尋常小学修身書 巻四
文部省
(大正9年11月発行。振り仮名省略)
教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
第一 明治天皇
明治天皇は常に人民を子のやうにおいつくしみになり、之と苦楽をともにあそばされました。
明治十一年天皇は北国丸御巡幸の時、新潟県で目のわるいものが多いのをごらんあそばされてそれをなほすために御てもと金を下されました。又天皇はぢしん・こうずゐ・くわじなどのさいなんにかかつた人民を度々おすくひになりました。
明治二十三年愛知県で大えんしふのあつた時、天皇ははげしい雨のふるなかで、へいしと同じやうに御づきんをもめされず、御統監になりました
明治二十七八年のいくさの時、天皇は大本営を広島へ御進めになりましたが、大本営はしつそなせいやうづくりで、その一間が御座所でございました。天皇はこの御間にばかりしじゆうおいでになつて、朝早くから夜おそくまで、色々おさしづあそばされました。
天皇は常に御しつそにあらせられました。表御座所でお用ひのすゞりばこや、ふで・すみなどもみ普通のもので、これをやくにたゝなくなるまで、おつかひになりました。又この御間のしきものは、古くなつて色がかはつてもおかまひなく、御いすの下のけがはも、やぶれたところをたび/\つくろはせて、なか/\おとりかへになりませんでした。
第二 能久親王
能久親王〔北白川宮〕は明治二十八年五月台湾のぞく軍を御せいばつなさるために、かの地へおわたりになりました。おつきになつてもお休みになるやうな家がないので、砂の上にまくをはり、そまつないすをおいて御座所としました。又御しよくじにはさつまいものむしやさをさし上げました。それからだん/\軍をお進めになりましたが、へいしとともに大そう御なんぎをなされ、御病気におなりになつても、少しもおいとひなされず、おさしづなさいました。
ぞくはたいてい平らぎましたが、南の方にまだのこりのぞくがゐましたので、その方へお進みになりました。そのとちゆう又御病気におかゝりなさいました。んいは「おとゞまりになつて御やうじやうあそばしますやうに。」と申し上げましたが、親王は「わが身のために国のことをおろそかにすることは出来ぬ。いきのあるかぎりはつゞける。」とおほせられ、きゆうくつなかごにのつてお進みになりました。』
親王はかやうに国のためにおつくしになりましたが、かなしいことには、御病気が重くなつてまもなくおかくれになりました。
第三 靖国神社
靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社には君のため国のために死んだ人々をまつつてあります。春〔四月三十日〕と秋〔十月二十三日〕の祭日には、勅使をつかはされ、臨時大祭には天皇・皇后両陛下の行幸啓になることもございます。君のため国のためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、こゝにまつつてある人々にならつて、君のため国のためにつくさなければなりません。
第四 志を立てよ
豊臣秀吉は木下弥右衛門の子で、尾張のまづしい農家に生れ、八歳の時父に死にわかれました。秀吉は小さい時からえらい人にならうと志を立ててゐましたが、よい主人に仕へようと思つて、十六歳の時遠江へ行きました。とちゆうで松下加兵衛といふ武士にあつて、その人に仕へることになりました。秀吉はよくはたらきましたので、主人の心にかなひ、だんだん引立てられました。けれども仲間のものにそねまれたので、ひまをもらつて尾張へかへりました
その後秀吉は織田信長がすぐれた大将であるといふことを聞いて、つてをもとめて信長のざうりとりになりました。これから秀吉はだん/\出世をしました。
第五 皇室を尊べ
秀吉は信長のなくなつた後、その志をついで国内を平げ、おひ/\とくらゐがのぼつてしまひには関白太政大臣となり豊臣の姓をちやうだいしました。
そのころの天皇は正親町天皇と申し上げましたが、よの中がみだれてゐたために、おそれ多くも皇居の御ふしんも十分出来ず、御不自由がちであらせられました。秀吉は力をつくして皇室の御ためをはかりましたので、天皇は御よろこびになりました。
その後秀吉は京都にやしきをかまへて聚楽と名をつけましたが、ある年そのやしきに後陽成天皇の行幸を御願い申し上げました。その時秀吉は文武の役人を従へて、御ともをいたしました。御道すぢには多くの人々が拝観してゐて、久しぶりにこの太平のありさまを見てよろこびまレた。又聚楽では秀吉が大名たちに皇室を尊ぶことを天皇の御前でちかはせました。
京都の豊国神社は秀吉をまつつてある社でございます。
第六 孝行
渡辺登は十四歳のころ、家がまづしい上に父が病気になつたので、どうかしてうちのくらしをたすけて、父母の心をやすめたいとかんがへました。登ははじめ、がくしやにならうと思つて、がくもんをべんきやうしてゐましたが、ある時、人から「ゑをかくことをけいこしたら、くらしのたすけになるだらう。」とすゝめられ、すぐある先生についてゑをならひました。
父は二十年ばかりも病気をしてゐましたが、登はその長いあひだ、かんびやうをしてすこしもおこたりませんでした。父がなくなつた時、大そうかなしんで、なきながらふでをとつて、父のかほかたちをうつしました。さうしきがすんだのちも、朝ばんきものをあらため、つつしんで父のゑすがたにれいはいをしました。
孝ハオヤヲヤスンズルヨリ大イナルハナシ。
第七 兄弟
登の弟やいもうとは、みな早くからよそへやられました。
八つばかりになる弟が、ほかへつれて行かれる時、登は弟のふしあはせをかなしんで、雪がふつてさむいのに、とほいところまでおくつて行つてわかれました。
その弟がしらない人に手をひかれ、うしろをふりむきながらわかれて行つたすがたが、あまりにかはいさうであつたので、登は、いつまでもその時のことをおもい出してなげきました。
第八 勉強
登はさきに人のすゝめにより、ある先生について、ゑをならつてゐましたが、おれいが十分に出来なかつたため、二年ばかりでことわられました。登は力をおとしてないてゐたら、父が「これくらゐなことで力をおとしてはならぬ。ほかの先生について勉強せよといひました。登は父のことばにはげまされて、ほかの先生についてならひました。その先生はよくをしへてくれられましたから、登のわざはだん/\すすみました。そこで登はゑをかいてそれをうり、うちのくらしをたすけながら、なほ/\ゑのけいこをはげみました。又その間にがくもんもしましたが、ひまが少いので、まい朝、はやくおきてごはんをたき、その火のあかりで本をよみました。
カンナンナンヂヲタマニス
第九 規律
登は父がなくなつてから、そのあとをついで、だん/\重い役に取立てられました。そのころから日々のしごとをさだめて、朝ひるばんともそれ/゛\じこくにわりあて、それをかでうがきにして、そのとほりおこないました。
こんなに登は規律ただしくしたので、ゑが大そうじやうずになつたばかりでなく、がくもんもすゝんでえらい人になり、せけんの人々からうやまはれるやうになりました。
第十 克己
高崎正風は薩摩の武士の家に生れました。九歳の頃、或朝、食事の時に、「御菜がまづい。」といつてたべませんでした。召使は何か他に御菜をこしらへようとしますと、隣の間に居た母が来て、「お前は武士の子でありながら、食物についてわがまゝをいひますか。昔いくさの時には殿様さへ召上りものがなかつたこともあるといふではありませんか。どんな苦しいことでもがまんをしなければ、よい武士にはなれません。この御菜がまづければたべないがよろしい。」といつて正風の膳を持去りました。正風は一度母の言をひどいと思いましたが、遂に自分のわがまゝであつたことに気がついて、何べんも母にわび、姉もまたわびてくれましたのでゆるされました。その時、これからは食事について決してわがまゝをいふまいと誓ひました。それから正風はこの誓を守るばかりでなく、どんななんぎなことでも、よくがまんしたので、後にはりつぱな人になりました。
第十一 忠実
おつなは若狭のれうしのむすめで、十五歳の時、子もりぼうこうに出ました。或日主人の子供をおぶつて遊んでゐると、一匹の犬が来て、おつなにとびかゝりました。おつなはおどろいて、にげようとしたが、にげるひまがない。きふにおぶつてゐた子供をぢめんにおろし、自分がその上にうつぶしになつて、子供をかばひました。犬ははげしくおつなにかみついて、多くのきずをおはせましたが、おつなは少しも動きませんでした。
そのうちに人々がかけつけて、犬を打ちころし、おつなをかいはうして、主人の家にかへらせました。子供にはけががなかつたが、おつなのきずは大そう重くて、そのために、とう/\死にました。これを聞いた人々はいづれも深くかんしんして、おつなのためにせきひを立てました。
第十ニ 身体
伴信友はつねにけんかうに心がけました。毎日朝起きた時と、夜ねる時に姿勢を正しくしてすわり、三四十ぺんもしんこきふをし、又毎朝つめたい水で頭をひやしました。そのほか朝ばん弓を引いたり、はをつぶした刀をふつたりして、よくうんどうしました。かやうに身体を大切にしたので、年をとつても丈夫で、たくさんの本をあらはすことが出来ました。
すべて身体を丈夫にするには、姿勢に気をつけ、うんどうをおこたらず、着物はせいけつにして、あつ着や、うす着にすぎないやうにし、ねむりと食事はきそく正しくしなければなりません。又からだをきたなくしておくと病気がおこりやすく、うすぐらいところで物を見ると目をいためます。
第十三 自立自営
近江に高田善右衛門といふ商人がありました。十七歳の時、自分ではたらいて家をおこさうと思い立ちました。父からわづかの金をもらひ、それをもとでにして、とうしんとかさを買入れ、遠いところまで商売にでかけました。道にはけはしい山さかが多かつたので、善右衛門はかさばつた荷物をかついで登るのに、大そうなんぎをしましたが、片荷づつはこび上げて、やう/\山をこえたこともありました。又時々はさびしい野原をも通つて、村々をまはつてあるき、雨が降つても、風が吹いても、休まずにはたらいたので、わづかのもとでで、多くの利益をえました。その後呉服類を仕入れて方々に売りにあるきました。いつも正直で、けんやくで、商売に勉強しましたから、だん/\と、りつぱな商人になりました。
第十四 自律自営(つゞき)
善右衛門は人にたよらず、一すぢのてんびんぼうをかたにして商売にはげみました。
ある時善右衛門は商売の荷物を持たないで、いつもの宿屋にとまりました。知合の女中が出て来て「今日はおつれはございませんか」といひました。善右衛門はふしぎに思つて、「しゞゆう一人で来るのにおつれとは誰のことですか。」とたづねましたら、女中が、「それはてんびんぼうのことでございます。」といひました。
善右衛門はつねに自分の子供にをしへて、「自分ははじめから人にたよらず、自分の力で家をおこさうと心がけて、せいだしてはたらき、又其の間けんやくを守り、正直にしてむりな利益をむさぼらなかつたので、今のやうな身の上となつたのである。」といつてきかせました。
第十五 志を堅くせよ
イギリスのジェンナーはふとした事から、牛痘をうゑて疱瘡を予防することを思ひつきました。友だちにそのはなしをすると、友だちはみなあざけり笑つて、「つきあいをやめる。」とまでいひました。それでも少しもかまはず、二十年あまりの間さま/\にくふうをこらし、とうとう種痘の法をはつめいしました。まづ自分の子に牛痘をうゑてみた上、書物に書いてせけんの人に知らせました。
ジェンナーはその後もいろ/\とわる口をいはれましたが、ます/\志を堅くしてけんきゆうをつゞけてゐました。そのうちに種痘が人だすけのよい法であると知れて、ひろくせけんにおこなはれるやうになりました。今では我等もそのおかげをかうむつて居るのでございます。
第十六 仕事にはげめ
円山応挙は毎日京都の祇園社へ行つて多くの鶏の遊ぶ有様をぢつと見てゐたので、人々がばかものではないかと思ひました。こんなにして一年もたつて、ついたてに鶏の絵をかいたら、生きてゐるやうにできました。そのついたては祇園社にをさめました。これを見る人々はみんなりつぱだとほめるだけでしたが、或日野菜売の老人がしばらく見てゐた後、「鶏のそばに草のかいてないのが大そうよい。」とひとりごとをいいました。応挙は老人の家へたづねて行つてそのわけをたづねると、老人は「あの鶏の羽の色は冬のものです。それでそばに草のかいてないことが大そうよいと思つたのです。」と答へました。
或時応拳は又ねてゐる猪をかゝうとしました。八瀬の柴売女が自分の家のうしろの竹やぶに一匹の猪がねてゐると知らせたので、すぐ一しよに行つてその有様をかきました。鞍馬から来た炭売の老人が、その絵を見て、「この猪はせなかの毛が立つてゐないから、病気にかゝつでゐるのでせう。」といひました。そのあとで八瀬の女が来て「あの猪はあそこで苑んでゐました。」とつげました。そこで応拳はあらためてたつしやな猪のねてゐるところを見てかきましたら、せけんの人がほめそやして、一時に応挙のひやうばんがあがりました。
第十七 迷信におちいるな
或町に目をわづらつてゐる女がありました。迷信の深い人で、かねてあるところのお水が目の病によいといふことを聞いてゐたので、それをもらつて来て用ひました。けれども病は日々重くなるばかりで、何のしるしも見えませんでした。
或日親類の人がみまひに来て、おどろいて、むりにおいしやのところへつれて行つて、見てもらはせました。おいしやはしんさつをして、「これははげしいトラホームです。右の目は手おくれになつてゐるので、なほすことは出来ません。左の目はまだ見こみがありますから、手術をして見ませう。これも今少しおくれたら、手のつけやうもなかつたでせう。」といひました。その後手術をうけたおかげで、左の目はやう/\なほりましたが、その女は、「自分のおろかなため、だうりに合はないことを信じて、まつたくのめくらにならうとしました。おそろしいのは送信でございます。」とつね/゛\人にはなしました。
第十八 礼儀
人は礼儀を守らなければなりません。礼儀を守らなければ、世に立ち人に交ることが出来ません。
人に対しては、ことばづかひをていねいにしなければなりません。人の前であくびをしたり、人と耳こすりしたり、目くばせしたりするやうな不行儀をしてはなりません。人におくる手紙には、ていねいなことばをつかい、人から手紙を受けて返事のいる時は、すぐに返事をしなければなりません。又人にあてた手紙を、ゆるしを受けずに開いて見たり、人が手紙を書いて居るのを、のぞいたりしてはなりません。その外、人の話を立ちぎきするのも、人の家をすきみするのもよくないことです。
人としたしくなると何事もぞんざいになりやすいが、したしい中でも礼儀を守らなければ、長く仲よくつきあふことは出来ません。
シタシキナカニモ礼儀アリ。
第十九 よい習慣を造れ
よい習慣を造るにはつねに自分をふりかへつて見て、善い行をつとめ、わるい行をさけなければなりません。滝鶴台の妻が或日たもとから赤い毬を落しました。鶴台があやしんでたづねますと、妻は顔をあかくして、「私はあやまちをして後悔することが多うございます。それであやまちを少くしようと思ひ、赤い毬と白い毬を造つてたもとへ入れておき、わるい心が起るときには、赤い毬に糸を巻きそへ、善い心が起るときには、白い毬に糸を巻きそへてゐます。初のうちは赤い方ばかり大きくなりましたが、今では両方がやつと同じ程の大きさになりました。けれども白い毬が赤い毬より大きくならないのをはづかしく思ひます。」といつて、別に白い毬を出して鶴台に見せました。自分をふりかへつて見て、善い行をつとめることは初は苦しくても、習慣となればさほどに感じないやうになるものです。
習、性トナル。
第二十 生き物をあはれめ
ナイチンゲールはイギリスの大地主のむすめで小さい時からなさけ深い人でございました。父が使つてゐた羊かいに一人の老人があつて、犬を一匹かつてゐました。或時その犬が足をいためて苦しんでゐました。その時ナイチンゲールは、年とつた僧と一しよに通りあはせてそれを見つけ、大そうかはいさうに思いました。そこで僧にたづねた上、湯できず口を洗ひ、ほうたいをしてやりました。あくる日もまた行つて、手あてをしてやりました。
それから二三日たつて、ナイチンゲールは羊かひのところへ行きました。犬はきずがなほつたと見えて、羊の番をしてゐましたが、ナイチンゲールを見るとうれしさうに尾をふりました。羊かひは「もしこの犬が物がいへたら、さぞ厚くお礼をいふでありませう。」といひました。
第二十一 博愛
ナイチンゲールが三十四歳のころ、クリミヤ戦役といふいくさがありました。戦がはげしかつた上に、悪い病気がはやつたので、負傷兵や病兵がたくさんに出来ましたが、いしやもかんごをする人も少いために、大そうなんぎをしました。ナイチンゲールはそれを聞いて、大ぜいの女を引きつれて、はる/゛\戦地へ出かけ、かんごの事に骨折りました。ナイチンゲールはあまりひどくはたらいて病気になつたので、人が皆国に帰ることをすゝめましたけれども、きゝ入れないで、病気がなほると、又力をつくして傷病兵のかんごをいたしました。戦争がすんでイギリスへ帰つた時、ナイチンゲールは女帝に、はいえつをゆるされ、厚いおほめにあづかりました。又人々もその博愛の心の深いことにかんしんしました。
第二十二 国旗
この絵は紀元節に家々で日の丸の旗を立てたのを、子供たちが見て、よろこばしさうに話をしてゐる所です。
どこの国にもその国のしるしの旗があります。これを国旗と申します。日の丸の旗は、我が国の国旗でございます。
我が国の祝日や祭日には、学校でも家々でも国旗を立てます。その外、我が国の船が外国の港にとまる時にも之を立てます。
国旗はその国のしるしでございますから、我等日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。又礼儀を知る国民としては外国の国旗もさうたうにうやまはなければなりません。
第二十三 祝日・大祭日
我が国の祝日は新年と紀元節と天長節・天長節祝日とでございます。新年は一月一日・二日・五日、紀元節は二月十一日、天長節は八月三十一日、天長節祝日は十月三十一日でいづれもめでたい日でございます。
大祭日は元始祭・春季皇霊祭・神武天皇祭・明治天皇祭・秋季皇霊祭・神嘗祭・新嘗祭でございます。元始祭は一月三日で、宮中の賢所・皇霊殿・神殿にてお祭があります。神武天皇祭は四月三日、明治天皇祭は七月三十日でございます。神嘗祭は十月十七日で、この日にはその年の初穂を伊勢の神宮におそなへになり、新嘗祭は十一月二十三日で、この日には神嘉殿にて神々に初穂をおそなへになります。又春分の日、秋分の日に、御代代の皇霊をお祭になるのが春季皇霊祭・秋季皇霊祭でございます。
祝日・大祭日は大切な日で、宮中では天皇陛下御みづからおごそかな御儀式を行はせられます。我等はよくその日のいはれをわきまへて、忠君愛国の精神を養はなければなりません。
第二十四 法令を重んぜよ
昔ギリシヤの大学者ソクラテスはいろ/\国の為に尽し、又若い人たちに正しい道を教へました。ところがソクラテスを憎む人人に訴へられて、とうとう死刑を言渡されました。弟子のクリトンは獄へ面会に行き、「罪もないのに死ななければならない道理はありません。今、獄を逃げ出す道があるから、すぐにお逃げなさい。」といつて、しきりにすゝめました。ソクラテスは「自分は今まで国のために正しい道をふんで来たから、今になつてそれをやぶることは出来ない。国法にそむいて生きてゐるよりも、国法を守つて死んだ方がよい。」といつておちついてゐました。
第二十五 公益
昔、羽後の海べの村々では、暴風が砂をふき飛ばして、家や田をうづめることが度々ありました。栗田定之丞といふ人が、或郡の役人であつた時、その害をのぞかうといろ/\くふうしました。先づ海べの風のふく方に、わらたばを立てつらねて砂をふせぎ、そのうしろに、やなぎや、ぐみの枝をさゝせましたら、皆めをふくやうになりました。そこでさらに松の苗木をうゑさせました。それがしだいに大きくなつて、つひにりつぱな林になりました。
その後定之丞はほかの郡の役人になりましたが、そこでもこの事を土地の人にすゝめました。はじめははげしいはんたいを受けたけれども、いろいろとさとし、自分が先に立つてはたらいたので、また松林がしげるやうになりました。
定之丞は十八年の間もこの事に骨折りました。そのために風や砂のうれへがなくなつて、麦・粟などの畑もところ/゛\に開け、又しようろや、はつだけも生ずるやうになりました。この地方の人々は今日までもその恩をありがたく思い、定之丞のために栗田神社といふ社をたてて、年々のお祭をいたします。
第二十六 人の名誉を重んぜよ
昔京都に伊藤東涯といふ学者がありました。江戸の荻生徂徠と相対して、ともにひやうばんが高うございました。
或日、東涯の教を受けて居る人が、徂徠の書いた文を持つて来て、東涯に見せました。その場に外の弟子が二人居合はせましたが、之を見てひどくわる口をいひました。東涯はしづかに二人に向つて、「人はめい/\考がちがふものである。軽々しくわる口をいふものではない。ましてこの文はりつぱなもので、外の人はとてもおよばないであらう。」といつてきかせたので弟子どもは深くはぢ入りました。
第二十七 よい日本人
天皇陛下は明治天皇の御志をつがせられ、ますます我が国をさかんにあそばし、又我等臣民を御いつくしみになります。我等はつねに天皇陛下の御恩をかうむることの深いことを思ひ、忠君愛国の心をはげみ、皇室を尊び、法令を重んじ、国旗を大切にし、祝祭日のいはれをわきまへなければなりません。日本人には忠義と孝行が一ばん大切なつとめであります。
家にあつては父母に孝行をつくし、兄弟たがひにしたしまなければなりません。
人にまじはるには、よく礼儀を守り、他人の名誉を重んじ、公益に力をつくし、博愛の道につとめなければなりません。
そのほか規律たゞしく学問にべんきやうし、迷信におちいらず、又常に身体を丈夫にし、克己のならはしをつけ、よい習慣を養はなければなりません。大きくなつては志を立て、自立自営の道をはかり、忠実に事にあたり、志を堅くし、仕事にはげまなければなりません。我等は上にあげた心得を守つてよい日本人とならうとつとめなければなりません。けれどもよい日本人となるには多くの心得を知つて居るだけではなく、至誠をもつてよく実行することが大切です。至誠から出たものでなければ、よい行のやうに見えてもそれは生気のない造花のやうなものです。
大正九年十月十四日印刷
大正九年十月十八日発行
大正九年十月十八日翻刻印刷
大正九年十一月十日翻刻発行
尋常小学修身書巻四児童用
臨時定価金九銭
著作権所有 著作兼発行者 文部省
大正九年十月廿九日 文部省検査済
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日本書籍株式会社
代表者 大倉保五郎
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発売所 東京市麹町区飯田町一丁目二三番地
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