「さきの洗濯が出来ました。」と言つて渡しました。秀吉は右近に禄を与へて、大阪に住まはせることにしました。
第二十五課 博愛
紀伊の水夫虎吉等は、蜜柑を船に積んで江戸に行き、其の帰途で、暴風にあひました。船は山のやうな大波にゆられて、遠くの方へ吹流され、二箇月ばかりも大洋の中をたゞよひました。其の間に、食物も飲料水もなくなつて、大そう難儀をしました。
或日、ちようど通りあはせたアメリカ合衆国の捕鯨船が虎吉等を見つけて、救ひ上げ、パンなどを与へて、親切にいたはりました。船長がどこの者かときいたが、言葉が通じないので、地図を出して見せて、やつと紀伊の人といふことがわかりました。それから、この船は北の方へ鯨を捕りに行き、半年ばかりたつて、帰りに、船長は便船に頼んで虎吉等を香港まで送り届けました。そこには仕立屋をしてゐる日本人があつて親切に世話をし、フランスの船に頼んで上海まで送つてくれました。それから虎吉等は支那の役人の保護を受け、便船に乗つて、やつと我が国に帰ることが出来ました。郷里では三年もたよりがないから、死んだことと思つてゐたところへ、無事に帰つて来たので、夢かとばかり喜びました。
知つてゐる人も知らない人も博く愛するのが人間の道であります。いろ/\災難にあつて困つてゐる者を救ふのはもちろん、たとひ敵でも、負傷したり、病気になつたりして苦しんでゐる者を助けるのは、博愛の道です。明治三十七八年戦役に上村艦隊が敵の軍艦リューリクを打沈めた時、敢のおぼれ死なうとする者を六百余人も救ひ上げたのは、名高い美談であります。
第二十六課 徳行
中江藤樹は近江の小川村の人であります。幼い時から祖父の家に養はれ、其の後をついで、伊与の大洲侯に仕へてゐましたが、故郷の母を養ふために、役をやめて小川村へ帰りました。
藤樹は貧しい中で、年よつた母に事へて孝行を尽し、又熱心に学問に励んだので、とう/\徳の高い学者となりました。そこで、藤樹をしたつて、遠い所からはる/゛\教を受けに来る者も多く、馬子のやうな、学問をしない者までも、其の徳に感化されました。それで世間の人が皆、藤樹を敬つて近江聖人といひました。藤樹がなくなつてから、長い年月がたつてゐるが、村の人たちは今でも其の徳をしたつて、年々の祭をしてゐます。
或年、一人の武士が小川村の近くを通るついでに、藤樹の墓をたづねようと思つて、畑を耕してゐる農夫に道をきゝました。農夫は自分が案内しようといつて、先に立つて行つたが、途中で自分の家に立ちよつて、着物をきかへ、羽織まで着て来ました。武士は心の中で、自分を敬つて、かやうにしたのだらうと思つてゐました。藤樹の墓についた時、農夫は垣の戸をあけて、武士を其の中にはいらせ、自分は戸の外にうや/\しくひざまづいて拝みました。武士はそこではじめて、さきに農夫が着物をきかへたのは、全く藤樹を敬ふためであつたと気がついて、深く感心して、ていねいに墓を拝みました。
第二十七課 よい日本人
我が大日本帝国は万世一系の天皇を戴き、御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は数千年来、心をあはせて克く忠孝の道に尽しました。これが我が国の世界に類のないところであります。我等は常に天皇陛下・皇后陛下・皇太后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、祖先の志を継いで忠君愛国の道に励まなければなりません。忠君愛国の道は君国の大事に臨んでは、挙国一致して奉公の誠を尽し、平時にあつては、常に大御心を奉じて各自分の業務に励んで、国家の進歩発達をはかることであります。我等が市町村の公民としてよく其の務を尽すのは、やはり忠君愛国の道を実行するのであります。
父母には孝行を尽して其の心を安んじ、兄弟は仲よくして互に助け合ひ、主婦はよく家を治め子供を教養しなければなりません。
人に交つては信義を重んじ度量を大きくし、殊に朋友には交を厚くし、人から受けた恩を忘れず、世に立つては産業を興し、公益を広め、礼儀を重んじ、衛生の心得を守り、又博く人を愛し誰にも親切にしなければなりません。
常に誠実を旨とし、進取の気象を養ひ、自己に信頼し、勇気を励まし、よく忍耐し、勤労を重んじ、倹約を守らなければなりません。又身体の健康を進め、学問に勉め、徳行を修めるやうに心掛けることが大切です。
是等の心得を守るのは、数百に関する勅語の御趣意にかなふわけであります。我等はこの御趣意を深く心にとめ、至誠をもつて是等の心得を実行し、あつぱれよい日本人とならなければなりません。
尋常小学修身書巻五児童用終
昭和二年十一月廿九日翻刻印刷
昭和三年一月二十日翻刻発行
尋常小学修身書巻五児童用
臨時定価 金拾銭
昭和二年十二月五日
文部省検査済
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