思うこと 第223話           2007年6月14日 記

慈愛会・研修医・指導医研修会に思うこと
−その3−すごい指導者:加塩君と西垂水君の紹介

 第222話で触れた加塩信行
総合診療内科主任部長と西垂水和隆総合診療内科部長の今村病院分院での活躍ぶりは私の自慢の一つであるが、ここに至るまでの経過を述べる。

20年前、1987年、私が教授に就任した時の方針は『本物を育てる』であった。私は、上のスライドのようにいろいろな形の研修をしてきており、研修病院の長所と短所、大学の長所と短所をよく知っていたので、両者の長所だけをハイブリッドさせた「臨床真っ黒こげコース」も選択肢に加えたのであった。

その、いわゆる「臨床真っ黒こげコース」を選択してくれた若者も多く、その若者達は、下のスライドの研修病院に2〜6年ほどの期間、国内留学させた。といっても、それらの病院の正規の試験に合格しての正規の採用であった。

私のこのコースのことは、NHKが関心を示し、鹿児島大学がNHKスペシャルでとりあげられたのであった。

沖縄中部病院と私達の教室の繋がりはとっても強いものとなり、宮城征四郎院長の好意により、試験なしに、短期の研修もルーティン化した(下スライド)。

(注記:この上のスライドは2005年5月の私の神経学会総会の会長講演の時使ったもので、このスライドにはその後の極めて重要な人物の記載がぬけているので、追記すると、教室の総合診療指導の中核を荷っていた城の園学君が宮城征四郎先生の求めに応じて、2005年から沖縄県立中部病院の救急・総合診療部長として赴任し活躍している。同君は、救急・総合診療を専門とするのみならず、日本神経学会の専門医の資格を有し、同学会の評議員でもあるので沖縄県立中部病院の神経内科部長をも兼任している。ちなみに、同君は日本呼吸器学会の専門医でもある。)
さて、話を元に戻すが、この様な研修から帰ってきた若者達は、大学の病棟を革新的に変え、大学の病棟でも、私が夢見ていた研修指導体制を構築してくれた。それにとどまらず、若者達は、大学外の病院に、自分達の夢を実現する場がほしいと申し出てくれた。

絶妙のタイミングで、財団法人慈愛会の今村英仁(現)理事長も同じような夢を追求しているのを知り、お互いに夢を語り合い、そして、今村病院分院に救急外来(ER)・総合診療内科の建物が新築完成したのが平成13年であった。

リーダーの西垂水君を中心に林君、川畠君、久保田君の計4人の若者が立ち上げ、まもなく市来君、吉重君も加わり、瞬く間にすばらしい救急外来(ER)・総合診療内科を軌道に乗せた。西垂水君は、単に臨床の知識が豊富というのみならず、天才的な臨床のカンをもち、かつ若者を魅了するカリスマ性を有し、リーダーとしての天性の資質を持った若者で、学生や研修医から慕われ、また、若者達も西垂水君の鬼軍曹的指導に答え、力をつけ、すばらしいパワーを発揮してくれた。西垂水君は向上心が強く、さらに自分を磨くために3年間手稲病院で武者修行をして、今春4月、強烈にパワーアップして再び今村病院分院に帰ってきて、私の慈愛会会長就任に花を添えてくれた形となった。下に示す写真が救急外来(ER)・総合診療内科のそろい踏みの写真である(先月撮ったものなので一部のローテート研修医は入れ替わっている)。

この前列中央の2人が加塩信行救急総合内科主任部長(前列中央向かって左側の白衣の下に青シャツ)と西垂水和隆救急総合内科部長(前列中央向かって右側、ピッチの赤紐)である。加塩君については、これまで私のこのホームページで紹介するチャンスがなかったが、いい機会なので、ここで同君を紹介する。(西垂水君の向かって右側の若者が以前このHPで紹介した林 恒存君であり、同君は青雲の志に燃え、この6月より池上敬一先生(獨協医科大学越谷病院救命救急センター長)のもとに、武者修行の国内留学に旅立った。今後が楽しみでならない。)
さて、加塩君は昭和60年に鹿児島大学医学部を卒業し、広尾日赤または横須賀海軍病院での研修を希望していたが、当時まだ助教授だった私は同君を気に入り、ぜひ3内科に入局するよう薦め、同君は私の言葉に呼応し、入局を決意してくれたのであった。依頼、我々2人は同じ方向の夢追いの軌跡をたどって来たように思う。入局直後に加塩君が受け持った患者さんがHAMの第3例目の患者さんで、この患者さんがHAM疾患概念の確立に大きく貢献したのであった。その後、HAMの臨床研究でも、病態解明の研究でも世界で始めてという仕事をしてきた。出張先の県立宮崎病院でHAMにぶどう膜が合併しやすいことを世界で始めて発見し、これがHTLV−Iによる新たな疾患HAU発見の端緒となった。HAMの病態を明らかにする上で避けて通れなかったテーマが脊髄のどの細胞にHTLV−Iが存在するかを明らかにする必要があり、世界中の研究者がこのテーマと取り組んだのであったが、ついに、これを、出雲教授の指導のもとin situ PCRの手法で世界で始めて発見したのが加塩君であった。下のスライドがその成果をトロントの学会で発表した時のもので、世界から注目をあびた出来事であった。

その後、これらの業績が認められ、免疫学の分子生物学の最前線で活躍していたYale大学のDavid教授のもとに留学した。ここで、免疫細胞のシグナル伝達の分野で、またもや、世界で始めての発見をして、David教授からポストも準備して長期滞在を強く希望されるほど気に入られたのであった。下の写真が、同君の留学中に私がYale大学を訪れ講演したときのもので、この時、David教授は同君の研究成果がいかに世界的な大きな業績かを興奮して私に語ってくれたのであった。

結局、同君は日本に帰国する道を選んでくれた。
同君はどのような環境にあってもそこで全力投球し、周囲の信頼と尊敬を受けてきた。私は、同君の帰国後の夢追いの仕事に、研究ではなく県立日南病院での臨床の現場での夢追いを薦めた。県立日南病院の院長は、ケニア・クナール州立病院で献身的医療活動を行い、その“生き様”に感動した歌手のさだ まさしが“風に立つライオン”のタイトルの歌にしたことで世に名高い人徳の方、柴田紘一郎先生であった。私は、柴田院長の夢追いに心を動かされたのである。加塩君は、柴田院長のもとで6年間臨床に全力を挙げ、たった一人で同病院の神経内科と救急医療を軌道に乗せ、柴田院長から最大限の評価をいただいた。約4年前、私は、加塩君に今村病院分院の救急総合診療内科のトップに立って、更なる夢追いを一緒にやろうと話した。柴田院長は、加塩君を手放すことはつらいが、加塩君が納先生との夢追いをするのなら、と、ご許可いただき、今の、今村病院分院での加塩君の活躍が開始されたのである。この4年間、同君を中心とした若者達の努力で、救急・総合心療内科は発展した。下のスライドは、同君が取得している日本では数名しか所有していない米国のAHA認定のACLSインストラクターの証明カード、ならびに、同君が昨年ハワイの帰りに急性冠症候群の患者が発生して,飛行機を反転させて救急搬送したときのMedicalRecordで、同君ならではの快挙であった。

そして、今春、パワーアップした西垂水君も加塩軍団に加わり、今後の彼らの発展がとても楽しみである。
今、私もまた、財団法人慈愛会の会長として直接一緒に夢追いが出来る立場になり、最高に幸せである。

さて、次回第224話以降の話の中では、松村先生著『大リーガー医』の話と、松村先生とウイリアム ウィルスの話等も述べたい。