2009年5月14日 (木曜日)

ぼちぼち・・・

さ、少しサボりましたが、

ぼちぼちブログを再開しようかなと思います・・・(苦笑)。

何人かの方から「ご心配メール」も頂戴しまして、ありがとうございます。

5月に入ってからまるで「お盆」の頃のような激しいスケジュールな日が続き、ヘトヘトに疲れ過ぎてしまうと、他のことは何もしたくない、なるべくシンプルになりたい!という心境になってしまい、ブログも休んでしまいました。

でも、日々の中には色んな発見や出逢いがありました。ブログはサボっても、日々の中では益々元気でした。

  

さて、

今日は、これから、高校へ招かれての「法話」第2弾!

登別大谷高校の「花まつり」に行ってきます。

今日も「歌なし」で、「お話」で50分間。

頑張ってきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 8日 (金曜日)

無題

ちょっと忙しいです。

すこし、

更新を休みます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年5月 4日 (月曜日)

袈裟を着ている「私」は・・・

「教え」から「私」が問われるとき。

例えば、

「人が死ぬ(果)のは、生まれてきた(因)からである。病気・事故などは、死へ導くキッカケ(縁)である。だから、いま若いからって油断してはならない。死は、もう赤ちゃんとして誕生したときから定まっている。 たまたま、まだ現在そのキッカケがないだけである。 死に至るキッカケ(縁)さえ整えば、若くても死ななくてはならないのが命である。 だから、いま生きている事が尊いし、それを忘れている私が教えから問われてくる・・・・」

以上を、カルチャー的に、教養として聞くことはできる。「理屈として、なるほどな!」と思う。

しかし、である。

自分の身内に、大切な人に、いや、この私自身がまだ若い(と思ってる)年齢なのに、そういう死という「現実」が突然に直面してきたら、どうなるか?以上の「教え」に頷けるか?

そして、

「現実に直面したら、そんな教えなど理想論だ!」

となってしまうのか。

確かに、

「教え」と真向かいになることは「自分自身との格闘」だ。

でも、教えは、キレイゴトでも理想論でもない。

「俺は、アイツの死を認めないっ!」

と言ってみても、

やっぱり現実は、私の「想い」をこえて「ここ」にあるのだ。

  

  

例えば、

「いかなる命も殺してはならない、殺さしめてはならない」

という釈尊の言葉もそうである。

「大切な人や家族を誰かに殺されたら、そいつを死刑にしてやりたいと思うのは当然だ!アンタは、直面してないからそんなキレイゴトを言えるんだ!」

・・・・私もそう思う。

実際にその立場になったら、この僕が何をしでかすか・・・まったく分からない。おまえはキレたら怖い。。。と兄貴が言ってた(苦笑)

  

しかしである。

「教え」は、キレイゴトでも、理想論でもない。

また、得意になって他者に「したり顔」で語るものでもない。

「私が私と向き合う」ところにあるものだ。

  

実際に直面していないから・・・、と遠慮するのではなく、

逆に、

実際に直面してしまったら、「教え」がキレイゴトや理想論に変わってしまう。。。のでもない。

  

実際に直面した現実の中で、確かめられてきたのが「教え」である。

「教え」は、キレイゴトでも、理想論でもない。そこを間違ってはならない。

  

「教え」がぶっ飛んでしまうくらいの「現実」に直面しても、

やっぱり、「教え」に問うのである。

特に、

袈裟を着ている「私」は。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

«疲れるけど、元気。