私は高機能自閉症

高機能自閉症とは、対人関係の障害・コミュニケーションの障害・こだわりなどの自閉症の特徴の内、知的障害がないものです。

幽霊のような子

2009-05-13 10:35:17 | 自分のこと
心臓の弱い方、ホラーがダメな方は、読まないで下さい。

昨日彼とカラオケに行った。
フリータイムで存分に歌った。
ポイントを利用したので、金額は40円だけで済んだ。
カラオケの後は、電気屋さんでマッサージチェアーに座り、無料体験をして体をほぐした。
デートの帰り道に彼と話したことで、時間切れになってしまって話しきれなかったことがある。
それは・・・。

私が措置入院をしている時、大量の本を読んだことはすでに書いた。
私の好きな作家に「トリイ・ヘイデン」という人がいる。
有名な著書に「シーラという子」というのがある。
元々は精神科の看護師さんから勧められてはまったもの。
このシリーズは10冊くらい出ている。
その中で「愛されない子」と「幽霊のような子」というのを病院で読んだ。
「愛されない子」を読んでいた時は、看護師さんから「ゆこたんはどうしてそういう本を読むの?」と不審がられた。
このシリーズの本は、情緒障害児学級での教師から見た様子が描かれているフィクションである。
「愛されない子」の方は、アルコール依存症の親を持つ子どもが、生まれながらにして障害を持っていて、親から常に「かわいそうな子」として育てられ、ワンマンに育ってしまったため、スパルタに指導することで、自立心が芽生えてくると共に、親の方の治療にも携わると言う内容。
これはこれで、ハッピーエンドだった。
問題は「幽霊のような子」の方。
主人公の子は、常に体を折り曲げるようにしている。
その背景にあるものが恐ろしいのだ。
まず性的虐待を親から受けている。
その事実は、その子どもが8歳なのに口にする言葉が、大人の性的な言葉遣いであること。
でもその子は、親から虐待を受けているとは言わない。
遠回しな表現で表す。
ここまでなら平気で読めるのだが、問題はここからです。
この家庭は、黒魔術というのを行っていて、子どもが表現するには「私のお腹の上で、飼い猫のチャッピーが引き裂かれてバラバラにされて、生き血を飲まされた。ドロドロしていて、気持ち悪かった。チャッピーは死んじゃった」
教師はどこまで信じていいのか悩んだ。
だって所詮、障害児の言っていることだから。
子どもも「信じてよ」という割には、パパ・ママと離れて暮らすのが嫌だ!!と言って、警察に証言するのを拒む。
しかもその儀式は、子どもにコークの中に薬物を混入させて、麻痺させた状態で行われると言う。
とにかく両親から子どもたち3人を引き離し、捜索を始めたところ、庭からネコの遺体を発見。
父親は「交通事故現場から拾ってきた。骨を組み立てるのが趣味だ」と言って、実際に骨を次々と組み立て始めた。
ところが、その3年後に、父親は、少女猥褻行為で捕まるのだ。
黒魔術が真実かは解明されていないが、何かしらそれに近いことはされていたとしている。
私は黒魔術のなんたるかは知らなかった。
ただ単に、怖いことをするという知識しかなかった。
でもこの本はフィクションである。
事実なのだ。
アメリカでもセンセーショナルになったというが、なんと言っても、保護室で一人で読んだ本。
途中でやめようとも思ったけど、気になって仕方がなく、結局最後までかじりつくように読んでしまった。
勿論、ビビリゆこたんになっていた。
突然看護師さんが、部屋に入ってこようものなら、飛び上がるほどビックリした。
それで泣きそうにまでなっていた。
看護師さんは、何故私が不安定になっているのか知るヨシもない。
私は情緒障害児の話が読みたかっただけで、黒魔術とか、殺しのシーンは大嫌いだ。
このシリーズで、性的虐待は何度も出てきた。
それに関連して「児童虐待」という本を読んだ時には、一時没収されてしまった。
でも彼が、パラサイトシングルであるということを知ってしまった。
そういう言葉があることさえ知らなかった。
本で教養を深めた。
歴史小説も読んだし。
「徒然草」や「方丈記」など。
つまらなかったけど。
今も読書を楽しんでいるところ。
やっぱり心理的描写を求めてしまう傾向は変わらない。
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余命1ヶ月の花嫁

2009-05-11 11:04:20 | 
ドキュメンタリーを見ているせいか、余りお勧めできません・・・。
全てが淡々とした映画で、実際はもっと壮絶だったのに、なんか美しく出来上がっていて、しらけてしまった。
どうしてもっと医療現場の実態や、乳がんの怖さを伝えないんだろうって思った。
まだ本の方がよく伝わってきた。
全然泣けなかった。
会場はほぼ満席だったけど、それは話題性から来るものか?
期待しないほうがいいです。

退院して初めての彼とのデート。
前ほどはしゃぐこともなく、彼に恥かしい思いをさせることも少なくなったと自覚はしていたつもりでも、あちこちに出かけ、映画を見終わって、夕食を食べに行き、順番待ちをしている時、ものすごい吐き気に見舞われた。
私は吐いてしまう瞬間が感じ取れない。
うっ!!と来てから、トイレに駆け込むことが出来ない。
やばい!と思った瞬間には吐いてしまっている。
だから待っている間、すごく怖かった。
これは本当に吐いてしまうほどのレベルか?
トイレで待機しているべきか?と。
ドキドキして、無口になってきた。
冷や汗も出てきた。
帰りたいよう・・・と思った。
外の夜風に当たることにした。
なんでこんなに弱い体なのかなぁ・・・と悔しい。
順番が来て座席に着く。
食べられるのだろうか?不安だった。
一口食べた。
いや〜ん、おいしい。
食べ始めたら、胃袋が落ち着いてきた。
なんだ、お腹が空き過ぎてたんじゃん。
一人前食べて、満足した。
食前に薬を飲んだのも良かったかも。
良かった、店内で吐いて、彼に迷惑かけなくて。
しかも、夕食は彼のおごりでした♪
退院祝いだって。
でもまた入院するんですけど・・・。
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パパと弟の関係

2009-05-11 10:25:59 | 自分のこと
私と弟が小さい頃から、パパは仕事人間で、仕事のことばかりを考えていて、家庭を省みない父親だった。
小学生の頃、山口に単身赴任になった。
その頃、弟は世の中のブームともなったファミコンに夢中になり始めた。
パパはこれが、ことごとく嫌いだったみたい。
ゲームという言葉だけで、拒絶反応を示してしまうくらい、ゲームに対して嫌悪感を持っている。
家で弟の友達が何時間もゲームで遊んでいようものなら、ママに「早く帰らせろ!!」と怒鳴っていた。
小学校4年生くらいから燃え出したゲーム魂は、それからもずっと続き、高校生、大学生となっていった。
大学は、国立に入った。
どうやら、センター試験で、1科目だけ特別秀でた科目があり、特待生扱いで入学したらしい。
当時入退院を繰り返していた私は、そんなことも知らなかった。
でも難関校であるその大学の授業についていけなかったのか、履修科目を落とし、しかも補習授業も受けずに、単位がもらえなかったとか。
そのことをパパは「ゲームに夢中になっているからだ」と怒っていた。
何かにつまずくと、全てをゲームのせいにする。
私が何を書きたいのかと言うと、昨日の朝、弟からママに電話が入ったらしい。
その前前日に、尿路結石で自分で救急車を呼び、マンションから運ばれたそうだ。
弟は我が家から車で30分程のマンションで一人暮らしをしている。
救急車で搬送された病院では、特に治療法はないと言われたそうだ。
そしてまた激痛が走ったらしい。
ここ2年間位の間で、尿路結石で救急車で運ばれたのは4回目。
でも2日前に救急車で運ばれたばかりだし、近くにいる親を頼ったみたい。
「車で病院に送ってくれないか」と。
それはそうだろう。
2日経ってまた救急車を呼ぶのは、やっぱりはばかられる。
でもパパは許さなかった。
「行くな!!」と。
「甘やかすな!!自分で救急車を呼ばせろ!!」と苦しんでいる我が子を差し置いて、放置する姿勢。
弟がゲームにはまりだしてから、気に食わなくて仕方がないのだ。
これは虐待と同じだと思う。
だって我が子に向かってはっきりと「俺の子どもではない!出てけ!」と言っているのだから。
パパにどうしても行くなと言われて、しぶしぶ弟は救急車を呼んだらしいが、搬送記録を見て、治療法がないことも分かっているため、搬送できないと言われたそうだ。
そのことも伝えると「こんなに苦しんでいるのに」とパパを差し置いて、私にパパのことを任せて、ママは弟の所に行った。
私はそんなゴタゴタも知らず、朝7時頃、ママに「今から弟の所に行くから、パパをよろしくね」と涙ながらに言っているのに起こされたのだ。
何事かと下に下りて行くと、パパがふてくされてキッチンに座っていた。
しばらく私とパパは言い合った。
弟は本当の緊急事態でないと、親に助けを求めることなんてない。
病気の時位、助けてあげてもいいじゃない、と私が言うと「ママに来てもらう前に救急車を呼んだほうが早いだろ」と言う。
結局弟は病院で「こんなに何度も結石を繰り返すようなら、入院も考えた方がいいかもしれません」と言われたそうだ。
尿路結石は、ものすごい激痛らしく、4回も起こっているため、いつまた発生するか分からない。
でも入院していれば、すぐに対処できるという病院側の話。
でも本当にいつ発生するか分からないから「発生待ち」の状態での入院になる。
それでは仕事にも行けない。
爆弾を抱えての入院は、意味がないとも取れるので、断って、結石が出る度に、砕いて痛み止めを処方する対処療法しかないみたい。
話が段々それていき、大学をちゃんと出なかったこと、就職先も大手企業でないこと、結論はゲームばかりしているから、結婚さえも出来ない、紹介したい女の子がいても、あんな性格だから紹介も出来ない、と弟の人格を全否定している。
弟は趣味のゲームを生かした仕事に就いている。
でもそこの会社が中小企業なのが気に食わないのだ。
どうせゲームに生きるのなら、ゲーム機を大手で繰り広げているような会社に勤めなければ意味がないと思っている。
この不況の時代に・・・。
つまりは全てゲームが悪いと思っている。
この考えは揺るがないのだ。
挙句の果ては「俺は18の時から、ちゃんと立派に働いてきた」
時代が違うでしょ!!
なんか腹が立ってきた。
ママが弟の状況をメールで連絡してくるけど、見もしない。
でも私が潤滑油になることによって、少しリラックスできたように思えたので、私は彼とデートに出かけた。
うまくいっているものと思ってた。
私が20時頃帰って来ても普通だったし。
でも実際は違った。
私が家を出て行くと、真っ先に携帯の電源を切ったらしい。
ママは急いで家に帰ってきて、パパに話そうとしても、怒り心頭で、布団に潜り込んでいて、会話は全くなかったらしい。
でも私が帰ってきたら、普通に振舞っていた。
私が買って来たケーキもおいしそうに食べていた。
だから大丈夫なんだって思ったのに・・・。
弟はパパから、虐待めいた扱いを受けていることを感じている。
でも根が優しいから、反抗はしない。
唯一反抗と言えば、無理矢理家を飛び出したこと。
我が子のことを、ここまでけなすものなの?
これだけけなしといて「あいつは、正月に家に泊まりもしない」と言うけど、パパがそんなオーラを発していたら、泊まるどころじゃないでしょ。
そしてママが弟のことをかわいそうがると「マザコンだ」と言って、バカにする。
そこでママが泣くから、私も嫌な気持ちになる。
この家庭は一体どうなってるんだ!!
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明日

2009-05-09 14:11:40 | 
映画「余命1ヶ月の花嫁」という映画を、彼と見に行く予定。
こういう映画って、男性には余り興味がないと思って、彼に見たいというのを控えていたけど、他にこれと言って見たい映画がなかったので、彼とも相談して「余命1ヶ月の花嫁」に決定した。
彼は私に「体調面も精神面も大丈夫か?」と聞いてから、彼が明日は母の日だから買い物に行きたいと言い出し、私もどんなものがいいのか真剣に考えてあげた。
真剣に考えすぎて、自分の意見を押し通してしまい、後で反省。
彼と久しぶりに電話で話したけど、やっぱり私がほとんど話しまくっていた。
だって寂しかったんだもん。
彼は私が措置入院したからと言って、態度を変える事もなく、前と同じだった。
でもゴールデンウィークは、本当は二人で伊豆へ行く予定だったので「ごめんね」と言うと、彼は本当のところ、あの連休中に車を一人で運転するのは絶対にイライラしただろう(混雑するから)と言っていた。
その言葉でちょっと安心した。
彼が苛立っていたら、私の具合はもっともっと悪くなっていただろう?
ん?でも、措置以上の具合の悪さってなんだろう?
あと彼がママに、私のサプライズ計画を暴露した意味は「ゆこたんのことをもっと思ってあげて欲しい」という意味が含まれていたんだとか。
そんなことは分かっていた。
彼のママに送ったメール「あの、なべとやかんは、本当にゆこたんが自分で買ったものです」という言葉から分かる。
あの時ママが「ゆこたんにこんな高いものが買えるわけがない」と言って、私は彼に泣きながら「私が買ったのに・・・」と訴えたら「ゆこたん母に直接話してあげようか?」と言ってくれた優しい彼だから。
しかし・・・サプライズ計画ばらすのはなぁ・・・。

今日、ケアKに電話した。
心配してくれていた。
「ヨダレは止まったの?」とか「お薬増えたの?」とか聞かれた。
どちらも良好に動いていることを話したけど、でも入院予約を入れていて、近々また入院することを話したら「こちらのことは全然心配しなくていいですからね。また元気になったら、一緒にお出掛けしましょうね」と言ってくれた。

今日は一人で、駅前まで自転車で出かけた。
実は入院のゴタゴタがあって、私の大切な日記帳がなくなってしまった。
未だにどこにうずもれてしまったのか分からない。
でもどうしても出てくる気配はないし、このまま書かない期間がどんどん過ぎ去っていくのも嫌だったので、新しく「5年日記」というのを買った。
なくしてしまったのは、3年日記だった。
でも付け始めたばかりだったので、諦めが早かった。
これが今まで書き溜めてきた5年日記を失っていたら、悔やんでも悔やみきれないかも。
新しく買った5年日記は4000円もして、もう絶対に手放すまい!!と誓った。
その他にも薬局や、本屋さんや、雑貨屋さんなどにも出向き、1万円近く買ってしまった。
それでも入院中は何も買っていなかったので、予算は余っているので大丈夫だろう。
朝から洗濯も張り切ってしたことだし、薬のない生活にも慣れてきて、それに一番すごいのは、自分の限界を感じて、自ら休むようになったこと。
「これ以上動き回ってると、クラクラしてくるだろう」というのが感じられる。
だから何かに集中していても、一端休止というのを挟んでいる。
いい傾向だと自分でも思っている。
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措置入院 〜PART5〜

2009-05-08 14:12:54 | 自分のこと
措置入院をして、驚いたことがある。
噂には聞いていたけど、措置入院は、入院費が全くかからない。
東京都が負担してくれる。
それでも私は、担当ナースから「食費はかかる」と聞いていた。
でも入院費の請求書を見たら、なんと!!かかった金額は「おむつ代 450円」
おむつ代だけで考えても、20枚は使っているのに、この値段はあり得ない。
それに入院中出した手紙の切手代や、かかると言われていた食費は、全くかかっていなかった。
元々は今の病院に入院するつもりで用意して行った15万円が450円となり、拍子抜けしてしまった。
こんなことなら、入院中にもっと手紙を出せば良かった。
でもまぁ、また入院予約を入れていて、99%入院は決まっているから、15万円はどっちみち必要なんだけど。

そして、母の日のサプライズ計画だった、カーネーションの宅配便が、昨日届いた。
とても満足げなママでした。
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措置入院 〜PART4〜

2009-05-08 11:26:10 | 自分のこと
彼はと言うと・・・
実を言うと、2日目くらいまでは、こんなになってしまった自分には、彼を愛し続ける資格はないと思っていた。
彼に対して失礼だと。
もう私は施設で生きていくしかないんだと思った。
「ゆこたんは死んだんだ」って思うことにした。
でも実際には、変わらず自分の体があり、家から持って来られた衣類や身の回りのものがある。
死んではいない、という事実にぶち当たる。
そうすると、彼が愛しくてたまらなくなる。
なんとか連絡を取れないか?
ママと連絡が取れるようになり、電話が出来たり、面会が出来るようになると、真っ先に「彼はどうしてる?」と聞いた。
ママは、入院翌日に彼にメールで知らせたらしい。
彼は連絡がつかなくなって、とても心配していた。
そして、ママが面会に行くと言うことを伝えるたびに「僕からもよろしく言ってたとお伝え下さい」と一報してくれていた。
その上、内密に計画していた、母の日のサプライズをママに種明かしした上「ゆこたんはこんなに母思いの人なんですよ」みたいなことをアピールしてくれていた。
そういう陰での支えに、むせび泣いてしまった。
こんな状態にまでなっても、見捨てずに愛してくれてる優しさに、感謝以外の気持ちはない。
退院日が決まった時には「お祝いに食べに行こう」とまで言ってくれた。

ママとは、素直になろうと思っていても、実際会ってみたり、電話で話すと、まだ落ち着いていないのか、すぐに喧嘩腰になってしまっていた。
後から申し訳なくなる始末。
ママから手紙が届いた。
入院した日は、ママは一人でカーナビを頼りに運転して、とても心細かった。上野に行くまでになんとか立ち直ってくれないものかと祈っていたけど、変わらぬゆこたんの態度に、そこまで追い詰められていたんだと思うことにした。でもその日はとても重要な会議があり、近所の人も、朝から何事かと見ていたし、その日に限って、近くに友達が引っ越してきた日で、その友達は、パトカーの間を繰りぬけながら、引越しの準備をしていた。そんなママの気持ちも分かって欲しい、と言っていた。
はぁ、なんて親不孝なんだろう?
でも日にちが経つと共に、私も落ち着いてきて、人格が変わったようになり、ママも安心したみたい。

昨日は退院したその足で、元の病院に向かった。
しばらく外来で、慣れ親しんだIさんと話していた。
「どうだったのよ?まぁ、何事も経験ね」と笑っている。
冗談交じりに、措置入院の話をした。
そしてK先生の面接。
「J病院のA先生とはよく連絡を取り合っていたので、状況は分かっています。ゆこたん、どうしてここでもJ病院のように振舞えないかな?J病院のように出来たら、もっともっとここでも入院が利用しやすくなるんだよ。今までの状態だと、個室しか使えないじゃない。でもJ病院では、3日で拘束が取れたんでしょ」とやや呆れ顔。
なんか初めて、自分の口から思ってることを言えた面接となった。
「J病院では、ここを脱出しなければという思いしかなかったです。だからひたすら我慢していました」
「今回の措置は、辛かったの?」
「辛かったです・・・」
「ここまで我慢出来るように身についているんなら、外来でやっていけそうな気がするんだけど、ゆこたんはどういう目的で入院したいと願っているの?」
「J病院で身につけたことが、ここでも活用できるのか試してみたいんです。我慢できたと言っても、無理矢理押さえ込んだ形だし、もっとすんなりと我慢する力をつけたいし、自分でも待つこと、我慢することは大切だって気付いたからこそ、今ここで入院しないと、わだかまりが残ってしまいそうなんです。だから自分の気持ちを整理するためにも、入院したいと思ってます」と話した。
いつもはK先生に「辛い。限界。入院したい」と本当に限界なのに、入院を訴えても、なかなかOKは出してくれなかった。
だけど今回はいつもより落ち着いているのにも関わらず、自分の考えをしっかり言ったら「分かりました。じゃあ、入院予約を入れますよ?いいですね?」と言ってくれた。
そしてまたもや言った。
「前ほど待たないと思いますよ」
今までこの言葉を信じたがために、待てない状態に拍車をかけていたので、今回は3週間は待つだろうと覚悟を決めて、のんびり待つことにした。
入院することは決まっているのだから、もうジタバタする必要はない。
そして最後にK先生から「J病院は、僕の大学の医局の系列だからよく知ってるんですよ。A先生は直接は知らないんだけど、病院のことはよく知っています」と言っていた。
そこで私が「A先生は、医師生活を何年か続けているけど、あそこまで叫ばれた経験はありませんって驚いてたよ」と言うと、一言「A先生はまだまだ甘いな・・・」
ちょっと笑えてしまった。
薬について「この量は、かなり減ってるんだけど、この量で眠れてるんですか?お通じは出てるんですか?(うなずくと、ちょっとむっとしているような呆れているような感じになり)でもまぁ、薬は少ないにこしたことはないので、この量でやっていけるんなら、替えませんよ。それにしてもA先生は思い切ったことをやってくれたなぁ。これには感謝しないと」と言っている。
だって1日2回だけで済んでしまったんだもん。
しかもメインはバレリンのみ。
他には睡眠薬をちょっとだけ。
あれほど飲んでいたお腹の薬は一切なしで、下剤も全く出てないのに、お通じは普通にある。
そんな生活は、10年以上送っていなかった。
体が自然に返った気がする。
薬なんてないにこしたことはない。

家に帰るとS先生から電話が来た。
次回の外来の心理の予約を入れてくれた。
込み入った話はしなかった。
面接時間ではないことをわきまえていたから。
予約だけ入れて、色んな話は心理面接の時に・・・ということになった。

措置入院の時、沢山本を読んだ。
分厚い専門書も。
ほとんどが、児童心理学で、特に障害児に対する本だった。
思い出した。
私は高校卒業で進路を決める時、養護施設の子どもたちの面倒を見たくて、保育士の資格が取りたかったんだと。
そういう何かしら問題を抱えた子どもたちを、ひたすら愛情を持って接してあげたいと願っていたのだ。
だから私が読む本は、児童心理学に偏っていた。
特に児童虐待については、ものすごい量の文献を読んでいるはず。
入院先の病院でも、タイトルを見て「このような心理的な本はちょっと・・・」と言われてしまったほど。
でも本を読むことで、自分の取った行動を振り返ることも出来た。
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措置入院 〜PART3〜

2009-05-08 10:41:27 | 自分のこと
最初のA先生の印象は悪かった。
A先生も私の印象は悪かったみたい。
でも自分が大人しくしていると、本当にみるみる楽になっていく。
拘束も取れていくし、部屋の中に持ち込んでいいものも増えていく。
お手紙セットが許されてから、住所が分かる範囲で、あちこちに手紙を書きまくった。
彼や家や病院。
電話は禁止されていた。
携帯も使えなかった。
A先生は「ストーカーが実際にあったかどうかは私には分かりません。でもあなたは社会的にルールを破ってしまったので、そこは反省してもらわないといけません。そのために努力してもらうこともあります」と言った。
ストーカーされてるとは、今は思っていないけど、その時は頭から私の考えを否定しなかったことに、この先生は大丈夫かもと直感してしまった。
女医さんに対して、余りいいイメージがなかったので、馴染むまでに時間がかかった。
4日目には、激変していた。
朝、検温のために、担当ナースが現れた。
初めて担当ナースと、じっくり話した。
その担当ナースは、初日から比べて、きちんと座って落ち着いて話す私にとても驚いていた。
A先生からは、盛んに「叫び続けていたこと」を指摘されていたけど、叫んでいた時のことを覚えていない。
記憶にあるのは、生死をさ迷った2日目の夜だ。
K先生に手紙を書いた。
「私は警察官の言いなりになっただけだ」と。
そして「絶対にK先生のもとへ戻って見せます」と。
手紙を書きながら心を落ち着かせていると、ママのことも心配になってきた。
私がこんなに苦しんでいるのだから、ママはもっと悩んで苦しんで恥をかいているに違いない。
自殺とかしてないよね?
不安でたまらなかった。
でも電話は出来ないので、唯一許されている手紙で、気持ちを伝えるしかなかった。
ひたすら謝った。
そして月曜日には来ると言っていたA先生にも手紙を書いた。
「ここでは措置入院に至るまでのことだけに着眼すればいいんですよね?だから、私は今、自傷他害をしたこと、他患者さんの迷惑になるようなことをしないと誓えばいいのですよね?他の事は今は考えなくてもいいですよね?だったら私は努力していくようにします」と書いた。
月曜日にその手紙を読んだA先生は「あなたはとてもしっかりした字で、心の中を表現することが出来ますね。本当はすごく頭がいいんだと思いますよ。そうですね。あなたの言う通りですよ」と言ってくれた。
プライマリーナースからは、この調子なら大部屋にも出れるかもしれないみたいなことを言われたけど、それに関しては不安があった。
保護室だから落ち着いていられるのでは?
でも保護室にばかりいるのは良くない、でも強制はしませんからと言うことで、お昼ご飯の時だけホールに出てご飯を食べることになった。
大食堂だった。
ガチガチに固まって、ご飯をセッティングしてくれたけど、全く箸がつけられない。
段々涙目になってきた。
その様子を見て、看護師さんが「ゆこたん、お部屋で食べようか」と言ってくれた。
10分は耐えたと思う。
お部屋に着くなり、泣き出してしまった。
「私、頑張ったよ。大声出さなかったよ。他の人の迷惑になるようなことしなかったよ」と。
看護師さんは、肩をポンポンと叩きながら「頑張った。偉かったね。よく我慢したね」と言ってくれた。
感情が収まると、一人にさせてくれて、後は何もなかったように接してくれた。
次の日、A先生は「無理することはないです。でもホールに行ってみたいと思ったら、行ってみてください」と言った。
条件があって、ホールに出ている間は、公衆電話から電話を使っていいことになった。
そういう目的が出来たことによって、頑張れることが出来た。
看護師さんも慣れてきて、私の行動が面白いらしく、「かわいい〜〜!!」とか言いながら、おちょくる人もいた。
「ゆこたんって、超かわいくない?」
「ゆこたんは、お話出来るんですよ」
「知ってるよーー!!でもキャラが最高だよね」
という声も聞こえていた。
私が一点を見つめてぼーっとしていると、看護師さんが手を振っている。
それに気付いた時、妙に恥ずかしくて、手をバタバタ振りながら、挙動不審な行動に出てしまったときも、笑われてしまった。
ホールに出るようになると、当然、色んな人が話しかけてくる。
それはプラスになる人もいるし、マイナスになる人もいると聞いていた。
「〜〜君が、好きって言ってるよ」
「まだ保護室から出れないの?」
「今何歳?」
「トランプとかしませんか?」
でも私はちゃんと断る手段があるんだって思った。
流れに流されないで、ちゃんと断って、好きと言われても、あ、そうって感じで、流すことが出来た。
でも男の子は黙っていられない。
あの手この手で、私のことを探る。
1対1になるチャンスを狙っている。
23歳の男の子の誘導尋問に引っかかってしまった。
「ねぇ、高校は卒業した?」
「うん」
「地元?」
「うん」
「学校は地元?」
「(ん??どういう意味だろう?とりあえずうなずいてみる)」
「そっかぁ、高校出てるんだ。俺は通信の高校生だから、ゆこたんのが頭いいや。統合失調症?」
「違う」
「じゃあ、俺より軽いんじゃない?入院何回目?」
「10回以上?」
「え??嘘でしょ?だってまだ20歳くらいでしょ?やばくない?就職とかしないの?」
と、話していくうちに、相手がどんどん引いていくのを感じた。
別にいいんだけど。
私は他患者さんに、迷惑をかけた覚えはないし、実際にそのことで指摘されなかった。
だけど存在自体が浮いているらしく、特におばさま方からは、異様な目で見られているのを感じていた。
でも自分らしく振舞っていた。
A先生は「今更過去のことを追及するつもりはありません」と言っていた。
「発達障害で今まで散々苦しんできたことでしょう」とも言ってくれた。
1週間が過ぎると、私は自分の行動を反省していた。
「警察官に言われるままに行動したとか、色々言い訳みたいなのはあるけど、どっちにしても、私は人間としてマナー違反をしました。自傷・他害は、どんな理由があってもやってはいけないことです。人間として生きていく上で、最低条件だと思っています。だから私はそこのところをじっくりと反省して振り返る必要があると思います。今回は措置入院という形になってしまいましたが、自分を振り返るよいきっかけとなりました。私は措置入院になるまで、具合が悪いのを自覚していました。だから入院予約を入れていました。主治医の先生も動いていてくれたのだから、私は待たなければいけなかったのです。そこで待てない自分はいけなかったのです。自分の思うがままに行動していたのではいけなかったのです」と振り返った。
担当ナースは「自分はどんな人だと思う?」と聞いた。
「どこからが障害で、どこからが性格なのかが分からないんだけど・・・」と言うと
「どういう特徴があると思う?」と聞かれて
「人見知りなところはあるかな?」と答えた。
その人が言うには「どうしても待てなかったというのなら、その待っている期間だけでも、すごく薬を強くしてもらうとか、点滴をしてもらうために病院に通うとかするべきだったのではないですか?薬が効かない、夜も眠れない、自分が抑えられないと自覚していたのならなおさらです」と言われた。
その通りだと思った。
結局、そこのJ病院では、措置解除になるまで、保護室で過ごした。
そして3食の時間だけ、ホールに出る、という形を取った。
措置明けの日と共に、昨日退院して、元の病院に、退院した足で向かった。
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措置入院 〜PART2〜

2009-05-07 20:46:07 | 自分のこと
1日目は私は叫び続けていたそうだ。
実際、病院中からクレームがついたらしい。
ナースコールがやまなかったとか。
「保護室がうるさくて眠れません」と。
本人「記憶にございません」
でも1日目、2日目と、薄れていく意識の中、鮮明に「泳げ!たいやきくん」のメロディーが流れ続けていたのは覚えている。
どんなにどんなにもがいても〜
  針が喉から取れないよ〜〜♪
歌っては涙したものだ。
本当に精神力が弱まると、死んでしまうと思ったほど、極限状態に達した。
1日目の薬が効いている時のほうが楽で、2日目になるとA先生は、K先生とも連絡がつき、自分の下した「性格から来るもの」という持論も曲げたみたいで、「この人は本当に発達障害だ」とどこを見て確信したのかは分からないけど、「K先生と同じような処方で行きますね」と説明してくれた割には、K先生の処方していた3割にも満たない薬の量で、私は体から薬という毒素が抜けていくのを体感したのである。
痙攣が終始止まらず、顔の筋肉がゆがんでいく。
きっと鏡では見れない顔になっていたと思う。
顔がどんどんゆがんでいく。
口がゆがんでいくと、自然に舌を噛み千切ってしまう体制になる。
意識していないのに、血の味を感じて怖くなる。
「死んじゃう!!」と思って、助けを求めるけど、2日目となっていたので、叫びすぎて声が全く出無くなっていた。
私が筆談できることも伝わらない。
なんとか「もうダメ・・・」と言うと「ん?おしっこかな?出てないねぇ。出たら教えてね」と頼みの綱も切れてしまった。
だから声が出ないんだって!!
看護師さんからしてみれば、1日目に騒ぎまくってた患者さんなので、叫ばなくなって落ち着いたと思ったらしい。
でも実際には、私は2日目の方が、ずっとずっと辛かった。
カチカチ・・・という秒針の音が、病室に鳴り響く。
この部屋は広いなぁ。
でも私はここで死ぬのかな。
明日、新聞に載るのかな?
なんて題材にされるんだろう?
「発達障害者、亡くなる・・・かなぁ・・・」
どん底まで落ち込んでは、痙攣がピークに達し、もうダメだ!!と思ったとき、ゴボゴボ・・・と吐いてしまう。
苦しい。
吐いているのに、誰も来てくれない。
助けを呼ぶ声が出ない。
拘束されているので、ナースコールが押せない。
ヨダレもひどく、横を向いていたので、肩がひんやりしてきた。
吐いたもので余計不快になる。
こんなに吐くんだったら、水飲みであんなに水を飲まなければ良かった。
3時を回った頃、薬が体から抜けて行き、体が楽になってきたのを感じた。
眠れるかも・・・と思った。
でも目は閉じられなかった。
監視カメラがついていたらしく、夜勤で交代した看護師さんが見回りに来た。
やっと吐いてしまったことが伝わった。
「あぁ、これは可哀相だねぇ。でも一人でシーツ交換出来ないから、夜のうちはタオル当てとくね。着替えだけはしようか、気持ち悪いもんね」と言ってくれた。
副主任と書いてあるその人が、ナイチンゲールに見えた。
それにナースコールを延長コードでつないで、手の平に持たせてくれた。
「何かあったら呼んでね。何か薬出てないか見てくるね」と言ってくれた。
それだけで安心してしまって、ウトウトしてきた。
戻ってきたその副主任は、「次の薬は、点滴になってるけど、どうする?もう3時だもんね。この様子なら、少し体休まりそうだから、朝まで待とうか」と言われて、私も点滴は嫌だったので、そうすることにした。
泳げ!たいやきくんは、何周したことか・・・。

次の日は、お風呂日だった。
当然!!と言わんばかりに「入る意思」を示した。
でも保護室の人は、1畳ばかりのスペースのシャワーを浴びるだけだった。
しかも週に2回のみ。
それでも満足と思ったのだけど、私の体は自由ではなかった。
自分で服も脱げないし、「顔を洗ってみようか」と言われても、手が顔に持っていけない。
自分でもビックリ。
「ゆこたん、今日はやめておきましょう」の言葉に、すごくガッカリした。
A先生の診察は、その日を逃すと4日間くらい間が空いてしまう。
でもその日、1回目の診察では「K先生の所に戻る。K先生は来週の頭には入院できるって言ってた!!」と言っていたのに(実際、私が110番した時、ママがK先生に電話をしてくれて、翌週入院できると言う話も聞いていたし、来てくれればすぐに診察をするとも言ってくれたそうだ)2回目にA先生が来た時は、自分が受け入れなければいけない現状に打ちのめされて、リセットボタンを探しまくり、部屋の中を何時間もかけて1周回った。
雲の上にいるような感覚だった。
途中看護師さんが、おやつを持ってきたけど、振り向きもしなかった。
A先生は「あら、お話できなくなっちゃった?じゃあ、私から話しますね。今日はこれで私は帰ります。月曜日まで来ません(その日は木曜日だった)。あなたが落ち着いている所を見せてくれれば、拘束は外れて行きます。でも騒いだり、自分を傷つけるようなことがあったら、また拘束を行います。私たちは出来る限り拘束はしたくないんです。協力して下さいね」
その時、叫び声も上げられなくなっていたので、私は1時間限定で拘束が外されていたので。
後から聞いた話だと、その日の夜勤に、私の担当ナースとなる男の看護師さんが来ていたのだけど、私が男性に対して怯える態度を取っていて、一部の女性の看護師さんにしか反応しないので、自分は遠くから見守っていることにしたとか。
2日目に初めて見せてもらった「措置入院に関するお知らせ」
事務的なことが書いてあった。
通信の自由だとか・・・
ん?むむ?通信の自由?
私はその紙を熟読した。
相手の隙を狙うこと、これしか考えられなかった。
信頼関係が確立できていなかったのだから。
そして3日目、多少声が出るようになると、師長さんに訴えた。
「手紙は自由に書いていいんですよね?」
うろたえるように「はい、いいですよ」と言って、売店にお手紙セットを注文してくれた。
1時間おきにナースコールして「まだですか?」と聞いた。
注文してから、手元にお手紙セットが届くまで、半日かかった。
でもこの「通信の自由」で、束縛から逃れられた気になった。
確かにその日から、私は目覚しく快復していった。
従順になり、拘束も3日目には完全に取れた。
手元に何もないので、病院案内を持ってきてと頼んだ。
すぐに持って来てくれた。
なるほど、急性期閉鎖病棟ね。
ここから出ると、向こう側には一般病棟があるのか。
知恵もついてきた。
食欲も出てきた。
でも凹んだお腹を頼もしく思っていたので、食欲が戻ってしまうのはなんだか悲しかった。
あれほど、苦戦してS先生と取り組んでいたトイレの課題は、大きな室内にオープンに設置してあるトイレのお陰で、怖がらずにしょっちゅう座ることが出来、余り失敗もなかった。
後から色々聞かれたけど、トイレのことは、一言では説明つかないほど、心理的に難しいことを話したら、脊椎の障害のためと割り切ってくれて、「汚れたら教えて下さいね」と言って、実際に「漏らしちゃった」と言うと、すぐに「はーい」と言って、替えのおむつを手渡してくれた。
「どうして?」とか言われなかったのが、安心できた。
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措置入院 〜PART1〜

2009-05-07 19:51:22 | 自分のこと
4/22(水)
その日は、いつもの外来日である木曜日がK先生が休診のため、臨時で外来日になっていた。
でも前々から具合が悪かったのも重なってきていて、私は限界状態だった。
前の日に彼と見に行った「おっぱいバレー」は、一人興奮で終わったけど、家に帰ったらなんだか寝付けなくて、彼にも「疲れるから寝た方がいいよ」と言われて、無理にベッドに入ったけど、目が冴えてしまった。
ほとんど眠れずに、朝下へ降りて行くと、不機嫌丸出しで、食欲もなく、悪態ばかりついていた。
でもその悪態が、段々被害妄想へと変わって行き、激怒と変わって行った。
そういえば、昨日彼とデートの帰りに、別れを惜しんでいると、後ろから隣りのおじさんの車が来た!!
おじさんにストーカーされている!!
おじさんは、この間は、私の家を見上げていたじゃないか!!
しかも、私が現れたら、バツが悪そうに頭を下げて去って行ったではないか!!
ストーカーだ!!
「隣りのおじさんが、ストーカーだ!!犯罪者だ!!逮捕しなくちゃいけない!!」と騒ぎ出した。
自分が騒いだことによって、自ら興奮状態に持って行ってしまった。
もう誰にも止められない。
私は恐怖の余り、110番をした。
ママは必死に止めている。
止められるから、悲鳴を上げる。
何度も家に逆探知で警察から電話がかかってきた。
ママはその度に、受話器を取り上げ切ろうとするが、私は益々騒ぐ。
警察もただ事ではないと思ったらしく、パトカーが家に2台現れたかと思うと、カギを勝手に開けて、警察官が入ってきた。
ママは「お帰り下さい」と言っているけど「こういう事件になってしまったら、事情徴収を取らないといけないんですよ」と言われている。
私は興奮状態で、ママにも攻撃をしている。
とりあえず、ママと私を引き離して、それぞれの言い分を聞いてくれた。
その間にも、警察官の数は増えていく。
外では「事件ではないでーす!!大丈夫でーす!!」と指揮している。
近所の人たちが、遠巻きに見ていたとか。
警察官に諭され、病院に行くことになった。
私服警察官と言うの?警察官の格好をしていないお巡りさんと、パトカーじゃない覆面パトカーに乗せられ、病院に向かった。
ママはこの日、すごく重要な用事があったらしい。
警察官に挟まれ、後部座席に窮屈に3人で座る。
私はまだ騒いでいた。
「隣りのおやじを殺して、私も死ぬ」とか喚いていた気がする。
ちょっと年配の警察官と、20代後半の警察官がいた。
20代の方が、ずっと私の相手をしていてくれた。
病院に着いた。
その頃には、騒ぎ疲れて眠ってしまっていた。
起こされた、年配のほうに。
「診察券を出して」と言われた。
診察券を出してもらって、パトカー内で待っている時、運悪くママの車が駐車場に入ってくるのを見てしまった!!
途端に車内で暴れ狂う私。
K先生が駐車場まで来て、一目私の姿を見てママに「措置行って下さい」と言ったそうだ。
病院は、空床がなく、諦めるしかなかった。
ママはそれでも病院なのだから、注射をしてパニックを収めるとかして、助けてもらえるものと思い、わらにもすがる思いだったのに、K先生は助けてくれなかった・・・と涙ながらに後から言っていた。
警察の人にママは、備え付けのナビを上野の一角にある精神の鑑定を受ける場所に設定してもらい、一人で運転したそうだ。
パトカー内はと言うと・・・
ひどい文句の垂れ方だった。
ママがK先生に「これから措置に行く挨拶をしてくる」と言ったら「受けてもくれねぇ病院なんかに、頭下げてる場合かよ!!時間の無駄なんだよ!!ったくよー!!」
「あのお母さん、老人だから、大丈夫かなぁ」
「本当にナビ合ってるか?」
「カー用品、騙されて買わされただけだろ。持ってて使い方知らないなんて」
「発達障害って、外に出れない引きこもりがなるんだろ?だから太っていくんじゃないか?」
「お前さんよお。意味分かってて言ってるのか?」
「今日は仕事になんねぇよ!!朝からよお、早く飯食わせろよ。うまいコーヒーでも飲んでこうぜ」
「なんでこんなにグルグル回んなくちゃなんねぇんだよ」
「こいつ、大の方、やっちまってると思いますよ。臭いますもん(してません!!)」
ようやく着いた、上野は、私の視野の中にはなく、牢屋みたいな所に通された。
床はコンクリートで、家畜小屋みたいな所。
ここはどこなんだろう?と思いつつも、自分はどこまで行ってしまうんだ?と不安になる。
外からはママの声で、私が発達障害であることを説明している。
警察官はあろうことか「もうここまで来たら、入院してくんなきゃ意味がないんだよ。お帰り下さいじゃ収穫ないからさぁ、暴れちゃってくれよ。大いに一発」と言うので「これから医師面接をします」と言われたとき、本当に騒ぎまくってあげた。
これでいいんでしょう?とばかりに。
床で転げまわって人に噛み付いたり、自分を傷つけている様子や、警察官から「油断すると、噛み付かれます」という証言で、精神指定医2名の診察の結果「措置入院」が決まった。
お決まりの通達が終わると、すぐに救急車がやってきた。
ママはまた、一人で次の行き先である入院することになったJ病院まで運転。
私は救急車で搬送された。
最初私は救急車の中でも暴れて、手の付けようがなかった。
暴れるというか、泣き喚いていた。
でも大人しくなると「こんなんでも最近は措置になるんですねぇ」と話し合っている。
車内で拘束され、叫び疲れた私は、呼吸困難になっていき、何度か吐きそうになった。
その度に、救急隊員が、冗談を交えながら、ティッシュで拭き取ってくれた。
救急車の中というのは、案外揺れるので、車酔いしてしまう。
それにすごい音を鳴らして走るのでうるさい。
地獄だった。
それに、どこの病院に連れて行かれるのか分からず、不安でいっぱい。
やっと着いた所は、N区だった。
比較的家に近かった。
でも全く知らない病院だった。
真上しか見えない状態の中、不安は絶頂まで達し、私の悲鳴は病院中響き渡っていたそうだ。
ガラガラ・・・とストレッチャーで運ばれていく中、覚えている言葉は、「あぁ!!一番奥!!6番に運んで!!」
6番は一番奥だった。
悲鳴がうるさいからだそうだ。
自覚はしていないけど、その後主治医となるA先生は「医師生活を何年かやっていますが、ここまで叫ばれたのは初めてです」と言っていた。
ママがA先生に「この子は発達障害です」と言ったら「いーえ、違いますよ、お母さん、これは性格から来るものですよ。こんなになってしまって、一体何が原因ですか?」と言われて、本日3回目(警察と措置入院が決まる時と今回のA先生へ)となるゆこたんの歴史を話す気力もなく、「K先生に聞いてください」と言って、逃げ帰ったそうだ。
A先生の方からしてみれば、事情が全然分からず、薬も何を飲んでいるのかも分からず、どうしていいものか?と頭を抱えてしまったそうだ。
実際、初日は、K先生と連絡がつくまで、点滴や注射をいっぱいされ、私は麻薬中毒のようになってしまった。
おむつを頑丈に当てられ、荷物は何もないので、病衣を着せられた。
拘束も、胴・手・足とフルセットで、全く身動きが取れない。
されるがままになるしかなかった。
今までの病院とまず違ったのは、看護師さんが、お化粧の臭いがきついということ。
慣れるまで、看護師さんが現れる度に、この病院の臭いを感じて、不快だった。
A先生は、この叫び声なんとかしてよ!!という感じで、形ばかりの「措置決定」の通達だけして去って行った。
そうして、私の措置入院生活が始まった。
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一つだけいいこと

2009-04-20 21:26:51 | その他
ケアKのブログに今年度の計画書が書いてあった。
これから愛の手帳を持たない高機能の方が増えるであろうリスクも含め、育成していくと書いてあった。
私のことだ!!と思った。
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いつでもどこでも我慢

2009-04-20 20:48:22 | 自分のこと
O里から手紙が来た。
K先生からは「今はO里のことを考えてる場合じゃない」と言われていたのに来た。
内容は柔らかに表現されていたけど、シビアだった。
私が利用者さんを殴った事実と、ガラスに頭を打ち付ける自傷行為を見逃すわけに
いかないとのことで、7月まで入れていたショートステイの予約は取り消され、更に利用するのに条件が課せられていた。
O里は「高機能自閉症のことを勉強しておきます」と言っていた。
O里からは「ゆこたんのような症状を持った利用者さんもいます。言葉に出せない方もいます。あなたの気持ちも分かります。が、こちら側としては、安全面を第一に考えるので、殴ったり、自傷行為があると、それを見逃すわけにはいかないんです」とのこと。
殴ったことについて、相手の人の親にも、このように会議を設けているのか?
私ばかり悪者にされてる。
正当防衛っていうのは許されないの?
施設側は「必ずスタッフに相談して下さい」としきりに書いているけど、スタッフはその時、介入していたじゃないですか!!
会議のときも「じゃあ、しゃべれれば、何でも出来るんですか?」と筆談した。
しゃべれれば、意見が言えれば、この人は出来るんだから、我慢してもらわなくちゃというのが向こうの言い分。
じゃあ、私のよだれをいきなり拭いてくる人は、考えられないから、私がいきなりの出来事が苦手なのに我慢なんだ。
私はもう充分我慢した。
体が動かなくなるまで我慢した。
でも施設側は「状態が悪いので、元気になったら利用して下さい」と言う。
悔しい。
K先生が、対応に対して意見しても「安全面を考えると、いきなり押さえつけたりしなくてはいけない場面も出てきます」と。
もうダメだ。
なんて説明すれば理解してもらえるの?
今回の入院もO里が引き金になってるのに、「具合が悪いんじゃ利用は無理ですね」って感じ。
でも表書きだけは「利用を拒んでるんじゃないんですよ。いつでも待っていますよ」と言う。
利用したいけど、分かって欲しいんだ。
どうしたら分かってもらえる?
どうしたらうまくやっていける?
なんで私は我慢ばかりなの?
犯罪的なことをしたのなら、私がいけないと思う。
でも犯罪的なことをしたのは、相手だ。
でも相手には考える力がないからと、問題として取り上げもしない。
そして考えられる私に「我慢」を要求する。
我慢なんて、いくらでもしてるよ。
精神保健福祉センターの時より、ずっと自分らしく、理解しあえるようになってたと思ってた。
それは診断名がついたから。
でも余計な「高機能」がつく余りに、我慢を強いられる。
そんな自由奔放に生きてないよ。
一応考えてるし、いけないことはやらないようにしてる。
それでも、我慢、我慢って、私の人生は、我慢だらけ。
診断がついたとき、「我慢する、いい子でいるという範囲では無理」と言われて、楽しく生きようと言われて救われた気がした。
でも一歩、未知の世界に入ると、やっぱり奇人変人に思われる。
病院はいくら待っても空かない。
死んでもいいですか?って思っちゃうよ。
ねぇ、誰か、助けて・・・。
苦しいよ。
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自閉症の特徴

2009-04-20 12:58:08 | 自分のこと
コミュニケーションの下手さは顕著。
どこの場所に行っても、扱いにくい人と見なされる。
でも興味・関心を人と共有しないは、当てはまらない気がする。
私は辛いことや楽しいことがあった時、K先生やS先生や彼に、うるさいほど報告するし。
資料も持って行って見せたりする。
指差しも、彼に「やめなさい!!」と怒鳴られるほど。
知能検査で指摘された「起承転結が分からない」は苦しんでいる。
「あれ」とは何を指しているのか分からないし、自分は話が脱線しているのに、相手がちょっとでも話が脱線すると、全くついていけなくなる。
これをしたらどうなるっていうのは、ほとんど分からない。
だから奇妙な行為をしている。
でもちゃんとお話が出来る(この場合、道筋立ってではない)から、「本当は出来る人なのに」と思われてしまうのが辛い所。
一層のこと、出来ない人だと思ってたけど、これもあれも出来るんだね、って言われたほうが嬉しい。

昨日、すごいファイルを見つけてしまった。
自分で作成したファイルなんだけど、発達障害と分かった時から、知能検査の結果や、ロールシャッハテストの結果(それも数値まで)、T先生のワークショップの細かな内容、初めてトスカを訪ねた時のこと、面接の内容、私はどこが弱いのか、体温調節が難しいことなども、色々重要なことが書いてあり(というか、自分でまとめたんだけど)、これは新しく入院する病棟の主治医の先生に見せるべきだなぁと張り切ってしまった。
トイレのことも、Kさんから指導を受けていた。
レベル1は導尿から始まり、レベル5はトイレでするという段階を追ったやり方の指導など。
トイレ前でおむつにしてみる、とかいうのがあって、ちょっと笑えちゃったけど。
わざとですか?って。
フラッシュバックやパニックへの対処法も書いてあり、なんでもっと早くにこれを活かさなかったんだって、ショックな部分もあったりして。
でもなんだか希望が見えてきて、ちょっと元気になれた。

市役所に電話したら、やっぱり移動支援は3%負担になるんだって。
かなり負担率が減る。
丁度担当の人が出て「入院するので、早く受給者証を送って欲しい」と言ったら「入院するんですか!!」と驚いていた。
市役所の担当の人、病棟にも時々来るからなぁ。
前回も来たし。
「また行かなくちゃいけないのかなぁ」とか思ったかな?
急いで受給者証を送ると言っていた。
でも自立支援医療の受給者証は、2〜3ヶ月は待つそうだ。
病院の会計でいつも「新しい受給者証は届きましたか?」って聞かれるんだよね。

今日も入院の電話は来そうにない。
来るならもう来ていてもいいはず。
明日はK先生休みだし、結局外来の水曜日までは待つのか。
「いつもより早く」が嘘になり、遅くなってるじゃないですか!!

母の日には入院しているかと思われるので、カーネーションの鉢植えの宅配を頼んだ。
勿論内緒で。
赤い花を頼んでおいてから、私の色としてはピンクだよな〜と後悔したり。
でも「幸せの木」もセットなんだって。
こういうことするの初めてだ。
内緒で送るのはね。
自宅から自宅なんだけど。
今日が締め切りで間に合って良かった。

明日の「おっぱいバレー」はどんなもんだか楽しみです。
彼のツボにはまってしまった・・・。
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壮絶な過去

2009-04-19 16:28:46 | 自分のこと
このブログの始めの方のを読んでいた。
知らない間に2時間近く読んでいた。
ほとんどがセンターとの絡みで、いかに集団に適応できないか、集団に無理に合わせようとさせることで、自分がどんどん壊れていってしまう姿、電車を止め、警察署に泊められ、すごいことしてたなぁ〜って思った。
それに比べたら、今は安泰ではないか。
彼もいるし。
適切な診断って大切だって思った。
センターにいる時、自閉症で集団は無理って分かっていれば、あんな対応はされなかったし、自分がどんな対応をされても休むことが出来ないから、主治医のY先生が「行く意味がない」と何度言い聞かせても、通い続けて墓穴を掘っている私に、自分がかわいそうに思えてしまった。
今はちゃんとした対応を受けられているし、入院になっても保護室で一人で守られているし、決して集団行動を強いられていない。
感謝である。
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日にちの感覚がない

2009-04-19 12:39:45 | 病気
毎日パジャマのままボーっと過ごしているので、今日が何日で何曜日だか分からない。
窓は開けるので、晴れているとか雨が降っているとかは分かる。
普段は感情を失ってしまっている。
外来にも前はお化粧をしていっていた。
それがすっぴんになり、普段着で行くようになり、今では髪もボサボサだ。
猫背だったのが一層猫背になり、よだれは少なくなってきたけど、頭が働かない。
考えがまとまらない。
あれほど迷って決断した入院が、なんでここまで待たされるの?
そういえば、今の病院に初めてかかった時も、今の季節で、ベッドが空いていないとのことで、2週間だけ他病院に入院して、今の病院のベッドが空くのを待っていた。
今回は「余り待たせない」という言葉を信じていたから、他の病院に入って待機することは考えずに、最初は入院準備とかして、動かない体も動くようになり、言葉も出るようになり、良くなったかのように思われた。
でも待たされる期間が長くなるにつれ、私は廃人のようになっていった。
パニックを起こす体力もなくなり、ただ横たわっているだけで、一日が暮れていく。
10日くらいパジャマのまま、家から出ていない。
あ、外来は行ったか。
一人で着替えやお風呂にも入れなくなったので、寝たままパパとママが着替えさせてくれる。
そして少し調子がいい時に、こうしてパソコンに向かう。
定時にご飯の時はやってくるけど、仏壇にそえるくらいの量しか食べれない。
こういうのを鬱状態って言うのかな。
感情がないわりには、優しい言葉をかけてもらうと、うわ〜んと泣き出したり。
顔が乾燥して痛いよ。
心地良いはずだった音楽も、耳につくようになり、耳栓も圧迫感があり、とにかく「無」を求めている。
今日は日曜日で、絶対に入院の連絡は来ないから、益々元気が無い。
彼から明るいメールが来る。
そんなテンションの高さにもついていけず、「おっぱいバレー」が見たいと言われても、はいはい、おっぱいバレーですね、って感じ。
超感じ悪い。
いつもだったら、綾瀬晴香に嫉妬するのに、今は嫉妬どころじゃない。
こんな状態の私に会って、楽しいのかな?
先週もそう思いつつ、会ってみたら、カラオケやって、私の方が盛り上がってしまったんだけど。
彼は私に映画の時刻を調べといてと言う。
リハビリですか?
私を起きさせようとする。
常に意識が朦朧とする。
だからこの文章を書くのもすごく困難。
でも大変さを伝えようと、伝えれば少しは気が楽になると思って、書いている。
K先生は、他の機関の講演会で講演が終わった、昨日。
「心も体と同じく病気になります」とか書いてあった。
K先生は「発達障害は専門じゃないです」とはっきり言っていた。
でも3年前に出会った時より、ずっと対応がうまくなっている。
でもタオルケットの感触が心地良いと知ってからは、私が痙攣を起こす度にタオルケットを体中にかけるが、本音は息が苦しい。
身動き出来ない時に、タオルケットを全身にかけられると、呼吸が益々苦しくなる。
かけりゃいいってもんじゃない。
部屋を暗くしてくれるのは嬉しいけど、看護師さんが出入りする度に「あら、停電?」とか「節約なの?」と言われると、恐縮する。
今回はここまでが限界です。
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4月は病んでる人が多い?

2009-04-18 16:47:03 | 病気
ベッド待ちが長すぎる。
もう何日まともに寝ていないだろう?
今日もパパとママが起き出す5:30に下に降りて行って「もう、いつまで待たせるの!!」と言って、パニックになった。
髪の毛をむしりとった。
髪の毛がグチャグチャになった。
頭に電流が走ったようになった。
入院ってこんなに待つもの?
パパとママも「かわいそうに。もう、こんなに待ってられない。病院もどうかしてる。他を探そうか」と言い出し、私に毛布をかけてくれた。
疲れがピークに達している。
これでは入院に踏み込んだ意味がない。
こんな姿を両親はずっと見ている。
それでもベッドが空くまで待たされる。
さかんに「かわいそうに・・・」と言って、なでてくれた。
外来も週1だし。
しかも遠いし。
かすかな意識に中で、電話が鳴っている。
一度切れたけどまた鳴り出した。
間に合わないだろうと思いつつも、隣の部屋にある受話器を取りに歩いた。
間に合ってしまった。
「ゆこたんですか?お元気ですか?」と言われて、はぁ・・・と力なく返事していると、O里の生活フロアの主任だった。
O里から連絡がなく、寂しく思っているところだった。
「お手紙を書いたんだけど、FAXがいいですか?郵便にしますか?」と言われた。
郵便でお願いした。
入院の話をすると、全然知らなかったみたいだ。
主治医も入院中は変わっちゃうんです、という話も驚いていた。
K先生は頻繁にO里に連絡して、色々話しているみたい。
こういう対応をして下さいみたいなの。
でもお互いに譲り合うこともしなければならないと言っている。
「これからもK先生と相談しながらやっていきましょう」と言われた。
O里は「最近は精神科と言っても、開放的な所が多いですから」と言っていたのに、私が「急性期の保護室に入院します」と言ったので、ちょっとビックリしたかな。
「いつ、入院の話が出たんですか?」と言われて、あなたたちに責められた翌日ですよ!!っと思ったけど、冷静に「先週の木曜日です」と答えた。
あれほど入院を嫌がって、なるべく地域のサービスを受けられるように頑張っていたのに、力なく入院の話をする私。
向こうはどう思っただろう?

昨日も彼と電話をして、彼の声を聞いた途端、ぶあぁ〜〜〜って涙が溢れてしまって、言葉にならなかった。
「なんかしゃべって」と言うと「珍しく、聴く態勢か」と言われた。
2時間も話していて、受話器を握っているのが辛くなって来たので「ちょっと疲れちゃった」と言うと「もう2時間も話してるからな」と言っていた。
疲れていても眠れない。
でも疲れは感じている。
うとうと、までは行くのだけど、パニックの後の疲れのような感じ。
うまく休めない。
今日もゴロゴロしていたら、夕方になっていた。
朝も昼もご飯を食べていない。
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